楕円と円 By I.SATO

人生も自転車も下りが最高!
気の向くままに日常と趣味の自転車旅を綴ります。

迎賓館に入ってみた

2022年01月31日 | 日記

 

先日、身内に不幸があって上京した折に時間が出来たので迎賓館を訪ねてみた。

昔、仕事でうろうろしていた永田町界隈の宿から歩いて行ける距離にあり、気分転換の散歩になった。

 

途中、清水谷公園を通った。大久保利通が明治政府に不満を持つ石川県士族によって暗殺された場所と言われている。当時は湧き水が豊に流れていたのでこの名が付いたという。

哀悼碑が建ち、周囲の自然林の枯れ葉の斜面には沢山の鳩が降りて、餌と思しきものを啄んでいた。

 

迎賓館の中に入るのは初めてだった。

通常は予約制だが、コロナ感染爆発で人影はまばら。予約無しで入館することが出来た。

 

沿革には皇室に献上された紀州徳川家の江戸中屋敷跡に1909年(明治42年)に建てられた東宮御所が始まりとある。

戦後、国に移管されて1947年(昭和49年)に迎賓館として改修され、併せて和風別館が併設された。

どちらの建物も高名な日本人建築家の設計によるもので、我が国唯一のネオ・バロック建築の本館は2009年に明治以降の建物としては初めて国宝に指定されている。

流石に豪奢で重量感のある造りだった。

因みに辺りが「赤坂」と呼ばれているのは江戸時代に茜草が多く生えていたことから「赤根あかね山」と呼ばれ、この山を登る坂なので「赤坂」となったという説がある。

 

和風別館は1時間のガイド付き見学がある。

平屋の庭の池は元々は水面の陽の「ゆらぎ」を室内の天井に反射させる水盤だったものを田中角栄の「鯉を放してはどうか」というひと言があって、設計者の了解を得て池にしたという。

大広間の杉天井に映る「ゆらぎ」は初めて観たが日本人の美意識、自然に向き合う繊細な精神を感じて見飽きない。

 

廊下から竹林と白砂の小じんまりとした庭を眺めることができる。中曽根康弘が「石のひとつも置いてはどうか」と呟いたとか。その時には設計者がお亡くなりになっていたが結局三つの石を置いた。

二人の趣味、性格が現れている逸話だ。建築物は作品であり、それを変えてしまうのだから一国の首相のひと言は重く強く、そして厚かましい。

 

それにしても数多の歴代首相が外国の賓客を案内しているはずなのに、どういうわけか本館も和風別館も展示写真は安倍晋三夫妻が応接しているものばかりだった。

それだけが興ざめだった。

 

《和風別館 2022.1.24》

 


立憲民主党に未来はあるのか

2022年01月28日 | 日記

昨年の衆院選で当時の立憲民主党の枝野代表は「足腰が弱かった」ことを敗因の一つに挙げて潔く退陣した。

枝野氏の言う〝足腰〟は組織面ばかりでなく、個々人の日頃の運動量だろうとスンナリ理解した。

まだ札幌に通勤していた5~6年前でも既に(立憲)民主党の街頭演説を見かけることは無くなっていたから。

ネットの時代になろうが政党・政治家は街で泥臭く訴えてナンボのものだろう。

 

何せ某党は公共事業を抑え、某党は信者を抑え、某党はかつて細胞と呼ばれた組織網を持つ。

今や組織率が多分2割にも充たない労組に胡座をかいていて勝てるはずは無いと思う。

 

しかし、25日に幹部が検討した泉新代表の下での「総括原案」にはビックリだ。

共産党との連携による票の流出を敗因の一つとして挙げている。

選挙のことは分からないが、単純な足し算で済まないのがこの世界のはずだ。百も承知の上でこのような一方通行の原案を検討するという稚拙さに驚く。

 

その〝科学的根拠〟として、惜敗した31選挙区で3パーセント強の票が他候補に流れ、比例代表でも日本維新の会、自民党、国民民主党など他党に約5%が流れたという。

これでは公党同志が選挙協力で合意して闘った相手方にあまりに失礼であり、総括以前のレベルの問題ではないか。

 

