寄生虫のように奇声中帰省中(規制中)

2010年12月30日 12時42分58秒 | 巻二 起居注
何年ぶりでしょうか。
少なくとも3年以上であることは確かです。
岩手縣。今は一関市。

帰ることを躊躇する理由はいくらでも存在していて、
その問題は今もってまったく解決していないわけですが、
まあ、なんつーか、俺も不惑だしなあ。

なんとなく、小学校への通学路を辿ってみました。
ほら、犯人は犯行現場に戻ってくると言うでしょ。

この道を歩くのはおそらく四半世紀ぶりくらい。
一番感じたのは、風景がスケールダウンしていることです。
戦車模型を作る人なら必ず解ってくれるはずですが、
1/35スケールが1/48になった、という感覚が最適でしょう。

理由はたぶん単純です。
俺の身体が消防当時より大きくなり、
目線の位置も高くなった、と。
そりゃそうだってな訳ではあれ、
風景の縮こまり具合は半端じゃありません。



↑酒造会社の裏手の細道です。
セソマヤ町立(今は一関市立)セソマヤ小学校に通っていた人間(の多く)であれば、
「ああ、あそこか」というお馴染みの道でしょう。
これでも一応、学校公認の通学路です。
北側にあった専売公社の倉庫は更地になってました。

このあたり、俺が歩いていた当時から
なんとも古びた家々が立っていたのですが、
驚くことに現在もほとんどの建物がそのままでした。
ただ、人が実際に住んでいるのか、商いが継続しているのか、
その点は非常に心もとなく。



↑これこそセン小卒業生お馴染みの風景ではないでしょうか。
校舎が建つ丘の頂上へ向かう、心臓破りの坂。
当時は全然きつく感じなかったこの坂路、
アラフォー(笑)の俺には文字通り心臓破りな道でした。
ああ、懐かしす。
赤錆びた手すりも当時のままです。
スケールは例によってちゃっこくなってますが。



↑坂を登りきったところにある、わが母校。
笑ってしまうほどに当時のままです。
あ、屋根の色がランバラル色からシャアアズナブル色に。

出会った近所の小学生が挨拶してくれました。
挨拶はこの日二人目です。
躾が行き届いたもんだ、と気持ちよく思いましたが、
いや待てよ、単に「見ず知らずの不審者(変質者)」への威嚇だったりしてなw
「おっちゃんは、28年前の児童会長やで(笑)」と
心の中で君に語りかけます。
冗談抜きで怪しい人物認定。



↑さっきの坂は実は「旧通学路」。こちらは「新通学路」。
俺が在学中に切り替わりました。
こっちも、だいたい当時のまま。
坂道の途中のNTT社宅だけが閉鎖されていました。



↑新通学路の終点から。これが小学校の表側。
土俵もプールも当時のまま。
怖いくらいに何も変わっていない。
これって喜ぶべきことなのでしょうか。
この校舎、いまでもたびたび夢の舞台として出てきます。



↑新通学路を頂上付近から。
セソマヤの町が一望できます。
俺はこの道を毎日登って下って、
初恋もモデラー覚醒も、全部この丘で経験させてもらったことです。

帰り道はセソマヤのメインストリートを歩きました。
新町、本町。。
端っから分かっていたことですが、
年末のこの時期だというのに、買い物客がゼロです。ホントにいません。
ここまで寂れた一因はズバリ、
俺のような若者層がこぞって町から出て行ったってことでしょう。

懐かしくもあり、寂しくもあり、
なんとも微妙な余韻を残しつつの町内巡回。
一時間もかかりませんでした。
やっぱ確実にスケールダウンしとるな。

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2 コメント

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あけおめ (でっか~ど)
2011-01-01 19:58:46
いいじゃないか、そのまま残っているなら。
オイラの母校は廃校になるならないで市長と地域住民が喧嘩したしな。
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Unknown ()
2011-01-02 08:15:03
ことよろ

無くなってしまうよりはもちろんいい。
ただ、「一関市立」の看板見たときは
ちょっと蹴り倒したくなった。
リトアニアやポーランドの国民感情がよく解る(笑)
返信する

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