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江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

広益本草のミイラ薬

2020-07-14 19:36:58 | ミイラ薬

広益本草のミイラ薬

江戸時代には、大変多くの本草書(生薬の研究書、解説書)が、刊行されました。「広益本草」は、特に大部の書で、ミイラについても述べられています。
中東やヨーロッパでは、大量のミイラが薬としてもちいられました。その影響は、江戸時代の長崎の出島から、日本に及んだのでしょう。しかし、あまり長くは、用いられなかったようです。

公益本草
第19巻 人部(人部とは、恐い分類である。人体に由来する薬の項目である。まあ、現在でも、生身の人体から臓器を取り出したりしているようですから、国によっては、普通のことかも知れませんね。妖怪より恐いのは、人間。)

以下、本文。

木乃伊 もくないい ミイラ
別名 密人
肢体の折傷を治す。少しばかり服用すれば、たちどころに治癒する。

陶九成の「輟耕録(てっこうろく)」に言う。
「天方国に、7・80歳で、身を捨てて衆を救おうとする人がいた。
飲食をせず、ただ身を洗う。
蜜だけを食べて月を経ると、便も尿も、皆蜜となる。
それから、死亡する。
死後、その国の人は、石棺に蜜を満たして、その死体を浸す。その棺に、葬った年月を刻んで、安置する。
百年を待った後、封を開くと、蜜剤となっている。
骨折した人に、少しばかり服用させると、たちまちに、治癒する。その国の人であっても、手にいれるのは、難しい。また、これを蜜人とも謂う。」


今、外国から来た薬に、「蜜伊辣(ミイラ)」というのがある。
伝え聞く所では、彼の国の土中に、力ある者が死ぬと、石の棺に隠し、諸々の香木の液を用いて、カメを岡原に埋める。永い年月を経て、香液が肉に入り、腐らない。
塚を掘り、屍(しかばね)を取り、薬とする。
瘀血(おけつ)を消し、折傷を治す。

近頃、完全な形の屍体が、輸入される事がある。
白い布をもって、たたみ包み、三重に巻かれている(ミイラは布でぐるぐる巻きにされている様子)。

この屍(しかばね)を、七〇〇余年後に掘り出すと、黒光色であって、形は全く損じていない。
その肉を削って手の掌でこすると、潤い軟らかである。
これを焼けば、乳香や、松脂の香りがする。

これらは、陶九成の謂うミイラの類である。

今、毎年渡って来る物は、多くは人肉、あるいは馬牛の肉を加熱して焦がし、諸木の樹脂液に浸したものである。
湿っていて臭い。

これは、唐の陳蔵器の謂う、質汗(しつかん)の類(たぐい)である。
陳蔵器が言うには、「質汗」は、西方より出る。
檉乳(注:樹脂の一種であろう。檉ていは、和名ギョリュウ))、松涙(注:松脂か?)、甘草、地黄を煎じて、加熱した血を併せて、製したものである。
悪血を消し、血気を下し、金瘡、折傷、瘀血(おけつ)、肉損には、酒と一緒に服用する。
また、患部につける、と。

また、古様(ふるで)と云うのがある。
布の中に人肉がある。
用いて良い効果がある。
あの湿って臭く、布に巻かれていないのは、獣の肉であるかどうかは、はっきり分からない。
用いるには耐えない。

かつ、今の人は、ミイラは、死を起こし(起死回生)、危(あやうき)を救い、万病を治し、気血を養い、諸虚を補う、と謂っている。
しかし、これは、誤りである。

ただ、内出血を散らし、疼痛を止め、打撲、骨折、傷を治す効果があるだけである。
他の効能はない。

以上


「痔」には、ミイラが効くという説 「益軒全集 大和本草批正」

2019-11-14 00:10:01 | ミイラ薬
「痔」には、ミイラが効くという説
                            2019.11

「益軒全集 大和本草批正」(小野蘭山、 1729-1810)には、当時の、ミイラの薬効について、批判的に述べています。
ミイラの薬効は、ミイラ作りに使用されたバルサム(樹脂)と同じであり、バルサムは、「痔」には効く油である、(つまりは、他には効き目なし)と述べています。
題名に「批正」と付いている通り、間違いを正すと言うことで、ミイラの薬効についての伝聞の誤りを正したものです。
とはいえ、現代から見れば、間違っている部分もあります。これは、仕方の無いことでしょう。
  
