京の女の立小便
2024.3
原題は、「女児の立小便」です。
〔八十二〕 女児の立小便
「羈旅漫録」滝沢馬琴より
京の家々の厠(かわや)の前に、小便担桶(しょうべんたご)があって、女もそれへ小便をする。
故に、富家の女房も、小便はすべて立ってする。
但し、身分の高い者も、低いものも、ともに紙を用いない。
妓女だけが、ふところがみを持って便所へ行く。
(原文の註:月々に六回ほど、この小便桶をくみに来る=肥料にするため)
あるいは、供に二三人つれている女(金持ちの家の女性)が、道ばたの小便たごへ、立ちながら尻の方をむけて小便をするのに、恥じる色がなく笑う人もいない。
訳者注:なかなか、面白い内容です。以前、昔の京都では、女が立小便をしていた、との文章を読んだことがあります(本の題名は忘れました)。本当だったようですね。
また、こんな川柳もあります。江戸時代には、京都の女性の立ち小便は、広く知られていたようです。
京女
立って垂れるが
すこし疵(立小便)
「新選 川柳狂詩集 全」川柳選 明和時代 有朋堂 昭和6年4月
「羈旅漫録」について
馬琴先生の著作としては、八犬伝などの小説がよく知られていますが、「兎園小説」類(ここに言う小説は、今の小説Novelとは違って、随筆、雑文)や旅行記(騎旅漫録)などの、著作があります。
中には、なかなかおもしろい内容のものがあります。
「羈旅漫録」1803年 は、江戸から上方への旅行の紀行文です。
(「日本随筆大成第一期第一巻」収載の「羈旅漫録」より)
大酒の害
2023.4
備後中条村に三蔵と言う人がいた。
その家僕に酒を好むものがいた。
ある日、三蔵は、そのものを見て、
「お前は、酒をどれほど飲めるだろうか?」と質問した。
彼は、「もともと貧乏なので、欲しいだけ飲んだことは、ございません。多分、一升では、足りませんでしょう。」と答えた。
それならと 一升飲ましたが、すぐに飲み干した。
こは珍しい位の上戸だなと思い、「もっと飲めるだろうか?」と聞いた。
すると、ますます悦ぶのを見て、又一升を与えた。
これも苦もなく飲んだが、やがて横になって寝こんだ。
その、夜半に死んだそうである。
他にも、似たような事を、三四度も聞いた。
これは三蔵から聞いた通りの話である。
すべて、酒は小いさな杯にて一日も半日も飲むと、自覚しないまま、量をすごしてしまい、つもりつもっては病を引き起こす。
大きな杯で、自分の通常の無理のない量だけ一度に飲む場合は、酒の力が一時に出つくすので害はない。
このことは、私が数十年にわたって見聞きした人達は、皆そうである。
しかい、量を過ごせば、大きな杯で、一度にの飲むこと(一気のみ)の害は、小さな杯で、長く飲むのよりも、大きいようだ。
「筆のすさび」菅茶山、安政三年 より
江戸の大食会
2023.4
いつのころか、備後の福山で、大食会と言うことをはじめた人たちがいた。
その社(なかま)の人は、皆早死にした。
しかし、ただひとり陶三秀(すえ さんしゅう)といふ医者がいたが、これは、大食の害をはやくさとって、その社(なかま)を辞(や)めて六十歳余りまで生きた。
私は、若い頃、三秀に会って、彼が甚だ小食なるを見た。
そして、その理由を問うたが、その社中(なかまたち)は、皆、変な病で死んだ。
彼自身は、減食して、不幸を免れたと言う。
その後、近村の平野村にまたこの事が流行って、人が多く変な病気をやんだ。
その社中(なかまうち)に清右衛門と言う若者がいた。
智力も人にすぐれ、無病であったが、ふと尿を漏らした。
それから、より頻繁になって、ついに、坐りながら、尿をもらしても、自覚がなかった。
そして、発狂して死んだ。
大食しても、すぐには害にはならないが、つもりつもって、不治の病となるのだ。
一日に五合の食(めし)は、吾邦(わがくに)の通制である。
その量で、飛脚をもつとめ、軍にもつとまるものである。そうであるから、人々は、心得るべき事である。
