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山形県尾花沢市 芭蕉清風歴史資料館 養泉寺 舟形町 西ノ前遺跡公園「女神の郷」

2024年10月18日 11時36分56秒 | 山形県

芭蕉清風歴史資料館。山形県尾花沢市中町。

2024年9月9日(月)。

大石田町の史跡を回ったのち、芭蕉清風歴史資料館に9時前に着き、開館を待った。尾花沢市の銀山温泉能登屋旅館には日本100名山完登の途次1990年代末に宿泊したことがある。

 

芭蕉清風歴史資料館では、元禄2年(1689)「おくのほそ道」の道中尾花沢に10泊の長逗留をした芭蕉と、鈴木清風など地元俳人たちとの交流が展示されている。鈴木清風は元禄期に金融、貸付、特産品の買継などで富を築いた出羽の豪商で紅花大尽と言われている。

「おくのほそ道」には尾花沢での句として、芭蕉の「涼しさを我宿にしてねまる也」「這出よかひやが下のひきの声」「まゆはきを俤にして紅粉の花」と、曾良の「蚕飼する人は古代のすがた哉」が書き述べられている。清風に山寺参詣を勧められた芭蕉はその道中、紅花畑や山寺で名句を残した。

資料館の建物は、旧丸屋・鈴木弥兵衛家の店舗と母屋を、清風宅の隣に移転復元したもので、土蔵造の「みせ」には防火扉の蔀戸(しとみど)が吊られている。母屋は通り土間を設けた中門造で、尾花沢地方における雪国の民家・町家建築の姿を伝える貴重な遺構である。内部は撮影禁止。

 

鈴木清風(慶安4年(1651)~享保6年(1721))は、本業が「島田屋」という商家の三代目で「紅花大尽」といわれた豪商である。尾花沢村に生まれ、生涯を閉じた。通称八右衛門(三代目)、いみなを道祐といい、清風は俳号で西山宗因の主唱する談林系の俳人でもあ。1689年(元禄2年)に俳聖松尾芭蕉が清風邸に3日間宿泊。芭蕉は『奥の細道』で「尾花沢にて清風という者を尋ぬ。かれは富めるものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情けをも知りたれば、日ごろとどめて長途のいたはりさまざまにもてなし侍る。」と尾花沢滞在中の10日間、清風の厚いもてなしに旅情がなぐさめられたと書いている。

鈴木清風は、山形の特産紅花で巨富を築き、「紅花大尽」と呼ばれた。遊ぶ時は派手に遊んだ。都々逸にその豪奢な大盤振舞いのさまが詠まれている。「最上衆なら粗末にならぬ敷いて寝るような札くれる」。清風は紅花で稼いだ金で金融業も手広く営んだ。商人に融資するばかりか農民にも貸しつけ、大名貸しもやった。白川藩、新庄藩、山形藩、上山藩、秋田藩などが清風のお得意さんだった。

清風は若い時から商取引で京都や江戸を往復していた元禄11年の夏、紅花の商いに江戸に上った清風を、江戸の商人たちは、清風を田舎商人と甘く見て”不買同盟”を結んで妨害した。それに対し清風は品川河岸で赤く染めたかんな屑を燃やして、江戸に運んだ紅花を全部焼き捨てたと見せかけたので、翌日から紅花の値段は高騰し、清風は三万両の利益を得た。「尋常の商売で得た金ではない、きれいさっぱり使い切る。」と言って、吉原の大門を3日3晩閉め切って遊女達に休養を与えたと言う逸話等が残されている。また、吉原の高尾太夫が清風に贈ったという柿本人麿の木像も遺されている。

 

芭蕉が「昔より、賢き人の富めるは稀なり」と詠んだ紅花商人 鈴木清風(上)

Yahoo news  2017/8/11(金)  THE PAGE

芭蕉をもてなす鈴木清風(「芭蕉と清風」おくのほそ道・尾花沢、発行・編集 芭蕉・清風歴史資料館より)

 