以下、本文。

みいら  舶来の物である。数種類ある。

木乃伊(ミイラ)は、人を密漬にしたものを云う。
唐音(注:唐音とは、中国語での発音。木乃伊の現代北京音は、MuNaiYi ムーナイイー)もないという。
ミイラは、外国語(蛮名)も「みい」であり、発音が似ているので、一時的に「木乃伊 ミイラ」にあてた。
この説は、「六物新誌」に詳しく書かれている。

ミイラは、ヱゲフ(エジプト)、テンランド(天方国、アラビア)ランドは、島のことである、及びアレキサンテレイヤ(アレキサンドリア:エジプトの海港都市。ここにはミイラがないが、この港からミイラがヨーロッパに輸出された。)の古い墓より、掘り出したものである。
その国の習慣として、人が死ねば、腸や胃等の内蔵を除去し、バルサムに浸し、布にくるんで葬むった。
それで、布目といって、上質の薬とした。
偽物にも、布目があるのもある。骨が有る物を上質とする。
骨ミイラと称した。

そのように処理された遺体が葬むられて、長い年月が過ぎ、その人の親族がいなくなり、その主のいない屍を掘り出すが、これがミイラである。
高貴な人は、本物のバルサムを用い、身分の低い者は、鉱物油(原文は、池油)を用いたので、これを(低級品)下物とした。

おらんだ話と云う仮名本に、ミイラのことについて数種類の説が記載されているが、皆誤りである。
バルサムは、木の脂(ヤニ)であり、痔には効果のある油である。






「ミーラ(ミイラ)」、「ウルユス」と言う売薬  医学に関する奇談異聞

2019-09-28 19:41:27 | ミイラ薬

「ミーラ(ミイラ)」、「ウルユス」と言う売薬
                               2019.9

「医学に関する奇談異聞」(大正6年)と言う書物に、江戸時代のミイラの薬用についての記述があります。「ミイラ」ではなく、「ミーラ」となっていますが、そのままにして、現代語に訳しました。

以下、本文。

江戸時代の頃に、「ミーラ(ミイラ)」「ウルユス」という売薬があって、一時、大いに売れたことがあった。
昔も今も、舶米品を好む人心は同じことであって、殊に江戸時代の頃は、オランダ(和蘭)より舶載する薬品を珍らしがり、不思議の功力あるものの如くに信じていた。それで、ずるい商人の中には、手製のいかがわしい売薬にも、洋名まがいの名をつけて売り弘めた。「ミーラ(ミイラ)」「ウルユス」の如き者が、すなわちこれである。

「ミーラ(ミイラ)」は、今日、人の周知する様に、人の死体を乾燥したものであるが、江戸時代の延宝天和の頃には『ミーラ』と称した薬が、大いに流行した事があった。
想うに「ミーラ」の外国名であることは、以前から世に知られていて、「和訓栞(わくんしおり)」にも「ミーラ、質汗(しつかん)のことである。外国語である。」と記るされていた程であった。
そうであったので、奇を好み、船来品を珍らしがる人心に乗じて、わざと「ミーラ」と言うような名をつけて、舶来の西洋薬のように見せかけて、利をむさぼったものであろう。

「八十翁昔話」に、延宝より寛文の頃まで.「ミーラ(ミイラ)」と云う薬が流行して、婦人は、特にこれを服用し、諸病に宜しい、として大いに広まった。
あちこちの薬舗にも売っていた。
その中でも、赤阪に長崎屋という薬舗があったが、特別に安かった。
「ミーラ(ミイラ)」を、(等級に分けて、一包装を)、十銭の價、二十銭或は十五銭の品に分けて売っていた。
多くの人が、これを買い求めて服用したが、何にも効かず、害もなかった。その後 次第に売れ行きが止まった。
とある。この記事を見ても、オランダ人、・・・中略・・・この貿易地であった長崎の地名をかりて家号として、「ミーラ」と言う名をつけて西洋薬に見せかけ、諸病に卓効ありと称して世に売り弘めたずるい商人がいたことを、推察できるであろう。
当時「ミーラ」なるものを一種の薬の様に思っていたのは、ただに一般の人だけではなく、学者の中にも、このように信じていた者さえもあった。

