修の中の鬼が目覚めても今度は笙子も止めには入らなかった。
修の全身を青白い焔が覆うと同時に辺りは真冬のように寒くなった。
彰久は修の『滅』を感じ取った。
史郎もまた凄まじい気の動きを察知した。
「末松よ…おまえの見た地獄がどんなものかは知らぬし、知ろうとも思わぬ。
だが、今のお前は人に信用され、頼られている一族の重鎮ではないか…。
何故…それで良しとせぬ? 」
焔の中から凍てつくような冷たい声が末松に向かって響いた。
「お前のように大家の主としてちやほやされ、何不自由なく暮らしてきた者に何が分かる! 」
吐き捨てるように末松が言った。修は少し眉を吊り上げた。
「分からぬな…分かろうとも思わぬ。
お前を苦しめた当代長だけならまだしも、久松や孝太、隆平まで地獄へ引きずり落とそうとするその心根…。
無関係な人々の魂まで巻き込もうとするその身勝手さ…。 」
修はそう答えた。あたりはますます底冷えてきた。
ぴりぴりと凍りつくような冷気にさすがの末松も身を震わせた。
冷気と言うよりは霊気というべきか…たとえ暖房を最高温度に合わせたとしても温かくは感じられまい。
修は末松の方へ左手を差し出した。
手のひらの上に青い焔が舞い立った。
「私はこれを使いたくはない…。 お前の心に少しでも救いが残っていれば使わずに済む…。 紫峰にも慈悲はある…。 」
怒りを押し殺したような修の声に末松は嘲笑を以って答えた。
「紫峰の慈悲などくそくらえだ! わしは鬼面川に生れ鬼面川に育ったのだ。
紫峰の指図は受けぬ! わしを裁くものがあるとすれば鬼面川の御大親のみ! 」
ちょうど旅立ちかけていた久松の耳にその声が届いた。
久松は今、自分たちのせいでさまよっていた魂たちをすべて見送り、ふたりの祖霊鬼将、華翁に世話になった礼を言ったところだった。
見れば、醜い鬼と化した末松の憐れな姿がある。
久松の見るところ紫峰宗主は只者ではなく、末松がどうあがいても勝ち目はない。
「祭主どの…あの御方は今『滅』を使おうとしておいでだな?
とすれば…相当の使い手であられような? 」
久松は彰久に問うた。
「あの御方は紫峰の祖霊だ。 樹さまのお名前は御霊もご存知であろう? 」
久松の胸が高鳴った。紫峰 樹…口伝に残る伝説の御方ではないか…。
ああ…それではとても末松は助からぬ。
決して無礼があってはならぬ御方に…刃を向けた…。
「祭主どの…。 『滅』は完全なる死。 魂が消滅する怖ろしい業…。
これほど祭主どのに世話になったのに申し訳ないが…俺は…弟を見捨てられぬ!」
彰久が制止する間もなく、久松は境界を抜け出た。
「では…紫峰は末松を見放すとしよう…。 紫峰祖霊 樹の名において末松に『完全なる死』を与える。 」
末松の態度に救いはないと感じた修は今しも末松に向かって『滅』の焔を飛ばそうとしていた。
「お待ちくだされ! 宗主! 」
久松は修の前へとその姿を現した。修は手を止めた。
「久松…何故出て参った。 お前…逝かれなくなったらどうするのだ? 」
修は境界の中を見た。彰久も史朗も久松のために必死で時を稼いでいる。
久松は修に対し祈り拝むようにして頼んだ。
「俺が末松を連れて逝く。 どうか…どうかご無礼をお許し下さい。
魂もなしでは弟があんまり惨めだ。
こいつは捻くれてしまってこの有様だが救いがないわけではない…。
悪ぶってはいるが本当は長兄によう仕えた真面目な男だ。
長兄が生きておれば…少なくとも俺が死にさえしなかったらこうはならなんだ。」
そう言うと久松は鬼の身体を羽交い締めにした。
「何をしよる! 久松! わしはまだ逝かん! 放せ! 久松!
