人生もいよいよ終わりが遠くないのか、我しばしば昔のことを想い思い出し懐かしむ。
たとえばオールナイトニッポン。
自分が聴き始めたのは中学の頃。
中島みゆき、鶴光師匠、、
この方々についても思い出はたくさんあるのだが、今日触れたいのはビートたけしさんのオールナイトニッポン。
正直に言って、たけしさんのオールナイトは聴きやすくなかった。
早口で早口で。
しかも岩手の山間部なので、地元局の電波すら受信しにくく、ニッポン放送発信の電波を雑音混じりにどうにか聴いていて。
早口早口で。
何言ってるかわからねーー
でも、ものすごく楽しい番組だということは伝わっていた。
高田文夫さんとのマシンガンの如き掛け合いね。
ていうか、そもそも真っ当な中高生がオールナイトニッポンの一部をまともに聴けるのか?聴けていたのか?
カセットテープに録音なんてしていなかったと思う。
いわんや、radikoのタイムフリーなんてドラえもんや21エモン級の未来説話。
どうやって聴いていたんだろ。私。
どうやって次の日生活していたのだろう。
さて。
その日は1988年3月24日だった。
いや、1988年3月24日だったらしい。
wikipediaはそのように記録する。
その日も枕元のラジオをつけて、たけしさんの声を待っていた。
それでも、なにやらいつもと雰囲気が違う。
その日、上海郊外でとある大事故が起きていたのだ。
当時のたけしさんの話す内容を逐一は覚えていない。
覚えてはいないが、彼は終始沈痛な感じで、結局マイクの前から去ったかのように記憶している。
その時の私は、高校2年生の最末期。
つまり、事故に遭った人たちと同世代。
自分なりに当時極めてショックを受けていた記憶がある。
たけしさんが退席し、確か音楽が流れたりしていた。
明けて次の日は、年度末の登校日。
修了式か教師の退任式か。
詳しくは当時の岩手県立一関第一高等学校の記録を参照されたい。
その夜私は、翌日登校日なのに、全然眠れなかった。
結局、朝までほぼ一睡できず。
それほど、かの大陸の列車事故の衝撃が覚めやらなかったのだ。
もしかしたら徹夜した生涯初の体験だったのかな?どうだろう。分からない。
あの夜のビートたけしさん、彼の温かみというか人間性を感じた放送だった。
今でも、ビートたけしさんといえば思い出す。
あの夜の、わたしたちは確かにあの想いを共有していた。
枕元の窓から差す朝日が忘れられない。
あれ?
この話って前にも書いたっけ?
おじいちゃんなので昨日以前の記憶にまったく自信がない。
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