ツアラトストラはこう語らない その1 冠句雑感
金澤ひろあき
文学を含む芸術は、時代と社会の中から生まれてくる。だから、「時代性」を背負っている。「社会性」を背負っている。時代を生きる者の葛藤を含め、時代を表現する。
例えば俳句で、正岡子規が唱えた「俳句は写生」も、近代化、西洋化が進む時代の中、新しい俳句を模索した中から生まれてきたものだ。そして、新しい方法で作られた作品が、社会に刺激を与えて行った。
時代性を背負った芸術が、同じ時代を生きる者に刺激を与える。同じ世界を生きる者を刺激する。そうでないものは消えていく。時代性を通して普遍に到達したものが後世に残る。真の伝統や古典は、それが作られた時点での「時代性」を持っている。真の伝統は、時代との格闘の過程として立ち現れる。
今の時代を生きる中で切実な事象がある。それと無縁な所から生まれたものは、時代とも無縁である。衰退していくしかない。情報化、グローバル化、競争社会、格差問題、少子高齢化、地球温暖化、エネルギー資源枯渇。それらに直面して生きている私達のリアルな問題に影もささないもの。書く必要や見る必要があるのだろうか。正確に言うと、各個人の好みで書くのは個人の自由だが、私達はそれを見る義務はない。
近年、冠句という文芸を少しやってみたが、衰退の感を否めない。俳句の「上五」に当たる部分が題として与えられ、「七五」をつける。そして選者が作品にランク付けをする。それで終了している。作り手も含めた参加者全体の検証も作品復唱もない。作り手達の関心は「自作が上位にランクされるか否か」で終わっているようだ。選者の評価値で終わっている。
句会後、「○○さんが今回天位(第一位)だった」という話がメインになり、作品そのものが読み返され、愛唱される光景を見たことがない。まして「作品が時代や社会と切り結ぶ」光景は見たことがない。
逆に言えば、時代から隔絶した「愛好者達の幸福な花園」であることを覚悟し、衰退を受け入れる覚悟をしているのならば。それはそれで一種の境地だとも言える。
しかし、もう一度確認しておく。各個人の好みで書くのは個人の自由だが、私達はそれを見る義務はない。
金澤ひろあき
文学を含む芸術は、時代と社会の中から生まれてくる。だから、「時代性」を背負っている。「社会性」を背負っている。時代を生きる者の葛藤を含め、時代を表現する。
例えば俳句で、正岡子規が唱えた「俳句は写生」も、近代化、西洋化が進む時代の中、新しい俳句を模索した中から生まれてきたものだ。そして、新しい方法で作られた作品が、社会に刺激を与えて行った。
時代性を背負った芸術が、同じ時代を生きる者に刺激を与える。同じ世界を生きる者を刺激する。そうでないものは消えていく。時代性を通して普遍に到達したものが後世に残る。真の伝統や古典は、それが作られた時点での「時代性」を持っている。真の伝統は、時代との格闘の過程として立ち現れる。
今の時代を生きる中で切実な事象がある。それと無縁な所から生まれたものは、時代とも無縁である。衰退していくしかない。情報化、グローバル化、競争社会、格差問題、少子高齢化、地球温暖化、エネルギー資源枯渇。それらに直面して生きている私達のリアルな問題に影もささないもの。書く必要や見る必要があるのだろうか。正確に言うと、各個人の好みで書くのは個人の自由だが、私達はそれを見る義務はない。
近年、冠句という文芸を少しやってみたが、衰退の感を否めない。俳句の「上五」に当たる部分が題として与えられ、「七五」をつける。そして選者が作品にランク付けをする。それで終了している。作り手も含めた参加者全体の検証も作品復唱もない。作り手達の関心は「自作が上位にランクされるか否か」で終わっているようだ。選者の評価値で終わっている。
句会後、「○○さんが今回天位(第一位)だった」という話がメインになり、作品そのものが読み返され、愛唱される光景を見たことがない。まして「作品が時代や社会と切り結ぶ」光景は見たことがない。
逆に言えば、時代から隔絶した「愛好者達の幸福な花園」であることを覚悟し、衰退を受け入れる覚悟をしているのならば。それはそれで一種の境地だとも言える。
しかし、もう一度確認しておく。各個人の好みで書くのは個人の自由だが、私達はそれを見る義務はない。
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