2018年7月10日
赤道付近から台湾のすぐ東に台風が接近。
予報は翌日の11日にかけて北西部を進んで大陸に向かうというものだった。
帰国日(11日)を直撃なので予定していた市内見物を取り止め、善後策の検討だ。
いろいろ考えた。
帰るのを1日延ばすか。
はたまた空港まで行くだけ行って、飛ばなければ戻ってくるか。
ホテルは予約しておくか、どうするか。
泊まっていたホテルはやはり延泊の人が多く出て、午前中には満室になってしまい、紹介して貰った台北駅近くのホテルに行ってみることにした。
11日を予約しておいて、飛行機が飛ぶことになったらキャンセル出来るかどうかフロントの女性に尋ねると、当日キャンセルなので返金は出来ないとの返事だった。
自己都合ではなく、台風という不可抗力によるものなので救済出来ないか、念のため聴いてみた。
返答は「飛行機が飛ぶ場合は一応、空港から電話してください。考えてみます。」との前向きなものだった。台湾の人は本当に優しい。
ひとまず期待して、午後から泊まっているホテルの近所を散歩した。台風の生温かい風が吹いている。
ホテルの裏は餃子、小籠包、肉饅頭などの食べ物屋が密集していた。調理しているところが通りから見える。
昼食は、これが最後かな・・・と4月にもお世話になった「牛肉うどん」にした。
隣の女性が食べている豆腐のようなものも注文してみた。歯ごたえがあったので豆腐ではなさそう。何かのパテかな。唐辛子を付けて食べると美味しかった。
由緒ありげな看板、掛け軸゛に店の古さを感じる。
外へ出ると風が強くなり小雨が混じってきた。
2018年7月11日
4月、7月に台湾で泊まってきたツーリストホテルの朝は大体、このような地元料理のバイキングだった。屋台のように香辛料は強くない。朝食付で3,500円~4,000円くらいか。
朝から台風に包まれている。
しかし、「目」の中にいるのか、風が無い。
空港に着いて、予定通り飛ぶとの案内にホッとする。警察官、警備員の姿が目に付く。
直ぐに確保しておいた台北駅近くのホテルにキャンセルを入れる。
台風の影響は殆ど無く、予定どおり離陸。
無事、帰宅してホテルの名刺のアドレスにメールすると、数日して「返金手続をするのでホテルの領収書と搭乗券を送って下さい」との返答が来た。
暫くして、指定した口座に全額が振り込まれて〝余話の〟台湾旅は終わった。
Thank you,Miss Coco さん!
桃園空港
ウクライナ戦争に絡めて〝台湾有事〟が報じられることがある。
内戦で中華民国を倒した中華人民共和国が、領土として台湾を併合しようとする動きが顕著になってきているからだろう。
ウクライナ戦争は最早プーチンよる犯罪、テロ行為であり、未然に防ぐ方法は本当に無かったのか。
台湾有事があってはならない。隣国の日本の外交に果たす役割は重大だが、アメリカの指南が無ければ何も出来ない政治家が心許ない。
2018年7月9日
MRTの美麗駅忘れ物センターで前日、電車に置き忘れた旅行ガイドブッグを受け取り、台鉄で台北へ向かった。
台北から再びMRTに40分ほど乗って、「北投温泉」に向かった。
台湾の太平洋岸には所々温泉地があった。北投温泉は台北の奥座敷の風情だ。ドイツ人によって発見され、統治時代に日本の温泉文化が入ったという。
高級ホテルのリゾート施設が多いが公衆浴場の「瀧乃湯」でかなりの熱湯に浸かった。
1923年に当時皇太子だった昭和天皇が巡行で訪れている。
台北市内に戻って、ランドマークの「Taipei 101」からの夜景を眺めた。
508mの高さがあり、5Fまではショッピングモール街、そこから直通エレベーターで89階の高さ388mの展望台へ。
夜景は値千金。
遠く、桃園空港の航空機の発着を見ることが出来た。
《台北駅裏のツーリストホテル》
台風が近づいていた。予定通り帰れるだろうか・・・。
(つづく)
2018年7月8
八田ダムのある嘉義市から台湾鉄道で高雄市に移動した。
