屋外のジンギスカンはこれ迄の人生の節目のような時期に想い出を刻んでくれている。小学校に入る前に江部乙(滝川市)のリンゴ園に父に連れられて行ったのが生まれて初めてのことだった。父の職場の行事だったと思う。
「ニンニク」、「ニンニク」と周りの大人が言うものだから、焼いているのがニンニクという「肉」だと思い聞くとリンゴがなった木の下に大爆笑が起きた。父も江部乙のリンゴ園も父の勤めていた職場も今は無い。遠い想い出だ。
大学のラグビー部のは凄ましいものがあった。近くを流れる小さな「売買川」の畔で、新入部員の前に焼酎の一升瓶が立てられ、回ってきた先輩が減り具合を見て寮の食堂のでかい丼に注いで行く。
全員がダウンして終了。農場のトレーラーにマグロのように並べられて寮に運ばれ、新聞紙を敷いたベッドに素っ裸で寝せられていることに朝方になって気がついた。
半年くらいジンギスカンと聞いただけで吐き気がした。今は道内の各大学ともこのような危険なことは禁止しているが不思議に重大な事故は無かった。
就職して地方勤務の時に山間の酪農家の庭の桜の木の下でジンギスカンをすることになって、入植した頃のアルバムや苦労話、経営の将来計画、子供さん達のことで時間も忘れて話し込み、そのまま泊ったことがある。古き良き時代だった。
30才の時に札幌勤務になって、仕事を終えた夜の9時頃に急に係長、係員で円山公園に夜桜見物に出掛けたことがあった。古新聞と竹輪、缶ビールを携えて地下鉄に乗った。
「今度、休日の昼にジンギスカンをやろう。」ということになった。居酒屋の飲み会とはまた違った日常の様々なことも話題になる愉快なコミュニケーションの場になり、OBになってからもコロナ前まで年中行事で続いていた。
長い冬が明けて桜の木の下で季節の開放感を味わいながらソウルフードのジンギスカンで酒を飲むというのは北国北海道の文化だと思う。
ジンギスカンはかつて牧羊場であった旧・道立滝川畜産試験場(現・花野菜技術センター)の人たちが炭火の上に石炭ストーブのロストル(燃焼室の中仕切り)を置いて老廃羊の肉を焼いて食べたのがルーツであると職場の先輩から聞いたことがある。
やがて、同じ滝川市の「松尾ジンギスカン」が商品化した。オーストラリアからの輸入羊肉を特産のリンゴと玉ねぎを使ったタレに漬け込んで、独特の鍋で焼くというスタイルが定着した。
札幌市は今年から円山公園でのジンギスカン花見を禁止することに決めたと新聞が報じた。
静かに桜を愛でたいのに折角の香りがジンギスカンの煙でかき消される、酔っぱらいの喧騒、ゴミの不始末などが理由という。
コロナ禍が明けて1年は期間限定で許可していたが、これからはもう出来なくなる。
さすがに我が家の昔タイプのジンギスカン鍋はもう何年も使われていないので錆だらけである。昔の鍋は炭の遠赤外線が肉に届き、脂も適度に炭火に落ちるように鍋に切り込みがある。
〝煙もうもう〟になるので野外か焼肉店でしか食べられない料理だが、今の鍋は切り込みは無く、匂いはさておき煙はさほどでもないように改良されている。
新聞記事のアンケート調査では6割が禁止に賛成、反対は1/4と劣勢だ。「文化が消える思い。」というご意見があった。同感である。
冬を控えて職場グループなどで紅葉を見に温泉などに出掛ける「観楓会」も死語になりつつある。
近年、地域社会を形作ってきた「お祭り」が消えかかっているように思う。
野外のジンギスカンは花見に限らず地域の人が集う「お祭り」ではないか。
人の集りが疎遠になるのは地域社会の繋がりの衰退も招き寂しいことだ。
ジンギスカン花見もいきなり〝永久禁止〟にするのではなく、楽しみにしている人達にも配慮が必要だったのではないか。
こんなことを言うと怒られそうだが、ゴミ箱が少なくはなかったか、今の若い人の飲み方はお行儀も良さそうだし、広い神宮境内には桜の香りを楽しめるエリアもあったように思う。勿論、看板等によるマナーの徹底は必要である。
人の繋がりが希薄な社会は深刻なことであるが、〝円山ジンギスカン花見〟という道産子の文化、風物詩が静かに消えてゆくのを待っても良かったのではないか、新聞記事を読んでそう思った。
河川敷道路のエゾヤマサクラと辛夷 2024.4.27