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山形県高畠町 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館①日向洞窟遺跡 押出遺跡

2024年09月25日 11時09分45秒 | 山形県

山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館。山形県東置賜郡高畠町安久津。

2024年9月6日(金)。

米沢市の宮坂考古館の見学を終えたのが15時30分頃だった。北東方向に隣接する高畠町の山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館へ急ぎ、16時ごろに駐車場へ着いた。閉館は16時30分である。今回の旅行の行程は9月15日の山形市での芋煮会体験後、17日昼に東京・杉並まで高速道路不使用で到達するという野心的計画だったので、なるべく米沢市・山形市・天童市を済ませておく必要があった。

考古資料館の受付で、今からですか、16時30分までですよ、と言われた。見学を終え受付へ帰ったのは16時30分頃で、館長らしき人が玄関から出ていくのと同時だった。玄関横に、いまどき珍しくウォータークーラーがあり、かなり飲んだ。

 

「うきたむ」とは「置賜」の古語である。もともと「u-ki-tomam」(“ウキタム”「広く葦のはえている湿地」の意味)のアイヌ語に由来しており、「優嗜曇」の字をあてはめたものという。歴史上最初に出てくるのは日本書紀であり、その後「オイタム」や「オイタミ」などさまざまな読み方がされ、中世以降は「オキタマ」と呼ばれた。白龍湖周辺(南陽市赤湯地区)の湿地帯にはウキタムの面影を感じとれる風景が残るという。

山形県立というだけあって、常設展示室は置賜主体だが、企画展示では置賜地方だけでなく山形県全体の埋蔵文化財をカバーしている。

 

ロビー展示。置賜のあけぼの。旧石器時代。

今から4~5万年前の飯豊町上屋地遺跡からはじまり、約3万年前の岩井沢遺跡、約2万年前から1万5千年ほど前までの小国町湯の花遺跡などの主として置賜地域の旧石器時代を紹介している。

後期旧石器時代後半期の湯の花遺跡から出土した黒曜石製石器の原産地を地図で示している。北海道の白滝や、青森県深浦、秋田県脇本、長野県小深沢など極めて広範囲に渡る交流を示している。

湯の花遺跡。小国町湯の花裏山。小国盆地の東縁、荒川の支流横川の形成した洪積段丘上に位置する。標高160m。当遺跡にはいくつかの地点があり、旧石器時代のナイフ形石器や石刃などが採集されている。このうち細石刃核が採集されているM地点が1972年以来三回にわたって調査された。調査区の南東隅に3×1.5mの楕円形状の礫群がある。炉跡であろう。出土遺物は細石刃・稜付削片・スキー状削片・石刃・石核・ナイフ形石器・彫刻刀形石器・掻器などで、石材は頁岩・玉髄・黒曜石を用いている。

繩文時代草創期。日向(ひなた)洞窟遺跡の隆起線文土器。

高畠町には繩文時代草創期の頃に営まれた日向洞窟、一ノ沢洞窟、火箱岩洞窟、大立洞窟の4つの国指定史跡がある。

日向洞窟は、山形県東置賜郡高畠町にある洞窟遺跡で、米沢盆地の東北縁、宮城県の白石市方面から奥羽山脈を米沢盆地に抜ける国道113号線の出口に当たる北側山地に所在する。付近には、本洞窟のほかに尼子洞窟群、観音岩洞窟群など14地点に洞窟遺跡群が存在している。洞窟遺跡がこれほど密集する地域は他に類を見ないものである。

この日向洞窟は、通称「立石」(標高230メートル)の麓に南に開口する。立石は凝灰岩塊の露頭で積年の侵蝕、風化作用によって形成された4か所の自然洞窟、岩陰が居住に利用されたものである。このうち最も規模が大きい洞窟を日向第1洞窟、第1洞窟の真上に小規模な日向第2洞窟、さらに第1洞窟より東へ約15メートルの所に日向第3岩陰、第1洞窟より西へ約40メートルの所に日向第4岩陰が位置する。洞窟前面には豊富な水量の小川が流れ、ゆるやかな勾配で、「白龍湖低湿地」に臨む。

発掘調査の結果、遺跡の中心が日向第1洞窟にあることが判明した。洞窟内には、基盤上に5層の堆積層が認められ、第1層の表土には繩文時代晩期以降の遺物、第2層には繩文時代晩期から早期の各時期の遺物、第4層には繩文時代草創期の遺物が包含されていた。第3層と最下層の第5層には遺物の包含は見られない。このうち特に第4層の繩文時代草創期に属する土器、石器は、新潟県小瀬ヶ沢洞窟、長崎県福井洞窟等と並んで、旧石器文化から繩文文化への発展過程を解明する上で極めて重要な資料を提供するものである。

