楕円と円 By I.SATO

人生も自転車も下りが最高!
気の向くままに日常と趣味の自転車旅を綴ります。

2024年の農作業支援、終了

2024年10月31日 | 日記



今週のJAの農作業支援は28〜29日にビートの収穫作業に出掛ける予定であったが、作業が進んで28日の1日で終わった

ビートは日本語で〝てん菜〟であり、「ビートたけし」の芸名の由来となったのではないか、と聞いたことがあるが真偽のほどは分からない。


畑の四隅に植わっているビートをあらかじめ手で抜いて搬出しておかなければ収穫機械が入れない。その作業だった。何度かやっているのでスムーズに出来た。

白いカブの根元をナタのような専用刃物で切って、トラクターで搬出するための大きな袋に詰める時に切断面を舐めてみた。砂糖の原料だけあって甘い。


ビートは北海道の畑作農業の基幹作物であり、ビート糖は国内の砂糖の約4割を占め、製糖工場は地域の雇用や経済を支える重要な役割を果たしている。

現役の頃、この時期は仕事でよく帯広の製糖工場を訪れた。

ビートは洗って裁断されて湯煎され、カルシウム材によってシュウ酸などの不純物が結晶化して除かれ、糖液が出来上がる。
糖液は煮詰められ、乾燥と同時に遠心分離機にかけられて真っ白い砂糖が出来上がる。


初雪の便りが聞かれる今頃、冷えた空に工場の煙突から真っ白い水蒸気が立ち登り始める。青い空に雪と白い水蒸気の煙は北海道の冬の風物詩である。
昼夜操業が終わる2月末頃、畑の周りも春めいてくる。

自分の今年の農作業支援はこれで無事、終わった。
5月の田植から半年、今年も時間の経つのが早かった。

政権交代の〝熱〟が無い

2024年10月29日 | 日記
住んでいる北海道5区は裏金議員が落選、立憲が返り咲いた。
自民党惨敗、立憲民主党大躍進、国民民主党大飛躍。なのに世の中に何か〝熱〟が無い。自分だけがそう感じるのか。

総選挙の前から三つのことが言われていた。

一つは、投票率の低下は組織票のある自民、公明に有利に働くという経験則は今度は当てはまらないのではないか。政治不信により、無党派層の中の自民票も減るからというのがその理由だった。

二つ目は、立憲が勝っても野田代表には棘の道が待っているというもの。野党連携が進まないから国会でどう戦線を構築するか頭を悩ますことになるという理由だった。

そして三つ目は、自公で過半数が取れなくても直ちに石破首相退陣と言うことにはならない。石破降ろしの狼煙を上げる人物が自民党内にいないし、それだけのパワーが今の自民党に無い、というものだった。


結果は三つとも見事に的中した(している)。
投票率は戦後3番目に低い二人に一人の割合だったが、立憲民主党の得票数は前回と変わらないにも拘わらず議席が大幅に増え、自民党は「政治とカネ」で票と議席を大きく減らした。これらは低投票率の中で起きた単純な裏返しの現象で、これ迄の投票率の経験則には無かったこと。

野党連携が進まないのは泉・前代表の責任大である。百戦錬磨の小沢一郎の知恵を借りる時間は十分にあったはずだし、「シャドー・キャビネット」は声ばかりで、政権交代の千載一遇のチャンスと言われ続けていても自民党との政策の違いは何かを世間へ浸透させることは出来きず、石破自民党に不意打ちを食らってしまった。

石破首相は党内野党と言われて総裁・総理になった途端、前言を平然と翻したが、これだけの厳しい審判をうけたのだから〝党内圧力〟は誤りであると再度訴えて、政治改革に真摯に取り組めば意外と長続きするかもしれない。


かつての政権交代の時の民主党のスローガンである〝コンクリートから人へ〟のようなダイナミックなエネルギーを今回の選挙結果から感じないのは予想されていた三つのことが的中し、「これでは何も変わらない。」と肩透かしを食らったからかもしれない。間隙を縫って国民民主が存在感を示そうとしている。

「最大の政治改革は政権交代。自・公で過半数割れに追い込み、政権交代を実現する。」
立憲民主党の野田代表の公約が果たされるかどうかに焦点が移ってきたが、「野党間の調整は来年の参院選までに。」と早くも先送り宣言だ。

