名妓 首信(くび のぶ)の伝記 羈旅漫録
2024.4
(118)首信(くびのぶ)が伝 羈旅漫録 滝沢馬琴
大坂の島の内に「信(のぶ)」と言う芸子(げいこ)がいる。
人々は、あだ名して「首のぶ」と言っている。
その言わんとする心は、こうである。
大変に容色がすぐれていて、その首が、色っぽかったからである。
今、婦人の品定めに首がよい首がわるいと言うのも、こののぶより始まったのだそうだ。
現在は、四拾余歳。
(原注:大坂の雨柳の話に、のぶは宝暦十一年=1761年=に生まれ、今の享和二年壬戊=みずのえ いぬ:1802年=に至って、四十三歳であろうと言う。)
しかしながら、なお二十五六歳に見える。
実に人妖(美人で若く見えるだけでなく、どこか妖しい魅力があるのでしょう)である。
朝起きて、おしろいを使っていないのに、顔色は却て(かえって)美しい。
(普通は、朝に化粧をするが、彼女は化粧もしないのに美しい。)
父は、御所桜長兵衛と言う名の角力(すもう)とりであった。後に角力年寄になった。
のぶは、安永の始め頃、芸子(げい子)となって、京の祗園にいた。
実に、人気があり、全盛であった。
富豪の人で、「のぶ」の為に、大金をなげうつ者が多かった。
富豪の三井氏が、秘かに「のぶ」に懸想(けそう)して、数万両の金を浪費した。
(原注:一説には、のぶに十万両の金を費したと言う。)
ここに至って、三井の親戚及び番頭(幹部の従業員)等は、大いに驚き、すぐに主人を伊勢松坂の店に押し込めた。
年間の生活費などを、わずかに百両に限って渡した。
そして、親戚はすべて、彼と交際を絶った。 この時、のぶは、京に留まっても良かったのだが、こう考えた。
お金があるときは、楽を共にし、お金がなくなって貧乏な時には、別れるのは、人として、義ではない。
そうして、強いて松坂に行き、情郎(ほれたおとこ)に仕えること十三年であった。
のぶは、よく仕え、かつまた松坂にいる間、本居宣長の弟子となって、おりおり源氏物語などを学んだ。また機を織ることを学び得た。
ある日、番頭たちは、協議して、内密にのぶにこう言った。
「あなた様の十三年にわたる御苦労は、普通の婦人の及ぶ所ではないでしょう。
しかし、あなた様が、主人(三井の)と一緒にいて、生活する限りは、親戚たちの憤りが解けないことでしょう。
このままでは、主人が、再び世に出て、才覚を働かせて、事業を拡大することは、出来ないことでしょう。
しかし、我らが主人は、あなたさまに、愛着をもっています。あなた様から、主人を嫌いにならないかぎり、あなた様を手放さない事でしょう。
もし、あなた様が、我れらが主人を本当に、愛しているのでしたら、あなた様が、自発的に京にお帰りください。」
このように、請願されて、のぶは、その言葉に逆らわなかった。
のぶは、三井の主人に、「京に帰りたい。」と言った。
親戚たちは、よろこんで、のぶに種々の手道具を与えた。そして、京への交通費を用意して京都へ帰らせた。
のぶは、京に帰って、道具類を売払い、七十両余りの金で櫛笄(くし・こうがい)などをととのえた。また別に衣服を製して、ふたたび祇園に出て、歌妓となった。そして、昔に勝る売れっ子になった。
その後、俳優の嵐雛助(あらしひなすけ。原註:後に嵐小六と名を改めた。江戸で死んだ雛助の父である。)は、密かにのぶに通じて情交が厚かった。
世間では、大いに話題になった。
さて、ここに御所桜の五六人の弟子が、協議して、
御所桜の家に到って、こう言った。
「うわさで聞いたことですが、師匠の娘さんが、雛助の妾となったそうですね。
師匠、どうして 娘さんを俳優(やくしゃ)の妾にしたのですか?お金のために、身を汚(けが)さしたのでしょうか?
