楕円と円 By I.SATO

人生も自転車も下りが最高!
気の向くままに日常と趣味の自転車旅を綴ります。

『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -15(台北周辺 1) 

2022年03月31日 | 環島

 

 

2018年4月16

 

映画『千と千尋の神隠し』のイメージ舞台となった九份と、直ぐ近くのかつてゴールドラッシュで賑わった金瓜石に出掛けた。

 

 

台北駅から台鉄の急行に乗って45分の瑞芳駅で下車し、バスに乗って九份に向かう。

 

 

九份の観光名所。映画『千と千尋の神隠し』の“湯屋”が出現!

駅から吸い込まれるように観光客が歩いていた。喫茶店、レストラン、飲食店などが集まったビル。

 

 

九份は山の斜面に金鉱時代の名残の2本の道路があり、今はお土産店、食べ物屋が軒を連ねている。

前を歩く観光客の中に半月振りに日本語を聴いた(笑)。サラリーマン3人組。仕事のことがアタマに残っているようだった・・・。

 

 

海の見える喫茶店でひと休み。眼下に大きなお寺があった。自転車で通過しなかったが海方向が基隆の街になる。

 

バスで10分ほどの金瓜石に向かう。

 

 

1910年頃、日本最大の金山が金瓜石で、第2位が牡丹坑、第3位が佐渡金山、第4位が瑞芳鉱山だったという。佐渡以外は台湾だったことを初めて知った。

金瓜石(きんかせき)は、1896年頃(明治27年)には6,000人が働いていたという。戦争の捕虜も含まれ、過酷な労働で命を落とす人も多かったという。

 

エリアには黄金博物館、環境館、太子賓館、本山五坑、 錬金楼、生活美学体験坊などの施設があり、鉱業文化を伝えている。

 

 

自分が炭坑育ちなので懐かしさがあった。

 

 

日本統治時代の影響か、日本式の金鉱職員用と思われる住宅。

 

 

太子賓館。

1922年、当時皇太子だった昭和天皇が台湾を行啓するのに合わせ建造されたが立ち寄ることはなかった。釘を1本も使わない優雅な日本家屋で、敷地面積360坪、戦後は、国民党の高官などが別荘として利用した。

 

 

世界第2位の金塊220.3Kg(第1位は静岡県土肥鉱山の250Kg)。

台湾ドルの時価表示がされこの日は12億6,000万円ほどか。宝くじに2回当たると買える。笑

横の穴から手を入れて触れることが出来る。

 

夕方、台北のホテルに戻った。

 

(づづく)

 

 

 

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -14 (花蓮~宣欄~台北)

2022年03月29日 | 環島

PS.ウクライナ戦争開始34日目。

プーチン大統領は妥協する考えはない。ゼレンスキー大統領はウクライナの中立化と東部ドンバス地方を巡って譲歩の用意がある。

何らかの間を取り持つ知恵が無ければ堂々巡りだ。その間にも死者が増えて行く。

今日(29日)からトルコで実務者の対面による停戦交渉が始まる。

それにしても「プーチンさん」は適当ではない。いまだに軍事評論家、政治部記者の中にいる。

 

 

2018年4月14

 

 

花蓮から宣欄までの100Kmは落石の危険箇所があり、狭いトンネルも多いようなので鉄道輪行した。

駅窓口に「花蓮→宣蘭」と書いた紙を出すと切符を出してくれる。運賃は日本円で650円、自転車(自行車)350円程度だった。

駅の階段には自転車用のスロープが必ず整備されている。

 

 

この車輌は中央の柱に自転車を固定する方式だった。日本もこれなら直ぐに出来るのにと思うが、お客さんの迷惑そうな顔が浮かぶ。衣服を汚すかもしれないしなぁ。

宣欄駅に13:00に到着。何故か恐竜のモニュメントが。

 

実は間違って南墺という駅に途中下車してしまった。待合室に毎日来るという68才の面白いオヤジさんがいた。日本人だというので興味があったらしく、お互いに適当な英語であれこれ話をして次の列車までの時間潰しをした。

