季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

コメント

2009年08月14日 | スポーツ
今年のツール・ド・フランスに(百年の歴史を持つこの大会に)日本人として2選手が初の完走を達成した。以前紹介した新城(あらしろ)幸也、別府史之の2選手である。

3週間にわたり、毎日200キロメートル近く走り、山岳ステージで時には標高差2000メートルというとんでもない峠を連続して走破する。完走するだけでも大変なことだ。

フランスでも日本人が出場するということだけで話題になっていた。話題になっていることの大きさを僕たちはあまりピンとこないかもしれない。

有名な(なんて書くのは、足掛け10年ヨーロッパにいたのに、フランスに行ったことがない田舎者だから)シャンゼリゼー大通りが全面通行止めになるのは一年のうちで、革命記念日とツール・ド・フランス最終日パリゴールの日、2日のみだと言えば少しは通じるだろうか。

現地のマスコミからも大いに注目されていたようだが、残念ながらフランス語がまったく分からない。フランス語らしい、ということだけ分かる。

デカルトは、ただひとつ確実なのは自分が何かを考えているということだ、と考え、そこから一歩一歩考察を発展させていった。(詳しくは「方法序説」を読んでください。タイトルは厳めしいが、誰でも素直に読める)

しかし、フランス語である、ということから考察しようとしても、そこから先は一歩も進まない。

仕方なく、You Tubeで新城選手の日本語のインタビューを見た。

この青年はとても感じの良い受け答えをする人だと思った。

全ステージ終了後のインタビューでは、完走を果たした最初の日本人(別府選手と同時に)としての感想を何べんも訊ねられていた。

質問者はそれに対する喜びの言葉を期待しているのが手に取るように分かる。また、21日間で疲れ果てたという感想を手にしたいらしい。

ところが新城選手は自分の言葉を探すようにしながら「疲れは大したことがなかった」という趣旨の発言をする。

その辺りの呼吸が見ていて面白い。選手からしたら、取材を受けるのは当然としても、煩わしいだろう。

初の出場で感動したであろう、と決めて掛かる質問も多かった。そこでも、意外だがスタート前日のほうが多少の感動はあったが、いざ始まると普通のレースが始まっただけだった、と当たり前の答えが返ってくる。正確な答えで、僕は感心した。

最終日にシャン・ゼリゼーに入って来たときの感動も、インタビュアーとしては何が何でも聞きたいところだっただろうが「周りから鳥肌が立つぞ、と言われていたけれど、いざその場にいると特別の感慨はなかった。石畳の感触に、何だ、これは、と思う気持ちのほうが大きかった」と実に正直なのである。

自分を「感動の渦」に巻き込むような心理操作をしない、こういう実際的な精神を持つ人はきっとこれからも強くなると思う。

それにしてもスポーツについて書くとどうしてもマスコミの未熟さに触れないわけにはいかないのが残念だ。

(別府選手は期間中、楽しんで走った様子なのに)新城選手は日に日に辛そうで楽しんでいないように見えたが、と振られて「そんな風に見えましたか、それなりに楽しかったです。どこを「楽しい」というか、それは分からないですけれど」と、ここでも正確な答えが返ってくる。

○○を楽しむ、これはきわめて要注意な言葉だ。周囲が不用意に使う言葉ではない。ましてや楽しんでいるように見えないなどと口が裂けても言ってはならないはずだ。

新城選手は(日本では)マイナーなスポーツの選手らしく丁寧に答えていたが、こうした取材が度重なれば、他人事(ひとごと)だと思って楽しむという言葉を軽く使わないでくれ、と言うかもしれない。




共通するもの

2009年07月28日 | スポーツ
病院の待合室に自転車の雑誌があった。こういうところで見かけることはあまりない雑誌だから、ことによると医師は自転車好きなのかもしれない。へたに話を振るのはやめよう。理由ですか?お察しください。

自転車といっても勿論ママチャリファンのための雑誌ではない。ママチャリに関しての記事だって探せばあるのだが。いわゆる競技用バイク、マウンテンバイクやロードバイクに関する記事がほとんどである。

ぱらぱらページを繰っていたらプロ選手がテクニックについてアドヴァイスしている記事を見つけた。自分が呼び出されるまでの短い時間だったけれど、およそのことは記憶して帰った。

こうしてみるとまだボケてはいないのかもしれない。プロの立ち読みストの面目躍如である。(そうそう、思い出したが、ブックオフってありますね。あの店では立ち読み自由なのです。先日えらく疲れたときがあって、買うまでの本ではないにしろ中断するのも残念だ。そこでしゃがんで読んでいたら注意された。しゃがんだら立ち読みではないということでした。厳密な解釈に脱帽します。皆さん、ブックオフではきちんと立って立ち読みしてください)