さすがに会議では反発が相次ぎ、代表らへの修正一任とはならず、こうした記述は削除したものの、持ち回りでいつもの内向きな曖昧な決着を図ってしまった。

ここまで「連合」に気を使わなければならないのであればこの際決別して闘う新しい路線を徹底議論すべきではなかったか。

ついでに生煮えだった政権運営のあり方も。全て代表選でスルーしたのだから。

負けたら組んだ相手のせいにするような未熟な政党に魅力も未来も無いのではないか。


兎に角検査キットの確保

2022年01月26日 | 日記

もはやオミクロン株が感染爆発してしまっているのに、そうならなようにしようと定めた「重点措置期間」に不要不急ではない用事があって妻と上京した。

マスクの交換と手洗いを頻繁に行って、電車と食事は混雑する時間帯を避け、今のところ二人とも感染症状は無く、再び外出を控える生活に戻った。

 

いくら用心していても感染する時は感染してしまう。

その時はその時の最善の対応で乗り切るしかないと割り切るより方法が無い。

 

そのひとつ。

新千歳空港に戻ってきた時に道の無料抗原検査を受けるためにネット予約を試みた。

しかし、どうもしっくりこないので出発時に空港のPCR検査センターに寄ると案の定、受付されていなかった。

 

原因はこちらにあるのだが、手続が分かりにくい。「以下の認証ボタンを押せば〇〇〇センターの予約システムの本登録が完了します」というメールが届いて安心したが、実は本登録が済んでから再度予約手続が必要とのことだった。

そのことはメールには何も書かれていない。検査の全体説明のどこかに書かれているのだろうけれど、間違いやすいメールには念押し記載が親切だと思う。

〝しっくりこなかった〟のは、普通この手の物は最終的な申込み内容が送付されるが何も無かったことによる。

 

帰ってきてニュースを見ていると医療機関でも検査キットが不足しているという。当然、各検査センターは申込みを捌ききれなくなっている。

そして何より驚くべきはオミクロン株の感染爆発は保健所と医療体制のキャパを超えてしまい、無症状者、濃厚接触者はいわゆる〝野放し状態〟に陥ったことである。

 

いつ検査が出来るかも分からない状態では申込みを諦めて症状の発現が無いことを願っている我々高齢者も一定期間を〝野放し状態〟の中にいることになった。

日々の感染者数の発表数字は「発見者」であり、数倍はいるだろうという潜在感染者数がますます掴めない状態で破綻しつつある対策が続けられる。

 

気のない政府の姿勢はピークアウトを待っているようにしか見えない。何はともあれ検査キットの確保が兎に角急がれる。そう強く感じている上京だった。

 


土俵の美学

2022年01月22日 | 日記

大型化して力士の怪我が多くなっているという。

そのせいかサポーター姿が目に付く。

決まり手も寄り切り、押し出しが圧倒的だ。

 

初代若乃花は「力士は綺麗でなくてはならない」と常々語っていたという。

稽古で鍛え、身体に絆創膏などを張ったりせず、肌を綺麗にするために日本酒以外は飲まなかったという。

 

理事長になってから〝土俵の美学〟を理念にしていたが、力士の美しさもその要素のひとつと思う。

ライバルの栃錦は尻の吹き出物がトレードマークだったが・・・。

 

その頃、栃若に限らず身体に包帯を巻いたり(昔はサポーターというものは無かった)、絆創膏を貼ったりした力士は殆どいなかったように思う。

 

どん底から這い上がってきた照ノ富士は稀に見る怪力力士だ。

大型なのに「投げ」を多用し、もろ差しになられても簡単に決め出してしまう豪快さがある。

 

残念なのは両肘、両膝のサポーターである。

しかもよく見ると肘には円形のパットのようなものが入り、ギブスのような膝のサポーターには棒状のプロテクターようなものが入っていて、鎧のようだ。

 