 紅花は山形県の県花であり、特産品として知られています。花は古くから口紅の材料や染料、生薬に用いられ、種子は絞って食用油に加工されています。

 江戸時代、山形県尾花沢の豪商・鈴木清風は、この紅花の取引で巨万の富を築き上げ、のちには金融業も手を広げていきます。江戸・吉原での豪遊も伝説となり、今に語り継がれています。また、意外にも俳人・松尾芭蕉とも交流があり、鈴木の人となりを詠んだ句も存在しています。鈴木はどのようにして、特産品でもうけを築き上げていったのでしょうか? その手法と芭蕉との交流について、市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

 

松尾芭蕉とゆかりのあった鈴木清風という紅花商人

 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で山形県尾花沢に入ったのは元禄2年(1689)5月17日のことだった。ちょうど当地の特産紅花が咲き始める季節である。ここでは鈴木清風との再会を楽しみにしていた。清風は富商でありながら志の高い人物として知られていた。

 清風は一代で巨利を博したのではない。先祖代々にわたり積み上げてきた富をさらに大きく膨らませたもので、赤貧から抜け出した立志伝中の人物ではない。専門家はこう言っている。

 「鈴木家が延沢(のべさわ)銀山のこの繁昌ぶりに着目し、鉱山都市の住民や城下町延沢の人々を対象として生活必需品の調達、生活資金や営業資金の高利貸しなどを行って財産を貯蓄したのではないか」

 延沢銀山が最盛期のころは山に働く人々が2万~3万人に達していたといわれるが、それは清風の祖父や父の時代までで、清風が生まれるころはほとんど廃鉱になっていたという。

 紅花は染料や化粧品の原料として需要は無限であった。もとはエジプトや東南アジアの原産で菊科の植物だが、早くから日本に根付き、「万葉集」や「源氏物語」で「くれない」とか「末摘花」などと詠まれているのは、この紅花のことである。最上川の朝霧で育った紅花を京、大坂へ運んでもうけを膨らました。

 清風ら紅花商人は京、大坂に紅花を運び、帰路には塩や砂糖、綿花などを持ち帰れば、往復でもうけた。この往復でもうけるやり方を人々は「のこぎり商法」と呼んだ。清風は押してもうけ、引いてもうけの「のこぎり商法」の代表格であった。

「紅花を栽培することは、米や豆を作るよりもはるかに有利であった。元禄年間には350駄(駄は馬または牛一頭に背負わせるだけの量)ぐらいしか出荷しなかった紅花はそれから100年後の寛政年間には1400-1500駄も出荷するようになった。その代金は1駄(30貫目、120キロ)は80両前後であったから少なくとも10万両ほどの大金が山形地方に流れたことになる」(後藤嘉一著『やまがた経済風土雑記』)

 また山形大学の岩田浩太郎教授もこう述べている。

 「紅花は一反歩で稲作三反歩に匹敵する高収益作物でしたから栽培が広がりました。村山産の『最上紅花』は全国ブランドとなり、18世紀末には全国シェアの半分を占めました」

 清風は京都で紅花を売って莫大な利益を上げると同時に江戸でも豪快にもうけた江戸での清風伝説で欠かせないのが、吉原を買い占めた一件

 樋口一葉の名作「たけくらべ」の冒頭に「廻れば大門(おおもん)の見返り柳いと長けれど」とある。その大門を締め切って、三浦屋という遊女屋で三日三晩の豪遊をやってのけ、破天荒のお大尽ぶりに江戸っ子のド肝を抜いたという。

 大門を閉めるということは、吉原の遊女を1人占めしたわけである。当時、遊女は2000人を超していたというから清風も派手なことをやってのけたものだ。

 もしこの大盤振舞いが芭蕉の耳に入っていれば、「清風め、羽目をはずすにもほどがある」と眉をしかめたのだろうか。いや、「さすが清風、もうけた金を江戸市中に散財すれば、それがまたもうけとなって返ってくるというものですよ」と拍手を送ったのかもしれない。

 それというのが、芭蕉は「俳聖」と呼ばれる一方でなかなかの経済通であったと伝えられるからだ。勝海舟が「芭蕉は非常な経済家であった。近江商人は皆、芭蕉の遺言にのっとってやるのさ」(海舟自伝)と語っている。

 芭蕉が豪商鈴木清風と経済や相場を巡って語り合っていたとすれば、痛快これに過ぎるものはないだろう。

 芭蕉が尾花沢滞在中に清風に贈ったのが有名な次の一句。

「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」

 そして「奥の細道」の中にも清風の名が記され、430年後の今日も読み継がれる。

 「尾花沢にて清風という者をたずぬ。彼は富めるものなれども、志いやしからず。都にも折にかよい、さすがに旅の情を知りたれば、長途のいたわり、さまざまにもてなしはべる」

