季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

快挙

2014年01月15日 | スポーツ
スキージャンプのワールドカップ・フライングで葛西選手が、何と41歳で優勝した。10年ぶりの優勝だという。報道もされたようだから知っている人はいるだろう。

僕は実況を見ていた。ジャンプは二回飛んで合計で順位が決まる。一回目で並み居る強豪を押さえて一位に立ち、二回目は最後に飛ぶことになった。

一度目の順位が低い順に飛ぶのである。

直前の数人が次々に素晴らしいジャンプで記録を更新していき、葛西選手を
はじめとする日本人選手がこういったシチュエーションで失敗ジャンプに終わることが多かったことを思い出してハラハラした。

しかしここでも最長記録をマークして見事な優勝を遂げた。

気持良かったのは、ライバルチームのコーチ達までが興奮してガッツポーズしていたことだ。

葛西選手のところにも、何人もの選手が寄って来て、負けた選手達とは思えない表情を見せながらお辞儀し、握手と抱擁をしていた。これも珍しい光景であった。

好成績をおさめたドイツの選手が、インタビューで自分のことは一言だけ、葛西選手のジャンプに興奮し感動したことを喋っていたのが会場の雰囲気をよく伝えている。

数日遅れだが、とても気持が良かったことを書いておきたくなった。


ワールドカップ 3

2010年07月14日 | スポーツ
今回のドイツチームは強い。ドイツはいつでも強豪国として認知されてきた。

僕が住んでいたころも優勝したし、印象にいまでも残る試合がいくつもある。

しかし今回のチームはそれまでのチームとはまったく性質が異なる。国全体の印象も変化しているのではと思えるほどである。

どう違うのか。僕がいた当時のプレースタイルは一見鈍重ともいえるものだった。

守りは堅実で強く、攻める場合はゆっくりパスを回しながら機をうかがい、それは見ている僕らに真綿で締めあげていくような圧迫感を与えるものだった。そして一瞬の隙をとらえて仕止める。

当然派手さはなく、世界的強豪にも関わらず人気が薄かった。ひいきして観戦する人もジリジリする思いだった。

なにが強かったのかと問われても門外漢には本当には分からず、和声学や対位法のしっかりした作品のようだったとでもいうしかない。

今回のチームは確実な個人技の上に組織だった鮮やかさが目立つ。チーム紹介でも組織がしっかりしているということが強調される。

そうすると日本チームと同じような印象を与えるらしい。個人の鮮やかさがないからと人気が薄い、そんなことだろう。

現にドイツのプレーは組織組織でおもしろくないという書き込みが日本のサイトにたくさんあったが、勘違いも甚だしい。これは組織という言葉に反応しただけだと思う。

今のチームは個人技も非常に高いレベルにある。昔はリトバルスキーのドリブル等は個人技の代名詞的存在だったが、といってメッシのような鮮やかさはなかった。

ではなぜ人気が出ないのか。ドイツの選手の個人技は常に全体の中に収まっているというのがいちばん妥当な答えだと思う。

個人技をメロディに例えると、対位法的に緻密に書き込まれたドイツに比べ、いわゆる個人技に秀で人気のある選手は、イタリアのカンツォーネである。あるいはオペラのアリアである。

さて僕が住んでいたころのドイツチームについては書いたとおりであるが、実はそれよりもっと前のチームは個人の力が圧倒的な選手が大勢いた。

ベッケンバウアー、ミュラー、ブライトナー、フォクツ、オベラートといった面々である。一騎当千という選手たちだったが、それにもかかわらず全体の中で機能していた。その特徴は今回もはっきり見て取れる。

では以前のチームと今回のチームの違いはなにか。ベッケンバウアーのころの強さをバッハのブランデンブルグ協奏曲だとしたら、今回のチームはリストのピアノソナタ、そんな感じに違う。一種の派手さがある。

いまドイツ国内リーグは、外国人監督が多いのかもしれない。例えばトップチームであるバイエルン ミュンヘンに外国人監督が君臨して高い評価と尊敬を受けている。以前は考えられないことだった。

