内田樹「日本辺境論」

2010年06月19日 08時11分22秒 | 巻十六 読書感想
この方の著書は初見です。
「辺境」という言葉が好きなもので。

日本辺境論 (新潮新書)
内田 樹
新潮社

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中華なるものの周辺に存在していた日本民族には、
地政学上の必然から、辺境民たるメンタリティーが染みついていて、
それが現代の我々の行動思考様式をも強く規定している。

ざくっと言えばそんな話です。

では、辺境民の心的傾向とは何か?
主体的に「世界標準」を創生するのではなく、
常に「中心」や「上」を窺ってしまう。
外部の基準に自らを照らし合わせることが習慣となってしまっている。
そんなことです。
で、著者はそんな「辺境民」性を否定的にとらえているわけではありません。
とことんその特殊性に乗っかっていこう、というわけです。

まあ、欧米や中国といった「中華」対日本という図式で書かれていますが、
世界にはそのカテゴリーに収まらない数多の国家・民族・文化が存在するわけで、
日本の辺境性というものがそこまで特殊なのかどうなのか、
そこら辺はよくわかりません。わかりたいけど。
あくまで日本論の新書なので、そこまで行くと射程外なんでしょうね。

---------- キリトリ -----------

読み進めると、
もうなんというか、「心にすとんと落ちる」ことが非常に多い。
つまり、「ああ、そうだよな。納得だわ」と膝を打ってしまうのです。

たとえば、憲法9条のくだり。
そもそも米国は日本国憲法制定時、
日本が無害であることと、日本が米国の世界戦略に資すること、を
両方意図していた(今もね)。
だから、戦争放棄と自衛隊の存在というのは、
米国仕立ての日本国憲法の論理では全く矛盾していない。
ところがしかし、日本の伝統的な改憲論護憲論は9条の矛盾性を言い立てて、
「条文に合わせた非武装」もしくは「現実に合わせた改憲」を争う。
矛盾していない(つまり米国の対日政策は一貫していた)ことを狡猾に無視することで、
「日本は米国の軍事的属国である」という真理を「知らないフリ」できる。
それは、辺境民ならではのフリーハンドを(ある種無意識に)駆使していると。

まあ、これは俺が意訳要約だが、なるほどなあ、と。

---------- キリトリ -----------

もうひとつ。
世界の中で特異的に進化した、日本のマンガ文化。
これは、日本語の辺境的特殊性が大きく影響していると。
(養老孟司氏の受け売りだとは言っているが)

日本語は、漢字という表意文字と、仮名という表音文字のハイブリッド言語である。
このため、日本語話者は表意と表音の両方の文字情報を同時に処理する能力に長けている。
この能力は、「絵(表意)」と「吹き出し(表音)」という二つの視覚情報を並列処理することに最適なんだそーだ。
日本語とマンガの親和性ねえ。これもなるほどです。

---------- キリトリ -----------

もっともっといっぱいある。
そう言われてみればそうだな、という例。

で、ふと思った。

この本って、あまりに論理がすっきり収まりすぎじゃね?

つまり、あまりに「あるあるある!」と合点出来すぎじゃね?というか。

この、見事なまでの「収まり具合」に対し、
ヒネクレ者の俺は逆に身構えてしまうのだ。
だって、こんな明確に民族の心性が言いあてられていいのか?というw
なんか壮大な論理上のカラクリがあって、その気にさせられているんじゃないか?と。
んなわけはないだろーがさ。

俺基準の読書リテラシー?からいくと、
そんな少々懐疑的態度を示しておきたくなったのです。
面白く読めたことに変わりはありませんが。

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