4月の自転車旅では道に迷った"愛河の夜景"を観るためだった。
高雄市は台北に次ぐ人口約190万人の港湾都市。愛河で街が東西に別れている。
さて、今回は迷わないよう、Tax.に乗った。運転手に"愛河の夜景"の写真を見せると、「ビューポイント」がやはり分からず、車内電話で通訳サービスセンターに繋いでくれた。
案内の女性と話をして、結局、「夜景が綺麗でビールの飲める場所」に向かうことで運転手に伝えてもらった。
このような通訳サービスは韓国の釜山の地下鉄でもボランティアの人を見かけて助かったが、観光地などでは有効な方法だと思う。
スタートすると、運転手は「青春時代」を台湾語で歌い始めた。上手なので私、拍手。運転手はノリに乗って終わらない。車はどんどんビルの谷間へ・・・。
通訳センターから正しく伝わっているのだろうか。不安になり一度止めてもらい再確認すると間違いなさそうだ。
海の近くとばかり先入観を持っていたが、愛河は街中を通っているのだ!4月の失敗は思い込みによるものだった。運転手と「Bar東京」とかいう店の前で固い握手をして別れた。
川面に映る光が何とも綺麗だった。
愛河から歩いてMRTの美麗駅に寄った。
台湾鉄道とMRTのレッドライン、オレンジラインが交叉する高雄の交通の要となっている駅で、「光のアーチ天井」と名付けられたガラス天井はイタリアの芸術家が描いた絵を4,500枚のガラス版で再現している。
列車の乗り換えで行き交う人が色鮮やかな天井に足を止めていた。
美麗駅からMRTで高雄市内に入り、ビジネスホテルの部屋で気が付いた。旅行のガドブックが無い。MRTの中で見ていて座席に忘れたらしい。
ホテルフロントに尋ねると忘れ物は美麗駅の忘れ物センターに届くという。翌日、台北と北投温泉へ向かう時に台鉄に乗るので寄ってみることにした。
(つづく)
2018年7月7日
4月の自転車旅で日程的に行けなかった『八田ダム』のことを家に戻って本で読み、訪れることにした。
台北から鉄道で南下して嘉義市辺りに来ると水田が広がり、その水は『八田ダム』から引かれていたことが分かった。
正式な名前は「烏山頭(うさんとう)ダム」。
第二次大戦中に台湾総督府の技師だった八田與市氏が10年をかけて 完成させた農業灌漑施設は台湾西南部の平野を潤し、台湾の人が親日的であることの理由にもなっているそうだ。
《水上駅》
日本の新幹線車両を入れた台湾鉄道の高鉄(新幹線)に乗ってみた。
台北の傍の南港駅から高雄近くの左営駅まで1時間45分。そこから普通列車に乗り継いで北に戻り、ダムのある水上駅に着くと物凄い スコール。駅舎で晴れるのを待って、タクシーでダムへ向かった。
運転手にその旨を筆談で示すと、65才以上なら900TWDで案内してくれるという。 その理由は分からなかったが4,000円くらいか。多分、割り引いてくれているのだろう。
身振り手振りだがお互いの思いを想像し合うコミュニケーションは楽しく、生き物の原点回帰を感じる。
ダム到着まで台北を10:00に出発して4時間が経っていた。
《ダム建設作業に使用された鉄道機関車》
人跡未踏の「烏山頭」に八田與一氏がダム建設を発案したのは1920年(大正9年)。それから10年をかけて完成させた。現在のお金で5,300億円という巨費が投じられた。
台湾の農地の2割、香川県の広さに匹敵する面積を潤している。3年輪作で稲作が出来るよう精緻な給排水路が敷設されていて、その総延長は地球を半周するほどの長さという。
《八田與一氏像とご夫妻のお墓(像の後方)》
八田ダムは地元では「烏山頭水庫」と呼ばれ、今は大きな公園になっている。調査設計から完成まで携わった八田與一、外代樹(とよき)夫妻が小高い丘から珊瑚潭と 呼ばれる堰き止め湖を眺めていた。
小雨が続いていたが、ご夫婦のお墓を遠くに見つけた時だけ一瞬南国らしい暑い陽射しが注いだ。印象的だった。
『日台の架け橋・百年ダムを造った男』(斎藤充功著;時事通信社 2009年)によれば権威ある編年史の「日本土木史」に八田與一氏の功績は一行も記されていないという。