さしあたって、特別国会の首班指名選挙は今のところ「石破続投の予測」しか無い。
しかし、政治の一寸先は闇。政権交代熱が何かの弾みで高まり、炎となって燃え上がって欲しいものだ。


漬物の秋 - ニシン漬け -

2024年10月27日 | 日記

2024.10.26


「ニシン漬け」は北海道の冬を生きた先人の知恵の詰まった漬物であり、文化だと思う。

大根、キャベツ、ニンジンという日持ちがして栄養バランスの取れた野菜類と〝身欠きにしん〟というたんぱく質の保存食をショウガ、南蛮という血流を良くするような香辛料とともに麹で漬け込み発酵させる。

まだ小学校に上がる前、母親が台所で漬け込む様子を横で見ていた。ある年のこと、母親が漬け込まない様子を見て、「どうして。作って。」とせがんだそうだ。成長してから聞かされたことがあった。

多分、ニシンや野菜を樽の上に渡したまな板で切ったり、麹を振りかけている姿が流れ作業のようで面白かったのだと思う。


結婚してから記憶を辿り、毎年、漬けるようにしている。消費者はほぼ私である。九州で育った妻には麹文化が無い。(笑)





身欠きにしんはコメのとぎ汁に漬けて置くというのがレシピだが、私はヌカを使う。一晩経ったら水洗いしてぶつ切りにする。





野菜類は記憶を頼りに適当に切る。ユーチューブは見ない。(笑)




塩を混ぜた麹を振りかけ、手でまんべんなく混ぜて仕込み終了。

重しをかけ、物置に置いて10日ほどで食べれるようになる。

今年は失敗したことがあった。
樽の中のが大きすぎて重石がかかっていないことに翌日気が付いた。
緊張感が抜けていた。さて、この結果はどうなるか・・・。

漬物の秋 - 沢庵漬け -

2024年10月27日 | 日記

2024.10.24

JAの農作業で大根の出荷作業に出掛けたO農場さんから規格外の大根を40本ほど貰い、ベランダに干しておいた。1週間ほど経って、半月状に曲がるようになったので、35本を「沢庵漬け」にし、残りを「ニシン漬け」にした。

漬物は北海道の冬の貴重な保存食だった。小学生の頃、風が冷たくなる今頃は母親から大根の水洗いを手伝わされ、兄たちから縄で編んで吊るす仕事を手伝わされた。寒くて早く終わらないかといつも思っていた。


九州育ちの妻は北海道の漬物を作ることは苦手で全て私の仕事である。
母のやっていたことの記憶で適当にやるが、あれだけイヤだった沢庵漬けの手伝いが今では幼いころの家族の残像を思い出す楽しみとなって生きている。




用意するのは極めてシンプル。
米ぬか、塩、南蛮だけである。量は全くの目分量。母もそうしていた。


 





塩と南蛮を混ぜ米ぬかを大根と大根の間に隙間のないよう塗して交互につみ重ねてゆくだけ。








最後に大根のヘタを乗せ、ぬかをびっしりかぶせてガッチリ重石をかけ、気温の上がらない物置に保管する。

沢庵漬けは通常の野菜の漬物のように水は上がってこない。1ヵ月ほど経つとぬかが水分でしっとりしてきて食べ頃になる。

沢庵の無くなる3月上旬、春の兆しが見え始める。

(「ニシン漬け」につづく)

晩秋のドライブ 〜関口雄輝記念美術館〜

2024年10月25日 | 日記

2024.10.22

石山緑地から少し車を走らせると芸術の森に隣接して「「関口雄輝記念美術館」がある。ふだん美術館に行くことは滅多にないが寄ってみた。

「関口雄輝記念美術館」は札幌に本社を置く北榮工業という会社が文化事業の一環として、2005年に設立した私設の美術館である。

若いころ、経済学の先生が「企業の使命は職員家族を養い、利潤を社会に還元することにある。」と話していたと記憶するが、今日、なかなかそのような企業は無いような気がする。


関口は埼玉県に生まれ、1972年に初めて北海道を訪づれると、その厳しくも美しい自然に魅了され、以後、北海道の風景を描くことを生涯の課題と定めて、細かな観察による幻想的な風景を描き、戦後の日本画の分野で特異な存在感を示した、とある。