土器は、繩文時代最古の隆線文系土器をはじめ、後続爪形文系土器多繩文系土器の各様式が存し、現在までのところ、日本海側の草創期土器の北限をなしている。このことは、日本列島において土器製作が開始された当初の繩文土器の普及状況の一端を示すものである。

また、伴出の石器は、石鏃、石槍、有舌尖頭器、断面三角形の鑚、局部磨製石斧、矢柄研磨器等他の時期には例を見ない程多種にわたる。このうち、矢柄研磨器、断面三角形の鑚は、草創期の一時期に限って出現し、早期以降に継承されないで姿を消す特殊な種類であり、それらは山内清男によって繩文文化成立にかかわって大陸から渡来した石器の一部であろうという説がなされた注目すべきものである。

2016年、西側約150メートルの休耕地の地表を2メートル掘り下げた地点で、縄文時代草創期の局部磨製石斧と矢柄研磨器がそれぞれ1点ずつ見つかった。

2020年、日向洞窟の近くで見つかった縄文時代草創期前半の竪穴建物跡は、東北地方では最も古いものとされている。

 

押出(おんだし)遺跡は、東置賜郡高畠町深沼押出に所在する縄文時代前期の集落跡である。大谷地(おおやち)低湿地の南西部(標高約240m)にある低湿性集落跡である。1972年に沼尻排水路掘削に際して注目された。1985年から87年にかけて、米沢―南陽道路(国道13号)の建設に伴って緊急発掘調査された。

現地表下2mに生活面があり、調査区4000㎡の範囲に大壁構造かとみられる33棟の打込杭式の平地住居跡が検出され、焼けた礫を積んだ石塚も確認されている。これら住居跡の形態は,通常の同時期の遺跡でみられる「竪穴式住居」とは異なり、床を掘下げない平地式の「壁立式住居」であり,柱に丸太あるいは割材を用いて先端をとがらせて打込んである。また掘立柱による大型の建物も1棟検出されている。

出土した遺物には赤と黒の2種の漆を使用した彩文土器や漆塗りの木製大杯,その他各種漆製品や櫂 (かい) ,杓子 (しゃくし) ,へら状・弓状の木製品,縄・編物の断片,基部の付いた尖頭器や石鏃 (せきぞく) などのほかに異形石器,石製装飾品,漆の塊といった特殊なものもある。特に漆製品の存在はきわめて高度な漆技術があったことを裏付けるものであり、木製品、漆塗りの土器、木の実など多くの遺物が大変良い状態で発見されたことから、約6000年前のタイムカプセルと呼ばれている。

押出遺跡からの出土遺物の多くは、国の重要文化財に指定されている。

縄文時代前期後半・大木式の粘土紐貼付文が特徴的な深鉢形土器28個をはじめ、鉢形土器・台付鉢形土器・浅鉢形土器各1個、多様な造形の小形土器23個や、基部につまみ状の突起がある「押出形ポイント」と呼ばれたもの116本を含む石槍123本、石鏃・掻器・石匙・石錐等の利器類合計706個、磨石・凹石・食物の焼け痕が残る石皿等加工具としての石器類57個、石製装飾品9個、小形石棒2個、さらに赤漆櫛・盤・杓子・石斧柄・手網・箆状木製品残欠等多彩な木製品類33個で構成される。

 

縄文時代中期では中葉の米沢市台ノ上遺跡の土器、後葉の小国町下野遺跡などの調査成果や出土品を展示している。

小国町下野遺跡は、小国町増岡下野に所在する。小国盆地北西部、西流する横川と荒川との合流点東400m、荒川東岸(横川北)の段丘西縁に立地する縄文時代中期後葉、大木9―10式期の集落遺跡である。

1980年、県営圃場整備事業に先立って調査が行われた。縄文時代中期後葉の竪穴住居跡17棟(うち重複も含めて完掘したもの14棟)、土壙7基・集石遺構1基・埋甕跡9基が検出され、竪穴住居跡は特徴ある複式炉をもつ例が完掘14棟のうち7棟、石囲炉のもの2棟などであった。住居群から20mほど南東に離れた地点に同一時期にかかわる埋甕群が位置する。

山形県米沢市 重文・旧米沢高等工業学校本館



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