日本国内の功績ではないということか。。。であれば了見が狭く、寂しいことだ。
地元では毎年ご夫妻の慰霊祭を行っているとのことだった。『八田ダム』と言うとタクシーの運転手が親切に案内してくれたのも八田與一氏の人徳であろう。
八田與一には2男6女の子供がいた。
嘉義市の建設現場や東京、アメリカ出張で家を空けることが多く、子供を育て、家を守り、與一氏を陰ながら支えていたのが同郷金沢出身の妻外代樹だった。
昭和17年、日本軍は南方に作戦展開し、政府は資源獲得を目的として「南方産業開発派遣隊」を編成している。八田與一氏も選抜されるが、知識と技術に加え、土木屋を使いこなす能力を高く評価されたことが後の悲劇となった。
マニラに向けて乗船した「太洋丸」が同年5月8日の夜に五島列島沖合で魚雷により撃沈され殉職する。
享年56歳。その後、妻外代樹が『八田ダム』の周辺を散策する姿が見られたという。
終戦の9月1日未明、外代樹はひとり宿舎を抜け出しダム放水口へ向かった。紋付き白足袋だった。
机の上に「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹仲良く暮らしてください。」と書かれた便せんの遺書があったという。
因みに八田與一氏を育てたのは道庁技師から東京帝大工学科教授に転じた広井勇である。道内の港、鉄道工事に数々の業績を残している。
農業の分野は違うけれど遠い先人の志と質の高さに触れた「八田ダム」だった。
「太洋丸」の写真
妻外代樹が身を投じた「放水路」
2018年4月の台湾一周自転車旅で行きの日程を変更した時のこと。
LCCから返金を受けてチケットを取り直そうとしたら、返金分が新千歳と台北の便に限って使えるポイントで支払われた。日本円にすると約16,000円、有効期間は180日だった。
〝往復で半額近い運賃になる〟という気にさせる。逃すのも何だか勿体ない気にさせる。なかなか考えている。
妻はエスニック系の食べ物はダメなので、これ幸いと?
7月にザックひとつで2度目の台湾旅に出た。
目的地は4月の旅で日程的に行けなかった「八田ダム(烏山頭ダム)」、道に迷って観ることが出来なかった〝東洋のベニス〟こと高雄の「愛河」の夜景、そして台北近くの「北投温泉」などにした。
7/6-11の1週間、自転車旅とは違って日没と宿の確保を気にしない旅だった。
軽装だったので、戻ってきた時に新千歳空港の税関で「どちらへ?何日?」と聞かれた。
ひよっとして怪しまれたか・・・(笑)。
7月6日
4月にもお世話になった台北駅近くのツーリストホテルに再び泊まった。
到着した日に懐かしいスタッフお二人に再会した。
(つづく)
優しく親切な人々。お祭りの屋台のような夜市。エスニックな料理。
大陸側の古い街並みと太平洋側の岩と海。日焼けを2回繰り返した亜熱帯気候。
「環島」も終幕だ。
出会った人々は、中国が掲げる“国家統一”を望んでいなかったと思う。
軍事アナリストの小川和人氏は兵員の海上輸送という科学的根拠から「中国の侵攻はあり得ない」と断言している。
そうあって欲しい。
与那国島と台湾の距離はおよそ110Km、台湾海峡の有事は日本の有事になるのは間違いない。
自分は台湾の観光客にこれほど親切に応対してきたか、平和な台湾であるために日本のやる事は何か、
軍事力ではない。
隣国を思う心と悲劇の未然防止は外交しか無いことはウクライナ戦争が改めて示している。
2018年4月19日
いよいよ4月1日に始めた「環島(ファンダオ)」も帰国の途へ。
息子のいる福岡へ飛び、九響の年度初めの定期演奏会を聴くことにして20日の台湾のLCC(Tiger Air)のチケットを予約しておいた。
20日の飛行機が早朝なので今日は桃園国際空港泊まりだ。そして、、、ハプニングが。
4泊した台北のツーリストホテルの朝食。作ってくれた青年はパリの芸術専門学校の卒業生で、風貌も控えめな性格も日本人のようだった。お世話になり名残り惜しかった。