1968年、東山魁夷の皇居新宮殿障壁画制作の助手を務めている。
2008年、85才で死去。


ひと目で若いころに仕事で勤務した十勝の農場や稚内方面の厳寒の海と分かるモノクロームの冬景色の作品は、寒風とともにそこに暮らす人々の家庭の温もりとエネルギーが伝わってくるようだった。


綿羊を描くにも実際に飼ってみて観察したり、季節、時間ごとに何度も現地を訪れて構図や描写を推敲し原作、本作へと仕上げたという。

植物も関口の作品世界を支える重要な要素で沢山のスケッチが展示されていた。


今から10年以上も前にフランスの修道院の島、モンサンミッシェルを訪ねたことがあった。関口による克明なデッサン、原作、本作の流れをしばし立ち止まって見ていた。
















チャイコフスキー「眠りの森の美女」よりワルツ
ユーリー・シモノフ/NHK響 1993.5.31


晩秋のドライブ 〜石山緑地〜

2024年10月24日 | 日記

             2024.10.22


気温がやや上がった晩秋の午後、札幌市の南区にある「石山緑地」と芸術の森に隣接する「関口雄揮記念美術館」まで1時間ほどドライブした。

「石山緑地」は北海道開拓時代のサイロや倉庫、歴史的建造物などの建材として使われた「札幌軟石」の切り出し跡地を公園化したスポットで、大通公園の西端にある「札幌市資料館」(旧札幌控訴院)は札幌軟石で出来ている。


展望テラスやテニスコートなどが設けられた自然豊かな憩いの場となっている “北ブロック” と、切り立った岩肌が露出した採石場跡に造形集団「CINQ」(サンク)がデザインした作品が野外展示されて芸術的な景観を生み出している “南ブロック” からなる。

今回は主に南ブロックを巡った。


 
 
岩に描かれた絵のようだ。
切り立った岩山や削られた山肌の景色に見惚れる。教会の尖塔のようだ。



 

〝ネガティブマウンド〟と名付けられている。
通常マウンドと言えば盛り上がっているが、凹んでいるので逆という意味でネガティブという名前が付いている。古代ローマの劇場を思わせる。
薪能が開催されたこともあるとか。





〝沈黙の森〟と〝赤い空の箱〟




〝午後の丘・芝生広場〟というエリア。岩壁から切り出したようなサイコロの造形物が配置されていて野外彫刻公園のようだ。




〝展望広場〟
あいにく札幌市街は望めなかった。中央の渦巻きは人々の交流を表している。


   





住所:札幌市南区石山78


(「関口雄揮記念美術館」へ つづく)


由らしむべし。知らしむべからず。

2024年10月23日 | 日記
「民は之を由らしむべし。知らしむべからず」かぁ。。。

就職した頃、職場の先輩がため息混じりによく呟いていた。
当時は〝好きなように議論させておけ。本当のところは教えるな〟といった意味に捉えていた。


新しい制度、事業などが国から出ると、最初は細部が定まっていないことが多く、地方段階では様々な解釈が出てまさに百家争鳴の状態になる。

内容が固まってきても不確定要素が残っており、北海道にとって有利に使えるようにするにはどうすれば良いかと考えるので、現場に混乱が生じないようどこまで伝えるか、〝由らしむべし。知らしむべからず〟の基本姿勢が続いたりする。

全く逆の解釈が飛び交ったりしていて修正に走り回ることも多々あった。


この言葉は論語で使われているが、冒頭の先輩の如く、「国民には政治について詳細を告げるべきではない。」との誤用がされてきたことをつい最近知った。

江戸時代までは「国民一人一人の家を訪ねて、政策の細かいところを納得させることは出来ない。したがって、この人なら間違いない、と信頼させなければならない。」という意味であったという。それが近代になって儒教批判の悪質なプロパガンダに用いられて誤用された。(大場一央;早稲田大非常勤講師)


ものの見事に臆面もなく変節してしまう総理大臣を先頭に、何と信頼に値しない国会議員が多くなったことか。自民党は税金も裏金にして使い道を「知らせない」。

何故、そうなったのか立ち止まって原因と対策を考えなければ、この先、どんな国家方針、政策も成し遂げらずこの国は衰退の一途である。

基本は「信頼できる人」を選ぶことに尽きる。よく考える機会の総選挙である。


石破茂内閣、命短かし、か

2024年10月21日 | 日記
     
 薄氷の張った自転車散歩コース  2024.10.21 6:45 


「状況が厳しいからサービスを落とし、路線を減らしていいのか。もっと充実させ、北海道の魅力を最大限に引き出してもらうため、インフラ整備をもう一度きちんと見直したい。」