多くのスポーツファン同様、僕はもう自分でスポーツはしないで、もっぱら観戦である。自転車なんかは自分で乗っても良さそうなのだが、歩道を走ると叱られ、車道を走ると心ない車に煽られ、危険なことこの上ない。規則上は自転車は車道を走らなければならない。ヨーロッパの都市部で立派な自転車レーンがあるでしょう、あれは羨ましいな。

自転車も、好きな人ともなると100キロなんてへっちゃららしい。近所の男性も、ちょいと同窓会で伊豆まで、とか自転車に跨っていく。

そのレベルまで来ると、ペダリングが大きな影響を持つのだという。

ここでこの文の題名を思い出して「ははん、共通するものはペダルだな」と思った人はなかなか良い記憶力と注意力を持っている。

だが、おあいにくさま。

そう連想した人はまだまだ並みの空想力しか持たないのかもしれない、と自省したほうがよい。

長い距離をこいでいくと、少しずつの力のロスが大きな差となってくるのだという。まあこれは言われなくとも分かる。

ペダリングの良し悪しは、尻が安定するかにも影響するというのだ。ここはピアノととくに共通しない。尻が安定しないとまずいという点では、しかし共通する。

面白かったのは、尻をどうやって安定させるのか、というアドヴァイスである。

お腹をぐっと引き締めて背中というか、肩甲骨あたりを丸く保って、そこの力で体全体を押し付ける感じで、というのだ。

この感じはピアノを弾いている状態とよく似ている。と言ったところで、解説するのは至難を極めるからそれはやめておくけれど。分かる人には分かるだろうか。レッスンの場で言うと、なるほどと頷くひとがいるところをみると、分かる人もいるのでしょう。

ピアノの世界で無反省に脱力が唱えられているのを見る。これほど害のある教えもなかろう。

上記のアドヴァイスはスキーの選手でも頷くのではなかろうか。スキーはまったくしたことがないに等しい僕が請合っておく。スキーヤーが猛スピードで滑降して瘤を越えるときジャンプしますね、あのときの身体の縮め方と共通するように思われる。

ピアノを弾くときの身体のあり方とも共通する。

土屋賢二さんという哲学の先生が面白エッセイ中でピアノ演奏について書いていたな。この人は、ジャズピアノをたしなむそうだ。

ピアノ奏法でもっとも大切なのは脱力だ。完璧な脱力ができなければ弾けないそうだ。でも完璧な脱力をしたら座っていられないと思うのだが等々、もっともなことが書いてある、ピアノを弾く人たちは笑ってばかりいないで、ちょいと観察したらよいと思う。




ツール・ド・フランス

2009年07月11日 | スポーツ
今年もツール・ド・フランスの季節になった。5月にイタリアの緑を満喫して、6月にスイスに行った気分になって、今また地中海でヴァカンスを過ごす。まあこんなに楽にその気になっていたらいかんなあ。

中華街の旨いものを写真や映像で見て食べた気持ちになることは絶対にないのに、自転車競技を見ていると行った気分にすらなるのはなぜだろう。

フィンガルの洞穴を聴くとイングランドの北方に行った気持ちになる。こうした心の動きと中華街の旨いものとの差はなにか。素朴な疑問だが、あれこれ思いは巡らせることができそうである。こういうところから考え始めるとおもしろいでしょう。

さてそれはさておき、自転車競技は日本では競輪のイメージが強すぎて少し間違った目で見られているようだが、ヨーロッパの3大スポーツといえば、サッカー、自転車のロードレース、F1に代表されるモータースポーツを指す。

モータースポーツは日本人ドライバーで有名な人が何人かいるけれど、自転車競技で世界的な選手はほとんどいない。世界的に有名どころか、最大のイベントであるツール・ド・フランスには過去たった2人しか参加していない。

最初に参加したのは名前は忘れたが、個人参加が可能だったころ、よほど変人だったのか、船で渡仏して出場したそうだ。

大会がおよそ現在の形になってからはたった1人、13年前に今中大介選手があるのみだった。今中選手は残念ながら3週間完走できず、リタイアを余儀なくされた。

それほど大きくて過酷な競技に、今年2人の日本人選手が参加している。新城選手と別府選手という。別府選手は日本のロードレース界でのエリートだったから、僕でも名前と顔は知っていた。世界の強豪チームに籍を置いたこともあり、そのうちに大きな大会でテレビに映ると楽しかろうと期待していた。

新城選手も、熱心なロードレースファンの間では知られた存在だったらしいが、熱心なファン層が限られているわが国では、高が知れている。高校ではハンドボールをやっていたそうで、福島晋一さんという選手(かな?ちょっと前までは選手だった)が見出して両親を説得してフランスのチームに(この時点ではフランスに本拠を置く日本のチームに)入ったという。

