如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

名前の話

2006-06-02 23:08:55 | Weblog
さっき、「大品般若経」とか、道教とか、易とか、ちょっと調べていた。
目的は、漢字の意味調べ?とか、名前の出所とか、そんなこと。

私の感覚ではあまりよい意味を持たないように思える漢字が、名前に使われていたりすると、気になったりするわけだ。
ちなみに私の本名は、中国の昔のすごい有名人の名前なので、完全に名前負けしている。

漢字や名前の意味とか出所を調べるにはgoogleは便利。
googleで調べているうちに、お経とか易とか道教とかに入っていってしまったわけだ。
その中で、幸田露伴が道教に詳しい専門家だった事を知った。
露伴という人は多彩な人だ。もともとは通信技師としてスタートし、文学を志し小説家になり、帝大の講師になり、文学博士になっている。

googleといえば最近このブログもgoogleに引っかかるようになった。
googleの検索で自分のブログが出てくるというのは、結構うれしいものだと感じた。
ただ内容が伴わない、とりとめのない話ばかりなので、申し訳ない気もする。
検索する人は、何かを詳しく知りたくて検索するわけで、「如意樹」でこのブログが出てきても、時間の無駄になりそうだ。

それはさておき、道教のいろいろなお話は面白い。
自分は、はるか昔、「聊齋志異」(中国の怪異小説?)を好んで読んでいたので、そういった中国の民間信仰のような話は好きである。
道教の風習は、ある程度日本に伝わってきているらしいが、あまり定着しなかったのは政治的な理由によるのだろう。

名前の話に戻るが、私のHNの dharmavaram の dharma は宗教(又は法)、 varam は「祝福された」とか「より良い」の意味らしい。
サンスクリットである。
こうして意味を調べると名前負けしている事に気づくが、意味をよく知らずに使い始めたので、御容赦願いたい。


きっかけ

2006-06-02 00:36:52 | Weblog
神様は、絶妙のタイミングできっかけを与えてくれるものだと、よく思う。
「きっかけ」「てがかり」・・・・
この世界が実は神そのものであること、この世界には偶然なんてありえないこと、全ては神の表現であること、を気づかせてくれる「きっかけ」。
自分が考えている事を形にして見せてくれて、その先に進ませてくれる。
神の力を垣間見せてくれる。

それを一番強く感じたのは、プッタパルティを離れてから、北インドを旅したときだ。
インドを旅しているとき、この旅はスワミが用意してくれたものだと、何度となく感じた。
スワミは遍在するが、やはりインド亜大陸はスワミのホーム-グラウンド。完璧なツアーコンダクターである。
ほとんど行き当たりばったり、「地球の歩き方」だけが頼り、切符を買うために何時間も並んだりする旅である。
ストライキで半日列車が止まったり、車掌に頭をたたかれたりする(チベッタンと思われたらしい)旅である。
「 travel は trouble だ」が口癖になってしまうような旅である。
それでも要所要所に祭りがあり、花があり、出会いがある。
人生に不安や苦しみ悲しみがなければ、学びも少ないかもしれない(と凡人である私は思う)。・・・自己憐憫か・・・

たとえば、ある人のことを思っていると、その人によく似た人を見かける。
よく似た人を見た事により、思いはまた先に進む。

あるいは、悩みができる。何の気なしに手にした本の開いたページにピッタリの言葉が書いてある。
その本を初めて読んだわけではないのに、ちょうどよいタイミングで読むことによって、今まで以上のメッセージが伝わってくる。
人生捨てたものではない、と思わせてくれる。

あら、日付が変わってしまった。
今日の写真は、昨日の続きです。もう日が昇り始めます。