心配でなかなか外せないのだろうけれど、これが無ければ〝綺麗な横綱〟なのになぁと少し残念である。


泉代表、大変ですよ

2022年01月20日 | 日記

自民党総裁選挙の時に、岸田首相が「新しい資本主義」ということを言い始めたが未だに分からない。

通常国会が始まったので、録音した施政方針演説の「新しい資本主義」の部分を繰り返し聴いてみた。

 

驚いた。

「市場に任せれば上手く行くという新自由主義的な考え方が生んだ様々な弊害を乗り越え、持続可能な社会の実現に向けた歴史的スケールでの経済社会変革への動きが始まっている。

私は成長と分配の好循環による新しい資本主義によってこの世界の動きを主導していく。」

と述べているにすぎない。

演説はこれまでの経済対策の短冊を繋いだだけ。「新しい資本主義」という大上段に構えるほどのものは何も無い。

 

岸田首相に求められているのは、この日本がどのような状態にあり、どのようなことに取り組もうとしているのか、国会で具体的に語ることではなかったのか。

岸田首相が世界をリードするとは思えないし、格差と貧困の拡大などの新自由主義の弊害について一般論を述べているだけで、自らの「新しい資本主義」についての説明から巧妙に逃げている。

〝霞が関文学〟によくある手法だがマスコミはあまり問題意識が無いようだ。

 

あの「美しい国」に通じる空疎なキャッチフレーズを思い出す。これから参院選を控えて何かと言えば「新しい資本主義」を冠にした補正バラマキ予算が組まれるだろう。役所は予算要求が通り易い。要注意だ。

 

感染症対策も重要だが政治不信、格差と貧困の拡大、新しい産業創出の中・長期的な投資、気候変動対応、東アジア外交等々、国会論戦のテーマは山ほどある。

〝政策提案型〟を標榜する野党の出番だが準備はどうなのか、発信が無い。代表質問が始まってもマスコミは感染症オンリーであり、むしろ〝争点回避国会〟を黙認しているかのようだ。

 

分裂のマグマも動き始めて、泉代表、大変ですよ。

 


スモール・ロード

2022年01月18日 | 円 -bicycle-

 

老体にムチ打って。

どちらも。笑

 

付き合ってもう25年になる相棒。

Cr.COLNAGO & Dura Ace

17年前に現役を引退して、それからずっと良きトレーナー。

 

この時期、雪が融けたら・・・とあれこれ思いを巡らしながら回す。

ウイルスのいないスモール・ロードを探して。

 

 

 


映画『あん』

2022年01月16日 | 日記

河瀬直美監督。

どこかで聞いた名前だ。そうだ、映画『あん』(ドリアン助川の同名小説)だ。

2016年6月に札幌市清田区民センターで時間を忘れて観ていたことがあった。

 

 

樹木希林が社会から隔絶された施設で暮らす元ハンセン病の老女を演じていて、生きることの意味を追い続ける姿に心が揺さぶられた。

制作委員会の上映だったか、、、会場にパンフレットの類は無く、舞台袖の壁に貼られた1枚のポスターが映画と同じように存在感があったことをよく覚えている。

 

河瀬監督の映画は他に観たことはない。

国内外で高く評価されていて、昨年の東京オリンピックの記録映画の監督を努めている。

 

その記録映画作りを追ったNHKBSのドキュメンタリー番組『河瀬直美が見つめた東京五輪』で騒動が持ち上がっている。

何故かNHKも大手新聞も殆ど触れない。

 

ラジオ報道を聞いた限りではドキュメンタリー番組の中でインタビューを受ける男性のシーンで「実はお金を貰って(オリンピック反対デモに)動員されている」というテロップが流れるが、事実確認はされないままの放映だった。

 

NHKはこのことを認めて「現場の思い込み」と釈明はしたが経緯などについては「お答えを差し控える」の一点張りである。

「誤報」「ねつ造」ではないのか。

 