この人は選手を発掘するのが大変上手なのだそうだ。どの世界にもそういった名伯楽はいるものだなあ。

13年ぶりに、それも一度に2人も出場するのでメディアはこぞって配信している。

3週間のレースは、毎日が独立したレースにもなっていて、それをステージというのであるが、第2ステージで新城選手が何と並居る有名選手に伍して5位になった。解説者もかつての選手であったが、驚きのあまり声が出ない。アラシロー?5位?・・・こんな感じ。

さあ、その後ネットで見ると大変だ。例によって日本のメディアが馬鹿騒ぎを始めている様子だ。

今中選手の時も凄かったらしい。彼らはマイナーな競技をメジャーなものにしたい気持ちが強いから、大勢の皆さんに取材に来ていただいてありがたい、と言っている。しかし、メディアもひとつ大人にならないと、あらゆる分野で育つものも育たない。

過酷な3週間を考えると、心ない持ち上げ方をしないでもらいたい。ロードレースの何が過酷といって、ひとつ例を挙げるならば、一日9000キロカロリーを摂取しなければならないことだ。胃腸がよほど丈夫でなければやっていけないという。僕の周りには摂取するだけなら大丈夫だ、と胸を張りそうな人間が多いのであるが、普通の人にはできることではない。そんな日々に、周りで銀蝿のようにぶんぶん飛び回って顰蹙を買わぬように願いたい。

2選手の活躍を僕も大いに喜んではいるが、何といっても途轍もない大きな大会の脇役でしか、今のところないのだから。トップとタイム差が付きすぎると失格になる。落車による骨折、擦過傷、その他のアクシデントも日常である。21日間完走するだけでも大変な快挙だ。完走を祈る。

失望

2009年06月19日 | スポーツ
サッカーのワールドカップ予選がすべて終了した。日本チームのですがね。
幸いかろうじて予選を突破して本大会に駒を進めることができたが、出場を決定したあとの2試合で、またしても長い長い課題を引きずったままであることを露呈した。

対オーストラリア戦でのパフォーマンスにも、もちろん失望した。いつもながら、自分たちの持ち味を出そう、という観念に縛られて、自縄自縛を絵に描いたような試合だった。持ち味なんて楽音と一緒だ。必死にやってみて、そこから自ずと顕れるものだ。

しかし僕が何にもまして失望するのは、日本のメディアの姿勢なのである。これが変わらない限り、チームは強くならない。なにもサッカーに限ったことではないのである。

テレビ中継は、スタジオに芸能人を招き、応援団長だと持ち上げる。馬鹿騒ぎをして盛り上がりを演出する愚かしさ。

そこに加えて、批評精神のない記事や番組の乱立。まるで獲物に群がるハイエナのようだ。負ければ自分たちが仕掛けた「話題」はそっちのけで、いつの間にか悲観的論調ばかり目立つ。

岡ちゃんが岡田辞任(事実じゃないよ、念のため)という論調に変わるのは象徴的だ。

岡田監督は本大会の目標を4位以内と言った。良いだろう。目標は高く掲げるものさ。彼の中にビジョンはあるのだろうが、それは周囲から批判されることによって鍛えられる。

それなのに、ちょっと調子が良ければ、お祭り騒ぎは一段と盛り上がり、日本チームの実力を正確に伝えない。やれお母さんがどうした、誰それとの男の約束がこうした、という美談のオンパレードになる。

勝ったら喜ぶ。それは良い。しかしいつの間にか日本チームが世界レベルになったような持ち上げ方をするのは正しくない。正しくないというよりも、サッカー(あるいはスポーツ全般)の面白さを減少させる。

日本チームは弱い。非常にひ弱い。それにもかかわらず本大会に出られるからこそ嬉しいのである。そこに批判があるから弱さを克服する道も開けるのだ。断るまでも無いことだが、批判することは非難することではない。

例えば世界のメディアをはじめとする目が、日本をどう捉えているかを知れば、浮かれている場合ではないと承知するだろう。

あらゆるメディアは負けた試合の後は、必ず「前を見つめる」というフレーズを繰り返す。敗戦のショックの大きさをこれまた情緒的に伝えるのが報道だといわんばかりで、個々のプレーへの言及は無いに等しい。

せっかく選手へのインタビューをする機会に恵まれながら「今のお気持ちを」という質問しか出ない。こんなことでは選手の方からも「問題点が見えたのが収穫だ」「気持ちを引き締めて前を見ていきたい」と、もう負け試合の後、何十回も聞いた言葉の繰り返しが出るばかりなのも当然か。

