手打ちそば「さぶん」。山形県新庄市小田島町。
2024年9月9日(月)。
尾花沢市の芭蕉清風歴史資料館などを見学後、舟形町の西ノ前遺跡公園を経て、新庄ふるさと歴史センターに着いたとたん、センターから出てきた職員に長期休館中だといわれた。7月の水害もあり、各予定地のHPなどで確かめていたはずだが、チェック漏れだったようだ。新庄城跡の見学なら駐車したままでいいというので、新庄城跡へ歩いて向かった。
100mほど歩くと、角の蕎麦屋が目についた。大石田そぼ街道や尾花沢そば街道などが有名らしいが、昼食のタイミングから外れていたため蕎麦を食べる機会を逸していた。ちょうど11時30分ごろだったので、「さぶん」という蕎麦屋に入ることにした。店内に入ると、半分ほどの入りだった。入口側の長い机席が一人用らしかったので、欧米人の若い男性の横に座った。
メニューを見ると、天ぷら付きは高い。旅行雑誌を見て、山形名物で気になっていた板蕎麦2人前1320円を注文した。トイレついでに奥の座敷を覗くと、中華系らしい10人ほどの女性の団体が食事を終わりかけているところだった。12時ごろになるとほぼ満席になった。
「さぶん」とは「佐藤文七」という屋号から来ているようだ。明治8年の建築という古民家を利用した店内には、いろりを備えた座敷が設けられるなど田舎情緒にあふれている。もともと、みそやしょうゆの醸造、呉服などを扱っていた商家だった同店は平成9年、この場所でそば店を始めたという。開店当初から続けているのが石臼ひきの自家製粉という。
新庄城跡(最上公園)。新庄市堀端町。
新庄城は、新庄藩6万石の本拠として寛永2年(1625年)、新庄藩初代藩主の戸沢政盛により築城された。本丸の南側に出丸のように小さな二の丸が並列状に配置され、その外側を三の丸が囲む形である。本丸及び二の丸、三の丸の堀の水は城の北を流れる差指野川(さすのかわ)から引かれた。三の丸堀(二の堀)の反対側に当たる現在の堀端町は、家老などが住む侍屋敷があった。
最上氏改易後に入封した戸沢政盛は当初真室城(鮭延城)に入城したが、手狭であることと、山城のための不便さから幕府に願い出て、当地に築城した。なお、縄張は同一時期に山形城に入封した鳥居忠政によるものである。
本丸は東西52間、南北127間、正面奥に天守櫓がそびえ、周囲は堀と土居で囲まれ、三隅に櫓を有する平城であったが、寛永13年(1636)の火災による焼失以来天守櫓は再建されなかった。
本丸表御門跡付近の石垣。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では戦闘の舞台となった。当初、新庄藩は奥羽越列藩同盟に参加していたが、久保田藩(秋田藩)が新政府側へ変節したのに同調し、奥羽越列同盟から離脱した。これに激怒した庄内藩は新庄藩へと攻め入り、庄内藩兵と新庄藩兵の間で攻城戦が行われたが新庄城は陥落して、その大部分が焼失した。当時の藩主、戸沢正実は久保田藩へ落ち延びた。新庄城は同年のうちに廃城となった。
現在は、新庄城の建物のほとんどが失われ、本丸址に戸澤神社、護国神社、稲荷神社、天満神社がある。本丸跡、二の丸跡を含めた城跡は最上公園として市民に開放されている。
戸沢氏は、平維盛の子平衡盛が奥州磐手郡滴石庄(岩手県雫石町)に下向したのが始まりとして平氏と称したが、平衡盛の「衡」という漢字は奥州藤原氏が通字として使用しており、滴石に古くから土着していた荘園の開発領主が、その実態であり、奥州征伐の時に藤原氏に協力しなかったことから辛うじて源頼朝に存続を許されたが、新しくきた関東御家人の圧迫を受けて、出羽国に移っていったという奥州藤原氏郎党説が有力である。
鎌倉時代初期の1206年、戸沢氏は南部氏から攻められ、滴石(岩手県雫石町)から門屋小館(秋田県仙北市西木町)に本拠を移した。1220年に門屋小館から門屋へ移り、1228年門屋城を築城。そこから周囲に勢力を拡大していったものと推察される。
南北朝時代になると、戸沢氏は南朝に属した。北畠顕家の弟北畠顕信が一時期滴石城に入った記録があるが、興国2年(1341年)の合戦は顕家の敗戦に終わり、顕家は出羽国へ去っていき、滴石の兵も従ったとある。興国2年以後、南部氏が北朝方に寝返ったことと、北陸奥における足利氏勢力が増大したことが契機となり、この時に仙北地方に移ったと推測される。但し、滴石庄には庶流を置いていったと考えられる。
延文元年(1356年)に戸沢英盛が鎌倉へ出仕しており、この頃には他の武将達同様に北朝方に転向して時代を生き抜いたようである。
