南谷より脊振・九千部山系を望む・・・
南谷では稲穂がたわわに実っています。
出来はまずまずのようです。
この地区は内山と北谷の集落の中間にあって
有智山城から延びた尾根がテーブルのように
広がっていて棚田状の耕作地となっています。
筑前国続風土記の書かれた江戸頃の記述では
まだ、庭石が転がっているなど寺の坊跡として
人々の目には見えていたようです。
宝満山遺跡の発掘調査の所見では、
現在の棚田の石垣が中世の石垣に継ぎ足して
耕作に適した石垣に変更されて現在まで使われている
箇所があることがわかっています。
中世の遺構や包含層を江戸後期の耕作土が覆っていました。
この南谷が現在のような耕地の景観になったのは江戸後期のようです。
耕作者の大半が内山の方のようなので
耕地開発には内山側の住人が主体となっていたのでしょう。
中堂は南谷の一つ北側の谷ですが
こちらは北谷の方が耕作されているようです。
このへんに集落間の領域感があるようです。