中継のあり方からも、この国のメディアが正確に判断することを敢えて避けているのだと思わせる。

アナウンサーは解説者の意見を聞くだけの存在で、解説者はサッカー界の人間であるから、そう手厳しい意見を言うのは控えてしまう。

一度、ラモスさんがNHKの中継に解説者として出たことがある。その時、代表チームがふがいない試合をした。

ラモスさんは選手たちに勝とうという気概が少なすぎる、と憤懣やる方ない、といった調子で批判した。

これは皆様のNHKにはまずかったとみえて、それ以来彼はゲストとして呼ばれていないはずである。

ラモスさんが正しかったかどうか、ではない。正直で強い反論や批判を避けようとする空気があらゆる前進を妨げる。僕はそう思っている。

日本はフォワードが弱いというのは以上書いたことと関係があると僕は思っている。精神風土が適していないとしか言えない。チームの仲が良いということが良いチームの証というのでは、これから先もフォワードが出ることはあるまい。

悔しいから僕がもっとも評価するフォワードを紹介しておく。写真のツラを見てもらいたい。ゲルト・ミュラーといって、西ドイツ屈指のフォワードだった。ごらんのように、人付き合いも悪く、昔の森番のような男だった。日本のフォワードの選手たちは優しすぎる。


大迫選手

2009年05月17日 | スポーツ
今年鹿島アントラーズに入団した高卒選手の中に、日本のサッカー界が期待を込めてみている選手がいる。大迫という選手である。

僕も一般的なサッカーファンとして彼が本当に大成するならばうれしい。

ただ、サッカーに限らず、演奏もそうだといって構わないけれど、日本の現状は人が大成するのを妨げるものがある。それが気になる。

以下、大迫選手がデビューした時の記事を紹介しておく。音楽関係の人はサッカー用語を音楽用語に置き換えて読んでみたらおよそ思い当たるところがあるのではないか。


それだけの力を持っているからこそ、オリベイラ監督はうれしい悩みを打ち明ける。「大迫は数十年(に1人)の逸材。大切に育てたい。報道で間違った方向へ行かないよう心からお願いしたい」。入団以来の“大迫フィーバー”が、成長の妨げになりはしないかと本気で心配している。

 指揮官の懸念をよそに、大迫は試合後、野沢とともにスタンドに上がった。拡声器を渡され「結果を出すよう頑張るのでよろしくお願いします」とあいさつすると、サポーターから大声援を受けた。「これで終わらないようにしたいです」。ふくらむ一方の周囲の期待も、スーパールーキーの成長の燃料となる。


どうです、監督の心配をよそに、記事はこのような浮かれ具合である。監督の心配をよそに大迫選手は進歩を続けた、という文ならばうれしいが、新聞屋は騒ぐ理由が見つかって喜んでいるだけだ。

それにしても「報道で間違った方向に行かないように」と言われる報道とは。

ふくらむ一方の期待というが、誰がどう期待しているというのか。今までふくらむ一方の期待を寄せた選手たちとどこが違うのか?そんなに確実な見る目をいったい誰が持っているのか?

僕も一介のファンとして期待はする。日本の点取りやはもう久しく出ていないから。

と言ったところで僕にあるのは期待感だけで、それが大迫選手だろうと、他の選手だろうとかまわない。大迫選手が数十年に一人の逸材だと見抜く力は僕にあるはずも無いから、伸びる芽をつむような愚だけはしたくない。そう思っている。

その点で僕はオリベイラ監督の心配を理解できる。世界中のメディアに新しい人材を持ち上げる傾向はあるだろう。でもわが国のメディアはそれに加えて感傷癖までがある。

いちいち名前を挙げはしないけれど、根拠なく何となくの期待感から何人の選手を必要以上に持ち上げ、腐らせてきたのか、胸に手を当てて反省してみたら良い。

若い人は殊に褒められると自分を見失う。歳をとっても、褒められれば嬉しいのが人情だからね。流されてはいけない、という余計なエネルギーまで課すのはどうかと思う。

ふくらむ一方の期待もスーパールーキーの成長の糧になる、なんて誰が決め付けているんだい。この手のマッチポンプ的な書きっぷりが日本にはやたら多い。お祭りと僕が言う所以だ。

若い選手が、ここを若い音楽家と言い換えても、あるいは単に若い人がと言い換えても良い、ただでも技量を高めるのに四苦八苦しているのに、その上なおおだてや褒め殺しから身を守るすべを身につける必要を迫られるのは酷である。

天才ともてはやされれば天才を意識したプレーになりがちだ。何人もそういう選手がいた。そういう選手はそれまでの人だというのも真理だ。それを言うのはたやすい。しかしハイエナのように群がって「売れる」記事に仕立て上げた挙句にいう言葉ではないね。

周囲が成熟していないということなのだろう。

高原という選手も高卒時から注目を浴びた選手だった。ところが加熱しがちな周囲とは別に、チームメイトにいたドゥンガという選手に「その気になるな、お前はマラドーナではない」と釘を刺され続けたという。