鈴木清風邸跡地。資料館南の銀行横にある。

鈴木清風邸(「芭蕉と清風」おくのほそ道・尾花沢、発行・編集 芭蕉・清風歴史資料館より)

養泉寺・尾花沢観音。尾花沢市梺町。

資料館から西に離れた場所にある。養泉寺に芭蕉は7泊しており、奥の細道の中で最も長く滞在した場所といわれている。芭蕉は鈴木清風宅に3泊し、この寺に7泊した。芭蕉が養泉寺に7泊したのには様々な理由が考えられるが、清風の家は、商売で忙しい時期だつたので、周りでバタバタしては、芭蕉がゆつくりと休むことができないだろうという、清風の配慮があつたと思われる。また、養泉寺からは、遠くは鳥海山をや月山を望むことができ、眺めのいい場所であった。

養泉寺は芭蕉が泊まった前年の元禄元(1688)年に大改修新築されている。明治28(1895)年の尾花沢大火で焼失、明治33年に再建された。

涼し塚。壷中碑。養泉寺境内。

柴崎路水と鈴木素州が宝暦12年(1762年)に建てた芭蕉尾花沢逗留中の歌仙の発句である「涼しさを我宿にしてねまる也」の句碑(高さ0.92m、巾0.5m)がある。これが「涼し塚」で、隣に「壷中居士」を刻む石碑が建っている。

句の意味は、「この家の涼しさをわが物にして、わが家同然の気楽な気分で楽に座ております。」で、

ねまる」(くつろいで楽に座る)という味のある東北方言を用いて家人への親近感を深めている。

壷中は、村山地方を代表する江戸期の俳人で、初め蕉門十哲・服部嵐雪の流れを汲む海谷一中の門に入るが、のち、同じ蕉門十哲の一人各務支考を祖とする美濃派の俳人林風草(鶴岡)の門下となった。宝暦元年(1751年)、俳諧仲間とともに、山寺立石寺に「蝉塚」を築いた人物でもある。

芭蕉連句碑。

「涼し塚」の東側にも2つの石碑が見られる。1つは、「十泊のまち 尾花沢 芭蕉翁」の文字を刻むもの(右)で、もう1つは「芭蕉連句碑」と称される大きめの石碑(左)。連句碑には、芭蕉が尾花沢滞在中に巻いた「すゞしさを」歌仙の、初折の表4句が刻まれている。

 

このあと、新庄市の新庄城跡へ向かい、途中西ノ前遺跡公園へ立ち寄ることにした。自動車道外に公園があるのだが、ナビは自動車道内を指示したので大回りしてしまったが、道路内にある土偶出土地を踏んでいたことになる。

西ノ前遺跡公園「女神の郷」山形県舟形町舟形。

西ノ前遺跡は、山形県立博物館で常設展示している日本最大の縄文土偶の国宝「縄文の女神」が出土した遺跡である。舟形町を東西に流れる最上小国川(通称:小国川)流域には河岸段丘が形成され多くの遺跡が確認されており、西ノ前遺跡は、小国川左岸標高72メートルの河岸段丘上に立地している。段丘は、北に向かって舌状に張り出し、その先端分に遺跡が位置している。

平成元年9月に舟形バイパスが高規格道路「一般道路13号尾花沢新庄道路改築工事」として事業規模が拡大されることになり、試掘調査が行われた。

遺跡の範囲は、東西85m、南北125mで、面積10,500㎡の規模をもつ縄文時代中期の集落跡であることが判明した。

平成4年8月の発掘調査で、土偶が多く発見され、その中で一際目立っていたのが、大形土偶である「縄文の女神」で、調査区南端の落ち込み遺構のやや東よりの部分から半径3m程度の範囲で、頭部、胸部、腰部、脚部の5片に分かれて見つかった。

 

このあと、新庄城跡、新庄ふるさと歴史センターに向かった。

山形県大石田町 聴禽書屋(斎藤茂吉旧居) 芭蕉「最上川」句碑 舟役所跡



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