季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

捨て猫記

2008年11月14日 | 
最初に捨て犬の現場を目撃したことから書いておく。忘れてしまって残念がっても遅いからね。

近所に雑木林がある。神奈川県が野鳥のいちばん多い森として登録をした処である。なに、一角を切り倒してゴルフ場にしたので、もう野鳥なんか来やしないのだよ。間抜けな話である。高いネットが張り巡らされ、夜は夜で煌々とライトに照らされた林に飛んでくる鳥なんぞいるものか。ライトに向かって飛んでくるのは、夏の虫くらいだ。

その雑木林の縁を散歩していたときのこと。件のゴルフ練習場はまだ出来ておらず、小鳥の来る森だったころ。よろよろと道の突き当りまでやって来たベンツの中から、中年の女と犬が出てきた。当時ベンツは今ほどポピュラーな車ではなかった。したがって、この書割はちょっと出来損ないのドラマみたいであるが、本当のことは仕方がないね。

たまと散歩中だった僕は遠くからぼんやりと見ていた。単なる犬連れが犬と一緒に降りただけにしか見えなかった。たまが何者か分からない方は以前の記事を見てください。

と、女は身を翻して助手席に消え、ベンツは急発進した。犬は(中型の白っぽい犬だった)狂ったようにキャンキャン鳴きながら全力で後を追った。しかし追いつくはずもなかった。そして僕の視界から消えた。

捨て犬だ、と実感したのは犬が見えなくなってからだ。何ということか。今これを書きながら、またしても怒りがこみ上げる。

世の中には犬が嫌いな人がごまんといる。でも、飼っている人は嫌いなはずはない。犬嫌いは人でなしだと言ったら言った奴が阿呆だ。しかし、こうは言える。飼った犬を可愛がることの出来ない奴は人でなしだ、とね。そういう手合いは、人間に対してもほぼ同様の対応をする。猫好き、トカゲ好きでも事情は同じだ。

捨て犬を拾った顛末については書いた。犬を拾う人は猫も拾うのである。飼っているウサギも半ば拾ったようなものだ。お金も拾うとなお良いだろうと思うのに、これは拾わない。

子供が小さかったころ、近くの公園で子猫を拾ってきた。大変人懐こい子猫で、玄関でミルクを呑み、ニャアニャア身をこすり付けてきた。猫が体をこすりつけるのいは懐いているからではない、蚤で痒いからである、と言いたい人には言わせておこう。とにかく人を全然怖がらない。しかし我が家は猫を飼うような環境にない。

気がつくと子猫はどこかへ行ってしまっていた。あんなに懐いていたのにな、と残念な気持ちだったが、どこかホッとしたのも事実だ。

数日後、なにかの拍子に、この猫が向かいの家の飼い猫に昇格したことを知った。いや、嬉しかった。野良猫は今やコニャックという洒落た名前を付けてもらって、ベランダから出たり入ったりしている。(因みにコニャックは今も健在である。昨夜も台所のガラス越しにシルエットが見えて嬉しかった。もう15歳くらいかな。実に可愛い猫である。時折我が家の玄関先でニャアニャア鳴く。入れてくれろというのだ。招き入れるとひとしきり2階の台所あたりで遊び、気がすむとまた出してくれろと催促して出て行く。我が家のシェパードたちが何の危害も加えないことを知っていて、まったく無防備である)

この猫が一連の捨て猫騒動の序曲になるとは、知る由もなかった。

なんて、思わせぶりでしょう。ジャーナリズムの中に身を置いた気分だね。続きはまた。