プレースタイルが大きく変わったのはそうしたことも影響するのだろうか。

ところで、この記事はここまでは準決勝前に書き始めたので、現時点ですでに大会は終わっていて、ドイツの三位が決定している。

にもかかわらず、何一つ変更する必要を認めない。三位決定戦で再逆転したあたりにかつての面影を見いだすけれど。

人気がない理由はメディアの取り上げ方にもよる。一次リーグから例のドンチャン騒ぎを含めて全試合中継がありながら、三位決定戦だけは放送がなかった。スカパーはあったけれどね。

ドイツのオンライン新聞によればじつに力のこもった好試合だったという。大会全体のMVPに、この試合に負けたウルグァイから選出されたことからもそれは窺える。

もう一つ、準決勝前に主将のラームが、今回怪我で出場ができなかった本来の主将バラックに代わってずっと代表キャプテンを務める用意があると発言して、賛否両論が(選手間からも)上がったことは日本ではまずお目にかからぬ出来事だった。

このレベルまで真似をする必要があるとは思わないけれど、シュートを打つ精神構造とはほど遠いという僕の意見を裏打ちするような例である。

日本選手は不満は親しい記者に漏らすという形しかない。何だか「首相周辺によれば」なんて記事ばかりの政治記事そっくりでしょう。

そう思いを巡らせば、日本は監督をすげ替えても今以上は強くなれない。なにひとつ変わらないだろう。それでも代えていかねばならないという希望のない交代劇もなにかこの国の政治劇をみているようでしょう。

それにしてもドイツのこれだけ鮮やかな世代交代を見せつけられると羨ましく思う。

ワールドカップ 2

2010年07月01日 | スポーツ
一昨日の試合は残念だった。

勝負は何ともしがたいし、選手は頑張ったと思う。

ただ、デンマーク戦後に書いた記事で触れた日本の最大の弱点が見えた典型でもあった。

3点あげておこうか。

デンマーク戦の3点目、本田選手のプレーに関して僕は記事の中でこういうのはここ一番にくずれる原因になる旨を書いた。因みにこのプレーこそ、さまざまなメディアで往年のプレーヤーたちが絶賛していたのである。フォワードの選手ではないからこそできたすばらしいプパスだと。僕はまったく違う意見を持つのだが。

コメントしていたかつての選手たちも同じように煮えきらぬプレーが多くて、切歯扼腕した歴史を持つ僕としては苦笑する以外ないのである。君たちのその意識がまずかったのではないかと。

昨日最終盤、玉田選手がゴールを目の前にしてシュートせず、誰もいない所へパスとも何とも言いがたい、意思のないボールを出した。それまでの内容はともかく、決定的な場面だった。あれは自分で打つべきだった。他の選択肢はない。失敗しても仕方ない。仮に横にフリーの選手が見えていたならばともかく、彼はまったく見えていないはずである。にもかかわらず打たなかった。僕が本田選手一人のことではないと書いたのは、結局こういう場面が肝腎なときにやってくると危惧していたからである。

この弱点はずっとあったし、これからもあり続けるだろう。

玉田選手をあの時点で使ったことをアグレッシブな岡田采配とするむきが多いだろうが、采配こそが2点目の問題だと僕は思う。サッカーも人の営みだから、人に対する目、勘はプレーに関してと同様に大切なはずだ。

僕はむろん専門外だから、プレー自体への意見は持てない。ただ、玉田選手は今までも何度も同じ消極さを示してきた。好青年だがあんな切迫した場面で使うのは無理だと思う。何も彼にとどまらない、人となりを把握せずに純粋にプレーする技術だけを見たってだめである。そういう視点がなさ過ぎる。

トルシエが中村俊介選手を選出しなかった理由を「彼がいるとベンチの雰囲気が悪くなるから」と言ったそうだが、当否はともかく、そんな理由も大いに説得力を持ってしかるべきなのである。

3点目、これが最大のものかもしれない。

番組には相変わらず人気タレントを、誰だか知らないけれど、スタジオに揃え、司会もサッカー好きのお笑い系タレントだった。現地スタジオには元選手の小倉さん、中田英寿さんがいた。試合後のこの二人のコメントは対照的だった。小倉さんは日本メディアの中に暮らす元選手の大多数がそうであるように、結局のところ何を言っているのか、うやむやなままだった。しかし中田さんは実に上手に、的確にゲームを振り返って問題点と良かった点を具体的に指摘していた。聞いていて感心した。