もし、本当でしたら、我々は師弟の約束を、返上したい。」
と。
御所桜は、これを聞いて大いに困惑した。
そして、この事をのぶに語って、雛助と別れるように、と言った。
のぶは、そのことを雛助に告げた。
雛助は、こう言った。
「角力(すもう)とりと俳優と、どちらが尊くて、どちらが卑しいのだろうか?彼らは、みづから浪人になって、相撲取りになったとはいえ、お金をいただいて、人の見物(みもの)となるに至ったのは、俳優と同じだろう。又、俳優も昔は禁裏(宮中)に召され、天覧にあずかったこともある。それで、由緒を論ずるに至っては、どちらが上とか下とかはない。
私は、我が身にかへても、のぶを返さない。」
と言った。
ここに於いて争論は止まった。
のぶは、こう考えた。
結局、父が角力の世界にいるからこそ、このような嫌な目に遭うのだ、と。
父は、年をとったのだから、隠居をさせようとして、京都にてしかるべき家を求め、豊かに老後を過ごせるように世話をした。
そこで、御所桜は、角力(すもう)をやめて隠居した。
それによって、御所桜と弟子たちの争いは、直ちに止んだ。
その後、雛助が病死して、のぶは寡婦となった。
そして、また、元の歌妓となった。
程へて、俳優の文七(原注:吉男)に思われ、ついに文七の妻となった。
しかし、少しして、文七は病にかかり、様々な治療をしたが、甲斐なく死亡した。
のぶは、夫のために願をかけて、髪を切り、讃岐の国(香川県)の金比羅様に参詣した。のぶが、お参りから帰る前に、文七は家で死亡した。
その頃、浪速人(なにわびと:大坂の人)のことわざに、
「家に千金を積むとも、首になることなかれ。
もし、産を破らざれば、必ず、命を落とす。」
(首が美しい女と男女の仲になると、破産はしなくとも、命を失う。また、首のぶの首と、首にするの首をかけている。)
と言うのがあった。
この後からは、のぶは、結婚しなかった。
大坂の島の内に出て、また歌妓となった。
今も、全盛の売れっ子である。
のぶは、すこし和歌をよみ、又、俳諧の連歌もたしなんでいた。
私は、大坂に遊んた折り、あるタべに、この道頓堀の竹亭にのぶと会した。
のぶは、ここに来て、席に着いた。
そして、そのまま、
「馬琴先生、滝沢馬琴先生」
と私の名を呼んで、話しかけてきたが、まるで旧知(昔からの知人)のようであった。
先に来ていた他の歌妓や幇間(たいこ持ち)等には、私の事を知らない者もいた。
驚いたことに、のぶは、誰も私のことを、知らしめなかったのに、すぐに私の事を、察知した。
不思議なことである。
(馬琴先生は、高名な小説家ではあったが、無学な人たちは、その名を知らなかったことでしょう。また、江戸での有名人は、大坂では、あまり知られていなかったのかも知れません。)
同じ席にいた嫖客(ひょうかく:あそび人)が、のぶに発句を求めた。
(訳者注:江戸時代は、宴席でも連歌などを行った。妓女などでも、たしなむものもいた。当然、それなりに尊重された。)
のぶは、三回ほど断った後に、
わらは(笑わ)れて 夜をひた啼(なく)や きりぎりす
と、書いて出した。
(訳者注:江戸時代には、コオロギのことを、キリギリスと呼ぶこともあった。この場合は、コオロギを指す。)
字も、上手であった。
のぶは、私に、扇に何か書いて欲しい、と強く乞うた。
それで、すぐに、狂文一篇と狂歌一首を記して渡した。
客たちは、興に入って、席中の歌妓、幇間(たいこもち)も皆、即興の発句を作った。
又、私に文を乞い歌を請う者が多かった。
宴席は、四更(しこう:午前1時位から午前三時位まで)まで続いた。
ひらく手の おくやゆかしき 女郎花(おみなえし) 歌妓 ふさ
聞(きき)たまへ 鶴井かめゐ(つるい かめい)も 千々(ちぢ)の秋 歌妓 しげ
一ふしに 虫の音(ね)しんと ふけ(更け)にける 牽頭(けんとう:たいこ持ちのこと) 音八
この外、席上の嫖客、雨窓(1813~1875、新井雨窓ではないだろう)、国瑞(くにあきら:桂川甫周1751~1809か?)、慮橘等の即興の発句があったが省略する。
訳者注、と言うよりは感想: 「むかしの人は、かくいちはやくみやびをなんしける!」・・・伊勢物語の一文。感嘆せざるを得ない。
市民(今風にいえば)の宴席で、即興の詩歌のやりとりが行われたのは、大変なことです。
この「のぶ」と言う女性は、大変な美人であっただけでなく、頭も良く、気がきいて、実に魅力的だったのでしょう。
また、もし、三井の主人に対して、身を引かなかったら、今の三井財閥、三井グループは、無かったでしょう。
「羈旅漫録」について
馬琴先生の著作としては、八犬伝などの小説がよく知られていますが、「兎園小説」類(ここに言う小説は、今の小説Novelとは違って、随筆、雑文)や旅行記(騎旅漫録)などの、著作があります。
中には、なかなかおもしろい内容のものがあります。
「羈旅漫録」1803年 は、江戸から上方への旅行の紀行文です。
(「日本随筆大成第一期第一巻」収載の「羈旅漫録」より)