この男を倒してどこまでも生き延びてやる! 紫峰などには負けん! 」
久松は凄まじい力で末松を引き摺り、境界の中へと引っ張り込んだ。
「わしは逝かん! わしは…。」
末松は叫んだ。『こんなところで朽ちてたまるか!』
「末松よ…思い出せ。 竹馬…缶蹴り…竹とんぼ…めんこ…かちん玉。
蝉取り…ザリガニ釣って俺らぁよく遊んだが…。
あの頃はお前もこんな苦しい生き方をするとは思わんかったろうに。
まあ年も年だで楽しもうよなぁ…向こうへ行ってまた二人で遊びゃあいいに。」
抗う末松を久松は優しく宥めた。
大きく目を見開き、断末魔の叫びをあげたまま末松は連れて行かれた。
御大親の見えぬ手が二人の魂をその懐に迎え入れた…。
彰久も史朗も久松のために祈った。犠牲になった者たちのために祈った。
そして憐れな末松のためにも…。
修は焔を収めた。大きく溜息をついた。
彰久と史郎による御霊送りが終わって社はしんと静まり返り、最後の文言を述べる二人の声だけが響く。
祭祀は『救』のすべてを終えようとしている。
修の前に元に戻ったの末松の悲しい躯が転がっていた。
日が翳り始めると孝太を中心として慌しく『鬼遣らい』の仕度が始まった。
朝方の騒ぎによって乱れた社は村の世話役たちによって急ぎ清められ、行事用に整えられた。
急を聞いて駆けつけた村の医者に、加代子は爺さまが狂って人を殺せと叫んだと話した。
村の人たちは、あまりに立て続けに死人が出たので末松が心乱れて社で暴れ、脳溢血を起こしたに違いないと考えた。
数増には孝太が本当のことを話した。数増は黙って頷いていた。
複雑な思いがあったに違いないが、ただ静かに末松の死を悼んだ。
思えば、最も運命に翻弄され続けたのはこの数増ではなかったか…。
観光行事である『鬼遣らい』と末松たち三人の葬儀が同時に始まった。
祭祀は孝太が務め、隆平は介添えを、彰久と史朗は後見を、紫峰の三人は立会人をそれぞれ古式ゆかしい姿で務めた。
村長と弁護士は貴賓席で居眠りをしていた。
大勢の人を死なせておきながら意に介さないほどのホラー好きならば、きっと楽しく夢を見ていることだろう。
繰り返し鬼に喰われる悪夢であっても…。
何も知らない観光客の前で、流麗な所作と格調高い文言の『鬼遣らい』絵巻が繰り広げられた。
人々はその美しさに魅了され、夢見心地でしばし時を忘れる。
客たちは平安朝の祭祀を上質なパフォーマンスと受け取っているだろう。
その祭祀に込められた演じる側の鎮魂の思いを誰も知らない…。
次回へ
修の全身を青白い焔が覆うと同時に辺りは真冬のように寒くなった。
彰久は修の『滅』を感じ取った。
史郎もまた凄まじい気の動きを察知した。
「末松よ…おまえの見た地獄がどんなものかは知らぬし、知ろうとも思わぬ。
だが、今のお前は人に信用され、頼られている一族の重鎮ではないか…。
何故…それで良しとせぬ? 」
焔の中から凍てつくような冷たい声が末松に向かって響いた。
「お前のように大家の主としてちやほやされ、何不自由なく暮らしてきた者に何が分かる! 」
吐き捨てるように末松が言った。修は少し眉を吊り上げた。
「分からぬな…分かろうとも思わぬ。
お前を苦しめた当代長だけならまだしも、久松や孝太、隆平まで地獄へ引きずり落とそうとするその心根…。
無関係な人々の魂まで巻き込もうとするその身勝手さ…。 」
修はそう答えた。あたりはますます底冷えてきた。
ぴりぴりと凍りつくような冷気にさすがの末松も身を震わせた。
冷気と言うよりは霊気というべきか…たとえ暖房を最高温度に合わせたとしても温かくは感じられまい。
修は末松の方へ左手を差し出した。
手のひらの上に青い焔が舞い立った。
「私はこれを使いたくはない…。 お前の心に少しでも救いが残っていれば使わずに済む…。 紫峰にも慈悲はある…。 」
怒りを押し殺したような修の声に末松は嘲笑を以って答えた。
「紫峰の慈悲などくそくらえだ! わしは鬼面川に生れ鬼面川に育ったのだ。
紫峰の指図は受けぬ! わしを裁くものがあるとすれば鬼面川の御大親のみ! 」
ちょうど旅立ちかけていた久松の耳にその声が届いた。
久松は今、自分たちのせいでさまよっていた魂たちをすべて見送り、ふたりの祖霊鬼将、華翁に世話になった礼を言ったところだった。
見れば、醜い鬼と化した末松の憐れな姿がある。
久松の見るところ紫峰宗主は只者ではなく、末松がどうあがいても勝ち目はない。
「祭主どの…あの御方は今『滅』を使おうとしておいでだな?