行軍の時には、1日に一升の食事、戦の日は二升の食事と言う事は、その時々の情勢によってであって、通常の時の食事量ではない。
「筆のすさび」菅茶山、安政三年 より
天婦羅(てんぷら)のはじまり
天ぷらの語原
2023.1
訳者注:天ぷらの名は、山東京伝先生(江戸時代の代表的な戯作者。「江戸生まれ浮気の蒲焼き」など。本文の著者である山東京山の兄。)が、考え出したものだそうだ。
その事が、山東京山の「蜘蛛の糸巻」に記されている。
以下、本文
天明の初年の事である。大坂にて家僕二三人も雇っている商人の次男の利介と言うものがいた。
好きになった歌妓(芸者)をつれて、江戸へ逃げて来た(家族に反対され、駆け落ちしたのであろう。)。
そして、私の家と同じ街の裏に住んでいた。朝夕、我が家にも出入りしていた。
(訳者注:京伝は煙草屋もしていた。
京伝が文化人であるし、煙草を買いに来ながら、雑談もしていたのであろう。)
或る時、その人が、今はもう亡くなった兄に、こう言った。
「大坂では、つけあげという物を、
江戸では、胡麻揚げと称しての辻売りがあります。
しかし、魚肉のあげ物は見たことがありません。
うまいものなので、これを夜店の辻売にしようかと思うのですが。
先生いかがでしょうか?」
兄が答えた。
「それは、よい思いつきだ。
まづ、試食してみよう」と、用意させた。
食べてみると、おいしかったので、すぐに売ると良い、とすすめた。
しかし、その人は、
「魚の胡麻揚という名前にすると、どんなものか、よくわからない感じがします。
語感も良くありません。
先生、名をつけて下さい。」と言った。
すると、亡き兄は少し考えて、
天麩羅と書いて見せた。
しかし、利介は、納得がいかないという顔をして、
「テンプラとは、どんなわけでしょう?」と聞いた。
亡兄は、笑いながら、
「あなたは、今は天竺浪人である。
フラリと江戸へ来て売り始める物であるから、てんぷらだ。
てんは天竺のてん、つまり揚げるということだ。
プラに麩羅の二字を用いたのは、小麦の粉のうす物をかけるという意味だよ。」
とおどけて言うと、利介も洒落のわかる男であったので、
天竺浪人のぶらつきであるから、「てんぷら」という名前は、面白いと喜こんだ。
店を出す時、あんどんを持って来て、字を書いてくれと要望した。
それで、亡き兄は、私に字を書かせた。
このことは、私が十二三歳位の頃であって、今より六十年の昔の事である。
今は天麩羅の名も文字も、日本中に広まっているが、
これは、亡き兄の京伝翁が名付親であって、私が天麩羅の行燈を書き始め、
利介が売り弘めた事を、知る人は、いないであろう。
〔割註〕この説は、実にそのとおりである。私が、幼いころには、行燈に本胡麻揚と書いてあった。
そういいう事なので、私が増修した北越雪譜の二編、越後の小千谷にて鮭のてんぷらを食したる条下にも、このことを記した。
思うに、物事の始源は、大方は、このような事からであろう。
犬の伊勢参り
2020.10
何年か前に、伊勢神宮に参拝したことがありました。
その時、大変面白いと思った事の一つに、犬の伊勢参りというのがありました。
伊勢の歴史館?には、伊勢参りについての展示がありましたが、首に何かをぶら下げている犬の像がありました。ガイドに聞くと、江戸時代には、犬を、たとえば病気の飼い主の代わりに、参拝(代参)させたことがしばしばあったそうです。
その後、何かを読んでいるおりに、犬の伊勢参りについて書かれているのを、いくつか見ました。
最近、太田蜀山人(しょくさんじん)の全集を見ていたら、犬の伊勢参りについての文章を見つけました。
「一話一言補遺」巻三より
犬の伊勢参宮
寛政二年の頃、安房の国にある村の庄屋が犬を飼っていた。
その犬が主人の夢に現れて、伊勢神宮へ、お参りしたい、と訴えた。
そこで、その犬を伊勢にお参りするよう、旅立たせた。