戸沢氏は、その後、本拠地を門屋から角館に移し、門屋地方からさらに、仙北三郡の内、北浦郡全域への支配拡大を目指していく。応仁2年(1468年)、南部氏が小野寺氏との抗争に敗れ、仙北三郡から撤退すると、戸沢氏は、以後仙北三郡の覇権を巡り小野寺氏・安東氏との抗争を続けた。
応永31(1424)年13代戸沢家盛の頃に角館城に居を構え戦国大名としての地位を築いたとされる。
元亀元年(1570年)ごろ、戸沢道盛は北浦郡全域と仙北中郡、旧仙北郡の大部分を平定した。その後、道盛の子、戸沢盛安は小野寺氏や安東氏を破って勢力を拡大し、仙北三郡の完全平定に成功した。これが戸沢氏の勢力全盛期となった。盛安は中央の動静に絶えず注目しており、豊臣秀吉の小田原征伐の際には主従僅か10人ながら東北地方の戦国大名の中ではいち早く参陣して秀吉の賞賛を受け、所領を安堵された。しかし盛安は参陣中の小田原で病死し、弟の戸沢光盛が家督を継いだ。豊臣秀吉の奥州仕置の後、戸沢氏の支配地域は盛安の死と惣無事令の問題もあり、北浦郡4万5千石のみ安堵され、残りの地域に関しては太閤蔵入地の代官としての権限を与えられた。
光盛は朝鮮出兵の途上、播磨国姫路城で病死した。光盛の死後、盛安の子の戸沢政盛が家督を相続した。秀吉の死後、政盛は徳川氏重臣の鳥居元忠の娘と縁戚を結び、徳川方へ急速に接近していった。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、最上氏と共に上杉氏と戦った。しかし上杉討伐で秋田氏の勢力が増大することを恐れ、消極策に終始した。戦後、この行動が咎められて、常陸国松岡4万石へ減転封された。
松岡藩への転封後も政盛は、徳川氏への接近を積極的に進めていった。鳥居氏との縁戚により、本来江戸幕府内での扱いは外様大名であるはずの戸沢氏は譜代大名とされた。元和8年(1622年)、最上氏の改易を受けて鳥居氏が最上氏の旧領出羽国山形の藩主となると、戸沢氏は鳥居氏の一族として、常陸国松岡から出羽国新庄へ加増転封された。
以後は新庄藩6万石(後6万8千石)の大名として明治維新まで続いた。最後の藩主正実の代の戊辰戦争では官軍側についたり、奥羽越列藩同盟側に付いたり藩としての姿勢に揺れがみられたが、最終的には官軍に付いたため、その功績により賞典禄1万5000石を下賜された。
国史跡・新庄藩主戸沢家墓所。新庄市十日町。
墓所は新庄市街から離れた北東方向の田園地帯にある。茅葺屋根の廟所は珍しい。
藩主戸沢家の墓所は新庄市瑞雲院と桂嶽寺の2ヶ所にあるが、向陽山瑞雲院(曹洞宗)は、山形県白鷹町瑞龍院の末寺で、藩政時代寺領150石を有し、領内禅宗の事務を統括する禄所であった。初めは、城下町北の入ロの要として、羽州街道西側に建立されたが、元禄14年(1701年)全焼し、寺地を宝永3年(1706年)東側の現在地に移した。その際に、焼寺の西奥に墓石のみであったものを、現在の廟建築の形式に変えたものと思われる。ここには6棟の廟があり、桂嶽寺に廟所がある2代正誠を除く10人の藩主が葬られている。
御廟所は、当地では御霊屋(おたまや)と呼ばれ、建立された順序は、瑞雲院1号棟(1704年から1721年推定)・桂嶽寺御廟所(1724年)・瑞雲院2号棟(1742年)・3号棟(1747年)・4号棟(1782年)・5号棟(1788年)・6号棟(1798年推定)の順になる。
造りは、単層宝形(ほうぎょう)造りで、大きさはそれぞれ違うが、いずれも絵欅(けやき)造りで、石場の上に土台を据え、丸柱を建て、柱間に厚い板をはめこんで壁としている。入ロは観音開きの扉、床は石畳で板敷きはない。屋根は全て茅葺きであるが、桂嶽寺御廟所だけは近年木羽葺きに替えられた。
このさや堂の中には、歴代藩主とその正室(1基のみ側室)、家族の墓石が納まっている。その内訳を見ると、総数27基で、藩主11名・正室6名・側室1名・その他9名である。
その他9名のうち、4名が9代正胤の子どもたちであるのが注目される。
全国に多数ある近世大名の墓の中で、藩主とその正室や子ども、側室など一緒に葬られているのは極めて稀である。また、各歴代藩主の墓が一堂にあることから、1700年代の初期から後期に亘る約100年の間の建築様式の変化は、その時代時代の新庄藩政の姿を浮き彫りにするもので、歴史的に大変興味深い。
正龍院殿實翁禅相大居士塔。第11代藩主で最後の新庄藩主戸沢正実の墓。
殉死した3人の墓。
このあと、芭蕉が尾花沢へ来る前に泊まった最上町の旧有路家住宅(封人の家)へ向かった。