河瀬監督は暫く沈黙していたが、今月の10日になって、「私達はドキュメンタリー番組の非取材者で事実を把握するのは不可能だった」と声明を発表している。

「関係ありません」の逃げ足のように感じる。

 

これだけのタイトルの付いた番組の放映に当たって、試写、事前チェックは無いのだろうか。知っていてのコメントであれば「嘘」になる。

 

スポーツに名を借りた嘘と疑惑に塗り固められた金儲け主義のオリンピックはもう止めるべきだと考えているが、開催前は反対が7割あったものが終わってみれば「やって良かった」に大勢が変わった。

 

河瀬監督の釈然としない態度に、映画『あん』の感動が色褪せる思いだ。

政府広報機関のNHKに期待は出来ないが、事実を報道するというジャーナリズムの根幹に関わることである。

関係者はきちんと検証し、謝罪すべきは謝罪すべきと思う。


『 私の自転車旅物語 2015 』-呼子・平戸・天草・南阿蘇から高千穂越えの旅 -10 お終い

2022年01月14日 | 『私の自転車旅物語』

 

2015年4月20日

曇り空でもあり、高千穂の九州山塊越えの疲れを取るために豊後竹田に1日滞在した。

 

 

街をポタリングしていると豊後竹田を治めていた岡藩の武家屋敷があつた。

初代藩主は文禄3年(1594年)に播州茨木から秀吉の命で入った中川秀成(ヒデシゲ)で、多くのキリシタンを連れてきたが後に激しい弾圧を受けた。

 

《「切腹の間」の天井》

 

武家屋敷通りで「切腹の間のある北條家」の案内板が目に入った。怖いもの見たさで訪ねたつもりが間違って隣の家だった。

結果的には北條家とじっ懇の中学の校長をされていた方と巡り会い、ご丁寧な案内をいただいた。

 

北條家は中川秀成にお供して伊豆から来た北條政右衛門が始まりという。

娘が八代目岡藩主の側室となり、その末裔のおばぁさんが〝切腹の間〟のある家に一人で住まわれていた。

「その時の備えで作った床の間であり、実際に切腹が行わてはおりません」とにこやかに笑って答えられ、こちらも肩の力がスッと抜けた。

切腹の間は写真のように天井の桟が床の間方向に向いているのが特徴という。

 

《北條政右衛門》

その床の間に北條政右衛門の肖像画があった。近くの刑場で行われる隠れキリシタンの処刑を屋敷の裏山から複雑な思いで見守っていたと伝わっている。

 

 

 

隠れキリシタンの洞窟礼拝堂。見つからないよう鬱蒼とした林の中に作られたという。内部に石に刻まれたお札のようなものが残っていた。

 

 

滝廉太郎の「荒城の月」のモデルになった高城へ行ってみた。

岡城という城名は大友氏一族の分家の志賀貞朝によって拡張された際に付けられたとある。

中川秀成が入城後に3年がかりで大規模な修築が行われたが、明治維新の廃城令によって取り壊され石垣のみが残されている。

 

「荒城の月」は土井晩翠が中学唱歌のために作詞した「荒城月」のメロディー公募の作品。

幼少期を竹田で過ごした土井晩翠に、荒れ果てた城を照らす月あかりがどのように映ったのだろうか。

 

2015年4月21日

一夜明けて快晴。この旅は晴れたり降ったりが交互に来た。

4月6日に福岡をスタートし、呼子、平戸、長崎、島原、天草、高千穂とキリシタンの歴史を感じ、高千穂の日本建国神話の郷を巡った旅も今日のゴールの別府で終了だ。

 

 

豊後高田から大分方向に走ると大野市に「原尻の滝」がある。

横幅があって、“東洋のナイアガラ”と呼ばれている。

 

大分県を東西に横切り別府湾へ流れ込む大野川水系の支流、緒方川が遙か昔の阿蘇山の大噴火で出来た溶岩台地を長い年月をかけて削り落として誕生した景観という。

周りにチューリップ畑が広がっていた。季節にはさぞかし美しく映えるだろう。

 

別府市内到着。竹田からここまで50Km。やや下りののんびりしたツーリングが気持ち良かった。九州は豚骨ラーメンがサイコー!

