江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

江戸時代の入れ墨の刑  図示(風俗画報)

2024-09-16 12:44:23 | 江戸の人物像、世相

江戸時代の入れ墨の刑    図示

                                                    2024.9

「風俗画報」明治二十五年十二月十日(東京、東陽堂)には、江戸時代の軽い刑罰と、それに伴う入れ墨についての記述と図が示されている。
「風俗画報」は、明治時代に発行された雑誌です。
江戸時代の様子を記録する、というのがこの雑誌の主旨の一つです。

以下、本文。

徳川時代のお仕置き  蓬軒(この文の作者らしいが、どんな人かは不明)

徳川幕府の定めた法令としては、百箇条(百ヶ条)が、知られている。当時、実に重要なる法令であって、主に刑事上の事を規定したものである。
この規定は徳川祖宗の始めたものであった。
昔は、罪人の処刑があるごとに、将軍みずから筆をとって、百箇条中に訂正追加をした、と言う。
これは、官吏の執法の当否を検証するの意であろう。
しかし、八代将軍吉宗公が、紀州より入って将軍位を継ぎ、政務を励むに及び、(享保、寛保、延享の頃)寺社奉行 牧野越中守、石河土佐守 等に命じて百箇条を増補した。
世に寛保律と言うものが即ちこれである。

その後、十一代将軍家斉(いえなり)公の治世に至り、老中松平越中守(白川楽翁公)更に、法令を増補した。
これを寛政律と名付けた。

以上の二回の改革は、思うに、
人間社会が日に日に進んで、人々の行動が次第に煩雑となり、
百箇条にては、事にあたって、不都合を感じることが多かった故であろう。
しかし、幕府は、最後まで祖宗の範を脱しえなかった。
当時の増補は、もとより百箇条の精神を失わぬ事につとめ、かつまた、従来の不文律であった物を百ヶ条中に記入したのに過ぎない事である。

よって、今これを古老に聞きただし、列記して当時の実況を知るの便に供する。


入墨 入墨は附加刑であって追放・敲(たたき)等の正式な刑に属している。
ただし、江戸は伝馬の牢屋敷にて執行し、入れ墨が乾くまで、入牢を申し渡す。

江戸 京都 大坂 長崎は、享保五庚子年(1720 かのえね)二月十七日制定
増入墨は        安永六丁酉年((1777 ひのととり)一月三十一日
人足寄場は       寛政五癸丑(1793 みずのとうし)年十一月五日
伏見 奈良 駿府 甲府は寛政三辛亥年(1791 かのとい)七月二十九日
山田 堺は       寛延四辛未年(1751 かのとひつじ)四月十九日
佐渡は         賓暦十庚辰年(1760 かのえたつ)二月十四日
日光 関東郡代は    寛政三辛亥年(1791 かのとい)三月八日

敲(たたき) 敲は正式な刑罰であって軽重がある。
軽い罪には、五十回、重い罪には百回をたたく。


刑は、江戸では、伝馬町の牢屋敷の表門外にて、執行する。
検使は御徒目付御小人目付、立合は町奉行与力同心。
 

刑罰の対象(百箇条の一部)
〇商品の代金を請け取ったが、品物を渡さない者
○品物を二重に売った者
○取次品を質入れ、又は売り払った者
○金銭物品を横取りした者
○奉行人、手元にある品を持ち逃げした者
○奉行人が、取引先から金銭物品を持ち逃げした者
○巧み候儀も無之軽く取除け致し候者
○給金を請け取ったが、主人の方へ引き移らない者
○軽い盗みをした者
〇風呂屋にて、衣類、着替を盗んだ者
○盗んだ物と知りながら、それを預った者
○隠した物と知りながら買った者
○辻番人の巡回地区内で拾った品物を、届け出なかった者
以上、金額として十両以下(品物は、代金として十両以下)の場合は、入墨の上、軽く敲く。

(未完)(以上は、条文の一部)

