如意樹の木陰

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バラモン教~ヒンドゥ教~仏教

2024-05-02 19:35:24 | Weblog


バラモン教・ヒンドゥ教・仏教の関係がはっきりしなかったので、いくつかコピペして並べてみました。
長い文章の途中だけ切り取ったりしているので、誤解を招くところがあるかもしれません。ご勘弁を。

A.バラモン教(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

インド古代の宗教。バラモンが司祭し指導したためヨーロッパ人が便宜的につけた名称。仏教興起以前のヒンドゥー教をいい,そのうちの最古の段階を「ベーダの宗教」ということもある。アーリア人がインダス川上流地方に侵入し,先住民を征服してこの地方に定住,発展する間に次第に形成された信仰。彼らは自然現象を神々として畏敬し,供犠によって神を祭ることで災厄を免れ,幸福がもたらされると信じた。この祭りを司るバラモンが最高の階級で,王族 (クシャトリヤ) を第2,農工商人 (バイシャ) を第3,被征服民の奴隷 (シュードラ) を最下位とするカーストをつくり上げた。やがてガンジス川上・中流へ広がっていく間に,この祭祀中心主義への反省批判が起り,自然現象の背後にあって現象を動かす原理としての梵 (ブラフマン) と,自己の内奥にある純粋無垢の我 (アートマン) とが融合する梵我一如の境地を追求する思想が出現。ここから祭祀にとらわれない自由思想家群が現れ,このなかからブッダやマハービーラが出て,仏教やジャイナ教を説いた。他方,一般の人々に対しては現象を動かす原理である梵を神とし,この神ブラフマーを唯一最高神とする信仰を説くこととなり,このような最高神として,ほかにシバ神やビシュヌ神崇拝が出現しのちのヒンドゥー教となった。

ウパニシャッド哲学
ウパニシャッド哲学は、古代インドの後期ヴェーダ時代(紀元前1000年 - 紀元前500年)の文献『ウパニシャッド』にもとづく哲学である。バラモン教が形式的になり、バラモンが単に祭祀を司る役割だけになっていることを批判し、内面的な思索を重視し真理の探究をすすめる動きが出てきた。それがウパニシャッド哲学であり、ヴェーダの本来の姿である宇宙の根元について思惟し、普遍的な真実、不滅なものを追求した。ウパニシャッド哲学によると宇宙の根源であるブラフマン(梵)と人間の本質であるアートマン(我)とを考え、この両者が究極的に同一であることを認識すること(梵我一如)が真理の把握であり、その真理を知覚することによって輪廻の業(ごう)、すなわち一切の苦悩を逃れて解脱に達することができると考えている[3]。後期ヴェーダ時代に現れたこの内面的思索の重視と、業・輪廻の死生観は、次の時代にバラモン教に対抗する二つの宗教(仏教とジャイナ教)を誕生させた。

B.ヒンドゥー教( 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) )

インドで信奉されている宗教の一つ。インド教といわれる場合もある。本来、宗教・文化の渾然(こんぜん)とした複合体に対する便宜的な呼称であり、正確な定義を与えることは不可能。「ヒンドゥー」Hinduとは、インダス川の名称に起源をもつペルシア語であり、「インダス川の流域の人々」を意味したが、のち「インド人」を意味するに至った。これが英語などにも取り入れられて、ヒンドゥーの宗教・文化をさすのにヒンドゥイズムという語がつくられた。ヒンドゥー教はこの語の邦訳である。