さて彼の話がより大切な点に触れかけていたとき、司会のタレントが割って入って、どうでも良いことに話しを振った。話は引き取られたまま途切れてしまい、戻ることはなかった。僕がメディアを批判するのはこういったことだ。

なぜわざわざ中田という人に依頼してコメントをもらいながらそれを一種の娯楽に仕立ててしまわなければならないか。こうやって批評がうやむやになる現場を見せられて僕は不快であった。

この点はいくら言っても言い足りないが、急いで投稿しておく。

ワールドカップ

2010年06月29日 | スポーツ
対デンマーク戦は非常に良かった。

前監督のオシムは辛口だったが、それがどこのプレーを指しているのかおよそ見当がつくけれど、とにかく結果を出したことを評価する。なんて偉そうでしょう。

オシムによれば、数人の目立ちたがり屋が個人プレーに走って、それがなければあと数点入っていてもおかしくないゲームだったという。

専門家の言うことには耳を傾けよう。周りが見渡せていないのは日本選手に限らずまずい。しかし、と僕は思う。日本選手の最大の弱点は、見えていずに自らシュートを打つ場合でも、何かしら覚悟といおうか、それが足りずに打っていることではないだろうか。

ワールドカップなぞを見ていると、他の国々の選手のシュート力が恐ろしく強いのに、日本選手のはヘロヘロしているのが目立つでしょう。

日本人がキック力が弱いと思う人が多いだろうが、それは間違いではないだろうか。

以前サッカー番組で外国人選手、日本人選手入り混じってスピードガンで計測したことがあった。かねてから日本人選手のシュートが弱いことに残念な思いをしていたので興味深く見たのだが、結果は意外や意外、スピード自体は殆ど変わらず、強烈なシュートを売りにした外国人選手よりも数字が上の選手もいた。

この点について僕は大変面白く思うので、そのうちにもう一度触れたいと思う。

デンマーク戦を見て気になる点をひとつ。それは岡崎選手の得点にからんだプレーだ。本田選手が自分のシュートレンジだったにもかかわらず岡崎選手にパスを出した。

試合後、本田選手自らが「あそこで自分で決めないのが俺がフォワードになれない理由だ」と語っていた。しかしフォワードになれないで済む話ではないかもしれない。サッカーが弱い理由のひとつと言う方が正しいだのかもしれない。

今回は幸い得点になった。しかも岡崎選手がこのところ得点できずにいたことを考えると、短期的に見れば流れが良くなる可能性がある。フォワードは、とくに岡崎選手は一度得点すると重ねて得点する傾向があるから。

でも長期的に見るとこうしたプレーが甘いと思うのである。

目に付いたところでは長友選手かな。対人に結構強い。肝が据わっている。日本チームは体の大きいことばかり求めるような気がする。大きくなくても当り負けないのは彼を見ても明らかだ。日本選手の場合、体が大きいと足元が覚束なかったり、身体そのものが弱々しかったりするようだ。

さて次戦に流れがつながるか。つながることを祈ろう。守備の強いチームだ、ある時には遠目からシュートを打つ、ドリブルで突っかかる、といったプレーも必要だろう。そのときに漠然としたプレーにならないことだと思う。その点はピアノの演奏と同じなのだ。一応形は整えました、といったプレーにだけはなってほしくない。



またまたサッカーについて

2010年06月23日 | スポーツ
日本代表の対オランダ戦は善戦だった。一次リーグ突破は数値上の可能性は高いけれど、そう簡単ではないだろう。

結果はともかく。次の点を挙げておく。僕がサッカーに関して書く理由の最大なものだから。

ドイツは最有力候補でありながら第二戦で負けて苦戦を強いられた。クローゼという中心選手がイエローカードを2枚もらって退場処分になったのが痛かった。

Die Welt 紙上でクローゼへ長いインタビュー記事が載っていた。記者の質問は退場の対象となったファウルについてが主で、クローゼは通常のプレーに過ぎない、審判はあのプレーをファウルにするべきではなかったと弁明にこれ努めていた。

