いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

東京都小金井市 江戸東京たてもの園①田園調布の家 前川國男邸 小出邸

2025年01月20日 09時14分02秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。入口のビジターセンター。東京都小金井市。都立小金井公園内。

ビジターセンター・旧光華殿(きゅうこうかでん)は、1940年(昭和15)に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために建設された式殿である。

1941年(昭和16)に小金井大緑地(現在の小金井公園)に移築され、光華殿と命名された。 江戸東京たてもの園の開園にあたり、ビジターセンターとして改修された。

2025年1月5日(日)。

 

江戸東京たてもの園は、1993年開園時から一度見学しようと思っていたが後回しになっていたが、新年の飾りつけ風景などがあるこの時季を選択した。東京サブウェイ72時間フリー乗車券を利用して荻窪まで行き、JR中央線に乗り換えて東小金井駅で下車。運賃180円。東小金井駅北口のCoCoバス(小金井市コミュニティバス)乗り場から、北東部循環系統バス6分で「たてもの園入口」下車。運賃身障者半額90円(IC払い)。徒歩10分で江戸東京たてもの園に着いた。

10時過ぎに入園し、13時15分ごろ園を出た。

高橋是清邸は226事件で高橋是清が暗殺された現場が移築されたものである。関東大震災後の復興後に流行した商業建築である藤森照信命名の「看板建築」が多数移築されている。前川國男や堀口捨巳という近代建築を代表する建築家が設計した家屋は貴重である。

江戸東京たてもの園は、失われてゆく江戸・東京の歴史的な建物を移築保存し展示する目的で東京都小金井市の都立小金井公園内に設置された野外博物館。東京都墨田区横網にある東京都江戸東京博物館の分館である。

小金井公園には古代住居や江戸時代の農家を移築・展示する「武蔵野郷土館」があった。1954年の小金井公園開園時に、井の頭恩賜公園にあった「武蔵野博物館」を移転し開館したもので、光華殿(現・江戸東京たてもの園ビジターセンター)、鍵屋、吉野家住宅などは当時からの施設である。1991年(平成3年)に閉館した。

1993年(平成5年)3月、江戸東京博物館の開館に合わせ、武蔵野郷土館を拡充する形で「江戸東京たてもの園」として復元建造物12棟で開園した。高い文化的価値がありながら現地保存が困難となった江戸時代から昭和初期までの30棟の建造物を移築復元し展示している。

園内は3つのゾーンに分けられ、西ゾーンは武蔵野の農家と山の手の住宅、センターゾーンは格式ある歴史的建造物が並び、東ゾーンは下町の町並みが再現されている。

ビジターセンターの新春風景。

まず、西ゾーンW7の「田園調布の家」から見学していった。

田園調布の家(大川邸)。

建築年代は1925年(大正14)。旧所在地は大田区田園調布四丁目。

田園調布は、渋沢栄一が設立した「田園都市株式会社」が開発した郊外住宅地の一つで、1923年19月から分譲が開始された。この住宅は1925年(大正14)に建てられた。下見板張りの外壁とテラスにパーゴラが設けられている。岡田信一郎の事務所にいた三井道男による設計。

居間を中心に食堂・寝室・書斎が配置されており、当時としては珍しく全室が洋間となっている。この住宅は家族の団欒や住みやすさ、あるいは主婦の家事のための空間を重視する大正期の生活改善の理想をよく表している。

この家の特徴は、玄関を入るとすぐに居間があることで、この居間を中心に、書斎、食堂、寝室がある。

寝室から食堂。

食堂。このテーブルは大正14年の創建当時から使われていたもの。

各部屋とも二面採光になっていて、台所も広く明るい。

前川國男邸。東京都指定有形文化財(建造物)。

建築年代は1942年(昭和17)。旧所在地は品川区上大崎三丁目。

日本の近代建築の発展に貢献した建築家前川國男の自邸として建てられた住宅である。

戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工している。 外観は切妻屋根の和風、内部は吹抜けの居間を中心に書斎・寝室を配した シンプルな間取りになっている。