台北駅構内を自転車を押してMRT乗り場へ。改札口に親切な人がいて切符の自動販売機の使い方を教えてくれて、駅の係りの女性は乗り場ホームまで案内して下さった。最期の最後まで台湾の人の親切心に触れた。
自転車を輪行袋に入れて10:30に出発。
11:00に空港到着。出発ロビーの人通りの少ない場所の壁際に輪行袋とサイドバッグを置いて地下のレストラへ昼食に出かけた。
群馬のご夫婦と一緒になった。
台湾を鉄道とバスでほぼ一周したとか。やはり「千と千尋」の九蓮と渓谷の花蓮が印象深かったという。
久し振りの日本語会話で話しが弾んだ。笑
良い気分でお土産を選んだり、為替窓口に行ったりして2時間ほど経って出発ロビーに戻ってみると荷物が無い!!
盗まれたか、いや、あんな重たいものを誰も持って行かない。などといろいろ想像を巡らす。
兎に角、空港案所所に行った。ところが、日本語も英語も話せないという。そんなバカな。。。
途方に暮れていると、日本語の分かる人に電話を繋いでくれた。
「空港の地下に警察があるのでそこへ行ってみて下さい。」とのこと。
恐る恐る尋ねて警察官に話すと、「自転車はここにある。放置されたままなので不審物として保管している。」とのこと。
良かったぁ!
パスポートを見せ、中国語で何か書かれたA-4版の書類に「サインせよ。」と言うので恐る恐るサインをしたら荷物を渡しくれた。
確かに空港には多くの警察官、民間警備の人が巡回していた。やはり中国との緊張感が漂う。
これは夜も何かありそうと心配しながら到着ロビーのソファーで寝袋に潜った。
2018年4月20日
何事も無く朝を迎えた。
特に問題無く出国。
さようなら台湾!
搭乗待合室へ。早朝6:30発なので空港シヨップはまだ寝ている。
桃園国際空港。
定時に離陸。
眼下に台北の街が見える。機内食は予約制でチキンを頼んでおいた。ずっとワイルドなエスニック料理だったので上品な味がした。
空いていたので座席の肘掛けを立て、ひと眠りしていたら通路に飛び出していた足を蹴っとばされて??
目が醒めた。
体躯の良い女性客室乗務員だった。笑
福岡の能古島辺りのような感じがしたが・・・。高度が下がり、間もなくだ。
10:00福岡国際空港に着陸。3時間30分のフライトだった。
出迎えてくれるという福岡在住のFさんに電話すると、直ぐに現れた。Fさんは九州自転車旅で出会った82才の現役チャリダー。北海道にも来ている。
老舗の鯉料理屋さんに案内してくれて、カンパイした。安堵感がビールとともに身体に広がった。
台湾で出会った皆さん、有り難うございました。 お終い。
(実は、この夏にもう一度台湾へ行きました。ザックひとつで悲話の残る「八田ダム」を見に。いつか書きます。)
PS.ウクライナ戦争が2月24日に始まって41日目。
ロシア軍がキーウ周辺から撤退して、凶悪で凄惨な戦争犯罪が顕わになっている。
この戦争を指揮しているプーチンに、「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」
「ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」
と呼びかけて北方領土を消滅させたこの国の元リーダーのことも忘れない。
2018年4月18日
淡水河が台湾海峡の北部に注いでいる淡水地区にサイクリングした。夕陽の美しさが有名だ。
距離25Km。二日振りに自転車に乗った。
ところが“環島”が終わった気の緩みか?道に迷ってしまった。結局、途中でホテルに引き返して夕方にMRT(地下鉄のような乗り物)で出直した。
♫ この木なんの木 気になる木。。。
木陰で休んでホテルに引き返した。淡水河は台湾で3番目に長く、川幅もゆつたりと広かった。
夕方まで時間があるので台北市内を自転車散歩した。
台湾総督府。
警備は軍隊だろうか。建物玄関と植え込みの中にもマシンガンらしき銃を構えた数人がいた。