ドゥンガは元ブラジルの中心選手で、現ブラジル監督である。すぐに浮かれてしまう環境を作りやすいところでは一人でもこういう人物が必要なのかもしれない。

2009年03月08日 | スポーツ
ブリューゲルの「冬」について書いていて急に思い出したことがある。

僕が住んでいたのはハンブルクだ。ハンブルクは町の真ん中にアルスター湖という湖がある。横浜より少し小さいが、ドイツを代表する大都市なのに、大変住みやすかった。

今はどうなのか知らないが、当時は夕方5時にはすべての店が閉まる。アルスター湖畔には高級店が並び、ウィンドーショッピングするのも楽しかった。わざわざウィンドーショッピングのために家から出かけたことさえある。

何ていうと格好良いね。今はプロの立ち読みストだが、当時はプロのウィンドーショッピンギスト?だったのさ。進歩していないのがよく分かるだろう。

冗談はさておき、店が閉まっている時間帯に町をぶらついてウィンドーショッピングを楽しむというのはヨーロッパの人たちのゆとりある楽しみ方のひとつだ。

アルスター湖に町の明かりが映えるのはきれいだったなあ。

この湖は僕が住んでいたころには3,4回凍った。いや、凍るだけなら毎年凍ります。氷が充分に厚くなると市当局から湖上を歩いても大丈夫というお達しが出るのだ。

安全だと発表されると氷上に屋台が並び、市民が繰り出すのだ。ふだん岸辺から見ているところを歩く、これが楽しいのだ。たまと一緒に歩いたこともある。たまが氷に足をとられてやたらに転んで周囲の笑いを誘ったなあ。

一度は車が横断するのを目撃したことがある。これが許されているかどうか知らないけれど、それほどまでに氷が厚く張るのだ。

しかし上には上がある。これは当時テレビで見ただけなのだが、オランダでは国中に張り巡らされた運河が凍る。やはり安全だと判断されると、オランダ一周というとんでもないスケート大会が開かれるという。

国民はどうせ寒い冬であるならばいっそこの大会が開かれるくらい寒くなることを待ち望むらしい。

自分の国をスケートで一周するレース!なんだか血沸き肉踊ると思いませんか。いや、あんまり真面目に考えると、疲れるだろうから遠慮しますとか言いそうだから、ここは単純に童心に帰ってみよう。

ブリューゲルの絵にも大人が他愛もない遊びに呆けているのがあるね。オランダのこの大会はそんな血を受け継いでいるのだろうか。

レースは薄暗いうちにスタートする。みんな腰に弁当と飲み物をくくりつけている。子供もいれば(きっと)オリンピックに出ることを夢見る選手、もしくは選手の卵もいる。

オランダがスケートの距離競技に強いのはこんな下地があるからなのだろう。コースなどは決められているのか、僕は知らない。一位は何時間、とか報道していたように記憶するから、まああったのでしょう。

でも大抵の人は記録よりも運河巡りをすることが楽しみなようで、思い思いに勝手な場所で弁当を広げたりしている様子であった。もしかしたらアルコールも入っていたのかもしれない。

この情景は印象に残っている。たくましいというしかない。バッハの短調の曲のいくつかはふつう短調について「悲しい」「寂しい」「暗い」といわれる感じとは相容れないものがある。ここでたくましいと言っても差し支えないと思う。

たとえばインヴェンションのイ短調やニ短調を思ってもらいたい。これらに溢れるエネルギーを説明することは難しいのかもしれないけれど、僕はオランダ人の「寒さが何だ、もっと寒くなれ」というユーモアを思い出す。

サッカーを見て

2009年02月21日 | スポーツ
サッカーの番組を見ていて感じたことを。サッカーのバラエティー番組だが。

現在ドイツリーグで活躍する長谷部という選手がいる。ちょっとサッカーに関心のある人ならば知っている人気選手だ。

あるバラエティー番組に登場して司会者と歓談するコーナーを見ていたとき、長谷部選手の発言で、やはり日本のチームは強くなりきれぬはずだと改めて思った。

彼がある試合中、味方の年上の選手に「パスを出すのが遅いんだよ」と怒ったところ、年長の選手がマジで(ここは長谷部選手の言ったとおりに伝えておく)「その言葉づかいはなんだ!」と切れたというのだ。

長幼の序だかなんだか知らないが、じつに詰まらぬことである。

なにかい、試合中に「あのー、パスがすこーし遅いと思うんですけど、せんぱーい」とでも言えというのかい?