石破首相が10月18日、衆議院選挙の応援で訪れた札幌市中央区で演説した。


北海道のJRは瀕死状態だ。
函館〜札幌の新幹線の膨れ上がる建設費捻出のためにローカル線はずたずたに切り捨てられ、通勤圏の札幌周辺を除いてこれからは道南・函館方面、道北・旭川与方面、道東・釧路方面の幹線もコスパだけの見直しがさらに進むだろう。

総裁選で言ったことをあっさりと取り消す石破首相だが、この演説内容がこの後どうなるか。忘れまい。

もっとも政権がいつまで持つか分からないが。
過去一番短かった内閣は東久邇宮内閣の54日間。⽯橋湛⼭内閣は65⽇、宇野宗佑内閣は69⽇だった。


最近の世論調査で、自民単独はもとより、自・公でも過半数確保が微妙との見方もある。もしかすると石破内閣は27日内閣で終ってしまうかもしれない。その時は政界再編である。

是非とも核になる野党第一党の立憲が伸びて欲しい。


「奏楽そら」を聴いた

2024年10月19日 | 日記



     





昨夜はファイターズの〝乗るか反るか〟の試合と重なったが、近くで開かれた『奏楽そら』のコンサートを聴きに出掛けた。

会場はJAの古い石造りの倉庫を改修して催し物の空間となった『夢創館』、開館25周年の記念行事だった。休憩時間に原田市長が顔を見せた。


『奏楽そら』は元札幌交響楽団の首席オーボエ奏者である岩崎宏昌氏が理事長を務める音楽アンサンブルのNPO法人で、100名ほどのメンバーが「教育」「福祉」「音楽の追及」を3本柱に、〝クラッシックを身近に〟をコンセプトに道内外で自由なスタイルの演奏活動を展開している。


岩崎氏は直接習いはしなかったが、オーボエで音楽の道に進むことを決めた息子に先生と音大をアドバイスしてくれた恩師である。我々には何も分からない世界だった。

日ハムはさておき、久しぶりに先生のオーボエを聴き、お礼することが出来た。


『奏楽そら』は初めて聴く機会だったが、ピアノ、声楽、弦、菅の5名がソロ、アンサンブルでクラッシックと映画音楽、松山千春、美空ひばりを演奏するという多彩なプログラムで満席の50〜60名くらいのお客さんを楽しませた。

演奏曲目に息子が最近出した初CDのタイトルと同じ「ヴォカリーズ」があって、未知の世界の入り口に立っていた20年前のことを想い出しながら聴いた。


ファイターズは帰宅すると8回表だった。3試合とも流れを引き込むことが出来ず完敗だった。新庄監督はやり残した感で継続を表明するとみた。



JR島松駅前の「夢創館」


アンコール曲「You Raise Me Up」


大根収穫が終わった

2024年10月18日 | 農作業ヘルパーの記



朝、カーテンを開けると西の空にスーパームーンが見えていた。
6月から続いたO農場の大根出荷が昨日終わった。

Oさん家族4人、選別作業の専従女性3人に日々JA派遣2人が加わって5ヵ月間の作業だった。春先の冷たい強風の中で始まって、猛暑の選別・箱詰めライン施設で大型の扇風機に助けられ、今、再びウィンドブレーカーを着こむ季節になっていた。年々、時間の流れの速さを感じる。


今年はOさんの所に来ることが多く、二人の息子さんはじめ、皆さんとすっかり顔なじみになったので、これで暫し来年までお別れかと思うとちよっと寂しい気がした。

解散の間際、夜のファイスターズ戦のことが話題になった。
息子さんに、「大根もファイナルでしたね。」と労を労うと、「ファイターズの勝利より嬉しいです。」と笑った。
そうだよな。

日の明けやらぬ時間から掘り始め、朝食の後、8:30から洗浄、選別、箱詰め、出荷が夕方まで続く。大変な仕事だ。


沢庵付け用に規格外の大根をたくさん貰ってベランダに干した。
間もなく冬の到来だ。


     
      2024.10.17


      

             

          スズメの餌もくず米だけれど新米になった


松山千春 「春夏秋冬」