さすがに中国との緊張関係を感じた。
台湾鉄道の台北駅。ロビーには大勢の人が床に座って列車を待っていた。
《台北駅の傍の「三越」》
夕方になったので、MRTで淡水へ。30分くらいで着いた。
左;「淡水老街」 淡水河岸の土産物店と飲食店がぎっしり並ぶ観光名所。
中;「紅毛城」 17世紀にスペイン人が建て、その後オランダ人(紅毛)のものとなり、1980年に中華民国の所有になった。
下;大きな大学があた。学生と観光客で道路が溢れていた。(「真理大学」というらしい。)
大勢の人が見入っていた。曇空だったけれど何とかセーフだった。
ホテルに戻る途中、夜市で有名な士林で下車し、屋台で晩飯を食べた。
明日は入国時と同じく、桃園空港に1泊して早朝の便で福岡空港へ向けて帰国する。
台湾一周旅は4月1日の入国時に管理官に引き留められるというハプニングがあったが、出国時にもハプニングが・・・。
(つづく)
PS.政府は31日、ウクライナの首都の読み方をロシア語のキエフ(Kiev)からウクライナ語のキーウ(Kyiv)に変更すると発表した。
ロシアの作曲家ムソルグスキーが友人の死を悼んで作った組曲『展覧会の絵』の最後に登場する「キエフの大門」もこれからは「キーウの大門」か。
名前が変わっても音楽に国境は無い。
《セルジュ・チェリビダッケ(1912-1996 ルーマニア)指揮/ミュンヘン・フィルハーモニー交響楽団 1989》
チェリビダッケは第2次世界大戦後のドイツで、フルトヴェングラーの後任として名門ベルリン・フィルハーモニー交響楽団を率いた。
その演奏は、極端に遅いテンポと厳しい練習によって生み出される荘厳で聖なる建築物のような音楽を特徴としていたという。
首席指揮者を務めたミュンヘン・フィルとの『展覧会の絵』は名演奏のひとつとのこと。
キーウは綺麗な街のようだ。ウクライナが破壊され尽くされないことを祈るばかりだ。
2018年4月17日
「国立故宮博物院(1965年開館)」と「台湾原住民族博物館」を見学した。
台湾はMRT(地下鉄)が便利良く走っていて、「国立故宮博物院」は淡水線の「士林」駅からバスで10分ほどで到着した。
さらに3分ほど歩くと「台湾原住民族博物館」があった。
「国立故宮博物院」は、宋、元、明、清王朝の歴代宮廷が所有した至宝を中心に約69万点 が収蔵されている。ルーブル、メトロポリタン、エルミタージュと並んで 世界四大博物館の1つに数えられ、全てを見るには10年以上かかるとか。
「故宮」とは宮殿のことで、北京の「紫禁城」を指すとのこと。
何故、台湾にあるのか・・・、年月を掛けた歴史があった。
中国最後の清王朝が崩壊後、北京の「紫禁城」に保管されていた歴代王朝の宝物は、中華民国に継承されたが、その後、日本軍の中国侵略が激化すると、上海、南京の奥地に分散して隠された。
その後、第二次世界大戦終結後に当時の中華民国首都である南京に戻ったが、1949年に国共内戦で国民党政府が敗北し、率いていた蒋介石が台湾へ逃亡する際に宝物も一緒に台湾に渡ったというわけだ。
《翠玉白菜》
清の時代に天然のヒスイを彫り上げて作られた白菜のオブジェ。二大名宝のひとつ で、皇帝の光緒帝の妃の嫁入り道具 だと考えられている。
サイズは、高さ18.7cmと実際の白菜よりもかなり小さく作られていて、緑の葉の部分には子孫繁栄の象徴であるキリギリスとイナゴが彫られている。
《毛公鼎》
鼎(かなえ、てい)は、なべ型の胴体に3本足がついている中国古代の青銅器。故宮博物院にある毛公鼎は、約2800年前に製造されたと伝えられている。内側には500文字あまりの銘文が刻まれ、 現存する青銅器の文章では最長の歴史的価値のある展示物。
《珊瑚と彫刻》
《鏤彫象牙雲龍紋套球》
精妙な彫刻が施された象牙の球体。 内部は24層に分かれており、彫刻が施されたそれぞれの層も回る仕組みになっている。一本の象牙から彫られている、120年かけて完成した、など諸説あり、制作方法や詳細は不明の不思議な秘宝!