広義のヒンドゥー教はバラモン教をも内に含んでいるが、ヒンドゥー教という語はバラモン教と区別して使用されることがある。この場合には、バラモン教は、仏教興起以前にバラモン階級を中心にベーダ聖典に基づいて発達した宗教をさす。他方、ヒンドゥー教は、紀元前6~4世紀にベーダ文化の枠組みが崩壊し、バラモン教が土着の民間信仰などを吸収して大きく変貌(へんぼう)した形のものをさしている。しかし両者はまったく別のものというわけではない。ヒンドゥー教は多神教であり、特定の開祖をもたず、その起源も明確ではなく、自然に形成されたもので、宗教的な観念や儀礼と融合した社会習慣的性格を多分にもつ。一般に民族宗教といわれるが、インドを越えて伝播(でんぱ)したこともあり、またインドそのものがヨーロッパに匹敵する一つの世界であるなどの理由で、それを否定する学者もいる。ヒンドゥー教は、途方もないほどの包摂力をもち、極度に発達した哲学体系から、もっとも原始的な信仰や呪術(じゅじゅつ)をもそのなかに取り込んでいる。そのうえに、カースト制度やアーシュラマ(生活期)制度をはじめ、人間生活の全般を規定する制度、法制、習俗などを内包している。ヒンドゥー教はおよそ「宗教」という概念を逸脱している。

インダス文明が現在のパキスタンの領内にあるモヘンジョ・ダーロとハラッパーを二大拠点として紀元前2300~前1800年を中心に栄えていた。しかし紀元前1500年ころアーリア人が西北インドに進入、パンジャーブ(五河)地方に定着し、紀元前1200年を中心に聖典『リグ・ベーダ』を編纂(へんさん)した。その後、紀元前500年ころまでに主要なベーダが編纂され、バラモン教の全盛時代を迎えた。しかし紀元前500年ころ、社会的大変動の結果ベーダ文化の枠組みが崩壊して反バラモン教的自由思想家たちが輩出し、仏教やジャイナ教が成立した。仏教が宗教・思想界の主流をなしていた紀元前2~後3世紀ころ、バラモン教が土着の非アーリア的民間信仰・習俗などの諸要素を吸収し、大きく変貌を遂げてヒンドゥー教が成立した。ヒンドゥー教はバラモン教を基盤としてはいるが、(1)固有の聖典の編纂と哲学諸体系の成立(紀元前後以降)、(2)宗派の成立(紀元1~2世紀以降)、(3)強いバクティ(信愛)思想の盛行(600~800年以降)、(4)タントリズムの形成(7世紀以降)、(5)イスラム教の浸透(13世紀以降)、(6)イギリスの支配、キリスト教の伝播、西洋文明との接触(1800年以降)、などの過程を経て、今日みられるヒンドゥー教が形成された。

宇宙観
宇宙の創造には種々の説がある。絶対者ブラフマンが遊戯(リーラー)のために宇宙の創造を行ったとしたり、この現象世界はブラフマンの幻力(マーヤー)によって現出されたもので、本来は幻影のように実在せず、ブラフマンのみが実在すると説かれることもある。宇宙の中間にある大地は、メール山(須弥山(しゅみせん))を中心とする円盤で、七つの大陸と七つの海をもつ。メール山が真ん中にそびえ立つ大陸がジャンブ・ドゥビーパと称され、その重要部分がバーラタ・バルシャ、すなわちインドである。この宇宙は、ブラフマー(梵天)の1日の間、すなわち1カルパ(劫(こう)、地上の43億2000万年)の間持続し、1日が終わればふたたび宇宙は梵天に帰入する。宇宙は1カルパごとに創造と帰滅を繰り返す。1カルパは1000マハーユガに相当し、1マハーユガは4期からなり、後の期は前の期よりも人間の信仰・道徳性などが低下しており、現在は紀元前3102年に始まった暗黒期であるカリ期にあたり、この期の終わりに宇宙の大帰滅が起こるといわれている。

業と輪廻
人間は死んで無に帰するのではなく、各自の業のために来世においてふたたび新しい肉体を得る。このように生死を無限に繰り返す。これが輪廻(りんね)である。業(ごう)とは、行為を意味するサンスクリット語のカルマンkarmanの訳語。あらゆる行為は業として蓄積され、業は、その行為者がその果報を経験し尽くさない限り消失しない。業・輪廻の思想はウパニシャッドのなかで初めて明確な形をとり、ヒンドゥー教の中核的な教義となったが、本来人間の自由意志を否定する運命論や決定論とは本質を異にしている。

