ビートたけしのオールナイトニッポンの思い出

2024年02月13日 18時27分00秒 | 巻十三 ラジオ
人生もいよいよ終わりが遠くないのか、我しばしば昔のことを想い思い出し懐かしむ。


たとえばオールナイトニッポン。

自分が聴き始めたのは中学の頃。
中島みゆき、鶴光師匠、、
この方々についても思い出はたくさんあるのだが、今日触れたいのはビートたけしさんのオールナイトニッポン。

正直に言って、たけしさんのオールナイトは聴きやすくなかった。
早口で早口で。
しかも岩手の山間部なので、地元局の電波すら受信しにくく、ニッポン放送発信の電波を雑音混じりにどうにか聴いていて。

早口早口で。

何言ってるかわからねーー

でも、ものすごく楽しい番組だということは伝わっていた。
高田文夫さんとのマシンガンの如き掛け合いね。

ていうか、そもそも真っ当な中高生がオールナイトニッポンの一部をまともに聴けるのか?聴けていたのか?

カセットテープに録音なんてしていなかったと思う。
いわんや、radikoのタイムフリーなんてドラえもんや21エモン級の未来説話。

どうやって聴いていたんだろ。私。
どうやって次の日生活していたのだろう。



さて。


その日は1988年3月24日だった。
いや、1988年3月24日だったらしい。
wikipediaはそのように記録する。

その日も枕元のラジオをつけて、たけしさんの声を待っていた。

それでも、なにやらいつもと雰囲気が違う。


その日、上海郊外でとある大事故が起きていたのだ。

上海列車事故 - Wikipedia


当時のたけしさんの話す内容を逐一は覚えていない。

覚えてはいないが、彼は終始沈痛な感じで、結局マイクの前から去ったかのように記憶している。





その時の私は、高校2年生の最末期。
つまり、事故に遭った人たちと同世代。

自分なりに当時極めてショックを受けていた記憶がある。

たけしさんが退席し、確か音楽が流れたりしていた。


明けて次の日は、年度末の登校日。
修了式か教師の退任式か。
詳しくは当時の岩手県立一関第一高等学校の記録を参照されたい。

その夜私は、翌日登校日なのに、全然眠れなかった。
結局、朝までほぼ一睡できず。
それほど、かの大陸の列車事故の衝撃が覚めやらなかったのだ。

もしかしたら徹夜した生涯初の体験だったのかな?どうだろう。分からない。

あの夜のビートたけしさん、彼の温かみというか人間性を感じた放送だった。


今でも、ビートたけしさんといえば思い出す。

あの夜の、わたしたちは確かにあの想いを共有していた。

枕元の窓から差す朝日が忘れられない。



あれ?
この話って前にも書いたっけ?
おじいちゃんなので昨日以前の記憶にまったく自信がない。


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