しかし、と記者は食い下がる。あなたはすでに一枚イエローカードをもらっているのだからもっと慎重になるべきではなかったか?と畳み掛けて質問する。

こういうやりとりが日本ではほとんど見られない。サッカー、スポーツに限ったことではない。たとえば政治の場においても同じだ。

対オランダ戦で決勝点は川島選手の正面で急に変化して手ではじき損なってゴールに吸い込まれた。日本のメディアは川島選手に対しては殆どコメントをしていない。しかしイギリスでは最低レベルのキーパーだと報じられ、一方オランダでは今大会の公式球が悪評なことと関連させて、非常に優秀なキーパーなのにボールの犠牲になったと報じた。どちらに耳を傾けるかは人それぞれだ。

これらは日本でも報じられたから目にした人は多いはずだ。しかしこの報道は他国のメディアによるもので、日本でそれを紹介したというに過ぎないことは気づいておくべきだろう。

他にもフランスはチーム内のごたごたが頂点にまで達し分解寸前で、イギリスもまた大きな問題を長いこと引きずっている。この国々にとっては今大会は終わっている。

にもかかわらず次の大会、そのまた次の大会にはしっかりと立て直して強豪国になっているだろう。チーム内のいざこざはないに越したことはない。それでも大局的に見ると、それが新たなエネルギーになっているとしか思えない。彼らはそれを伝統と呼ぶけれどね。

どうしてそんなことが可能なのか、と問えばやはり「批評」の存在だろう。選手間でも名指しで批判したりする。仲が良いとはとてもいえないようだ。それでもいざ試合になると立派な連携を見せる。

日本も結果が悪かった場合色々言う人が出る。しかしそれは外国の批評と違って、何かしら後に尾を引くようだ。だからふつうは当面の問題には目をつむっている方が無難だ、という感じ。そこが表面上の平和を求めているように僕には映る。

こうした態度は社会全体にも政治の場にも(特に国際政治)同心円状に表れていないか。同じ時代の同じ人間がすることだ、常識的にいってもそうだろう。




ワールドカップ

2010年06月17日 | スポーツ
僕の予想を裏切って、日本代表は初戦を勝った。僕はすなおに喜んでいる。

ただし日本チームが課題を克服したのではないことは知っておくほうがよい。一点取って勝ったのだが、シュートは後にも先にもこの一本だけだ。今までの課題中最大だった攻撃の精度と集中力は相変わらず低かった。守備の課題はある程度克服したようだが、それも後半25分過ぎから安易なパスをカットされて劣勢に立つことが多かった。

勝負事は結果が出ればそれはそれでよい。その意味では第一戦は嬉しい結果だ。しかしメディアはこの試合自体はレベルが低く、しかも日本チームは次の試合への糸口を見つけていないままではないか、という現実から目を反らしているようだ。

紙面には策士岡田なんて文字が踊ったが、それは違う。キーパーにしろ、得点を挙げた本田選手にしろ、岡田監督が策を練って起用したのではない。采配が冴えたというのはあまりに美化している。

少し前にも世界を代表するプレーヤーのひとり、C・ロナウドにどこかの新聞社がインタビューを申し込み「日本チームの印象は?」なんて訊ねて恥ずかしかった。まるで相手にされず、早く負けたほうが観光できて良いかも、と茶化されていた。くやしいね。

ドナルド・キーンさんの「日本人の質問」という本を紹介したことがある。その中で「日本をどう思いますか?」といった類の質問が多いことが記されている。それを思い出す。「あなたのお国では○○○なことはありませんでしょうねぇ?」という尋ね方をする人が多いとあった。

質問者は日本が強くないことを承知しているのだろう。承知していないならあまりに浮世離れしているしね。承知の上でこんな質問をするのならば、その心理はずいぶん複雑だ。この辺りになるとサッカーに限ったことではあるまい。

そんなことに精を出す暇があるなら、きちんと自分の目を働かせて記事を書きたまえ、と言いたくなる。

言うまでもなく今回、奇跡は起こって欲しいのだ。しかし奇跡に頼るのではなくて実力によって勝つようになるためには本当の姿を知らなければならない。メディアが僕たちとともに浮かれてどうする。

