季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

アグレッシブ

2015年04月21日 | スポーツ

僕は時折何周も遅れて興味を持ったりする。

例えばF1。遥か昔に大ブームになったが、僕は全くの蚊帳の外であった。

皆が騒ぐと関心を示さなくなるのは僕の依怙地さかも知れない。渦巻きが去った後ノコノコやって来て面白がっているのである。

そんな訳でテレビ観戦していて思い付いたことなのであるが。

自転車にせよ車にせよ、ほぼ同時代に発明され実用化された。すると時を経ずしてツールドフランスやカーレースが考案される。

考えてもご覧なさい。昔の自転車なぞ、変速機も無く、そもそも車体が重いのである。それにまたがってアルプスの山々を超えて行くレースをつくる。

レーシングカーだって今日写真を見ると、よくまぁ無防備に近い格好で、上半身をさらけ出して猛スピードで走ろうと思い付いたものである。

当然のことながら、何人もの死者が出ている。にもかかわらず連綿として今日まで継続している。続いているどころか、世界三大スポーツに名を連ねている。これは我々には理解しようにも出来ない相談ではなかろうか。何というアグレッシブさだろう。

我が国でも色々新しい遊びや種目くらいは考えだされる。違いは、もしも死者が次々に出たらおそらくそのイベントは撤廃されるだろうということ。

一般に文化を言うとき、文芸や思想、政治が語られる。上記のような視点を絡めた論はきわめて少ないように思われる。きっとどこかで語られているとは思うのであるが、僕のような素人の目には主流になったもの以外は目に入らないのである。

音楽と直接の関係はないが、肉体的な強靭さに目をやった時、深いところで繋がるのを感じる。

こうした「強靭さ」は以前紹介した「砂漠の思考、森林の思考」と関係するのではないか。そこでは砂漠の民は道を選ばなければならぬが、森林の民は自然の懐に抱かれ、究極の選択は避けて通れることが説かれている。


責任

2014年12月08日 | スポーツ
サッカー日本代表監督のアギーレが、過去の八百長に関与したとの疑惑をかけられている。

その当否はともかく、監督要請にあたっては、慎重にその人物について調べるのが当然で、それはサッカー協会が自らの責任においてすることだ。

そもそも先だってのワールドカップ後、総括も無しに、惨敗の責任が何処にあるかも真剣に議論せずに新たなプロジェクトを発足させる愚を僕も当ブログで書いたが、責任を取るどころか、直接の担当者だった原氏は理事に昇格する有様であった。

そしてその原氏が中心になって決めたのが今回のアギーレ監督である。前監督も同じ原氏が決めた。

ある出来事の根幹を問わぬままうやむやに次に進めるのがこの国のお家芸だと言わんばかりである。

新たなプロジェクトの前に現状への認識をきちんと持ち、徹底的に考慮し、論議を尽す。それはそんなに難しいのだろうか。

時には思い切った決断をしなければならない、それが苦手なのかもしれない。希望だの、前を向くだの、この手の ホンワカした言葉を並べておく方がはるかに楽だからな。

そこへ持ってきて良識派とやらのたしなめる声が聞こえる。

ワールドカップの敗戦の責任を言えば、たかがスポーツにそこまで言う必要があるだろうか、とか選手も周りも一所懸命したのだから、とかね。

たかがスポーツとか言う人にはその通りだが、人生すらたかが人生だと答えよう。たかが僕の人生ではあるが、僕にとっては引くに引けない(かけがえないとは敢えて言わない)のっぴきならぬ事実である。