以上。


「風俗画報」明治二十五年十二月十日(東京、東陽堂)には、図があるので、それを示した。

 


薩摩の役人の中国漂流記  「筆のすさび」

2024-07-22 20:25:37 | 江戸の人物像、世相

薩摩の役人の中国漂流記  「筆のすさび」

                      2024.7

原題は、「唐山漂流紀文」 

御医の福井近江介が、薩摩の人より得た漂流記を写した文章を、私は見せてもらった。
以下に、記す。

唐山(とうざん:中国のこと)に漂流するものは、多いが、このような事(風景や扁額の文字)に心を止める人は少ない。
この他にも、なお面白い興味深い事が多かったであろう。(原注:この文は、漢文であった。いま、和文になおして記す。訳文の拙いのを笑わないでいただきたい。)

本藩の士の税所子長(さいしょ しちょう、であろうか?)、古後士節(こご しせつ)、染川伊甫(そめかわ いすけ)、祇役(原ふりがな:きやく。役職名であろう)を琉球に派遣した。そして、乙亥(きのとい:1815年)の秋八月に薩摩に帰ろうとした。


しかし、航海中に台風に遭遇した。漂流する事数十日間で、冬の十月に、唐山(とうざん:中国のこと)の広東省の碣石鎮に着岸した。
その広東より江南を経て、おおよそ(琉球を出てから)六ヶ月にして浙江省の乍浦(ざっぽ)港に至った。そして、中国に留滞すること五ヶ月にして、遂に日本に帰る許可が出た。
広東の南雄州(今の広東州南雄市)より南安府(?)に赴いたが、途中で大庾嶺(たいゆれい)を通過した。
時に孟春(旧暦の一月)に属し、梅の花の盛りであった。
(訳者注:広東から大庾嶺に行くと、南安府に行くことは、ありえない。記憶違いか、地名の誤りかであろう。))
道の左に、唐時代の賢相である張九齢の墓があった。「芳流千古」の四字が碑に書かれていた。
又、そこから数歩の所に張公の祠堂があった。遺像は、りんとした様子であった。左の巌窟中に六祖大師の坐像が安置されていた。厳かで、生けるがごときであった。側に泉があり、六祖清泉と言った。
道を上って、一里余りで山頂に至る途中に門があった。門に扁額があり、「嶺南第一」の四字が書かれていた。門を通りかかると、左壁に「梅嶺」の二字が見えた。
一日中、登り下りしたが、眼に触れる所は、すべて奇観であった。
時に清国の嘉慶ニ十一年正月十一日であった。

実に本朝(日本)の文化十三(1816年)年丙子(ひのえ ね)正月十一日であった。

子長は、見た物を多くの図にして、持って帰り、人に見せた。士節や伊甫も又、中国の様子を、事細かに語っていた。

私は、その図を写しとり、かつまたその語った事を、記した。それを、峩山(がざん:お寺か?)の月江師の清翫(せいがん:多分坊さんの名)に贈った。

己卯(つちのと う:1819年)八月、
薩摩の梅隠有川貞熊(バイイン雅号、ありかわ姓、ていゆう名) 記す。

 

以上、「筆のすさび」より。

 

 

 


名妓 首信(くび のぶ)の伝記 羈旅漫録

2024-04-24 23:02:12 | 江戸の人物像、世相

名妓 首信(くび のぶ)の伝記  羈旅漫録

                 2024.4

 

(118)首信(くびのぶ)が伝   羈旅漫録  滝沢馬琴

 大坂の島の内に「信(のぶ)」と言う芸子(げいこ)がいる。
人々は、あだ名して「首のぶ」と言っている。
その言わんとする心は、こうである。
大変に容色がすぐれていて、その首が、色っぽかったからである。
今、婦人の品定めに首がよい首がわるいと言うのも、こののぶより始まったのだそうだ。
 
