若い人でバロックや古典の曲が嫌いだという人は多い。音大には特に多い。
人の好き嫌いを僕がとやかく言ったところで始まらないのだが、もしも彼らの好き嫌いが(嫌いが、ですね、実際は)誤解に基づくのだったら残念なのである。誤解して好きになるのはまあそのままにしておいても良いかな。
と書いて、いやいやそうでもないと気付いた。で、そのことについては後日書こう。
で、元に戻って。例えばバッハ。バッハの曲はどこから見てもがっしりとしている。フーガはその代表的例だろう。力の入ったフーガはまさに水も漏れる隙間がないようだ。そこからバッハは、あるいはもう少し視野を広げてバロックはがっしりした演奏にしなければならないという見解が生じる。
そこまではまあよい。多くの演奏家は構成感という立派な名前でいうけれどね。彼らは構成とかがっしりとかいうと、まるで東京駅舎のようなものを思っているのかと勘繰りたくなる。
ちょっと美しく弾くとバッハをショパンのようにひいてはいかん、とくる。僕としては、あなたたちはショパンとバッハを聞き分けられないのかい、とかきまぜたいね。
古典もそうだ。古典様式に則った演奏を!イコール四角四面な「僕悪いことしません」みたような干からびた演奏。こんな風にばかり教わっていたら、若い、子供といった方が良い人たちがハイドン、モーツアルトを好きになるのは難しかろう。熱心にやる人ほど古典派から縁遠くなって行く。
ちょいと古典の歌曲、室内楽を見てごらんなさい。どこのだれが四角四面な演奏をしているか。音の流れや美しさを取り上げられてなお好きだという人がいたら(まあ実際にはいるが)お目にかかりたい。
杓子定規にするな、と言ったって念仏を唱えるようなものだ。それより、少なくともモーツアルトのピアノ曲に関しては、自由にオペラの登場人物や場面を思い描いて弾くことを薦める。いやでもテンポはゆれる。ゆれ方がまずいときには注意するさ。どんな時にまずいと分かるかって?聴く方もオペラの一節だと思って聴くのさ。間違っても指でタンタンテンポを刻んだりしないことだ。
人の好き嫌いを僕がとやかく言ったところで始まらないのだが、もしも彼らの好き嫌いが(嫌いが、ですね、実際は)誤解に基づくのだったら残念なのである。誤解して好きになるのはまあそのままにしておいても良いかな。
と書いて、いやいやそうでもないと気付いた。で、そのことについては後日書こう。
で、元に戻って。例えばバッハ。バッハの曲はどこから見てもがっしりとしている。フーガはその代表的例だろう。力の入ったフーガはまさに水も漏れる隙間がないようだ。そこからバッハは、あるいはもう少し視野を広げてバロックはがっしりした演奏にしなければならないという見解が生じる。
そこまではまあよい。多くの演奏家は構成感という立派な名前でいうけれどね。彼らは構成とかがっしりとかいうと、まるで東京駅舎のようなものを思っているのかと勘繰りたくなる。
ちょっと美しく弾くとバッハをショパンのようにひいてはいかん、とくる。僕としては、あなたたちはショパンとバッハを聞き分けられないのかい、とかきまぜたいね。
古典もそうだ。古典様式に則った演奏を!イコール四角四面な「僕悪いことしません」みたような干からびた演奏。こんな風にばかり教わっていたら、若い、子供といった方が良い人たちがハイドン、モーツアルトを好きになるのは難しかろう。熱心にやる人ほど古典派から縁遠くなって行く。
ちょいと古典の歌曲、室内楽を見てごらんなさい。どこのだれが四角四面な演奏をしているか。音の流れや美しさを取り上げられてなお好きだという人がいたら(まあ実際にはいるが)お目にかかりたい。
杓子定規にするな、と言ったって念仏を唱えるようなものだ。それより、少なくともモーツアルトのピアノ曲に関しては、自由にオペラの登場人物や場面を思い描いて弾くことを薦める。いやでもテンポはゆれる。ゆれ方がまずいときには注意するさ。どんな時にまずいと分かるかって?聴く方もオペラの一節だと思って聴くのさ。間違っても指でタンタンテンポを刻んだりしないことだ。