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読書メモ「古代氏族の研究3 阿倍氏 四道将軍の後裔たち」(宝賀寿男、2013年)

2024年10月29日 09時02分48秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究3 阿倍氏 四道将軍の後裔たち」(宝賀寿男、2013年)

 

阿倍氏は孝元天皇の皇子・大彦命から出た皇別氏族とされるが、大彦命は皇子ではなく、神武天皇の息子・神八井耳命の曾孫で多臣氏と同族である。神武天皇から4世代目の孝元天皇(崇神天皇の1世代前)と同世代。

阿倍氏は大和十市郡阿倍の地名と供膳の職掌にちなんで「アヘ」という氏の名をもち、安倍文殊院の東にある高屋阿倍神社を氏神とする。

阿倍氏族の分布は、本拠地の後背地である伊賀・宇陀が稠密で、西国は少ない。また、四道将軍の伝承のある大彦命・武渟川別命父子の遠征経路とほぼ一致する。大彦命は伊賀、近江、若狭、越前、加賀、越後を経て会津に至る路。武渟川別命は伊賀、伊勢、尾張、駿河、房総、那須を経て会津に至る路。

阿倍一族は本宗が絶えたあとは、氏族では布勢臣、引田臣が有力になり、狛臣、久努臣、長田臣などのちに、阿倍朝臣姓に変更した例が多い。地方国造では若狭・那須の国造が同族で、越・加賀の国造は疑わしい。

平安中期以降、安倍氏は安倍晴明を輩出した系統が主流となり、中世からは土御門・倉橋の二家が堂上公家に列し陰陽道・暦道を支配した。

食膳関係の系統では磐鹿六雁命の後裔である膳臣、宍人臣。膳臣の流れの高橋氏は平安期以降、志摩守を世襲し、後裔の浜島氏が江戸末期まで官人であった。

外交関係では得彦宿祢の後裔とされる難波吉士、草香部吉士が古代の朝鮮関係で活躍した。この一族や陰陽道の安倍氏は吉士舞を奉仕した。

北陸。若狭国造若桜部臣。膳臣。越の道君は海神族の磯城県主一族・彦坐王の後裔。

埼玉稲荷山鉄剣のオホヒコ。オホヒコは阿倍氏祖の大彦命。ヲワケが鉄剣の製作者・賜与者。被葬者は知々夫国造(中臣氏)一族

伊賀の御墓山古墳は阿閉臣の祖・伊賀彦宿祢か。伊賀の石山古墳は伊賀臣の祖・彦屋主田心命か。近江の安土瓢箪山古墳は佐々貴山君の祖・大稲輿命(大彦命の子)か。

大和の桜井茶臼山古墳は大彦命の娘・御間城姫(崇神皇后)。メスリ山古墳は武渟川別命。

 

阿倍氏本宗家の動向は、景行朝から宣化朝まで、4世紀半ばから6世紀前半まで不明

応神天皇の皇位簒奪にさいして、旧王統側の忍熊王側についたからではないか。忍熊王側の将軍で最後は琵琶湖に沈んだ難波吉士氏の祖が伊佐比宿禰で、阿倍一族が疎まれたという仮説がある。

本宗家最後の当主は阿倍内麻呂(倉梯麻呂)。安倍文殊院西古墳の被葬者布勢朝臣御主人が阿倍氏の氏上となる。

 

筑紫国造は阿倍氏族ではなく、火の国造と同じ天孫族の五十猛神・建緒組神の後裔。

丈部(はせつかべ)氏。阿倍氏の私有民である部曲(かきべ)か。名張の丈部氏。出自は不明、和爾氏か。

陸奥の俘囚長安倍頼時一族の系譜。京師の阿倍氏とは別系の陸奥土着系陸奥の丈部氏の流れで、郡司級の丈部が賜姓して阿倍陸奥臣となった者を祖とした可能性が高い。安倍貞任の後裔が安東氏で嫡裔が幕藩大名の秋田氏

近江。甲可臣。佐々貴山君。佐々木氏。伊賀。阿閉(敢)臣。伊賀臣。名張臣。

周防沓屋氏は阿倍貞任の後裔と伝え、大内氏・毛利氏に仕えた。櫛辺氏は阿倍仲麻呂の後裔と称し、周防大島西部の屋代を開発し、惣公文職を世襲し、大内氏・毛利氏に仕えた。古代陸奥の丈部氏に関連する諸国造は、阿岐国造の同族だと「国造本紀」に伝える。実際には、沓屋氏と櫛辺氏は同族で、古代大島国造の末流であり、天孫族・玉作氏の支族で物部氏と同族の安芸(阿岐)国造の一族とみられる。

総理の安倍晋三氏の実家は山口県大津郡油谷で、先祖の阿倍宗任の子孫が平家没落後、防長地方に土着し毛利氏に仕えたと伝える。宗任後裔説は疑問が大きく、実際には古代以来の周防大島の安倍一族の流れかもしれない。



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