 現在は、四拾余歳。
(原注:大坂の雨柳の話に、のぶは宝暦十一年=1761年=に生まれ、今の享和二年壬戊=みずのえ いぬ:1802年=に至って、四十三歳であろうと言う。)
しかしながら、なお二十五六歳に見える。
実に人妖(美人で若く見えるだけでなく、どこか妖しい魅力があるのでしょう)である。
朝起きて、おしろいを使っていないのに、顔色は却て(かえって)美しい。
(普通は、朝に化粧をするが、彼女は化粧もしないのに美しい。)

 父は、御所桜長兵衛と言う名の角力(すもう)とりであった。後に角力年寄になった。

 のぶは、安永の始め頃、芸子(げい子)となって、京の祗園にいた。
実に、人気があり、全盛であった。
富豪の人で、「のぶ」の為に、大金をなげうつ者が多かった。

 富豪の三井氏が、秘かに「のぶ」に懸想(けそう)して、数万両の金を浪費した。
(原注:一説には、のぶに十万両の金を費したと言う。)
ここに至って、三井の親戚及び番頭(幹部の従業員)等は、大いに驚き、すぐに主人を伊勢松坂の店に押し込めた。
年間の生活費などを、わずかに百両に限って渡した。
そして、親戚はすべて、彼と交際を絶った。 この時、のぶは、京に留まっても良かったのだが、こう考えた。
お金があるときは、楽を共にし、お金がなくなって貧乏な時には、別れるのは、人として、義ではない。
そうして、強いて松坂に行き、情郎(ほれたおとこ)に仕えること十三年であった。

 のぶは、よく仕え、かつまた松坂にいる間、本居宣長の弟子となって、おりおり源氏物語などを学んだ。また機を織ることを学び得た。
ある日、番頭たちは、協議して、内密にのぶにこう言った。
「あなた様の十三年にわたる御苦労は、普通の婦人の及ぶ所ではないでしょう。
しかし、あなた様が、主人(三井の)と一緒にいて、生活する限りは、親戚たちの憤りが解けないことでしょう。
このままでは、主人が、再び世に出て、才覚を働かせて、事業を拡大することは、出来ないことでしょう。
しかし、我らが主人は、あなたさまに、愛着をもっています。あなた様から、主人を嫌いにならないかぎり、あなた様を手放さない事でしょう。
もし、あなた様が、我れらが主人を本当に、愛しているのでしたら、あなた様が、自発的に京にお帰りください。」

 このように、請願されて、のぶは、その言葉に逆らわなかった。
のぶは、三井の主人に、「京に帰りたい。」と言った。
親戚たちは、よろこんで、のぶに種々の手道具を与えた。そして、京への交通費を用意して京都へ帰らせた。

 のぶは、京に帰って、道具類を売払い、七十両余りの金で櫛笄(くし・こうがい)などをととのえた。また別に衣服を製して、ふたたび祇園に出て、歌妓となった。そして、昔に勝る売れっ子になった。

 その後、俳優の嵐雛助(あらしひなすけ。原註:後に嵐小六と名を改めた。江戸で死んだ雛助の父である。)は、密かにのぶに通じて情交が厚かった。
世間では、大いに話題になった。

 さて、ここに御所桜の五六人の弟子が、協議して、
御所桜の家に到って、こう言った。
「うわさで聞いたことですが、師匠の娘さんが、雛助の妾となったそうですね。
師匠、どうして 娘さんを俳優(やくしゃ)の妾にしたのですか?お金のために、身を汚(けが)さしたのでしょうか?
もし、本当でしたら、我々は師弟の約束を、返上したい。」
と。
御所桜は、これを聞いて大いに困惑した。
そして、この事をのぶに語って、雛助と別れるように、と言った。
のぶは、そのことを雛助に告げた。
雛助は、こう言った。
「角力(すもう)とりと俳優と、どちらが尊くて、どちらが卑しいのだろうか?彼らは、みづから浪人になって、相撲取りになったとはいえ、お金をいただいて、人の見物(みもの)となるに至ったのは、俳優と同じだろう。又、俳優も昔は禁裏(宮中)に召され、天覧にあずかったこともある。それで、由緒を論ずるに至っては、どちらが上とか下とかはない。
私は、我が身にかへても、のぶを返さない。」
と言った。
ここに於いて争論は止まった。