戦時の建築統制下で建築面積は小さく抑えつつも、大屋根の中央に吹き抜けの居間とロフト風の2階を配している。

空間構成などにモダニズムの理念を反映、前川の活動の出発点ともいえる作品になっている。コルビュジエやレーモンドの元で学び、独立後、程なく手がけた自邸には、その後の前川の活動につながる意欲的なデザインが散りばめられている。また、現存するモダニズムの木造住宅としても貴重である。

前川國男は大学卒業直後の昭和3(1928)年に渡仏し、モダニズムの巨匠、ル・コルビュジエのアトリエで約2年間、働いた。帰国後はA.レーモンド建築設計事務所に入所、昭和10年に自身の事務所を設立している。自邸の設計担当は所員の崎谷小三郎で、昭和17年竣工。時は第二次世界大戦のただ中であった。

外観を印象付けるのは、破風板が軒先に近づくほど幅広になる切妻屋根と南面中央の棟持柱風の丸柱である。これらについては崎谷が、伊勢神宮からインスピレーションを受けたと語っている。モダニズム特有のフラットルーフを採用しなかった背景には、坂倉準三が設計した木造・幻配屋根の飯箸邸の影響がうかがえる。

玄関を入り、大扉を抜けると高さ4.5mの吹き抜けが広がる。当時は延床面積を100㎡以下とする制限があったため、「高さ」が得られる建物中央を吹き抜けにして大空間を造った。南面は妻側だが窓に庇を設けず、軒の出を長くすることで雨仕舞をし、日差しを制御。大開口を確保して全面をガラス窓としている。

ロフト状の2階は約8畳相当の広さ。飾り棚の鏡板は持ち上げて外す「けんどん式」で、2階から物を出し入れした。

左奥の台所へ続く入口とサービス用小窓。アーチ型扉を開けていても台所は直に見えない。

小出邸。東京都指定有形文化財(建造物)。

建築年代は、1925年(大正14)。旧所在地は、文京区西片二丁目。

日本におけるモダニズム運動を主導した建築家堀口捨己(1895−1984)が、ヨーロッパ旅行からの帰国直後に設計し、小出収とその妻・琴の隠居所として建設された木造2階建の住宅で、日本的モダニズム建築の萌芽がみられる貴重な作品として評価されている。

当時オランダで流行していたデザインと、日本の伝統的な造形を折衷した造りになっている。

四角錐のような大屋根と水平な軒を持つ屋根の造形や応接間の色彩が目を引く

当時のオランダの造形運動であるデ・ステイルの影響がこの「小出邸」にも見られ、画家モンドリアンのように、抽象的な幾何学形態と空間による芸術表現を実現しようとしたといえる。

堀口捨巳は、建築における芸術的側面や美意識の重要性を問いかけ、生涯にわたりそれを追求した近代日本を代表する建築家の一人である。日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。日本庭園の研究家としても知られ、日本の建築と庭園の関係を「空間構成」としてとらえた。

教授職を務めた明治大学では、同大工学部内に建築学科を創設したことでも知られる。

堀口捨己は、佐野利器によって耐震力学が重視されていた当時の東大建築学科への反動と、ヨーロッパの新しい建築運動への憧憬から、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を1920年(大正9)に結成した。

1923年(大正12)夏、堀口は新たな建築知識を求め欧州へ出発した。翌年の春に帰国した堀口は、オランダで生まれた建築家団体である「アムステルダム派」による建築を高く評価し、オランダ建築に関する書籍を執筆・出版するなど、日本にはじめてオランダの近代建築を紹介した。

帰国後の1924年(大正13)9月、堀口に小出邸の設計依頼が舞い込んだ。そして翌年の1925年(大正14)6月に彼のはじめての住宅作品である「小出邸」が完成した。この住宅はオランダの造形運動の影響を受けつつも、在来の工法で和風との融合が図られている。

小出邸竣工後、堀口は1926年(大正15)に紫烟荘、1927年(昭和2)に双鐘居、その3年後に吉川邸と3件の住宅を完成させている。

玄関ポーチ。

この住宅最大のみどころはこの応接間である。

2階の納戸と1階へ下る階段。

文京区千駄木 文京区立森鷗外記念館