故宮博物院敷地内に併設された広東料理のレストランで牛麺と春巻きの昼食。容器が宝物の「毛公鼎」と同じデザインだった。
《台湾原住民博物館》
台湾原住民博物館は台湾初の原住民をテーマにした博物館。駆け足だけれどアミ、タイヤル、パイワンなどの原住民族の歴史、生活、文化を知ることが出来た。
写真にアイヌのムックリにそっくりな楽器が写っていて驚いた。
台湾島が大陸と繋がっていた時代に先住民族が渡ってきて、その後、地殻変動で今のような島になったと推測されている。
その後は大陸と船で行き来をしていたらしい。
織物はどこかオロッコ、ギリヤークなどの北方民族の雰囲気を感じた。渦巻き状のアイヌ文様は無い。
一日いっばい、二つの歴史館を見学して暫くぶりに歩いた。
ホテルに戻り、晩飯は近くの食堂で本場の美味しい餃子を食べた。
台北も残り二泊になった。
(つづく)
2018年4月16日
映画『千と千尋の神隠し』のイメージ舞台となった九份と、直ぐ近くのかつてゴールドラッシュで賑わった金瓜石に出掛けた。
台北駅から台鉄の急行に乗って45分の瑞芳駅で下車し、バスに乗って九份に向かう。
九份の観光名所。映画『千と千尋の神隠し』の“湯屋”が出現!
駅から吸い込まれるように観光客が歩いていた。喫茶店、レストラン、飲食店などが集まったビル。
九份は山の斜面に金鉱時代の名残の2本の道路があり、今はお土産店、食べ物屋が軒を連ねている。
前を歩く観光客の中に半月振りに日本語を聴いた(笑)。サラリーマン3人組。仕事のことがアタマに残っているようだった・・・。
海の見える喫茶店でひと休み。眼下に大きなお寺があった。自転車で通過しなかったが海方向が基隆の街になる。
バスで10分ほどの金瓜石に向かう。
1910年頃、日本最大の金山が金瓜石で、第2位が牡丹坑、第3位が佐渡金山、第4位が瑞芳鉱山だったという。佐渡以外は台湾だったことを初めて知った。
金瓜石(きんかせき)は、1896年頃(明治27年)には6,000人が働いていたという。戦争の捕虜も含まれ、過酷な労働で命を落とす人も多かったという。
エリアには黄金博物館、環境館、太子賓館、本山五坑、 錬金楼、生活美学体験坊などの施設があり、鉱業文化を伝えている。
自分が炭坑育ちなので懐かしさがあった。
日本統治時代の影響か、日本式の金鉱職員用と思われる住宅。
太子賓館。
1922年、当時皇太子だった昭和天皇が台湾を行啓するのに合わせ建造されたが立ち寄ることはなかった。釘を1本も使わない優雅な日本家屋で、敷地面積360坪、戦後は、国民党の高官などが別荘として利用した。
世界第2位の金塊220.3Kg(第1位は静岡県土肥鉱山の250Kg)。
台湾ドルの時価表示がされこの日は12億6,000万円ほどか。宝くじに2回当たると買える。笑
横の穴から手を入れて触れることが出来る。
夕方、台北のホテルに戻った。
(づづく)