 のぶは、こう考えた。
結局、父が角力の世界にいるからこそ、このような嫌な目に遭うのだ、と。
父は、年をとったのだから、隠居をさせようとして、京都にてしかるべき家を求め、豊かに老後を過ごせるように世話をした。
そこで、御所桜は、角力(すもう)をやめて隠居した。
それによって、御所桜と弟子たちの争いは、直ちに止んだ。

 その後、雛助が病死して、のぶは寡婦となった。
そして、また、元の歌妓となった。

 程へて、俳優の文七(原注:吉男)に思われ、ついに文七の妻となった。
しかし、少しして、文七は病にかかり、様々な治療をしたが、甲斐なく死亡した。
のぶは、夫のために願をかけて、髪を切り、讃岐の国(香川県)の金比羅様に参詣した。のぶが、お参りから帰る前に、文七は家で死亡した。

 その頃、浪速人(なにわびと:大坂の人)のことわざに、
「家に千金を積むとも、首になることなかれ。
もし、産を破らざれば、必ず、命を落とす。」
(首が美しい女と男女の仲になると、破産はしなくとも、命を失う。また、首のぶの首と、首にするの首をかけている。)
と言うのがあった。

 この後からは、のぶは、結婚しなかった。
大坂の島の内に出て、また歌妓となった。
今も、全盛の売れっ子である。
のぶは、すこし和歌をよみ、又、俳諧の連歌もたしなんでいた。

 私は、大坂に遊んた折り、あるタべに、この道頓堀の竹亭にのぶと会した。
のぶは、ここに来て、席に着いた。
そして、そのまま、
「馬琴先生、滝沢馬琴先生」
と私の名を呼んで、話しかけてきたが、まるで旧知(昔からの知人)のようであった。
先に来ていた他の歌妓や幇間(たいこ持ち)等には、私の事を知らない者もいた。
驚いたことに、のぶは、誰も私のことを、知らしめなかったのに、すぐに私の事を、察知した。
不思議なことである。
(馬琴先生は、高名な小説家ではあったが、無学な人たちは、その名を知らなかったことでしょう。また、江戸での有名人は、大坂では、あまり知られていなかったのかも知れません。)

 同じ席にいた嫖客(ひょうかく:あそび人)が、のぶに発句を求めた。
(訳者注:江戸時代は、宴席でも連歌などを行った。妓女などでも、たしなむものもいた。当然、それなりに尊重された。)
のぶは、三回ほど断った後に、
  わらは(笑わ)れて 夜をひた啼(なく)や きりぎりす                  
 と、書いて出した。
(訳者注:江戸時代には、コオロギのことを、キリギリスと呼ぶこともあった。この場合は、コオロギを指す。)
字も、上手であった。
のぶは、私に、扇に何か書いて欲しい、と強く乞うた。
それで、すぐに、狂文一篇と狂歌一首を記して渡した。
客たちは、興に入って、席中の歌妓、幇間(たいこもち)も皆、即興の発句を作った。
又、私に文を乞い歌を請う者が多かった。

 宴席は、四更(しこう:午前1時位から午前三時位まで)まで続いた。

ひらく手の おくやゆかしき 女郎花(おみなえし)                 歌妓  ふさ
聞(きき)たまへ 鶴井かめゐ(つるい かめい)も 千々(ちぢ)の秋                  歌妓  しげ
一ふしに 虫の音(ね)しんと ふけ(更け)にける  牽頭(けんとう:たいこ持ちのこと)  音八
この外、席上の嫖客、雨窓(1813~1875、新井雨窓ではないだろう)、国瑞(くにあきら:桂川甫周1751~1809か?)、慮橘等の即興の発句があったが省略する。