今日は宣欄に泊まってその後は台北に行くと言うと、北部にはきつい山道があって引き返してきたサイクリストを何度もこの駅で見てきたという。ビビッた。

南部の山越えも結構キツかったが、結局、予定どおり宣欄から自転車で山を越えることにした。

 

 

宣蘭の街のお寺の前に何と「今川焼き」の出店があった。日本が統治していた時の名残だろうか。

ウィスキーが有名なので醸造所に行ってみたが観光客で混雑していて、お土産コーナーを覗いて直ぐに温泉付き旅店に入った。

 

 

温泉風呂の排水が悪くて部屋を変えてもらった(笑)。

熟睡。

 

2018年4月15

 

8:00 雑貨屋の店先のようなフロントで人の良さそうな主人に別れを告げて、いよいよ「環島」ゴールの台北に向かった。距離60Km。山あり(笑)。

 

 

それほどキツイ上りも無く、台北まで8Kmの地点まで来た。山中で何かの会社を経営しているという中年ライダーと一緒になり、ハンバーグ店に入る。

「中国人は嫌いだ。日本人は好きだ。」と言ってくれた。


店で別れた人に台北市内の入り口で再会し、道案内をしてくれた。

本当に台湾の人は親切だ。

 


台北市街の入り口。古い建物が目に付く。市内の自転車置場。最初は何かと思った。圧倒される。

 

  


メロン 1個120円   リンゴ 90円  パイナップル 230円       

 

《中央広場の「大中至正門」;蒋介石の死後、崇拝の影響を除去するために1980年に完成した》

 

16:00 台北駅近くのツーリストホテル着。

 

外観に比べて中は綺麗だった。

スタッフの若い女性が日本語で玄関ドアのロックキーの使い方や洗濯室、食事時間のことなどを分かりやすく説明してくれた。

 

《Taipei101;台北のランドマーク、高さ508m》

 

台北に無事到着して、4月1日に桃園空港から逆時計回りの台湾一周(距離凡そ900Kmうち、約200Kmは台湾鉄道による輪行)を始めた「環島(ファンダオ)」はひとまず無事終わった。


日本人に一人も出会わなかった のは意外なことだった。最後の宣蘭から台北までの 60kmの山道で初めて雨に当たったが、名残惜しさがこみ上げ少し感傷的になった。

 

台湾島は南北は山間、西側は大陸との歴史を留める古い街並み、 そして東海岸は岩場と白波、それぞれ特色ある風景を楽しませてくれた。

旅を支えてくれたのは台湾の人の親切さと身体を刺激する屋台のエスニックな料理だった。

 

台湾島、有り難う!!

自分に加油(ジャヨウ)!!

 

明日から3泊して台北市内と周辺をぶらぶら日帰り観光だ。

(つづく)


オリンピック記録映画にも疑惑

2022年03月27日 | 日記

「反対派の意見をしっかりと取り入れて映画に描くのはスタッフの中でも共通認識。あのような事実と違う描き方をされたことが信じ難いことです。」

 

新聞報道によれば、昨年開催された東京オリンピックの公式記録映画の総監督を務める河瀬直美氏が24日に開いた記者会見で、映画を選手を描いたものとスタッフ・ボランティアを描いたものとの2部作にすることを発表し、上記の発言があった。

 

「あのような事実と違う描き方」とは、昨年12月に放送されたNHKBSの『河瀬直美が見つめた東京五輪』の中で、五輪反対デモに参加した男性が金銭で動員されていたとする事実と異なる字幕を付けたことを指す。

 

ストンと落ちない。

 

これだけのタイトルを付けたドキュンタリーの制作プロセスに、河瀬氏が何も関わっていないことは考えにくいからだ。

それを暗示する本人のツィートも残っている。

 

放送直後に視聴者からのクレームがあり、NHKは内部調査も行ったが報告書を読んでも「誰が何故に」が抜けているし、デモに参加したかどうかの本人確認が制作スタッフの思い込みによる怠慢として片付けられている。

そのとおりだとすると余りに杜撰だ。

 

河瀬直美監督の映画『あん』を観て感動したが故に、映像作家として一点の曇りも無い冒頭の発言なのかどうか、気になるところだ。オリンピックが様々な疑惑に包まれ、本来の姿を失っているからなおさらのことである。

 

缶コーヒーのコマーシャルではないが、この国では全ての疑惑がうやむやになって忘れ去られる。

残るは進行中の放送倫理検証委員会の審議だけになった。

 

 

 

 


ペナントレース開幕 !