各選手を紹介するのに、やれ昔不良だっただの、母親に苦労を掛けただの、愛妻が待つだの、ぺんぺん草が生えただの、背景の細かい描写ばかりあって肝腎のテーマは腑抜けになる。日本の近代文学は私小説という独特の形態をもった。そんなこととどこかで結びついているのではないか、そう勘ぐりたくなる。

あるいはもっと下世話に、浪花節だと言った方がより適切なのだろうか。

今の選手たちの「のりの良さ」は決して持続するものではない。せめてあと一試合調子に乗ってもらいたい。現実ははたしていかに?次の相手オランダは僕が見た限りではデンマークと立派な試合をした。見ごたえがあった。しかしドイツの Die Welt だったかな、そこでは退屈な試合だったと批判されていた。僕には高度に映る試合でも厳しく批判される。世界のチームはお調子者が何試合も勝ち続けることはできない、きびしい環境で育っているのである。日本があまりに無残に負けるのはオールドファンとしては忍びない。そうならぬことを祈りたい。

せめてパスに意思を持たせてもらいたい。緩急をつけてもらいたい。シュートを打てるところまで作ってもらいたい。

後出しじゃんけんにならぬよう、今から投稿しておく。








国歌独唱

2010年05月27日 | スポーツ
サッカーの国際試合では、試合前両方の国の国歌が演奏される。演奏といっても今日では録音によるのであるが。

日本で開催されるときには通常音楽のいろいろなジャンルの人がゲストとして招かれ独唱する習わしである。

試合前に国歌を独唱するのがどのくらい一般的なことなのか僕は知らない。しかし世界的に習慣化された形式ではないのではないか。

以前からこの君が代独唱には好感を感じなかった。すべての歌手が自分の「持っている」スタイルで歌うものだから、世にも珍妙なものになっていた。

演歌歌手は情緒たっぷり音程をずり上げながら、オペラ歌手はヴィブラートを効かせすぎて音程がわからず、ロック歌手は自分の激しいスタイルを崩してなるものかと頑張る。

ずっと昔、がらがらの国立競技場に当日券で行ったころにもこのセレモニーはあったのだったか。すっかり記憶から抜け落ちている。

どうにも田舎臭いと感じる。仮に独唱するにしても、ひとつ自分のふだんの歌唱スタイルを脱して、ごく素直に歌ったらカッコいいと思うんだけどね。

マイケル・ジャクソンがあのスタイルのままアメリカ国歌を歌うところを想像してご覧なさい。ものすごく滑稽でしょうが。今の試合前の君が代だって僕には同じに聴こえる。

もしもこの様式が日本特有のものであったならば、その依って来る由来を知りたく思う。僕は、何度も言ってきたことだが、盛り上げるための演出から生じたことではないかと見当をつけている。

ここへ来てしかし、ちょいとした「異変」が起きている。
人気歌手に代わって少年少女合唱が歌うのである。

勘ぐれば、低年齢のファン層を掴みたいサッカー協会と教育委員会の思惑が一致したのではないか。

僕は考え込んでしまう。そこまでして国歌斉唱の場を盛り上げたいのだろうか。むしろその時間だけぽっかりと空虚に空いてしまったように感じるのを如何ともしがたい。

ホテルでこれを書いていたら、スポーツニュースでヨーロッパの国際試合を報告していた。やはり独唱なしで、録音による金管合奏である。さっぱりしていて気持ちがよい。

・・・たかがサッカーだが・・・

2010年04月29日 | スポーツ
サッカーの代表は考えられるもっとも悪い道を転がり落ちている。

先日の試合も相変わらずタレントが出て、なんと中継中にその人のイベントの宣伝が入る有様だった。これに違和感を覚えないサッカー協会はどうかしている。テレビ局はどんなことをしてでも視聴率さえ取れればよいのだろうが、そして人気が落ちれば他の騒ぎを演出して転出すればよいのだろうが、捨てられた方の身になってごらん。

と書いていたら次のような記事を見つけた。


サッカーが強い他の国であれば、そもそもここまで状態が悪化する前に、監督は更迭されているだろうし、協会の誰かが責任を追及されているだろう。
結局、日本には組織を責める文化がないんだ。ぐっと我慢してしまうのだろう。我慢していれば、そのうち過ぎ去って、また新しいイベントが始まる。その繰り返しだよね。バンクーバー五輪の後も、トリノ五輪の後と同じことが言われている。
スポーツ文化が、まるで成長していないんだよ。サッカー日本代表の現状は、その象徴と言ってもいい。