 


訳者注、と言うよりは感想: 「むかしの人は、かくいちはやくみやびをなんしける!」・・・伊勢物語の一文。感嘆せざるを得ない。
市民(今風にいえば)の宴席で、即興の詩歌のやりとりが行われたのは、大変なことです。
この「のぶ」と言う女性は、大変な美人であっただけでなく、頭も良く、気がきいて、実に魅力的だったのでしょう。
また、もし、三井の主人に対して、身を引かなかったら、今の三井財閥、三井グループは、無かったでしょう。

「羈旅漫録」について
馬琴先生の著作としては、八犬伝などの小説がよく知られていますが、「兎園小説」類(ここに言う小説は、今の小説Novelとは違って、随筆、雑文)や旅行記(騎旅漫録)などの、著作があります。
中には、なかなかおもしろい内容のものがあります。
「羈旅漫録」1803年 は、江戸から上方への旅行の紀行文です。
(「日本随筆大成第一期第一巻」収載の「羈旅漫録」より)

 


遊女「よし野」の伝記 「羈旅漫録」

2024-04-21 22:55:38 | 江戸の人物像、世相

遊女「よし野」の伝記   「羈旅漫録」滝沢馬琴

               2024.4 
遊女「よし野」の伝記   「羈旅漫録」〔四十六〕

 

(原注:よし野の伝記は、雨談に出ているが、漏れた所もあるので、ここに録した。蟹の盃の図説の事は、雨談に詳しいので、それを見ると良い。)
  

 吉野の享年は、寛永八年、六月二十二日であった。
よし野は佐野紹益(1610~1691年)に請け出された。
紹益は灰屋と号する富豪であった。
吉野は紹益に先だって死んだ。

 都をば 花なき里と なしにけり 吉野を死出の 山にうつして        紹益

この歌は、その時の述懐の歌である。

或る人はこう言った。吉野の屍(しかばね)を火葬して、紹益みづからその遺骨を喰い尽した。
紹益がよし野に愛着すること、このようであった。

これから後に、灰屋の家は衰えたと言う。(原註:経亮の話)

 七月十七日、橋本経享(はしもとつねすけ)(割注:橋本肥後守経享は、香果園と号していた。京都の梅の宮の神官である。皇朝の典故にくわしく、文化二乙丑六月五十余歳にて没した。著すところ、梅窓筆記二巻が世に刊布している。)とともに、栄庵(えいあん)を訪ねて面会し、吉野の伝を問うた。
栄庵は、姓は、佐野氏、京都両替町二条下ル所に住居し、医を業としている。
この栄庵は、よし野の夫・紹益の孫である。
今は衰えて、貧しい家となった。
栄庵は言う。
「祖父の灰屋紹益の家は、知恵ノ小路上立売(かみたちうり)にあった。
紹益は和歌をたしなみ、蹴鞠、茶の湯などをした。
尾州、紀州の両公より召されて、度々出かけたことを、聞き伝えている。
古野が没してはるか後、浪速(なにわ)の小堀氏より妻を迎えた。
これにも子がなく、七十三歳の時、妾が男子を生んだ。今の栄庵の父 紹円(しょうあん)がそれである。紹円が五十余歳の時、栄庵が出生した。」
栄庵も六十歳ばかりに見える。
紹円も鞠を好んだと言う。

 この家によしの川の裂(きれ)、山中の色紙、(原注:崎人伝に、或る殿様が、何のついであったか、よし野に会った。吉野が、よろこぶべきものを、あたえようと、考えた。
小倉色紙のうちの藤原俊成卿の歌に、
「世の中に道こそなけれ」
と言う歌の句があったが、
「山の中に」と誤って書いたのがあったが、それがかえって評判になり、「山中の色紙」と言い伝えられて名物になっていたのがあった。それを贈った。
(訳者注:百人一首 世の中に道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる ・・・藤原俊成)