良識派とやらの話はせいぜいこんなことを言っているにすぎない。

良識派とは何か、に触れたくなったが、それは次の機会に。






サン・レミィ

2014年07月22日 | スポーツ
今ツール・ド・フランスがたけなわである。

昨日のコースの中にサン・レミィという町があった。

何処かで聞いたことがあるとボケた頭を巡らせることしばし、ここはゴッホが例の耳切り事件の後に入院していた精神病院があった町だと気付いた。

ゴッホの書簡集は昔何度も繰り返し読んだ。サン・レミィの名前は幾度となく目にしたし、画集を開けばサン・レミィ時代の作品群は膨大な量に上る。

自転車選手の健康な肉体が通過する背景にあるサン・レミィとゴッホの作品や書簡集から受ける印象が余りに乖離していて咄嗟には結びつかなかった。

実際の町はむかしもこのように平凡な日常の景色を提供していた筈だ。そしてその中でゴッホという名前の男が生きていた。

当たり前の日常だ。やれやれと思う。

壮行会

2014年06月27日 | スポーツ
代表が出発前に壮行会が開かれたのは知ってはいた。何の関心も無い話題で、聞き流すばかりだった。ところがYouTubeでその模様を見て想像を絶する酷さに驚いた。

これで勝つと思うことは不可能だ。

しゃぶりつくせるだけしゃぶろうとハイエナのように群がったサッカー協会とスポンサー。そしてそれにまんまと乗ってしまう選手とサポーター。

あのキャーという黄色い声は何処から来るのだろう?他の国のスポーツを見てみたら良い。どこだって女性が沢山観戦しているが、集団ヒステリーのような悲鳴は聞いたことがない。

言っておくが、僕は女性に対して物を言っているのではないぞ。当然オクターブ低い悲鳴が黄色い声を伴奏しているのだ。耳には高い声がより特徴的に聞こえるだけだ。

この目を背けたくなる光景を遥かにはるかに規模を小さくすれば美人ピアニスト、鍵盤の貴公子、鍵盤の魔術師、鍵盤のペテン師、ペンペン草、モウセンゴケなどになる。

イナゴの大群のように、食い尽くして去って行くのだ、位の自己防衛本能もないのであろうか。


無得点

2014年06月20日 | スポーツ
結果は無得点のドロー。これについてはコメントするつもりはない。

僕はこの先日本が強くなるには(なる気があるならね)例えば次のような事が根本から変化する必要があると思う。

試合後、大久保選手に「ピッチに立った時の感想は?」とインタヴューしていた。こんなことしか訊けない報道陣。

試合中も「四年間の集大成」を何遍言ったか。今どういうプレーが行われていたか、行われるべきか、伝えるべきはそこしかないはずだ。

奇しくも今日は大久保選手の父親の命日だとか、そんな事が試合と関係あるのだろうか。こうした情緒に訴える?一辺倒が改まらない限り、誰が監督になっても同じだ。もちろん少しずつは差があるけれどね。

因みに日本の試合を中継したBBCなど、海外の解説は、当の日本のメディアより遥かに真剣で厳しかったようである。退屈な試合だとか、日本は時差ボケかとか、極めて辛辣。

羨ましいなあ。他国の試合でも真剣に論評する。

建前論

2014年06月17日 | スポーツ
ひとつ僕が気になることを書いておきたい。

日本代表が「目標は優勝」と公言していることだ。これがどうもひっかかる。

出る以上は目標は優勝だ、というのは当然なのだろうか?

ブラジル、ドイツ、スペイン、アルゼンチンなどが言うのは分かる。彼らは2位でも失望するだろう。

無論希望するのは良い。しかし日本代表のは、どう言えば良いか、負けるために行くのではない、という常識をもっともらしいポジティブな表現にしてしまっただけだと思われる。

ちょうどそれは「平和が大切だと思います」と発言しておけば考えを持った良い生徒だと見なされる学校作文のように感じてしまうのである。

あるいは「みんな仲良く」でもそうだ。こうした言葉は子供に言わせてはいけないのではなかろうか。

僕は当然ながら平和が大切ではないと言っているのではなく、仲良くするのがおかしいと主張しているのでもない。

平和や仲良くすることが「良い」ことだというのは自ずから分かることだ。そしてそれが実生活では中々むつかしいということも嫌でも分かることだ。

お題目を唱えさせていると、その言葉はどんどん虚しい響きしか持たなくなる。心ある者は嘘臭さを感じ、それを感じないで唱え続ける人は度し難い空想家になる。ドストエフスキーが例えば「カラマーゾフの兄弟」でエカチェリーナ夫人で強烈に描いた通りに。

この手のフワフワした建前だけの発言に「目標は優勝」は重なる。僕はそう感じてしまう。「有言実行」というカッコ良い響きもあるかもしれない。この手の教育の結果、日本中に夢とか仲間とか、力のない、雰囲気だけの言葉や態度が拡がったのではないか?

