ピアノ教育法という授業が大抵の音大にあるようだ。僕の学生時代にもあったのだろうか、怠け放題であった僕はそれすらも知らない。
教育法というからにはそれを履修すれば上手に教えることができるのだろうか。
本当に教えるコツがあるのだったら教えて貰いたいものである。教えるコツを教えるにもコツがある、なんてマトリョーシカ人形みたいになって終わりなんてことはないだろうね。
ただ、カフカ(可不可)全集の僕も長いことピアノを教えてきて気が付いたことはある。こちらは実践によって得た実感である。
コツがあるとしたら、何を言うかではなく、何を言わずに済ますかなのである。
しかしここでも厄介なことがある。よく、教えるのではない、自分で探すこと、とか言う人がいるけれど今僕がが言わんとするのはこれとは全く関係がない。こういったのは正論に見え、格好も良いけれど。
ちょいと脇道にそれるが、十代の子供が相手ならば「練習すること。あとは自分で考えていけば弾ける」と言っておけばまぁ間違いなく見かけの上ではぐんぐん力がつく。熱心に練習する子ならば尚更だ。
まぁ、だの見かけの上ではだの、おもわせぶりでしょう?
そう、思わせぶりなのです。
育ち盛りの年齢に、食べてよく練習しろ、と命じたら誰でもある程度運動が出来るようになる。
そこで指導者は自分の指導力に満足する。スポーツの世界にスパルタがいまだに幅をきかせる所以だろう。
後は知らんよ。大成しなかったら?そりゃ素質の問題だ。こんな感じだろう。意識していないのかも知れないが、まぁ楽なものである。
で、戻れば僕の言わずに済ますというのは、まったく違う意味である。
ある時には欠点を指摘することをやめるという意味だ。つまりその欠点が件の生徒の成長過程でどの様な意味を持つのかを見極めようという意味だ。
これは言うことは簡単だが、実践するのは大変難しい。なぜかといえば、全体を見る目が不可欠で、しかもその全体は人の成長に関係する以上、常に変化しているからだ。
つまり、その人その人に応じて言わずに済ますことも変わってくる。レッスンの度に変わるのだと言っても過言ではない。
とても教育法なんぞの手に負える代物ではないのである。
僕が学生時代にそこまで考えていたのか、今となっては分からない。カフカ全集の説明になっていないことだけは確かだ。
教育法というからにはそれを履修すれば上手に教えることができるのだろうか。
本当に教えるコツがあるのだったら教えて貰いたいものである。教えるコツを教えるにもコツがある、なんてマトリョーシカ人形みたいになって終わりなんてことはないだろうね。
ただ、カフカ(可不可)全集の僕も長いことピアノを教えてきて気が付いたことはある。こちらは実践によって得た実感である。
コツがあるとしたら、何を言うかではなく、何を言わずに済ますかなのである。
しかしここでも厄介なことがある。よく、教えるのではない、自分で探すこと、とか言う人がいるけれど今僕がが言わんとするのはこれとは全く関係がない。こういったのは正論に見え、格好も良いけれど。
ちょいと脇道にそれるが、十代の子供が相手ならば「練習すること。あとは自分で考えていけば弾ける」と言っておけばまぁ間違いなく見かけの上ではぐんぐん力がつく。熱心に練習する子ならば尚更だ。
まぁ、だの見かけの上ではだの、おもわせぶりでしょう?
そう、思わせぶりなのです。
育ち盛りの年齢に、食べてよく練習しろ、と命じたら誰でもある程度運動が出来るようになる。
そこで指導者は自分の指導力に満足する。スポーツの世界にスパルタがいまだに幅をきかせる所以だろう。
後は知らんよ。大成しなかったら?そりゃ素質の問題だ。こんな感じだろう。意識していないのかも知れないが、まぁ楽なものである。
で、戻れば僕の言わずに済ますというのは、まったく違う意味である。
ある時には欠点を指摘することをやめるという意味だ。つまりその欠点が件の生徒の成長過程でどの様な意味を持つのかを見極めようという意味だ。
これは言うことは簡単だが、実践するのは大変難しい。なぜかといえば、全体を見る目が不可欠で、しかもその全体は人の成長に関係する以上、常に変化しているからだ。
つまり、その人その人に応じて言わずに済ますことも変わってくる。レッスンの度に変わるのだと言っても過言ではない。
とても教育法なんぞの手に負える代物ではないのである。
僕が学生時代にそこまで考えていたのか、今となっては分からない。カフカ全集の説明になっていないことだけは確かだ。