旅のウンチク

旅行会社の人間が描く、旅するうえでの役に立つ知識や役に立たない知識など。

戒律で連帯

2007年04月20日 | 宗教
世の中の信仰とか宗教に目を向けてみると、人間というのは実に数多くの神様像を生み出したものだと感心と感動を覚えます。

私が最近、気にいっているのは多額の寄進を要求したり、信仰の為のグッズを高額で販売したりしている神様。もう少し若かった頃はこういう神様はインチキだなどと乱暴な理論に走っていたのですが、最近はこういう神様は存在するものと認識しています。なぜならば、多額の寄進をしたりといった行為で安心感を得られる人間が存在するわけですから、その受け皿としての神様が居なければなりません。

ただ、いっぱい物を買ってくれたり、いっぱいお金を払ってくれた人から順番に救う神様というのは、いかにも人間っぽくて"全知全能"の高性能ぶりに於ては少し人間味がありすぎる嫌いがあります。それから、もともと多額の寄進などできる身分ではない私の事は担当してくれそうにありませんので、遠くから眺めながら、その人間味に親しみを覚える事だけしかできません。

私はそういう固い事を言わない、そしてお祈り等を全然やらなくても助けてくれる、そういう神様に担当してもらう事にしています。なにせ神様は"全知全能"なのですから、私のご都合主義の神様像に合わせる位の事は簡単なのです。なんともありがたい話であります。

私のようなご都合主義の場合は別として、宗教の多くが戒律というものを守る事を信者に要求します。イスラム教は飲酒を禁じ、豚肉を食する事を禁じ、1日に5度の祈り、そして1年に1度の断食など、比較的クローズアップされがちです。キリスト教にもいろいろあるはずなのですが、あまり詳しくは知らないので。

仏教の場合も殺生禁断など...と来たところで、実はこれは違うのです。仏教にも厳しい戒律がありますが、それはあくまで悟りを開く事を目標に修行を行う人達に向けてのものであって、一般信者には基本的にはありません。このあたりは宗派によって違いもありますが、本来、修行を行わない人にはブッダの教えは得られない事になっていますので、僧侶意外は仏の教えの実践者ではないという位置付けであったと記憶しています。

ちなみに私の場合は高校3年間が修行として計上できるような記憶があるのですが、もしこの記憶が正しければ、随分得な優遇措置であると言えます。ただ、その時期にも肉食もしたし、ハエやカを殺したりもしたので、そのあたりが割引かれてしまうと思うともしかすると赤字決算になっているかもしれません。

それと同時にパキスタンのカラチではほぼ1ヶ月、断食に付きあった事があるので、私はきっと、アッラーの神にもお願いする権利を有していると信じています。

さて何を書きたかったかというとこの断食(ラマダン)の話。1ヶ月の断食がある日終了して、突如として街に出現した大量の屋台。そしてそこへ嬉々として向かう人々を見ていて感じたのです。この為にラマダンは存在するのだと。そこにはラマダンという厳しい決まりを乗り切ったという喜びと、同じように乗り切ったイスラム教徒同士の連帯感が漲っているように感じたのです。その事を思った時、私の心は一気に子供の頃に。そしてアッラーの神には申し訳ないのですが、キリスト教会の日曜礼拝へとワープしたのです。

週に一度、普段は様々な利害関係をもって暮らしている人が同じ場所、そして、そういう利害について争う雰囲気にはない場所に集って賛美歌を歌い、聖書を読むのはやはり、普段の生活から一歩離れて社会全体の連帯感を維持したり、自分の事だけでなく、社会全体の事を考える機会をつくりだす機能をもっていたのではないかと思ったわけです。

無駄とか迷信とかで片付ける事は簡単な結論ですが、そういう考え方は短絡的すぎるように思います。だいたい、昔の人が今の人よりも迷信深かったという証拠はどこにもありませんから。

様々な迷信的習慣が捨たれた結果、人は拠り所を失って、心のバランスを上手く取れなくなってきているのかもしれませんね。ソーシャルネットワークサービスなどで同好の士を求めたりするのは、日曜礼拝に通う心境と似ているのかもしれません。


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