 

市街地から丘を登った先にあった宿の洒落たY.Hとそこからの別府の湯煙。

宿の若いマスターに湯巡りについて尋ねると、夕食の準備を中断して、チラシの裏に30分ほどの時間をかけて、丁寧な地図を書いて説明してくれた。

鉄輪温泉は〝別府八湯〟のひとつは湯治場という。

 

荷ほどきをして、早速、湯巡りへ。

「血の池地獄」

地下の高温、高圧で化学反応を起こし生じた酸化鉄、酸化マグネシウム等を含んだ赤い熱泥が地層から噴出、堆積して池の一面が赤く染まっている。

 

 

 

宿の周辺はには銭湯のような温泉がいくつもあった。

料金は備え付けの賽銭箱のようなものに任意で投入する。300円という。

蒸し湯は一遍上人が開湯したとか。

 

愛好者で組合を作り運営していた。

 

銭湯温泉でチャリ旅の若者に出会った。

 

 

そして間もなく、〝スーパーボランティア〟の尾畠春夫さん(この時78歳)にバッタリ出会った。

友人と銭湯に来た帰りで、公園で休んでいた私の方に近づいてきていろいろな話しを聞かせていただいた。

 

10年前にかねての予定どおり魚屋を畳み、3年かけて日本縦断徒歩旅行をしたという。

全て野宿。野菜は買わずに野草を食べたそう。東北で半身不随のおばぁさんに助けられた恩返しで延べ500日、復興支援ボランテイを続けていた。

一期一会が繋がる旅の話に湯冷ましも忘れて聞き入っていた。

フォークシンガー岡林信康が丸刈りしたような風貌で「近いうちに北海道一周をする。」と日焼けした顔でいきいきと語ってくれた。

 

その後、山口県、北海道でも行方不明の坊やを発見している。

旅の締めくくりに素晴らしい旅人に出会った。

 

4月6日に福岡を出発し、唐津、呼子、平戸、長崎、島原、天草とキリシタンの歴史に触れ、南阿蘇から高千穂の日本建国神話の古里を巡ったおよそ850Kmの旅を終えて福岡までバス輪行した。

 

  

 

             (終わり)

 

※次は2018年の台湾一周800Kmを気の向くまま綴ってみます。親切にして貰った人々が中国との関係で心配です。


〝やっかいどう米〟の日々

2022年01月13日 | 日記

もう20年くらい前のこと、小樽の寿司屋の大将に話しを聴きに行ったことがあった。

ネタとコメが命の寿司屋。道産米をどう見ているか知りたかった。

北海道産のコメを道民に沢山食べて貰うためにどうしたら良いか、道の農政課題の一つでその一端を担っていた。

 

「そりゃあ旨ければ食べるんでないかい」「早く良いコメを作ってよ」

そんな同じ答えが誰からも返ってきた。

「きらら397」という旨いコメがデビューしていたのに。

 

当時、道民が食べているコメのうち、道産米が占める割合(食率)は5割を超えたくらい。

8~9割の東北のコメどころには遠く及ばず、本州産の米を食べている農業関係者も珍しく無い時代だった。

 

寿司屋の大将は予想通り歯牙にも掛けない返答だった。

使っているのはコシヒカリという。仕入れ先の業者の60Kg詰めの紙袋を見せてもらうとどこにも証明する記載は無い。

 

大将は「出入りの問屋がそう言うから買っている」と笑ったが、食味に確信を持っていたにしても「客にうちは北海道のコメ、とはなかなか言えない」というひと言がショックだった。

 

その頃から「10年以内のコシヒカリ並みの品種の開発」と「府県のコメどころ並みの食率80パーセントの達成」を柱に品種開発の加速と消費拡大の取り組みが本格的に始まった。

 