フィールドに入ったら歳もなにもない、正確なプレーと正確な指示、批判があるばかりだ。フィールドでは皆が対等だ。こんな当たり前のことが通用しない。

金田さんという解説者がいる。なかなかはっきりものを言う男である。というか感情を露わにしてしまうタイプだ。そんな彼が他の番組でだが、岡田代表監督と対談していた。現役時代、岡田監督が先輩にあたる。

金田さんは直前の代表チームの情けない敗戦に明らかに苛ついていた。それでも具体的に戦術を批判することもなく、ただ「岡田さん、大丈夫なんですよね?」と繰り返し訊ねるだけに終始した。

こうしたことが改まらない限り、日本チームは時々の浮き沈みはあっても強くはならないと思った。

と書くと年配の男性から嫌な顔をされると思う。しかしフィールド内では平等であるばかりではない。社会に出れば当然なことではないか。

年長者を敬えということは年長者が「要求」するべきことではあるまい。洋の東西を問わず、年少者は何らかの肯定的な感情を以って年長者に接しているものだ。

僕だって碌でもない奴には年長もへったくれもない、と痛罵しているが、ふつうに接しているときは一種の畏敬のまなざしを以って接している。

しかし普段の生活ではたとえバイトの若い女の子に対してでも対等に接するのが礼儀というものだろう。

店の若いアルバイト店員と思しき子に「オイ、これはいくらなんだね?」といった調子でものを言うおじさんやおばさんを見かけるけれど、あれはよくないね。これでは若い人に礼儀云々言う資格なぞあったものではない。

そもそも政治家が新聞記者たちに「君はなんだね、あーん?自分の質問の意味分かっているのかね?」とか言っていますね。言われるほうも言われるほうなのだが。それはさておいて、これだって不愉快なことだ。

普通の人同士の会話が成り立たない。これはどうしたことなのか。

以前、イギリスの番組でブレア前首相が、イラクへの派兵の是非をめぐって一般国民と公開討論をしていた。その是非はさておいて、僕はじつに羨ましく思った。ブレアは必死に派兵の重要性を訴え、国民は(本当は個人だけどね、国民という多数の意味ではないよ)それに同調する者、異を唱えるもの様々だった。

僕は英語が苦手なのは、自慢ではないがひとかどのものだ。それでもブレアが「君、反対というが、現地の政治状況を正確に知っているのかね、あーん?」「そりゃ君のような気楽な素人の言うことだ、もっと勉強したらどうかね」なんて調子で喋っていないくらいは分かった。犬だって怒られているか褒められているか、分かるんだ。つまり僕は犬と同じくらいには賢いのさ。

日本ではそのような当たり前のことすらついにあり得ないまま21世紀も10年近く経つ。

サッカーは複雑なチームプレー故に、世相をよく反映する。

複雑な思い

2008年12月13日 | スポーツ
平泳ぎの北島選手は大したものだ。ちょいと古い話題になってしまったが。ありゃプレッシャーに強い面構えだ。同時にえらくデリケートだと僕は思った。彼が人気者になるのはよく分かる。そもそも一流になるアスリートは大変デリケートな面を兼ね備えている。

さて、彼と同じ種目に、もうひとり日本人選手が出ていたことは、いったい何人が知っていただろう。

実は僕は知らなかった。僕のところにピアノを習いに来る人の友人の息子さんだったかな、例によって少々曖昧なまま書いているが、聞いたばかりだから間違いあるまい。

普通に会社に勤めながらオリンピックに出場できる成績を上げたけれども、まったく人に知られずに試合を去った選手だ。普通に会社に勤めて云々も今になると怪しげだな。世の中には、何でそんなことを知っているの、あんた、という人が結構多いから、断りは入れておこう。でもたしかそう聞いた。ような気もする。

僕たちは他人事(老婆心ながら、ひとごと、と読んでね)だから、なんだ予選落ちかい、と一瞥もくれないが、考えてごらんなさい、日本で2番目ですよ。何億円も当たる宝くじですら数人が当たって大喜びするというのに、この選手は2番目だ。途轍もなく速いのだ。

それにもかかわらず、僕たちの扱いのこの格差はなんだろう。アメリカという国名だって、最初に到達したコロンブスではなくて、2番目に到達したアメリゴの名前を記念しているじゃあないか。コロンビアはコロンブスを記念しているのだったな、たしか。

現代のしきたりに従っていれば、アメリカはコロンビアーノとかいう名前で、コロンビアはアメリゴンなんていう名前になっていたであろう。ああ、ややこしい。

スポーツ界では記録の見直しということが行われ、世界記録が抹消されたり書き換えられたりしているのだが、ここはひとつスポーツマンシップに則って国名を替えたらどうだろう。とはいかないだろうなあ。

そうそう、二人のスイマーの話題であった。(スイマーなんて書くと、こそばゆいぞ。今僕は赤面している。しかし水泳選手の話題、と書くとえらく厳めしい。この二人に物申す時にはそう書くだろうが。おや、また脱線だ)