2022年03月26日 | 日記

 

日本ハムファイターズの2022ファンクラブに継続加入をしたらファンクラブカードとともに、ケース入りの記念ピンバッジが送られてきた。

新しいカラーのロゴが入っている。紛失しないように本箱に飾っている。

 

どうやら15年継続に対する感謝らしい。ファイターズが北海道移転して18年目になるので、結構長いことになった。

最近は球場に足を運ぶことも1~2回になって、退会しようとPCで手続していると、最終画面で「本当に退会しますか」という確認画面が出てきて思い留まったこともあった(笑)。

 

故郷の炭坑の西芦別(三井芦別)にノンプロチームがあった。小学校から帰るとランドセルを放り投げ、球場に練習を見に行っていた。迷わず中学で野球部に入った。

どこのチームでも球場で観れれば満足だ。TVはアングルが決まっていて飽きてしまう。

 

ファイターズが北海道に来た頃はスタンドはガラガラだった。目の前をヒルマン監督が通訳を伴ってお客さんにお礼を言いながら歩いて行ったこともあった。凄い人だと思った。

その後、日本一になったので札幌市内のパレードの日に紙ふぶき、テープの後片付けのボランィアに行ったことが懐かしい。

 

昨日(3/25)の開幕戦はソフトバンクに一発でひっくり返されたが、BigBossのファイターズが楽しみだ。記念のピンバッジを見ながら、今年は少しは観に行こうかなと思う。

 

そういえば、ある時、新庄はなかなかセンターの守備位置に就かず、場内がザワついたのを見計らってベンチから飛び出し拍手喝采を浴びたことがあった。

彼は根っからのエンターティナーだ。ガンバレ!!

 

《ご当地、九州交響楽団よる国歌演奏》

コロナ対応で弦楽器だけの演奏を初めて聴いた。息子は管楽器なので残念がっていた。

 

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -13 (花蓮 太魯閣渓谷)

2022年03月24日 | 環島

PS.昨日(3/23)のゼレンスキー演説は日本を研究し尽くし、答案の書けるような優しい問題を出す先生の優しさがあった。

「日本は休戦調停に積極的に動いて欲しい」と言われたら・・・雁首を揃えた国会議員センセイはホッと胸を撫で下ろしたことだろう。裏を返せばあまり期待はされていないということか。。。

今日、ウクライナ戦争は29日目を迎えた。アメリカの特殊部隊はどこにいるのだろう。

 

 

 

2018年4月13

 


前日、到着した花蓮のホテルでフロント男性が電話で話してきたことは、廊下に消毒液を噴霧したばかりなので、30分は室外に出ないで欲しいということであったらしい。後で別のフロント女性にゆっくり英語で話して貰って分かった。

 

朝食でバイキングの野菜をたっぷり食べる。旅行中のアメリカ人ご夫婦が一緒だった。世界旅行らしかった。

 

 

9:00   バスで日帰りの太魯閣(コロコ)渓谷観光に向かう。太魯閣渓谷は地震が多く、前年にも国際的なニュースになる巨大地震が発生して、市内の大きな建物が倒壊した。

渓谷は落石による人身事故も起きていたので自転車はやめて、バスで久々に休養することにした。

 

《観光Hpより》

 

 

太魯閣渓谷は花蓮県北部の国立公園で、2,000m級の険しい山々に囲まれた大理石の峡谷だ。川が削って出来た切り立つ断崖絶壁にへばりつくように道路が走っている。

人力だけの難工事は3年10カ月を要し、212名が殉職したという。 人間の底力は凄いものである。

 