はたして、吉野は、大いに喜んだ・・・と云々。

 栄庵の家に蟹の盃があった。いづれも吉野より伝来の器物である。
栄庵の代に至ってますます窮したので、
よしの?は(原註:よしの截よしの漢東これである。?意味不明)人に売り与えた。
山中の色紙は雲州侯(出雲藩主)へたてまつり、今、家にあるものは、蟹の盃のみであるそうだ。
又、よし野や紹益が書いたものがいろいろあったが、度々の類焼に失い、又は人にのぞまれて与えて、今はないと言う。
よし野が書いた文があったが、それを見せてくれた。
紋所の印は、一ッ巴のうちにさくらの花がある。
手跡(筆使い)も又見事であった。
山中の色紙、広東の横(よぎ)、蟹の盃は、よし野が花街にあった時に、薩州侯(薩摩の殿様)より賜ったものだそうだ。

 栄庵は、又、こうとも言う。
紹益の菩提寺(ぼだいでら)は、内野新地立本寺(うちのしんち りゅうほんじ)にある。(原註:日蓮宗)
この寺は、その頃は、今出川町にあったが、その後、御用地(公用地)となり、今の場所に移転したが、墓も建て変えたのかは、はっきりしない。
石面には、紹益と吉野の戒名が二行に刻まれている。
紹益は八十一歳で没した。
古継院紹益(こけいいん しょうえき)   元禄四年(1691年)十一月十二日     
本融院妙供(ほんゆういん みょうきょう)   寛永八年(1631年)六月二十二日
これをもって考えるに、古野の没年は、紹益が二十歳の夏であった。そうであれば、よし野が紹益の妻となって程なく、大変若くて死んだのであろう。
なるほど、紹益が大事な宝物を失なった恨前(うらみ)の歌を吟じたのも、うなずける。

 栄庵に紹益の歌の事を問うたが、その通りで相違なかった。紹益は貞徳を友としていたそうだ。

 画工成瀬正胤(なるせまさたね)の話に、紹益がよし野をうけ出した時、父に勘当された。そして、しばらく下京にすみ家を求めて夫婦で住んだ。
その父が、他へ行って帰る途中で、雨がふり出したので、かたわらの家に入って雨舎(あまやど)りをした。
その家の内には、炉に釜をかけてあった。
主人は留守と見えて、大変美しい女房が、こちらへどうぞと招いて、うす茶をたてて出した。
その立ち居振る舞い、茶の手前まで、このような場所では見られないであろう位に優雅であったので、大変ふしぎに思いながら立ち帰った。

 次の日、こんなことがあったと知人に語ったが、彼は、
「それこそ御子息の紹益の妾ですよ。その家は、紹益のかくれ家ですよ。」
と告げた。
父は、始めて合点がいった。
その奇遇を感じて悟り、遂に紹益への勘当をゆるして、よし野を引きとり、妻とさせたそうである。

 自宅から、程遠からぬ下京に、その子が忍び住んでいたのも知らなかったのは、大富豪であったからであろう、と言われた。

 我が友人の慮橘(ろきつ)は京都の人である。近曾(ちかごろ)よし野の墓を図にして送ってくれた。
古野塚は洛北の鷹が峰、日連宗檀上学堂(だんじょうがくどう)の後(うしろ)にある。                  
 吉野は、京都の大仏馬町の松田氏と言う浪士の娘である。元和四年戌午(1618年)の年に出生、享年三十六。畸人伝(きじんでん)と言う書物にあるのもこれに同じである。
いまだ、どれが正しいのかはわからない。