どの時点で二人のスイマーに差がついたのか。北島選手が最初から抜きん出ていたのかもしれないけれど、とにかくある時点で強化選手に選抜されたのでしょう。いや、二人とも選抜されたのかもしれないが、色々なバックアップ体制には大きな差が生じていったのではないか。

これは選手の側の問題ではない。実力主義とはそうしたものだ。僕はただ、現代は複雑だなあ、と複雑な思いで見ているだけである。

冬季オリンピックにボブスレーというのがあるでしょう。あれは旧東ドイツが強かった。リュージュもそう。ドイツにいた時分、日本選手が滑るとき、解説者が(今は知らないけれど、ヨーロッパのスポーツ中継は原則アナウンサーひとりで行う。アナウンサーは担当するスポーツをじつに良く知っていて、状況を正確に伝えることができる。日本の中継だと仮に知っていてもそうはいかないね。解説者という専門家が隣にいるものだから、いちいちお伺いを立てる)「本当はこの競技には日本人には危険だから参加しない方が良いのですが」とコメントした。未熟で危ないということだ。

東ドイツは国家の威信をかけてこの種目に白羽の矢を立てて研究した。それなくして金メダルの量産はなかった。そういう状況を世界中がステートアマと呼んで批判的に論じていたのではなかったか。

ステートアマを批判するのはたやすいけれど、現代は何でもシステムに組み込まれて自分で創意工夫するには適さない時代なのか。今ならばアメリカ大陸を発見したコロンブスがあらゆる賞を総なめしているだろうね。

バドミントン

2008年10月04日 | スポーツ
これは大変に激しいスポーツである。いちばん身近にある球技のひとつなのに、昔から認知されていない、不思議な競技だ。もっとも「バドミントン」という雑誌は出ている。これは、でも、認知されている証にはならないかもしれない。「音楽の友」という雑誌だってある。

オリンピックのずっと前から、アイドル顔負けのペアがあるのは知っていた。僕が知っていたのだから、その人気はかなりのものだったはずだ。

昔はインドネシアが強かったのではないかな。頼りない記憶だが。

オリンピックでスエマエペアが世界ランク1位の中国ペアに勝ったのは記憶に新しい。これは僕も覚えているぞ。今のところ健忘症にはもう少し間がある。先日、なにかの手続きで自分の歳を間違えただけだ。何の手続きだったかなあ。忘れちまった。

スエマエペアは結局メダルは取れなかったが、世界ランク1位に勝った時の前田選手の言葉が印象に残った。

「言葉にするのがもったいないくらい嬉しい」だったかな。

彼女の気持ちがほんとうによくわかる言葉だ。僕たちは、心に堪える感情や感動について、ひとたび口にしてみると、何か自分の感じていたこととは違ったことを言ってしまった、言わなければ良かった、と地団駄を踏む思いになる。それを百も承知していながら、言いようのない気持ち、とまで形容して言葉にしようとする。そんな動物なのだ、人間は。

言葉に出してしまったら嘘になる気がする。前田選手はそんな風に考えたわけではないだろうが、素直に、実に正確に表現したものだ。僕は久しぶりに気持ちよかった。このところ、1感じると100くらいべったりと大仰に「演じて」みせる若いアジア人たちの「演奏」を立て続けに「目にして」暗然たる気持ちになっていたのだが、すっきりした。

どこかのテレビ局のワイドショーかなにかで、これはオリンピック期間中だが、スポーツジャーナリストの二宮清純という人だったかな、名前はうろ覚えだ、この人とタレントらしき男が、スエマエペアが世界ランク1位に勝った時のことを話していた。

僕はこの番組を見たわけではなく、you tube か、週刊誌でちらりと目にしただけだが、二宮さん本人の声を僕は知っている。そうそう、語ったときの声も覚えているから、雑誌で読んだのではないな。

この試合後、二人の選手がコートに突っ伏して泣いたことについて、二宮さんたちは「これが決勝ならともかく、あと2試合あるんだからね、決勝で勝って泣いて欲しい」と冷笑していた。

その後の結果はこの二人の言うとおり、スエマエペアは続く2試合とも負けてメダルに届かなかった。

二宮さんというジャーナリストは、まあ手堅い意見を持つ、正統派の人だ。ただ、特別面白いものの見方や鋭い洞察があるわけではない。

この人たち同様、僕も選手とまったく関係のないところでゲームを観戦している。それは承知しているから、彼らの言動をとやかくいう資格はないけれど、もう少し素直に観たら良いだろうと思った。