村から、人を付けて、送り出したが、この犬は、無事に伊勢神宮にお参りをして、帰ってきた。
伊勢で、その犬を見た人の話によると、こんな様子であった。
他の犬と違って、呼んで、何かを食べさせようとすると、やがて人家の板敷きに上がって、うずくまって食べる。
食べ終わって、その家の人が、「もう、行きなさい。」と言えば、そのまま飛び降りて行った。
旅の始めに、主人は、三百文のお金を、袋に入れ、犬の首にかけて、送り出した。
伊勢への道中で、五文、三位のお金を与える人がいて、帰り道には、三貫文(一貫は、1000文)以上になった。
これでは、重くて、犬の首にかけられないので、村の者が持って送って来たそうである
以上。
さて、上記は原文を現代文に訳したものです。
犬に、人がずっと付き添っていたのか、否かは、はっきりしません。
他の文献(どこにあるのかは、忘れたが)では、こんな感じでした。
犬を主人などの代わりに、伊勢まで行かせ、御利益のあるお札・お守りをもらって来させる。
その御陰で、病気が平癒した。
場所にもよるが、関東などから、伊勢に行って帰ってくるまでに、数十日が必要であるから、人を付けて、全行程を行くのは、経済的、物理的にも、困難であろう。
犬は、単独で、行って帰ってきているのが、一般的と思われます。
伊勢に行って、お参りし、お札をもらってくるのが目的であり、助けてくれるよう願う書状と路銀を入れた袋を、首からぶら下げてさせたのでしょう。
おそらく、伊勢か、伊勢方面に行く人に、託したのでしょう。
まず、始めに江戸に行く人に、犬を連れて行ってくれるように頼みます。
そこから、東海道を西に行くか、伊勢に行く人に託されたのでしょう。
食べ物は、旅の人からもらったり、道筋の家々からもらったのでしょう。
(伊勢参りでは、人間も道中で人から、食事を寝場所を提供されています。無料で。)
そうこうして、伊勢に着き、誰かに付き添われて参拝し、お札、お守りを買って貰ったのでしょう。
犬の首にかけた袋には、まあ、こんな感じの文章を入れておいたのでしょう。
「お伊勢参り
お願いがあります。
私の娘 何々は、重い病に苦しんでおります。
多くの人が、伊勢にお参りして、病気が治ったり、富くじに当たったり、商売繁盛などの、御利益を頂いているのを見聞きしております。
私も、伊勢神宮にお参りして、病気平癒を祈願し、ありがたいお札を頂きたいと願っております。
しかしながら、仕事もあり、娘の看病もしなければなりません。
当家で、可愛がっている犬のタロウに、伊勢まで行ってくれるか、と尋ねたところ、しっぽをふって、喜んで行く、と答えてくれました。
タロウを、伊勢まで連れて行き、参拝させ、お札を買ってきてくれるのを助けてください。
必要なお金は、この袋に入っています。
どうぞ、娘の病気が平癒するよう、お助けください。
安房の国(千葉県)何々村 何々」
こんな書状を持たせ、村から江戸に行く人に、犬を託して、江戸まで連れていってもらったのでしょう。
その人は、江戸に着いてから、伊勢に向かう人、または上方に向かう人、東海道を西に向かう人に、犬を伊勢に送り届けるよう頼んだことでしょう。
そうこうしている中に、伊勢に着き、伊勢では、人に連れられて、神宮を参拝し、お札も買ってもらったのでしょう。
帰りは、また別の人に託して、何人かの人に託されて、江戸についた事でしょう。
今度は、故郷の村まで、また誰かに送り届けてもらった事でしょう。
あるいは、村の者で、江戸まで、商用でいっていたものが、連れ帰ったのでしょう。
長い旅は、冒険、苦難の旅であったでしょう。
その間、多くの人に食べ物をもらい、助けられた事でしょう。
こうして、犬は、我が家に帰って、主人にお札を届けたのでしょう。
病気の娘も大喜びして、病気も吹き飛んだことでしょう。
「犬の伊勢参り」と書けば、数文字です。
しかし、多くのことが、心に浮かんできます。