数日前、新聞が元・ソ連空軍ベレンコ中尉の死去を報じていた。
1976年9月、米ソ冷戦時代にウラジオストクから飛び立ったソ連空軍のパイロットが訓練空域を離れて自衛隊のレーダーをかいくぐり超低空飛行で函館空港に強行着陸した。
防備がこんなに簡単に破られるのかと世間はあっけにとられた。
そのベレンコ中尉は3日後にはアメリカに亡命し、当時最新鋭のミグ25戦闘機は米軍の数ヶ月に亘る調査の後にソ連に返還された。
当時、函館から車で1時間半ほどの日本海沿岸の江差町に仕事で住んでいて、カメラが趣味の職場の同僚のO君がニュース報道されるや否や休暇を取って函館に向かったことが蘇る。
望遠レンズが函館空港の外れに捉えた画素の粗い白黒写真が職場を廻ったが、興味は「これがソ連の最新鋭戦闘機か。」ということに集中し、不思議なくらい緊迫感は無かった。
世情が落ち着いていたのは行動が亡命目的であることを防衛当局がいち早くにキャッチしていたことと、ソ連が日本に突如攻め入る必然性は何も無いと国民が確信していたからではなかったか。
あの時代には絶対に戦争をしちゃいけないという圧倒的な国民感情があり、外交が機能しているうちは軍事行動は起きないという平和憲法を礎とする専守防衛の心柱があったように思う。
後になって、ソ連がパイロットと機体を奪還するために軍事行動を起こすのでは無いかと日米両軍が函館周辺に集結していたことを知った。
ソ連が追撃しなかったのか、自衛隊が撃墜出来なかったのか、しなかったのか、真相は分からないが、無用な社会不安を招かないよう情報管理も相当慎重に行われたのだろう。
ベレンコ事件は日本の防衛論議の流れに変化が生じるきっかけとなった事件である。
氏の死去報道はこの国の安全保障体制の激変を突きつける。
今や専守防衛を逸脱し、敵基地攻撃まで想定している。
防衛力の限界を知り、所詮その程度のものだからと開き直り、だから絶対に戦争を起こしてはならないという賢い外交姿勢、努力の積み重ねが大切だが岸田首相にその熱意を感じない。
危機感だけを煽り、〝ショックドクトリン〟宜しくアメリカの言いなりに防衛装備の強化に血道を上げる岸田政権の危険さがあらためて心配になるベレンコ氏死去の報道だった。
奇しくも1976年は三木武夫内閣が防衛費の上限をGNP比1パーセント以内とする方針を決定した年だった。