おそらく、誰の首も代わらず、責任の所在もぼかされているこの最悪の状態のまま、日本代表は南アフリカW杯に臨むことになる。ドイツW杯以上の惨敗になる可能性は高い。
その惨敗を契機に、日本のサッカー人気は落ちるところまで落ちるという心配もあったけど、そうはならないかもしれない。なぜなら、誰も何も期待していないから。

これはサッカー評論でおなじみのセルジオ越後さんの記事だ。もっともなことだと僕は思う。僕としては2月17日の記事で書いたことを繰り返すしかない。

日本人の大好きな精神論は役に立つまい。そもそも精神って何だい。和って何だい。こうやって列挙していくと、企業の研修や実態と結びついていくでしょう。

ある大企業は会社に椅子がないのだという。社員は一日立ちづめだそうだ。

他の大企業は廊下にセンサーがあって、渡り歩くスピードを監視しているという。

こういうのを精神力とでもいうのかね。僕はいやだなあ。学校の運動部なんかでも、昔は練習中水を飲みたい?ふざけるな、たるんでる、という感じだったでしょう。それが形を変えただけじゃあないか。


サッカー

2010年02月17日 | スポーツ
やはり日本代表は韓国にも完敗した。

犬飼会長は岡田監督の更迭はリスクが大きいから考えないという。僕はそれを予想していた。その上でその考え方に反論しよう。

前の記事で戦術云々ではない、もっと根深い問題だと書いた。それではただ監督を更迭するというのは矛盾しないか、という声もあろう。

しかし私見によれば(いやあ偉そうでしょう)犬飼さんのような考え方自体が日本の手詰まり感を産み出している。

サッカーの代表でいえばフォワードがリスクを恐れて安全なほうへ流れていくことが大きな特色のひとつである。これを特色といえばね。もうひとつはこれと密接な関係があるけれど、技術が技術としてのみあること。これも、これを技術と呼べるかということは今問わない。

今のままではいけないという認識を誰もが持っているのでしょう、それにもかかわらずなおもリスクが大きいというのは解せない。仕方ない、そこまで追い込まれているのだ、リスクを負ってでも決断しないと他になんの方法も見つからない。

あと1試合3月3日のバーレーン戦に負けて御覧なさい、もう解任論が大きくなりすぎるから。そしてそこまでの時間はあまりにも大きい。ただでも後手に回っているのにもう完全に手遅れである。仮に更迭しようか、という気持ちが少しでも心に浮かんだならば今をおいてしかない。

ワールドカップのことを考えると、どうやっても今のままではただ笑われにいくようなものだ。選手は萎縮している。たとえば前の試合で、勝ったにもかかわらず平山選手はインタビューの間、スタンドの反応をチラチラ気にしていて痛々しく感じるほどであった。前を向くしかないという選手たちのコメントはむなしく響くばかりだ。

そういう時に思い切って決断しない、その姿勢こそがフォワードの勝負弱さを生む土壌なのだと僕は思う。

本大会の直前に監督を代えてどうかなるような高いレベルには残念ながらない。しかしこれではおそらく1勝もできないだろう。その時に一気にサッカー離れが加速するだろうと古くからのファンは気を揉むのである。

サッカーに関して僕がこれほどまでに熱意をもって語るのは、もちろんサッカーを愛好するからであるが、前にも書いたように日本のあらゆるシーンの象徴でもあると感じるからだ。

以前関係していたコンクールが存亡の危機に直面していたときも、今日各音楽大学が学生の減少を憂えているときも、結局根本的な手を打たずうやむやにしながら明日になる。そして消滅する。

起死回生の妙案を持っているわけではない。自分の周りを見回してみろ、というだけの話だ。

大風呂敷を広げるとね、幕末の日本中のてんやわんやと何一つ変わっていない。記録を読めば読むほど、自分たちで決断をすることが苦手なのだと思わないわけにはいかない。

仮にメディアの中で解任論が大勢を占めるようになっても彼らの責任は大きい。「岡ちゃん」とか侍とかの演出を手がけたのは彼らだからだ。僕は結論が合致したからといってメディアを善しとはしない。結論が同じだからと呉越同舟を決め込むのは政治だけで充分だ。僕はメディアの「厳しさ」には眉につばを塗っている。