《資料館》

「タロコ」とは台湾原住民タロコ族の言葉で「連なる山の峰」の意味という。台湾の中でも人気の観光地になっている。

かつては山中に79の集落があったそうだが、日本の統治下に置かれ、戦後になると彼らはこの地を離れていった歴史がある。

 

 

見物には徒歩の場合は 20km、5時間かかる。 危険箇所ではヘルメット着用が義務付けられていて、有料貸し出しがされていた。

    

 

トンネルにはノミ跡が残っている。

 

 

ヘルメット無し。

 

 

いたるところに岩ツバメの巣穴がある。

 

 

 

所々にお寺があって、郵便局に尼さんがいた。

 

 

走らないので昼食はこれのみ。牛シチューのようなものだった。

 

 

下流の方には浸食されていない中州に元の景色が残っていた。

 

 

昼が軽かったので、夕食はしっかりと摂った。台湾に来て初めて小籠包を食べた。肉の炒め物には常にほうれん草のような野菜が入っている。

 

桃園空港からの「環島」もゴールの台北まで残り160Kmほどになった。花蓮からウイスキーで有名な次の目的地・宣欄までの100Kmは落石の危険箇所があるため鉄道輪行した。


つづく)

 

 


フィンランディアを聴いた

2022年03月23日 | 日記

        

シベリウス(1865-1957)の交響詩『フィンランディア』を久し振りに聴いた。

 

1917年に独立するまで100年以上にわたり、帝政ロシアの圧政に苦しんでいたフィンランド。

愛国心を掻き立てるというので帝政ロシア政府が演奏を禁止したという。

 

冒頭の重厚で陰鬱な旋律、徐々に高まる緊迫感。

途中の勝利を祝うかのようなメロディーは“フィンランド賛歌”と呼ばれ、「第二の国歌」と言われている。

自由を勝ち取るためにどれだけの犠牲が払われたことか。

 

ウクライナのゼレンスキー大統領は戦時下にあって、『フィンランディア』と重なるような人の魂を揺さぶる演説を続けている。

今日、極東の日本に向けて何かを訴える。


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -12 (台東から東海岸を北上)

2022年03月22日 | 環島

PS.昨日は春分の日。ウクライナ戦争開始27日目。何か重苦しい日々だ。TVに軍事アナリストばかりが登場し、「プーチンしか止められない」とコメントする異常さ。バイデン大統領がヨーロッパに行く。何も出来なければ彼も歴史に汚点を残す。酷でも何でも無い。それがアメリカ大統領なのだと思う。

 

 

2018年4月11

 

 

台東から台湾島の東海岸をひたすら北上する。太平洋を見ていると、この先に日本があるのだとふと思う。山が海に落ちる風景は北海道の桧山の大成海岸、日高の海岸に良く似ている。

 

 

 

アイスコーヒーを飲む。晩飯の時の缶ビール以外は水しか飲まないので甘い。

 

 

 

所々に椰子ジュースを売っている店がある。椰子のココナッツは濃厚なクリーム。店の女性は3才の時に大阪にいたとのことだった。

「美味しい」は台湾語で「ホーチャ」と言うと教えてくれた。その後は、ホーチャ、ホーチャと活用した

 

 

「阿蘇のあか牛」のルーツか。台湾で牛が飼われているとは知らなかった。台北で食べた角切りの牛肉がたっぷり入ったうどんは旨かった。

 

台東から80kmほど走ってきて、長濱という街に着いた。"旅社"の看板が目に入ったので飛び込みで泊まることにした。

 

 

 

嘉義の旅社のおばちゃんは日本語が分かったが、ここは全くの身振り手振り。話しは通じた。おばちゃんに台湾バナナをひと房も貰った。

産湯に丁度良いくらいの小さなタイル張りのバスタブが付いていた。汚れを落とし、 夕食に出た。

 

 

 

お祝い事があったのか、親戚縁者らしき集まり。台湾は外食の文化だ。壁に日月潭の土産店にあった蓑笠が掛かっていた。

 

 

 

 