法(ダルマ)
サンスクリット語のダルマは、習慣、義務、教説など多くの意味をもっているが、簡単にいえば行為の規範である。ヒンドゥー教にはダルマをまとめた法典群があるが、その中心的課題は種姓法と生活期法である。種姓法はバラモン、王族、庶民、隷民の4階級(バルナ)のおのおのに課せられた法である。生活期法は学生期、家住期、林棲(りんせい)期、遊行(ゆぎょう)期という人生の4時期のおのおのについて規定されている規範である。各自の生まれた種姓と現に属する生活期に対して規定された法を、事の成否や利害を考慮することなく、利己心を離れて実践することが勧められている。ダルマの実践は、物質的・経済的利益を追求する実利(アルタ)、愛情・性愛を追求する愛欲(カーマ)、および次に説明する解脱(げだつ)とともに、ヒンドゥー教徒の人生の四大目的とされている。

解脱(モークシャ)
ダルマ・実利・愛欲はたとえ実現されたとしても、得られる結果はせいぜい天界に生まれることが最高の果報であり、結局、輪廻のなかにとどまっているにすぎない。そこでウパニシャッドの思想家たちはさらに進んで業・輪廻からのまったき自由、すなわち解脱(モークシャ)を追求するに至り、解脱が人生の最高の目的とされた。それを実現する方法として、行為の道、知識の道、信愛(バクティ)の道という三つの道が説かれ、とくに神に対する信愛の道は万人に実践可能であり、7、8世紀ころから大きな宗教運動となって展開し今日に至っている。業・輪廻・解脱の問題は、一般のヒンドゥー教徒にとって切実な問題であったばかりではなく、思想家たちにとっても重要な課題であった。種々事情を異にするとはいえ、ヒンドゥー教の頂点を形成するサーンキヤ学派をはじめとする六つの代表的哲学体系(六派哲学)が成立し、理論的・体系的に解脱とその方法を考究した。なかでもウパニシャッドに立脚するベーダーンタ学派はインド思想の主流を形成し、現代のインドの知識人の代表的な哲学となっている。

C.仏教(Wikipediaより)

仏教の教義は苦の輪廻からの解脱を目指す。原因と結果の理解に基づき、諸々の現象が縁起するとされる。
仏教の教義は時代や地域ごとに変化していった。歴史に実在した人物としての釈迦が生前に説いた教義についても、諸説がある。

仏教学者の中村元は、そもそも歴史に実在した人物としての釈迦は「仏教というものを説かなかった」と主張する。
釈迦が説いたのは、いかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道である。ところが後世の経典作者は、仏教という特殊な教えをつくってしまったのであると述べ、仏典が説く「仏教の教義」の多くは後世の創作であると指摘した。
原始仏典『スッタニパータ』第803偈でも、釈迦は明確に「教義」をもつこと自体を否定している。
《 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。》
仏教は、普通は「法を説く」と言われているのに、ここでは「法」(dhamma)を否定している。 その意味は<教義>なるものを否定しているのである。教義を否定したところに仏教がある。

釈迦が臨終の直前に語った生涯で最後の言葉は、《 さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい 》。
仏教の要訣は、無常をさとることと、修行に精励することとの二つに尽きることになる。<無常>の教えは、釈尊が老いて死んだという事実によってなによりもなまなましく印象づけられる。それがまた経典作者の意図であった。仏教の本質は、ここに尽きるのである。

中村元の弟子で仏教学者の植木雅俊は、さまざまな原始仏典を引用し、釈迦が主張した「本来の仏教」を以下のように推定復元している。
《 本来の仏教の目指した最低限のことは、①徹底して平等の思想を説いた。②迷信やドグマを徹底的に否定した。③絶対神に対する約束事としての西洋的倫理観と異なり、人間対人間という現実において倫理を説いた。④「自帰依」「法帰依」として自己と法に基づくことを強調した。⑤釈尊自身が「私は人間である」と語っていたように、仏教は決して人間からかけ離れることのない人間主義であった――などの視点である。》

D.空海関連

(大日経入真言門住心品)
仏言さく
菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便を究竟と為す
秘密主、云何が菩提ならば、謂く実の如く自心を知るなり
秘密主、是の阿耨多羅三藐三菩提は、乃至彼の法として少分も得可きこと有ること無し
何を以ての故に。虚空の相は是れ菩提なり、知解の者も無く、亦た開暁(さとる者)も無し
何を以ての故に。菩提は無相なるが故に
秘密主、諸法は無相なり、謂く虚空の相なり
   注)阿耨多羅三藐三菩提:仏の悟り。一切の真理
をあまねく知った最上の智慧。