 又、京都の立入氏である賀楽老人より、こう告げられた。吉野が没する時、紹益は三十歳であった。
(寛永)八年では、二十歳である。そうすると、十七八歳でよし野を身請けしたのであろうか?
法名(戒名)は、前文の通りである。
檀上の三門は吉野が建てた。
後に火災にあって、改め建てたことを、寺の僧は語った。栄庵の説は、思い違いであろう・・・云々。
(原註:追記、私・馬琴が、考察するに、紹益が「にぎはへ草」に載せた轍書記の、
「なかなかに 見ぬもろこしの 鳥もこし、
 なかなかに なき魂ならば 云々{うんぬん}」と言う二つの歌に、異同があるが、その事に言い及んだ者はいない。このことについては、考察するのが良い。)
 
追考:鳥原の郭(くるわ:遊郭)は、寛永十八年六条柳の馬場より、今の三筋町へ、移転した。よし野は寛永八年に没した。
そうであれば、そのころはなお、六条の郭にいたのであろう。
箕山(原著注:箕山は通称を藤木了因と言い、貞徳の門人であって両巴梔言好色大鑑などを著した人である)の著した「色道大鏡」に、よし野の伝記があると、大坂の慮橘が語った。

 私の大坂逗留の日数が少なかったので、寛文式(かんぶんしき)二巻を閲覧しただけである。
もし序(ついで)があれば、あわせて考察しようと思う。
   
「羈旅漫録」滝沢馬琴 より


「羈旅漫録」について


滝沢馬琴先生の著作としては、八犬伝などの小説がよく知られていますが、「兎園小説」類(ここに言う小説は、今の小説Novelとは違って、随筆、雑文)や旅行記(騎旅漫録)などの、著作があります。
中には、なかなかおもしろい内容のものがあります。
「羈旅漫録」1803年 は、江戸から上方への旅行の紀行文です。
(「日本随筆大成第一期第一巻」収載の「羈旅漫録」より)


大坂の女侠客  奴の小万(やっこのこまん) 羈旅漫録

2024-04-20 22:47:59 | 江戸の人物像、世相

大坂の女侠客  奴の小万(やっこのこまん) 羈旅漫録

             2024.4

大坂の女侠客  奴の小万(やっこのこまん)

「羈旅漫録」滝沢馬琴  より
〔八十九〕 奴の小万(やっこのこまん)が伝

「奴の小まん」は、本名をゆきと言う。三好氏。
今は、尼となって正慶と号し、難波村に隠居している。
大阪の長堀木津屋と言う豪家の娘であった。
今、長堀の銅吹処(どうふきどころ:銅製品製作所)いづみやの隣に大きい明家敷(あきやしき)がある。
ここは正慶(小まん)の家であったと言う。

難波人の話であるが、ゆきは、十七八歳の時より、みづから誓って結婚しないことにした。
そのころの世間の話に、ゆきは、本当は男を嫌っているのではない。
これには、理由があって、自分が思いを寄せている男には沿(そ)われないので、男嫌いである、と言ったのだそうだ。
 
ゆきには、侠気があって、又、書を読み、字も上手であった。
つねに大阪中を往来するのに、顔に墨を塗り、その上に白粉(おしろい)を施こし、異様な姿形に扮装していたそうだ。

(原註:これは、彼女が男子にまみえない志{ココロザシ}を示している。)
それで、そのあざは或る日は頬にあり、又或る日は額にあった。
こういう事から、世の人は、彼女を「やっこ」「やっこ」と呼んだ。

少しして、京都堂上家の家臣だった者が浪人(失業)して、大阪に来たのを、援助してやった。
彼女は、これを男めかけにして、難波新地の辺(あたい)に住まわせた。そして、折々通って楽しんだ。
後に、かの男が義に違うこと(注:多分、浮気でしょう)があったので、ゆきは怒って、追出した。
彼女は、これより又ふたたび男には、なじまなかった。

その頃、悪党無頼の某(なにがし)と言う者が、法を犯した事があった。
この者は、大阪にかくれ住んでいたが、その場所がわからなかった。
柳里恭(原注;柳権大夫:りゅうりきょう)(訳者注:柳沢淇園のこと。1703~1758年。文人画で名高い。)は、ひそかにゆきに語って、かの悪党を探させた。
ゆきは、程なく かの悪党を捕らえて役所にさし出した。
このような事から芝居・狂言に、「奴の小まん」として創作された。