選手に芸能人と同じ扱いをしてすっかりその気にさせておいて、負けると梯子を外す。その幼稚さに僕は異論を唱える。

音楽界でもういやというほど見かけるのでやりきれないのである。当事者といいメディアといいうんざりだ。

久々にサッカーのことを

2010年02月14日 | スポーツ
サッカー日本代表は僕の予想を裏切って?南アフリカ大会への出場権を得た。

それは嬉しいことではあるが、長いサッカーファンとして看過できないことがある。

現在東アジア選手権という大会が開かれている。南アフリカ大会まであと3,4ヶ月しかないというのに、ワールドカップ予選中に僕が書いた不安材料は何ひとつ解消されていない。

それどころか、ますます日本のサッカーの力は低下しつつあるように思われる。言うまでもないけれど僕は単なるサッカー愛好家に過ぎない。僕が目をつけるのはプレー自体もさることながら、それをメディアが如何に取り上げるかという点である。

香港に(香港の力量は世界レベルからするとアマチュアである)やっとの思いで勝った後「香港に勝って(これまでの不振の)鬱憤晴らし」「香港に快勝」という見出しが躍る。スタンドの観客からは勝利監督インタビューだというのにブーイングが起こった。それは香港戦に対しての正当な評価だと僕も思った。それほどひどかった。

報道と一般人との反応がこれほど乖離するのは良くないのである。繰り返すが、古くからのファンである僕は潮が退くように人の心がサッカーから離れていくのではないかと心配する。

メディアは必死になって「盛り上げ」ようと標語を作り話題を提供しているが、肝腎の批評精神がない。

「さむらい」なんて軽々しく言うものではないのである。弱いことを認めて、それを少しでも改善するように努めるべきところを、虚飾の文言を振り回す。こんなみっともないことはないではないか。

こんな苦言もサッカーに限ったことであればサッカーに関心のない人にはどうでも良いことなのだ。でも本当にそうか?

僕がサッカー自体よりもそれをメディアがどう扱うかに関心があるというのは、一時が万事同じことだと痛感するからである。

音楽の世界も、産業界も、何から何まで同心円を描いている。鍵盤の帝王や女神や美人、プリンス(今はプリウスだけどね)等々、張子の虎とはこういうものだ見本市状態(すご日本語を駆使したくなるよ、まったく)、それを演出しようと苦心惨憺しているのはメディアではないか。

若くて才能がなくはない人を散々おだてておいて梯子を外すような仕打ちをしているのはいったい誰だ?

なぜありのままを報道ひとつできないのだろう?スポーツはそれ自体ですでに面白いものである。少なくとも面白いと感じる人にとっては。

それによけいな演出を加えるとどうなるか。心ある人はいっぺんに興ざめするだろう。ちょっと前には取ることが難しかったチケットなのに、やたらに空席が目立ったのはそれを証明している。

岡田という監督を選んだことに対しての僕の感想はすでに書いたような気がする。チームに対しても書いたことがある。チームの和ということを選手たちも勘違いしていると思う。それに関しては「西鉄ライオンズ」という題で書いた。(2008年5月27日)

つまりチームの中でも批評がなされていない。課題が見つかったという言葉はよく聞かれるが、それが何で原因はどこにあるかを明言する選手は少ないようだ。仮に誰かがそれをすると「チーム内に不協和」と報道される。

これでは自主性が育つわけがないではないか。サッカーが国民性に合わないのではという意見にいたっては(これは成績が上がらないときによく聞く意見だ)そんなことを言って何になる、と言いたい。それとも(これも自嘲的に言われるが)民主主義は日本の国民性に合わないとでもいうのだろうか。

専門家は11人のシステムについて意見を言い合っているが、僕のような長年の素人にはそれは大きな意味を持たないと極論したい気持ちがある。あるシステムが本当に万全ならばとっくにそのシステムが世界を席巻しているさ。

もっとはるかに根深い問題があると音楽家は直感しているのさ。