本当に優勝を目指すチーム(ファンも含めて)ならばもっと違ったプレー、姿になるだろう。

自分たちのプレーさえすれば勝てる、というのも同様だ。相手も同じことを言っている。つまり、勝ちさえすれば負けないと力んで言うのと同じ滑稽な発言である。

自分たちのプレーをどうやったら出来るのか、ということが勝つということではないか。そう言えば「綺麗に弾くのがコツなの」とのたもうた「巨匠」もいたな。コツを掴めば綺麗に弾けるだろう、話が逆だろうと突っ込む人が続出しないのが不思議だった。


実体のある批評があれば周りも真剣に議論をするだろう。それが我々ファンからすればお祭りを楽しむことにもなる。言葉の醸し出す空気だけを楽しんだり批判するのはいい加減やめた方が良いと僕は思う。










敗戦後

2014年06月15日 | スポーツ
全く形にならぬまま日本代表は負けた。残念ながら僕の予想通りだ。

自分たちのサッカーを、という威勢の良いコメントばかり躍っていたが、こんなのは「みんな仲良く」という学校のお決まりと同じで、フワフワした空気でしかないと指摘した人は何人いただろう。

選手達が自分のチームは攻撃型だと標榜するのにも殆ど苦言を見なかった。だって毎試合殆どシュートも打たない。そんな攻撃型なぞあったものではない。

渋谷で敗戦にもかかわらずハイタッチする人がいたらしいが、そんなこともお祭りだからと理解者が現れるのではないだろうか。


ヘボの予想

2014年06月10日 | スポーツ
いよいよワールドカップだ。

僕の感想では、今の日本チームにグループリーグを突破する力はなさそうである。

直前の2試合の結果が良かった?から希望的な予想をする向きも多いが。

ただし最初の試合に3点以上入れて勝利した場合にはベスト8まで行くと大胆な予想をしておく。(サッカーで就中ワールドカップで3点入れるのは至難の技だ)

日本チームの問題は20年来(本当はもっともっと昔から)何ら変わっていない。得点能力というか、得点への意欲というか、これが低い。

とはいえ、得点への意欲はあるに決まっている。だから正確に言えば最終責任から出来るなら逃れたい、ということだろうか。(急に文化論めいてきたでしょう。書いていて面映いな)

ただ、短期間で見た場合、初戦で3点も取って勝てば得点出来ないのではないか、という負の呪縛からは一時的には解放される。加えて妙にノリの良い選手も少なくない。

簡単に僕のヘボ予想の根拠を書いた。後出しじゃんけんは嫌だからね。当たったら褒めておくれ。

批判と非難

2014年05月28日 | スポーツ
サッカー日本代表が昨日W杯前の国内最終試合でキプロスに辛勝した。

僕は残念ながら大学に出る日で、見ることが出来なかった。

帰宅途中の新幹線で文字速報は追っていたけれど居眠りもしたしね。それでも相変わらずだなぁとヤキモキした。これでは大変残念ながら本大会で勝ち上がることは難しいだろう、と想像せざるを得ない。

一夜明けてスポーツ欄の見出しを見ると、故障明けの選手について「完全復活、本番も任せろ」とか、新たに選出された選手について「キレある動きで活性化」とか出ている。

経過速報やセルジオ越後の実況ツイートで見る限り、とてもそんなポジティブに言える内容ではなかったようだ。

ここまでは僕の憶測の域を出ない。

上述のセルジオ越後のコメントへの非難を見てガッカリしたのは憶測とは関係ない、僕の実感だ。

曰く、努力している選手を貶すのは許せない、又曰く、こいつはただ悪口を言うしかしない害人だ。

しかし選手自身のコメントを見て御覧よ、全員がこの状態ではまずい、と感じているではないか。

そもそもセルジオの言葉や表情に悪意や意地悪さを感じたことが僕には無いのである。彼は確か今もブラジル国籍だったはずだが、日本代表が勝ったら誰よりも大喜びするだろう。