有名な国学者である伊勢貞丈の「安斎隨筆」にも、『この薬は、アラビヤの国より出だす』と記るされている。
この様な世間の認識であったので「ミーラ」と称する売薬が世俗間で盛んに売れていた。
また、当時多くの学者間に読まれていた中国の書物の中にも「木乃伊(みいら)」のことを記して、薬効あり、などと称するものあった。

たとえば、『輟耕録(てっこうろく)(著者の陶宗儀は元末の人)』に『おおよそ、手足の骨折には、少しばかり食べれば、立ちどころに治る 云々』とあるように。

又、邦人の著書、たとえば「幸庵筆記」にも、
「木乃伊(みいら)は、交趾(コウチ:今のベトナム)と暹羅(シャム:今のタイ国)との間に、三百里許(ばか)りの砂原にある。

日本へ渡来したものは、過半は人工のミイラであって、これは、火屋(焼き場)の柱に、年々たまった人の油を取り、松脂の古いのを以って錬り合せて造ったものである。
これも効果があった。」と云う様な荒唐無稽の記事があった。
そうであるから、当時の俗人が「ミーラ」を蛮國(外国)より渡来せる珍薬と誤信し、其の名を附けたあのいかがわしい売薬を、諸病に効ありと思って服用したのも無理ならぬ事と云えるであろう。

しかしながら、その効験が特に無かったために、ついにこれを服用する者がいなくなったのも、また自然の事であろう。
天保年間に刊行された『八十翁物語』にも、六七十年前(延宝天和の頃)「ミーラ(ミイラ)」と云う薬 大いにはやったが、何の益も無なかった事を記るしている。


『ウルユス』というのは、明和天明の頃に行われた売薬である。
その頃は、上下奢侈に長じ、阿蘭陀舶来の品を愛用して長崎より取り寄せた時代であった。
この風潮を利用し奸商(カンショウ:ずるい商人)は、『オランダ何々」「長崎何々」と言う様な看板を店頭に掲げ、自家製の物品をも舶来物と称して、世人を欺むき、暴利を貪ぼった者も少なくなかった。
「ウルユス」もまたその一つであって、和蘭語(オランダ語)らしく思わせ、舶来薬のように、装って盛んに売り弘めたものである。

松浦静山の「甲子夜話」に、この「ウルユス」の事を記るしている。
これに依れば、「ウルユス」の紙包みに、「ウルユス」の義は、阿蘭陀国回斯篤児(オランダ国のヘストル氏)の一大奇方で、我国に渡航してきた時に、この薬方を、教えてもらった。
この薬方は、痰より起る諸病を治し、溜飲を下し、精気を治め、その重い病者を救ったことは、ここに述べるに遑(いとま)がない「云々」と書かれていた、との事である。
しかし、この薬は決して洋薬では無い。腹を空(むなし)くし、消化を助ける薬という処より、空ふすの空の字を三字に分割して、仮名字の『ウルユス』とし、洋薬のよう見せかけて世人を騙した物である。(大槻文彦氏の説に拠る)。
今、世に続出する新薬の類にも、右の「ウルユス」「ミーラ」とその発想法を同じくする俗物が少なくない。糠、豆等より製したる平凡の薬にさえ、洋名を冠して世に売り弘める者、大正の今日にも在るを思へば、江戸時代の俗人が「ミーラ」「ウルユス」の名に欺むかれて、これを奇薬と信じたのも、また怪しむに足らないであろう。噫(ああ!)。

編者注:大正時代のみならず、昭和平成の現代でも、非日本風の商品名、会社名などが多い。
これらから見ても、江戸時代に、現代での商品名の命名法の原形があるのは、明白ですね。
例を挙げれば、キリがありませんが、ここは薬品名をあげて見ましょう。
風邪薬のストナ、ジキニンは、それぞれ、スーット治るの意、じきに治るの意です。
頭痛薬のケロリン、ハッキリは、それぞれ、ケロッと頭痛が治るの意、頭痛が取れて頭がハッキリするの意です。
会社名のサンリオは、山梨を音読みにして(サンリ)オを付け加えたものです。
いずれも、カタカナ名で、一見洋風に見せていますが、実際は日本語から、ひねり出した物です。

しかし、こうすることが必ずしも悪いわけでは無いようです。
ある、証券アナリストによると、ここ最近では、漢字名の会社より、カタカナ名の会社の方が、営業成績、株価上昇率が良いとのことです。
うーん?!