ずっと屋台のエスニックだったので入口の魚や野菜に期待して食堂に入った。何とイサキの刺身!炒飯も旨そう。 野菜炒めも身体に優しそうだ。 

食べ物屋では「ジャパニーズ」と断って人が食べている品を指差す。台湾の屋台、食堂に酒類は殆ど置かれていないが、この店は違った。 暫くぶりの台湾ビール。

隣のグループに「レモンの輪切りを入れて飲むと旨いよ」と勧められた。

若い店主がテーブルに来てくれて、身振り手振りで意気投合。

爆睡。

 

2018年4月12

 

6:30 コンビニで用意した朝昼兼用の オニギリ、牛乳、果物、そしておばさんのバナナを持って、太櫓閣(タロコ)渓谷のある花蓮を目指して出発。およそ90km。

 

 

 

飛び魚が獲れるようだ。

    - 石梯という海岸で飛び魚を裂く女の背に南国の汗 -

 

 

黒潮は泡立つのか?

 

 

 

北回帰線の標塔。大陸側を南下していた時に嘉義市で通過した。ここは太平側の花蓮県の豊浜にある標塔。台湾島をほぼ半分に分けている。

 

 

 

休憩。

 

 

16:00  花蓮(ファーレン)に到着。

台湾に来て、初めて通常の?ホテルに泊まった。

 

久し振りに部屋のTVを見ると、見たことの無い日本人がよく登場する。日本に戻って、当時の福田財務次官のセクハラ疑惑のニュースだったと分かった。

台湾は蔡英文総統はじめ、政治家らしき人物の地方視察などの映像がしきりに映る。

野球中継も多く、先住民族の歴史や活動を伝える専門チャンネルが興味深かった。

 

荷物を解いていると、フロントの台湾男性から殆ど聞き取れないかん高い英語の電話が入った。「ここには滞在できない!」と怒られているような・・・。

そんなこと言われても。

(つづく)

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -11 (南端から台東へ)

2022年03月19日 | 環島

バイデン米大統領と習近平中国主席との電話会談は平行線。台湾も議題に。

 

 

 

2018年4月10

 

 

山の中の貸別荘に一人で寝るのはちよと気味が悪く心許なかったが、上り道で疲れていたのか、ぐっすり寝た。朝、明るくなって周りを見ると将に山の中のポツンと一軒家。笑

原住民のおばちゃんを待ったが現れないので、鍵を指定された場所に置いて7:00に出発した。

 

  

 ≪台湾のサイクリスト≫


引き続き上り道。頂点付近で太平洋がちらりと見えた。何人かの環島ツーリストに出会う。

 

 

 

山の終わり付近に警察署。前日に出会った地元の環島サイクリストによると山中でいよいよの時は泊めてくれるとのこと、さすが環島の盛んな台湾である。

やっと「台東」の道路標識が出て来た。

 

 

 

原住民の自立生活支援のためと思われる観光施設や文化伝承施設が多い。再び山の中に入ることになるのでパスした。

 

 

遠くに台東らしき街が見えてきた。

 

 

台東の街の手前に大きな川が流れていた。

 

15:00 頃に台東市街に到着。100Kmくらいあっただろうか。

台湾島は太平洋岸に軍事基地が多いと聞いていたが、山が海岸に落ちる北海道に似た風景の中に1カ所だけ軍事施設の入り口らしい標識に気付いただけだった。

 

TWDが無くなったので台東市街で為替銀行を探すことにした。

交差点で隣に止まったバイクの女性に訪ねると、Follow me !と銀行を2カ所案内してくれた。

営業時間を過ぎていて、結局、セブン・イレブンのキャッシュサービスを利用した。別れ際に尋ねると台東大学の学生だった。

ここでも親切な台湾の人にお世話になった。

 

 

 

台湾のコンビニには必ず茹でたアヒルの卵がある。おでんのような味付けで美味しい。

 

 

 

アパートのようなツーリストホテルに投宿することにして、前日はろくなものを食べていなかったので夕食はガッツリ食べて鋭気を養った。

 

