翌朝、チェンマイのバスターミナルに着いた私たちは送迎用のバンに乗せられてそれぞれの宿泊先へ送り届けられます。私はバンコクの客引きの言いなりに申し込んでいたのですが、当時中級ホテルだったプレジデントホテルへ到着。どうやらここが私の宿泊先のようです。ホテルに着くと、ツアーに食事が含まれているからレストランへと案内されてレストランへ行くとタイカレーの食事が用意されました。
ところがこれが驚くほど辛くて食べるのに苦労していたのです。その姿を見たホテルのスタッフが、”辛すぎるようであれば他のメニューを用意しますよ。”と声をかけてくれました。ところが、食べるものを粗末にする事を極端に嫌う家庭で育った私はそれを断固断り、水をがぶ飲みしながら必死で体に収めようとします。見かねたホテルのスタッフが半ば強引にカレーの皿を私から奪い取って、代わりにオムライスを置いて行きました。タイ式オムライスとの出会いの瞬間でした。
私の参加した現地ツアーはみっちりスケジュールが組まれていて、チェンマイとその周辺へのミニツアーで埋め尽くされた日程はほぼフリータイムのないものでした。当初、チェンマイをノーマークで渡航した私にとっては願ったりかなったりでもありました。
指定された時間にロビーへ行くとミニバンがやってきて、他の宿泊地を巡りながらツアー参加者を拾っていきます。ひとり旅の日本人は私一人。というよりひとり旅は私一人。所在無げに佇む私は他の旅行者からも少し心配されたのか、寂しげに見えたのか、他のツアー参加者が時々声をかけてくれます。バンコクから来るバスでも一緒だったタイ人の家族連れは食事の度に”こっちへ来て!。一緒に食べましょう。”と誘ってくれました。ニュージーランドから来たというカップルはバンコクで宿泊する予定のホテルを教えてくれて、バンコクへ戻ったら尋ねてくるようにと言ってくれました。
私の参加するミニツアーの案内はいつも同じタイ人のガイドが案内してくれました。小柄で浅黒い肌をした彼女はいかにも東南アジアの人。いつも何か小声で歌を口ずさんでいて、微笑みを絶やさず、まさに微笑みの国の人です。
お土産物屋に寄った際など、お店がガイド用に用意していたフルーツなどを、所在無げに佇む私にこっそり渡してくれたりしたのです。
ある時、いつものように小声で歌を口ずさみながら近づいてきた彼女は私に、”私は歌を歌っているの。”と。小首をかしげた私に”私は夜は仕事でナイトクラブで歌を歌っているの。”と。
隣に座っていたニュージーランド人カップルのうちの女性がそれを耳にして、”それじゃあ、朝から夕方まで観光ガイドをして、夜は歌を歌って、あなたは一体いつ眠っているの?”と尋ねると、何か謎めいた笑顔を見せて、無言のまま歩み去っていきました。
私はこの瞬間、なぜか彼女に恋してしまったかもしれません。いや多分そうだったのでしょう。このツアーが終わってバンコクへ帰った後、もう一度チェンマイへ戻ってこようと考えるようになりました。
その翌日にはツアーは終了。再びバンコクへ夜行バスで戻ります。ツアー中何度も顔を合わせた人たちと別れを惜しみます。タイ人の家族連れとはバスターミナルで盛大な夕食を摂って別れを惜しみました。
それまで思い通りにいかない事ばかりで辛い旅となっていた初めてのひとり旅はこのツアーを転機に好転し始めました。一人で旅してみせるという気負いや、自分は頑張れるという強がりの気持ちが少しは抜けて、いろいろな人にわからない事を教えてもらいながら日々を過ごせるようになった事が大きな変化だったかなと思います。
バンコクへ戻った私は、バスマップを手にバンコクの町を巡りなおします。そして再びバンコクを離れるときに目指した行き先はもちろんチェンマイ。今度はホアラムポーン駅の奥にあった長距離列車用の予約窓口へまっすぐ向かう事ができ、無事チェンマイ行きの夜行列車の切符を買う事が出来たのでした。
チェンマイ駅でゲストハウスの客引きを見つけて宿も無事確保。ゲストハウスの人達はとてもフレンドリーな人たちで、最初にバンコクへ到着したときに気負いとは周囲に対する警戒心の塊だった私もリラックスしていろいろな人と話をすることができるようになりました。
さて、チェンマイに戻った私の心は、もちろん恋するチェンマイの歌姫に占められていたのですが、だからと言って会いに行ったかというとそうではありませんでした。チェンマイを散策している際に前に泊まったプレジデントホテルや、彼女がベースにしていたと思われるトップノースゲストハウス(今はトップノースホテルになっています。)の前を通ると心がサワサワしたものですが、結局、なぜか私は最後まで彼女を尋ねていく勇気は持てなかったのでした。正確には彼女とどこに行けば会えるのかも知りませんでしたが...。
その後、チェンマイでは沢山の素晴らしい出会いがありました。沢山の人達から沢山の事を学んで、結局、私の初めてのひとり旅は失敗と失意でスタートしたけれども成功裏に終了できたようです。
沢山の出会いの中でもチェンマイの歌姫との出会いは私にとっては何かほろ苦い特別な思い出。その後、いろいろな国を旅するようになったのは、その時に触れた彼女の何気ない気づかいや優しさがあったからなのだと思います。この事がその後旅を続けるモチベーションにもなり、その経験を経て旅行を仕事にして現在に至っている事を考えれば、この出会いは私の人生の大きな転換期だったのだなと時折思い出すのです。
あれから30年以上の月日が過ぎました。不思議な縁で、ここ10年ほど、スーパーカブで旅するタイ北部をはじめとする企画で、毎年のようにチェンマイを訪れるようになりました。あの時は何事も思うように運ばなかった私も今では自分を”経験豊富な同行者”と紹介して皆さんをタイ北部へご案内する立場です。
この企画を始めて以来知り合った沢山の友人たちにいつも暖かく迎えられ、まるで第二の故郷のように思えます。それでも、時折、サンデーマーケットで行きかう人たちの中や、観光客をガイドする現地ガイドの中にかつて恋したチェンマイの歌姫の面影を探している自分に気づかされることがあるのでした。
スーパーカブで旅するタイ北部参加者募集中
11月出発は、収穫をもたらしてくれた天の恵みに感謝するお祭りであるロイクラトーン祭りを地元の人たちと一緒に楽しむ特別コースです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます