例えば"頑張れば報われる社会"という言葉。わかったような、わからないような言葉であるはずなのに、この言葉が使われても"何言ってるんだかわからない"と言う人はいません。こういう抽象的な言葉をキャッチフレーズとして使って人々を上手くコントロールした人が"報われる"社会であるという事は確実だとは思いますが。
具体的に考えてみましょう。
私は旅行会社。お客様の旅行を手配する時に、Aというツアーと、Bというツアーの2つの選択肢があったとします。Aのツアーの方が安いのだけれど、自分にとって利益も大きい。お客様の要望にはBの方が合っているとします。そして、幸いお客様はその違いに気がついていない様子。
さて、この時、"頑張る"というのはどうする事ですか?
頑張って、利益率の高いAのツアーを売りつける事でしょうか。これはあまり頑張らなくても、"安い"という殺し文句で売りぬくのは容易です。
頑張って、AとBの違いを理解してもらって、より要望に合うツアーを正しく選択してもらう事でしょうか。これは下手をすると、"高い方を売りつけようとしている"と勘繰られる危険を祕めています。
これで気がついた人もいるとは思いますが、旅行会社の人間としての私の存在は上の状況において、会社の利益を追求するために少しでも利益の高い商品を売るという立場の場合と、お客様の要望により合った商品を選択し、薦めるという社会的な立場の場合が同時に存在しているのです。そして、その立場の違いによって、"頑張る"という事が全く逆になってしまうわけです。
報われるというのも同じです。
上の例で会社の利益を追求して、Aを選択したとします。そうすると、会社内での営業成績は向上、ボーナス査定にも影響してボーナス額が増えました。これが報われるという事でしょうか。
あるいは、Bを選択したとします。この違いがわからないままご出発になったお客様も、最終的には違いがわかってもらえて、"とても良い旅行でした"とお礼の連絡をいただきました。これが報われるという事なのでしょうか。
これも立場の違いで変わってきます。
"頑張れば報われる"というキャッチフレーズは、それ自体には何の方向性も示していません。わかったような気になった人間は、このキャッチフレーズに上手くコントロールされた、他人に思考を依存した存在であるという事だけがわかるだけです。
では、少し考えを進めて、実際の所、"頑張る""報われる"というのは上の例のどちらであるべきかという事について考えてみましょう。
善悪とか、理念は流動的な判断基準ですので、ここでは資源の有効活用という観点で考えてみましょう。
まず、"頑張る"という事において、Aツアーを薦める場合とBツアーを薦める場合のどちらの方が資源を有効活用できているでしょうか。この状況では、私の手元にはAというツアーとBというツアーの2つの資源があると同時に、Bの方がお客様の要望に合うと判断できるだけの知識や経験という資源も存在しているわけです。この資源を活用している方があるべき姿ではないでしょうか。
ところが"報われる"という段階になって、Aの方が報われるとなるのも事実です。なぜならば、私は子供を3人も抱えて生活も苦しく、ボーナスが増える事は生活にとって非常にプラスであるからです。こうやって"頑張れば報われる"のバランスが崩れていきます。結果、社会に於て資源の有効な活用は行われなくなっていきます。
今の社会はそういう方向に向かっていないでしょうか。
"頑張れば報われる社会"が"格差社会"を生み出しているという見解は私は間違いだと思います。今の社会は上の例の、AとAの組み合わせを"頑張る""報われる"と解釈して、その結果、社会の持っている力や資源を有効に活用できない非常に効率の悪い社会になっていると思うのです。
具体的に考えてみましょう。
私は旅行会社。お客様の旅行を手配する時に、Aというツアーと、Bというツアーの2つの選択肢があったとします。Aのツアーの方が安いのだけれど、自分にとって利益も大きい。お客様の要望にはBの方が合っているとします。そして、幸いお客様はその違いに気がついていない様子。
さて、この時、"頑張る"というのはどうする事ですか?
頑張って、利益率の高いAのツアーを売りつける事でしょうか。これはあまり頑張らなくても、"安い"という殺し文句で売りぬくのは容易です。
頑張って、AとBの違いを理解してもらって、より要望に合うツアーを正しく選択してもらう事でしょうか。これは下手をすると、"高い方を売りつけようとしている"と勘繰られる危険を祕めています。
これで気がついた人もいるとは思いますが、旅行会社の人間としての私の存在は上の状況において、会社の利益を追求するために少しでも利益の高い商品を売るという立場の場合と、お客様の要望により合った商品を選択し、薦めるという社会的な立場の場合が同時に存在しているのです。そして、その立場の違いによって、"頑張る"という事が全く逆になってしまうわけです。
報われるというのも同じです。
上の例で会社の利益を追求して、Aを選択したとします。そうすると、会社内での営業成績は向上、ボーナス査定にも影響してボーナス額が増えました。これが報われるという事でしょうか。
あるいは、Bを選択したとします。この違いがわからないままご出発になったお客様も、最終的には違いがわかってもらえて、"とても良い旅行でした"とお礼の連絡をいただきました。これが報われるという事なのでしょうか。
これも立場の違いで変わってきます。
"頑張れば報われる"というキャッチフレーズは、それ自体には何の方向性も示していません。わかったような気になった人間は、このキャッチフレーズに上手くコントロールされた、他人に思考を依存した存在であるという事だけがわかるだけです。
では、少し考えを進めて、実際の所、"頑張る""報われる"というのは上の例のどちらであるべきかという事について考えてみましょう。
善悪とか、理念は流動的な判断基準ですので、ここでは資源の有効活用という観点で考えてみましょう。
まず、"頑張る"という事において、Aツアーを薦める場合とBツアーを薦める場合のどちらの方が資源を有効活用できているでしょうか。この状況では、私の手元にはAというツアーとBというツアーの2つの資源があると同時に、Bの方がお客様の要望に合うと判断できるだけの知識や経験という資源も存在しているわけです。この資源を活用している方があるべき姿ではないでしょうか。
ところが"報われる"という段階になって、Aの方が報われるとなるのも事実です。なぜならば、私は子供を3人も抱えて生活も苦しく、ボーナスが増える事は生活にとって非常にプラスであるからです。こうやって"頑張れば報われる"のバランスが崩れていきます。結果、社会に於て資源の有効な活用は行われなくなっていきます。
今の社会はそういう方向に向かっていないでしょうか。
"頑張れば報われる社会"が"格差社会"を生み出しているという見解は私は間違いだと思います。今の社会は上の例の、AとAの組み合わせを"頑張る""報われる"と解釈して、その結果、社会の持っている力や資源を有効に活用できない非常に効率の悪い社会になっていると思うのです。
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