季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ベートーヴェン研究

2009年02月06日 | 音楽
吉田秀和さんの演奏評に異議を唱えてばかりいるが、以前この人の作品論は立派だと書いたことがある。

ベートーヴェンを求めてという本はその代表的なものである。演奏に手を染めている人たちは一度きちんと読むべき本であろう。ひとつの曲をこうやって「読む」のか、というお手本になる。

リーツラーというベートーヴェン研究家やロマン・ロランのベートーヴェン研究がなかったらなされなかった仕事だと思うけれど、それは吉田さん自身も書いているけれど、とにかく良い作品である。ロランのを改めて読み返してみた。以前、それもはるかな昔読んですっかり忘れていたが、シェンカーにまで言及しているのだ。シェンカーというのはウィーンの理論家で、聞くところによると今でもアメリカでは読まれるそうである。

吉田さんの粘り強い楽曲分析は、演奏にかかわっている人ならば本当は誰でも読まなければいけない。と言うより自身でできなければいけないことだ。

彼はベートーヴェンのさまざまな曲を取り上げ、それがたとえどんな複雑さを含んでいるように見えようとも、実は大変に単純な音型の徹底的な使用によるのだ、そこから統一感が生じるのだと言葉を尽くして語る。

ひとつの楽曲が分析されるだけではない。初期の作品、たとえば「悲愴ソナタ」で提出されたアイデアが晩年の作品にいたるまで活き続けていたことが説かれている。

ベートーヴェンのスケッチブックが多く残っているのは有名だが、あんな引越し魔が肌身離さず持っていた、若いときからのすでに完成した作品のものまで持っていた理由を憶測する手段はとても説得力がある。

乱雑をきわめたベートーヴェンのスケッチ帖を丹念に読み解いていく作業は、よほどの情熱がなければできることではない。

パソコンでグラフを書き込んだり、楽譜まで記入できるそうだが、僕はまるで不案内である。吉田さんのベートーヴェン研究は譜例がとても多いからここで具体的に紹介はできかねる。面倒くさがらずに読んでみることをお勧めだけしておこう。

さて、吉田さんの本とロランとの差異は、誰でも気づくことであるが、吉田さんのは演奏の分析によって、記述した事柄を補っていることであろうか。人によってはそれにより、より説得力を増したというかもしれない。人によりどころか、ほとんどの人がそう考えるだろう。

僕はまったく反対のことを思う。この本から後半に頻繁に出てくる演奏分析によって楽曲分析を裏打ちする箇所、これらが無かったならばどんなに良かったかと残念なのである。

もっとも、そうなった場合、吉田さんはロランの仕事をなぞったことが多すぎて、新たに自身で書く気にならなかったかもしれないが。

ただし、この本を読んでいない人のために言っておくが、吉田さんはロランの考えを踏襲しながら、結局ベートーヴェンという男は生涯ただひとつのテーマだけを追い続けた人だ、という地点まで考えを追い詰めている。ロランを土台にして発展したと言ってよい。

読み返してあちこち持って回っているうちに行方が分からなくなった。外出は犬の散歩以外ほとんどしないから、家中のどこかにあるはずである。家が広すぎるのかも知れない。鴨長明を見習いたいものだ。

見つけたらこの続きを書こう。演奏論が無ければよかったという例をきちんと挙げておきたいから。