上田秋成(あきなり:1734~1809年)が書いたものに、ゆきの隠れた男を柳里恭であると記したのは、大変な間違いであると言う。
私(馬琴)が考察するに、柳里恭(りゅう りきょう)の事は、年代が相当しない。これは、元禄年間(1688~1704年)に、大阪に「奴の小まん」と言う女の侠客がいた。それと、今の「奴の小まん=ゆき=正慶尼」と混じり合って、誤ってそう書いたのであろう。
(馬琴先生の生没年1767~1848年、この旅行記は1802年のことである。)
 
正慶は、享保七年(1722年)に生まれ、享和二年(1802年)に至って74歳だそうだ。
(注:これも数字が合わない。享保14年あたりの生まれであろう)

8月2日、私は、難波村に、正慶尼を訪ねた。(原注:正慶尼は、奴の小まんの法名である。)
この日、廬橘(ろきつ:大阪の戯作者、文筆家)が一緒に行った。
その村の医師鎌田氏に、正慶尼に会えるように頼んだ。
正慶は、木津に家を持っていたが、定まった家があっては、人の往来がわずらわしい、と言って、その家を木津の菩提所に寄附した。

そして、難波村に来て、人の家に寄寓した。しかし、常には、その居所を定めなかった。
鎌田氏は、人を走らせて、あちこち訪ねさせて見つけた。
正慶尼は、自ら年は七十四と言う。年老いたとはいえ、なお若いころの容色をとどめている。
歩くのも、しっかりしている。
彼女は、世を厭う心があるので、人が書を欲しいと望んでも、みだりに書いて与えなかった。
しかし、私が対話して扇面に何か書いてほしいと望んだところ、快く引き受けてくれた。
詩一篇と連歌の発句とを書いた。
筆跡は、大変に美事(みごと)であった。
     金城春色映丹霞 (金城の春色、丹霞に映ず)  
     活気和風到万家 (活気の和風、万家に至る)     
     潰笑宴然楼上興 (笑いを潰して 宴然たり。楼上の興)  
     捲簾先見園中花 (スダレを巻いて まず見る園中の花)       
                      三好氏婆   正慶 草(三好氏のババ 正慶 したためる)


     又、
     月落て 松かぜ寒き 野寺かな                   丁女丁  正慶
 
詩も正慶草(書く)、とあったので、自作の詩であろう。
言葉にも、侠気(キョウキ:おとこぎ)があるのがうかがえる。
自ら言う、老婆(正慶尼)が忌み嫌うものは、酔っ払いと猫である、と。

好事のものは、彼女を敬愛している。
前年、蒹葭堂(けんかどう:木村蒹葭堂=大坂の文人)が、墨を与えた代わりに、正慶に絵をかかせた。
そして、蒹葭堂は、みづからこれに題書した。
蒹葭堂の墨と言って、今なお大阪にある。

正慶は画も出来た。
しかし、画は、なかなか人の求めには、応じなかった。

大坂の人も、彼女の本名(ゆき、又は正慶)を呼ばないで、只「奴の小まん」とのみ呼んだ。

(原注:考察すると、「奴の小まん」という、女侠が、元禄の頃にいた。それに、彼女が似ていたので、正慶のあだ名となったのであろう。)

 

「羈旅漫録」について
馬琴先生の著作としては、八犬伝などの小説がよく知られていますが、「兎園小説」類(ここに言う小説は、今の小説Novelとは違って、随筆、雑文)や旅行記(騎旅漫録)などの、著作があります。
中には、なかなかおもしろい内容のものがあります。
「羈旅漫録」1803年 は、江戸から上方への旅行の紀行文です。
(「日本随筆大成第一期第一巻」収載の「羈旅漫録」より)