赤坂名物のミイラ薬  「八十翁昔話」「八十翁疇昔話」

2019-09-23 22:58:29 | ミイラ薬

赤坂名物のミイラ薬
                         2019.9
ミイラは薬だった

江戸時代の赤坂に、ミイラを薬として売っていた生薬屋がありました。
安い価格で売り出したので、よく売れたとのことです。
ただし、本物のミイラではなく、偽物を安く売ったのでしょう。

ミイラ、古代エジプトで作られたものが、中近東、中世・近世ヨーロッパで、薬として広く用いられていました。
往事のヨーロッパの立派な薬局には、ミイラが、本物を扱っていますよ、とばかりに、飾ってあったそうです。(Medicinal Cannibalism in Early Modern English Literature and Culture by  Louise Noble 2011)
それが、オランダ船を通じて、長崎に伝わり、江戸でも、ミイラを薬として用いるのが流行ったようです。
ミイラは、貴重品であったので、当然の様に、偽物が現れたようです。
その一つが、赤坂のミイラです。
ミイラに薬効があるのかは、面白い問題ですが、ここでは、考察しません。余りにも、面白すぎるし、膨大な文章となるでしょうから。

私が、ミイラや、人体の一部などが、江戸時代に、薬として用いられていたのではないのか?との疑問を持ったきっかけは、貝原益軒先生の「大和本草」の、一文からです。
ミイラの項に「・・・ミイラは人肉なり。人肉を用いるものは、人を以って人を食う。仁厚の事にはあらず。たとえ功効が有れども、君子の為すに忍ばざるところなり。いわんや、右に記す所の功効悉く信ずべからずや。・・・」とあります。
ミイラが、ヨーロッパで広く用いられたのは、以前から常識として知られています。また、中国や朝鮮では、人体を薬とするのは、いわば伝統的なことです。特に、李朝期には、人肉、人骨、人血を、多くの事に用いられていました。つい先年も、韓国で、人肉カプセル事件がありました。これは、表面化しただけですから、実際は、相当のことが、現在でも行われていることでしょう。
しかし、日本では、このような事は、ほとんどないであろう、と私は思っていましたの。それで、益軒先生の文章には、驚きました。
それから、ミイラも、日本でも、医薬に用いていた文献を捜しました。すると、ありました。

そのうちの一つが、「八十翁昔話」 (新見正朝、天保8年・1837年出版)です。
この「八十翁昔話」の本来の題名は、「八十翁疇昔話」ですが4番目の文字は、今では使われない漢字ですので、いくつかの文献には、「八十翁昔話」の題名で出てきますので、私もそのようにしました。ただし、「八十翁昔語」等としているのもあります。
この、「八十翁昔話」の本文の各項が、すべて、「昔は」で始まっています。


「八十翁昔話 前編」
以下、本文
昔、6・70年以前(延宝、天和)、「みいら」という薬が大いにはやった。大名や偉い人達も飲み、下々も飲んだ。痞(ツカエ)に能く、虚症を補い、脾腎を調え、気力を強くし、食べ過ぎその他にも良いとして、飲まない人は無かった。
方々の薬種屋でも売っていた。
「赤坂みいら」と言って、赤坂に大坂屋と云う生薬屋(きぐすりや)が、安く売っていた。皆、調整して飲んでいた。
代金は、長崎屋等では、二十双三十双などで、売っていた。十五双斗のもあった。
ところが、「赤坂みいら」は、五双三双で売っていた。(編者注:この文からは、重さいくらに対して
金銭がいくらというのが、はっきりしない。)
何か、生薬2・3種類に松ヤニで練ったような薬であった。
病気には、効かず、また副作用も無く、何の益も無い薬であった。
七、八年たって、人気が無くなり、だんだん売れなくなった。
以上

その後、「なかみ」、「黄精 おうせい:ナルコユリのこと」、「なたまめ」等が流行ったとも、述べられています。

その後、4・50年以前、「なのみ」という薬は、酒にて飲んだ。「なのみ」薬と名づけられて呑んだ。
また、三・四年以来、「黄精(おうせい)」を諸病に良いとして、呑んだ。身を養う薬であった。
流行ると、すぐに廃れた。
又、近年「なたまめ」が・・・流行った・・・
等々と、述べています。

以上

江戸時代も、今も、健康に良い、というのが、流行ったり廃れたりしたのですね。
しかし、「ミイラ」を薬として飲みたくないですね。