(般若心経)
観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。
   注)深般若波羅蜜多:根源的な叡智の完成
   注)私は、この観自在菩薩の「観」は仏教の瞑想法としての「観」のことだと思っていたのですが、ネット上にそういう解釈は見当たりませんでした。あるいは、「観られることに自在」と訳すなら、「衆生を救うためにいろいろな姿を取って現れる菩薩」という意味かもしれませんが、これだと十一面観音のようです。「いろいろな姿に観られることができる」ということがつまり「自分自身の実体というような観念にとらわれず、こだわりなく自由に自分を変えることができる」という意味であれば、般若心経を説く主人公としては適任といえるかもしれません。

(空海:般若心経秘鍵)
無辺の生死何んが能く断つ。
唯禅那正思惟のみ有ってす。
(中略)
夫れ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し。
真如外に非ず、身を棄てて何くんか求めん。
迷悟我に在れば、発心すれば即ち到る。
明暗他に非ざれば、信修すれば忽ちに証す。

(理趣経)
説一切法清浄句門
(「一切法つまり現象世界に存在するすべてのものが本質として清浄である」ということを説く)

《 追記 》真言密教で使う「清浄」の意味がなかなか分かりません。
松長有慶氏の書いた理趣経の解説には【「一切法の清浄句の門」とは、現象世界に存在するものすべてが自と他の対立を離れ、自他無二平等ということがわかっていることが清浄であるという意味です。】とあります。
ネットを調べたところ【「清浄」について】という詳しい解説がありましたのでリンクを貼っておきます。

http://www.buzan.or.jp/wbuzanhap/wp-content/themes/buzanha/_assets/general_pdf/10Ohnishi.pdf

ここからいくつか抜き書きすると、
・「清浄」と訳されている原語には、「普段は隠されているそのものの本来のすがた、本来の存在意味」という意味がある。
・「清浄」が諸法の根源的境地・価値に通じるものであることを示している。

・真言行者が菩薩道を歩むとは、他を思いやる悲念と共に、判断を誤らぬ無我なる清浄に思いを至さねばならない。
・区別限定をする類の戯論を離れて、 無垢光の真実義たる清浄にこそその根拠を置いているのである。
・清浄なる実態はどういうものであるかといえば、 寂静でもあり、 何よりも平等であることを特徴としている。
・清浄な菩薩は、純粋な慈悲心の自らなる発動の結果として行動する。

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仏教については釈迦の話しかコピーしませんでしたが、その後大乗仏教が盛んになり、禅宗や密教も出てくるわけです。
空海関連の経典の並び順については、いい加減です。
仏教の悟りとは、大日経によれば「実の如く自心を知る」です。そのための修行法は空海によれば「唯禅那正思惟のみ」ということです。般若心経の観自在菩薩の修行内容もこのようなものだったはずです。修行法についてはこれ以上詳しく書かれていませんが、私はサマタ瞑想・ヴィパッサナー瞑想を思い浮かべます。
私が親戚の法要で耳にするお経は、これ以外には観音経偈や修証義があります。修証義は聞いてある程度わかるので好ましく思います。
禅宗は私には分かりません。柳田聖山訳の「臨済録」は読んで面白いのでたまに開きますが、内容はさっぱり分かりません。
ヒンドゥーの本としては、上村勝彦先生の書いたバガヴァッド・ギーター関係の本がよいと思います。

 《 『バガヴァッド・ギーターの世界 ヒンドゥー教の救済』 上村勝彦著 》
久しぶりにこの本を拾い読みしています。素晴らしい本です。読みやすくわかりやすい文章です。
どのページを開いても、心に響いてきます。ギーターの世界を仏教やそのほかの思想と比較しながら丁寧に解説しています。
もとはNHK出版から出た本ですが、今はちくま学芸文庫として手に入るようです。
 


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