サッカーから一歩離れても、日本という国では批判が恐ろしく下手だと思う。批判のための批判はある。それと愛着からくる批判との違いを感知しないから、ポジティブシンキングといえば、夢を語り、和を唱えるものだけになる。

批判はその合唱での不協和音と見なされるのだな。でも結果が出ないで終わってご覧、今度は非難の合唱になるから。

夢、輝き、キラキラ、人の和、こうした言葉は使えば使うほど嘘くさくなる。

僕が大学生時代、時代は高度成長期に入り、繁栄とか成長とかの言葉が踊っていた。僕にはそれに反抗する運動も含め、全てが嘘くさく感じていた。繁栄と言われるものは水面に広がる油のようなものだ、と言っていたものだ。僕の言うのを聞いた友人の一人が「重松は無政府主義か」と言ったのを忘れない。冗談じゃない。

20年後、バブルという言葉となって誰もが実感せざるを得なくなった。

少々脱線しすぎた。サッカーなぞ勝とうが負けようが大したことはない。それでも僕個人はサッカーが好きであるから勝てば嬉しい。批判と批判のための批判、或いは非難との区別もつかないのでは困るのである。

アイドル化

2014年02月03日 | スポーツ
久しぶりにサッカーの話題を。

以前日本代表がブルガリアの代表に負けた試合後、選手の一人が(吉田麻也という)ブーイングが起こっても不思議ではない試合なのに拍手をされることに対して違和感を口にした。

僕はいつもそんな観客に違和感を覚えるから(もっと言ってしまえば音楽界だってそうなのだ)この選手の気持ちが分かったように思った。

ところがネットでの反応は、もちろんいろいろあるけれど、吉田選手を難じる論調も多かった。自分たちはアイドルではないのだから、という吉田に対して、何でも外国と比べるな、日本には日本の文化がある、そんな批判を返す。

そこが分からない。吉田選手に限らない、少数の心ある関係者やファンは、日本の応援するスタイルを、選手を甘やかすばかりで、これでは強くなれないと苦言を呈してきた。僕はその通りだと思う。

ファンの数だって強いから増えるのだろう?弱くて負けてばかりいて御覧よ、あっという間に閑古鳥が鳴くから。僕は閑古鳥が鳴いていた頃もよく知っている。若い人は知識でしか知るまいが、それはそれは弱かった。

ワールドカップ?予選を何処かでやっているんだよね。せめてオリンピック出場くらいはしてくれよ、プロは出ないのだから。そんな感じ。当時はプロは出場できなかったのである。

オリンピック最終予選で最終試合に引分け以上で決定というところまで行ったこともある。今から25,6年昔だろうか。僕は期待に胸膨らませて国立競技場に行った。スタンドはガラガラで、試合も危惧した通り負けた。引き分けを狙ったとしか思えない、実に消極的な試合だった。そんな時代に戻るのはごめんだ。

たかがスポーツだと達観している人もいるけれど、それはまったく別の話だからこの際措いておく。少なくとも関心を持って観る人にとっては単なるゲームというより「大切」なのだろう。勝てばなぜだか分からないけれど嬉しく感じる。

単純な話ではないか。

それよりも気に掛かるのは、このようなファンに対する苦言まで(負けた時には)口にする選手たちが、普段は芸能人扱いされることに喜んでいるかのように僕には見えることだ。これはスポーツ好きには美しくない。

上記の吉田選手にしたところで、僕が一番気になるのは、いつも何かしら受ける一発芸をしないと、とアンテナを張っている様子が伺えることだ。

彼が手痛い敗戦後、せっかくまともな?ことを言ったのだ、すかさず、そうとも、あなたも普段から気をつけよう、くらいいう人が出てもらいたかった。