 

(つづく)

 


ロシア国営放送にあった良心は一筋の光明

2022年03月16日 | 日記

ウクライナ戦争21日目

 

 

ロシアの国営テレビで編集局員を勤めるマリーナ・オフシャンニコワさんが14日、番組中にアナウンサーの後ろにプラカードを持って現れ、反戦を訴えた。

SNS時代、瞬く間にその勇気ある行動が世界に発信、拡散された。

 

日本とは比べものにならない厳しい言論監視が行われ、命の危険があるにも関わらず、事前にビデオメッセージにも収録していた。

最初に映像を見た時、アナウンサーは後ろを振り向くなどの取り乱した様子も無く淡々とニュースを読み、カメラも微動だにしなかったことに奇異な印象を受けた。

放送チームが同じ考えだったのではないか、このデモンストレーションを共有していたのではないかと解説している専門家もいる。

 

フランスのマクロン大統領は直ちにこの女性の亡命を受け入れると表明した。片や日本の報道関係者はただただ勇気ある行動を称賛するだけで報道姿勢として肝に銘ずるような発言は無い。

 

求めるのは無い物ねだりと諦めることが権力に忖度し、ズルズルと追随する報道姿勢を生む。

オフシャンニコワさんの〝残念ながら、私は過去何年もの間「第1チャンネル」で働き、クレムリンのプロパガンダを広めてきた。今は、それを本当に恥ずかしいと思っている。テレビ画面を通じ、ウソを伝えることを許してきたことを恥じている。国民を、何も考えないようにすることを許してきたことを恥じている。私たちロシア人は思考力があり、賢い。私たちの力だけが、この暴挙を止めることができる〟という言葉が胸を打つ。

 

政府広報放送に成り下がったNHKは、東京五輪反対デモに参加したかどうかを確認しないまま、〝カネにつられて反対していた路上生活者〟という恣意的な報道を行ったことを先ずは猛省し、今後の報道姿勢で表現して欲しいと強く感じた出来事だ。

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -10 (南端から山中の宿へ)

2022年03月14日 | 環島

 

 

2018年4月9

 

台湾南端を出発し、山中で出会った台湾の二人連れ環島チャリダーが協力してくれて宿を捜すがなかなか見つからない。陽はだんだん陰ってくる。

途中でチャリダーさんが携帯で電話をしている。どうやら知人から情報を貰っているらしい。暫くするとミニバイクに乗った体格のいい原住民と思われるおばちゃんがやって来た。

 

夏の間だけ営業している近くの貸別荘に泊まっても良いということになった。食事無しの1,500元(7,500円)。

台湾の物価からすると相当高い。もう夕方だし、チャリダーさん二人は60Kmくらい先の台東まで行く予定なのでOKして別れた。

おばちゃんは鍵を開けると現地語で何かを喋った。朝、出発する時の鍵の置き場所の指示だった。1,500元を渡すと行ってしまった。

どうやら山の中の一軒家に一人で泊まることになった。

 

 

貸別荘の中に貼られていた古いマップを見ると、住所は東源社区。排彎(湾)族の文化が紹介されていたので、現れたおばちゃんはそうなのか。

 

 

台湾は人口の98パーセントが漢民族で、原住民が2パーセント(16民族)ほどが暮らしているという。

「排彎(湾)パイアン族」は台湾島の主に南部の民族だ。台湾では原住民の社会福祉政策として、観光地での文化伝承の仕事や土産物店、食事の店などの経営で生活の自立を図っているようだった。

 

 

 

周りは鬱蒼とした林に囲まれ、レストランが併設されていた。

 

 

 

室内の壁には小さな玉石がはめ込まれていたが、排彎族の文化なのだろうか。

 

 

 

昼食は午後3頃だったので、晩飯は非常食のパンと飲み物で凌いだ。別荘なのに・・・。笑

誰もいない山の中に〝ポツンと一人〟は正直、ちよっと不安ではあった。

早く朝になればいいなと思った。

 

次の日からは台湾島の残り半分、太平洋岸を北上した。

(つづく)