1月11日付け北海道新聞の記事で「ほしのゆめ」「ななつぼし」「ゆめぴりか」などの全国トップクラスの優れた道産米が相次ぎ生まれた経緯が書かれていて、〝やっかいどう米〟と揶揄されていた道産米のPRに駆け回ってた頃のことを懐かしく思い出した。

 

人口減少、食生活の多様化で最近はコメの受給バランスが崩れて価格も下がっているようだ。一人年間の消費量も戦後の120Kgの半分以下である。

弁当などの食品加工場では炊き上がったコメが日に数トン単位で破棄されているともいう。

コンビニなどの外食産業のオーダーが当日に決まったりすることによるものらしい。

 

夏に農作業に行き、生産者が丹精込めて農作物を作る姿を見るにつけ、無駄なく消費され、農家経営が安定して欲しいと願う。

 

《田植えに行ったT農場さんの「ゆめぴりか」玄米 60Kg》


『 私の自転車旅物語 2015 』-呼子・平戸・天草・南阿蘇から高千穂越えの旅 - 9

2022年01月11日 | 『私の自転車旅物語』

 

2015年4月19日

予報通りの小雨だった。

早朝、高千穂から豊後竹田に向かう。途中に山がある。

出発する時にY.Hの女将さんが玄関で「大分に一番近い道だけど、それだけ急ですからね。頑張って。」

「頂上に尾平越というトンネルがあるからそこでこれを食べて。一番、大きなのを選んだから。」と1本のバナナをくれた。

「そこから先はずっと下りだからネ。」

 

《天岩戸神社》

緩やかな山道を5~6Km走ると天岩戸神社の西本宮に着いた。

岩戸川をはさんで西本宮と東本宮が鎮座し、両社とも古事記・日本書紀に登場する天照大御神が弟の傍若無人な行動に頭を悩ませて隠れた「天岩戸」と呼ばれる洞窟をご神体として祀っている。

 

 

川辺には八百萬の神々が集まって相談をしたという天安河原がある。

 

《天岩戸》

天岩戸伝説は全国各地にり、高千穂町と志摩市の天岩戸(惠利原の水穴)が有名という。義経伝説、浦島太郎伝説にどこか似ている。

 

 

登ってきた高千穂の峰々。

 

何度も休憩しながら25Kmほどの上りを4時間かけて小平越に到達。段々畑の集落があった。

まるで日本のマチュピチュだ。

 

あとはトンネル出口から長い長い楽しい下りだぁ!!

高千穂のYHのおかみさんは山越えの厳しさを知っていてバナナを持たしてくれたのだろう。小雨の中で道路淵に座って食べた甘い味は忘れられない。

 

これまで最長の下りはレースで走った大滝村の牧場の2〜3Kmの直線道路。最速72Km/時を経験したが、もう恐ろしくて出来ないと思いながら慎重に下った。

 

 

見通しが効くようになって、遠くに豊後竹田市の市街地が見えた。

霧が立ち込めた深い山は高天ヶ原降臨神話を感じさせてくれてチョイスに満足しながらさらに下る。

 

途中、ブレーキシューが減ってリムと擦れる金属音がした。

家に戻って地図で調べてみると、高千穂町から豊後竹田まで、最高地点は尾平越峠で周辺の山の標高から1500mはあっただろうか。

そこから急峻な下りは25Km。ブレーキシューがへたるのも頷けた。

街について、パーツを買って直ぐに交換した。

 

 

 

小雨でもあり、竹田に一泊することにした。旅館に飾られていた「姫だるま」。

家内安全・商売繁盛を招く縁起物として、正月2日の早朝、「おきあがり」のかけ声とともに商家の軒先に配られる姫だるまは、岡藩時代からの竹田市に伝わる伝統工芸品だそうだ。

 

竹田は滝廉太郎の『荒城の月』のモデルとなった「岡城」の町であり、隠れキリシタンの郷であった。

(つづく)

 

高千穂神社の語弊は我が家のお守りコーナーを飾っている。