まだ2試合残っていることくらい彼女達がいちばん知っている。勝負は続く限り気を抜いたらいけないことも身にしみて知っている。

それでも勝ったことで泣き伏すほど、相手の強さをも知っていたということではないか。

スポーツ観戦とは、本気で考えるとずいぶんいい気なものだ。自分が何も出来ないのに「判断が遅いんだよ!」とか喚いてさ。これは僕のことだが。スポーツ好きといっても、厳格に言えばスポーツ観戦好きなのだ。昔は本当のスポーツ好きだったのだが、歳をとったものだよなあ。

でも、そういった人種がいなければ、オリンピックもワールドカップもないのだし、人間とはけったいな生き物だと思って観念したほうが現実的だ。

それならば、二宮さんのように「冷静に」構えず、スエマエペアの快挙を一緒に喜ぶのが観戦者の一種のマナーだと思いませんか。関心のない人は見ないでしょうし。




真剣

2008年09月08日 | スポーツ
またぞろ、オリンピックのメダリストのドーピング違反が発覚し始めている。日本の選手でドーピングに手を染める人が少ないらしいのはよく言われる。

僕もおそらく今のところはそうではないかと思っている。

その理由を色々な人が憶測している。日本人はアンフェアなことが嫌いなのだ、というのもあった。それはたちどころに否定されるであろう。政治家を見よ。役人を見よ。教員採用試験を見よ。接待漬けの社会を見よ。みよみよみよ、と力のないヒヨコのさえずりではないか。

勝負というものに対して、一種の潔さを尊いとする血脈はあるかもしれないな。

真剣という言葉はそんなに古くからあるのではないだろう。江戸時代、宮本武蔵らが果し合いをしていたころに出来た言葉ではなかろうか。

例によって素人の憶測、空想の楽しみにふけっているだけだ。詳しく真実を知っている人は、ぜひコメント欄にご教示ください。

武士は徳川の世になって、基本的には仕事がなくなった。戦うのが本分であるから。身分だけは最上位に保証され、僕たちはひがみ根性から、結構なことだ、羨ましい限りさ、と思いがちであるが、人間はそう簡単な生き物ではなかった。

自分たちが生きている理由は何か、次第にそう問いかける武士が増えたのである。よく何十億も籤で当たった人が事業を始めるでしょう。当たっていない僕たちは「なぜそんな無駄をするのだろう、利子だけで遊んで暮らせるのに」と訝しがる。でも当たってみたらきっと分かる。することがない、というのは拷問に近いのだ。僕もそれを本当に知りたいから、なんとか3億円くらい当たりたいと願う。

江戸の武士たちは、生きる意味を模索した。それが武士道という言葉を生み出した。今日あまりに簡単に使われているように、腹を掻っ切る潔さという簡単なものではないのである。

たしかに葉隠れには、死ぬことと見つけたり、とある。しかし、そこに至る思考を辿らず、単なるキャッチフレーズに貶めているのはまったくいただけない。

そういった思考は伊藤仁斎、荻生徂徠などの天才に繋がっていくのだ。因みに演奏する人にとって、この人たちの成し遂げたことは大変参考になると僕は思っている。

他方、武士本来の武術も鍛錬を怠るわけにはいかない。各地に剣道場が出来、稽古に励んだのだろう。もちろん怠け者も多かったことだろうね。

道場ではもちろん竹刀が使われていたから、いかに厳しい稽古であっても、勝負はゲームに近いものにならざるを得なかったと想像する。「いたたた、ウーム、もう一本(リポビタンDではないよ)。今度こそ、しかし、おぬし腕を上げたな」「ふふん、返り討ちにしてやろうかい」

なんだか調子に乗って、安手の時代劇を見すぎたような感じだな。やめておく。

でも、戯画化してはいるが、およそこんな風だったはずだ。それに飽き足らぬ思いを持つ侍たちが大勢出てきた。竹刀で戦うから、負けても「もう一本」と叫ぶだけでことが足りる。こんなことで剣の道を究めることが出来るはずがない。本物の刀で試合(仕合い)をすれば、油断や慢心はたちどころに命を落とす結果を招く。

突拍子もないアイデアを出したものだ。仮に江戸時代にオリンピックがあって剣道が種目に入っていたならば、このようなアイデアは出てこなかったのではないか。道を究めようと志す者は金メダルを目指せばよいのだからな。武蔵は金、小次郎は銀、塚原朴伝は銅なんていう結果になったかもしれない。

人間という動物は、本気で何かをすることに快感を覚えるのだろうか?人より0.01秒速いだけのことに興奮し、誰より大きな筋肉を有することに優越感を持つものがいて、そのためには健康を損ねることも厭わぬ。

本物の剣、真剣。この文字を眺めていると、いろいろ取りとめない空想が浮かぶ。
金メダル・・・貴金属。あまり空想力を刺激しないなあ。そう思いませんか。