季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

宇野功芳さんを巡って

2010年04月16日 | 音楽
演奏に携わる人は批評家を嫌っている。もしくは軽蔑している。高名な批評家に対しては畏怖の念を持っている。

どの態度も分かりやすいでしょう。

そうしてみると演奏評というのはいわゆる一般の音楽好きに対して発言されているのだろうか。批評家諸子は自分がどんな読者を想定して書いているか、自覚しているのかしらん。

宇野功芳さんに限っては今の僕の問いに関して自分は特定の読者を必要としない、と答えそうな気がする。

批評文をだれがどのように読むか知る術はない。それでも様々な形をとって窺い知ることができるものだ。

僕は若いころフルトヴェングラー協会に入ってみたことがあった。今のように次々未発表録音が発見されては商品化される時代ではなかった。協会員は売り出されていない録音を手にする機会があった。僕が会員になったのもそれが目的であった。たいていの会員も同じだったのではあるまいか。

協会では例会が開催され、あるときフルトヴェングラーと面識のあった近衛秀磨さんがデストに招かれたことがあり、興味をそそられた僕はのこのこ出かけてみた。

会場には結構な人数が集まっていた。近衛さんがフルトヴェングラーの思い出を話したに違いないのだが、そちらはもう何にも覚えていない。

それよりも僕は会場に足を踏み入れたとたんに感じた居心地の悪さに閉口していた。こちらはよく覚えているのである。

集まった人々は互いに話を交わすわけでもなく、なにやら落ち着かぬ様子で、ある者は椅子に腰掛け、ある者は所在なげに部屋をうろついていたのであるが、それでいて妙になれなれしい視線を互いに交わすのであった。

それは臆病なエリート意識とでもいおうか、それともここに集まった人たちは同じ「目標」を持っており、その「目標」は今日一段と高められるのだ、わたしたちだけがその場にいる、そんな感じ。

近衛さんの話が終わった後、質疑応答があった。その中で「フルトヴェングラーの作曲したものについてどう思われますか」というのがあった。

近衛さんは直接の返答を避け「エドウィン・フィッシャーに自分が会ったとき、今度フルトヴェングラーの協奏曲を演奏しなければならない、という言い方をした」と答えた。

つまりフィッシャーは、フィッシャーも、と近衛さんは言いたかったのだろう、フルトヴェングラー作品にせいぜいその程度の評価を下していたということである。

質問者のみならず会場全体から一斉に含み笑いが漏れた。僕はそのとき抱いたじつにいやな気持ちをはっきりと思い出すことができる。

彼らはとっくにフルトヴェングラー作品に対する様々な評価を読んで知っている。曰く、アナクロニズムである、マーラーやブルックナーからの影響が強く、独自性に欠ける、等々。

その「見解」はすでに決定されたものであり、(だから)自分たちもそう思う。そして今、日本人指揮者の長老でフルトヴェングラーと面識があり、彼に尊敬の念すら抱いている人物からも「否定的証拠」がひとつ付け加えられた。

一斉に漏れた含み笑いはそうした「暗黙の了解」を示していた。なされた質問自体が日本の今日のマスコミでも頻繁にみられる、ある確定した答えを想定し、誘導する種類のものだといえる。

この種の集会(もっとはっきり書けばあらゆる集会)に出席したのはこれが最初で最後である。

もう少し長くなりそうだからここまでをまず投稿しておこう。