とすれば…相当の使い手であられような? 」
久松は彰久に問うた。
「あの御方は紫峰の祖霊だ。 樹さまのお名前は御霊もご存知であろう? 」
久松の胸が高鳴った。紫峰 樹…口伝に残る伝説の御方ではないか…。
ああ…それではとても末松は助からぬ。
決して無礼があってはならぬ御方に…刃を向けた…。
「祭主どの…。 『滅』は完全なる死。 魂が消滅する怖ろしい業…。
これほど祭主どのに世話になったのに申し訳ないが…俺は…弟を見捨てられぬ!」
彰久が制止する間もなく、久松は境界を抜け出た。
「では…紫峰は末松を見放すとしよう…。 紫峰祖霊 樹の名において末松に『完全なる死』を与える。 」
末松の態度に救いはないと感じた修は今しも末松に向かって『滅』の焔を飛ばそうとしていた。
「お待ちくだされ! 宗主! 」
久松は修の前へとその姿を現した。修は手を止めた。
「久松…何故出て参った。 お前…逝かれなくなったらどうするのだ? 」
修は境界の中を見た。彰久も史朗も久松のために必死で時を稼いでいる。
久松は修に対し祈り拝むようにして頼んだ。
「俺が末松を連れて逝く。 どうか…どうかご無礼をお許し下さい。
魂もなしでは弟があんまり惨めだ。
こいつは捻くれてしまってこの有様だが救いがないわけではない…。
悪ぶってはいるが本当は長兄によう仕えた真面目な男だ。
長兄が生きておれば…少なくとも俺が死にさえしなかったらこうはならなんだ。」
そう言うと久松は鬼の身体を羽交い締めにした。
「何をしよる! 久松! わしはまだ逝かん! 放せ! 久松!
この男を倒してどこまでも生き延びてやる! 紫峰などには負けん! 」
久松は凄まじい力で末松を引き摺り、境界の中へと引っ張り込んだ。
「わしは逝かん! わしは…。」
末松は叫んだ。『こんなところで朽ちてたまるか!』
「末松よ…思い出せ。 竹馬…缶蹴り…竹とんぼ…めんこ…かちん玉。
蝉取り…ザリガニ釣って俺らぁよく遊んだが…。
あの頃はお前もこんな苦しい生き方をするとは思わんかったろうに。
まあ年も年だで楽しもうよなぁ…向こうへ行ってまた二人で遊びゃあいいに。」
抗う末松を久松は優しく宥めた。
大きく目を見開き、断末魔の叫びをあげたまま末松は連れて行かれた。
御大親の見えぬ手が二人の魂をその懐に迎え入れた…。
彰久も史朗も久松のために祈った。犠牲になった者たちのために祈った。
そして憐れな末松のためにも…。
修は焔を収めた。大きく溜息をついた。
彰久と史郎による御霊送りが終わって社はしんと静まり返り、最後の文言を述べる二人の声だけが響く。
祭祀は『救』のすべてを終えようとしている。
修の前に元に戻ったの末松の悲しい躯が転がっていた。
日が翳り始めると孝太を中心として慌しく『鬼遣らい』の仕度が始まった。
朝方の騒ぎによって乱れた社は村の世話役たちによって急ぎ清められ、行事用に整えられた。
急を聞いて駆けつけた村の医者に、加代子は爺さまが狂って人を殺せと叫んだと話した。
村の人たちは、あまりに立て続けに死人が出たので末松が心乱れて社で暴れ、脳溢血を起こしたに違いないと考えた。
数増には孝太が本当のことを話した。数増は黙って頷いていた。
複雑な思いがあったに違いないが、ただ静かに末松の死を悼んだ。
思えば、最も運命に翻弄され続けたのはこの数増ではなかったか…。
観光行事である『鬼遣らい』と末松たち三人の葬儀が同時に始まった。
祭祀は孝太が務め、隆平は介添えを、彰久と史朗は後見を、紫峰の三人は立会人をそれぞれ古式ゆかしい姿で務めた。
村長と弁護士は貴賓席で居眠りをしていた。
大勢の人を死なせておきながら意に介さないほどのホラー好きならば、きっと楽しく夢を見ていることだろう。
繰り返し鬼に喰われる悪夢であっても…。
何も知らない観光客の前で、流麗な所作と格調高い文言の『鬼遣らい』絵巻が繰り広げられた。
人々はその美しさに魅了され、夢見心地でしばし時を忘れる。
客たちは平安朝の祭祀を上質なパフォーマンスと受け取っているだろう。
その祭祀に込められた演じる側の鎮魂の思いを誰も知らない…。
次回へ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます