江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

『浪華奇談』怪異之部 16.鬼僧

2024-04-16 23:20:53 | 浪華奇談

『浪華奇談』怪異之部 16.鬼僧

                 2024.4

天明中、讃州(さぬき:香川県)高松の金松屋善兵衛が所用があって萬年町へ行った。
その帰りに、谷町農人橋にて、裾が切れていて、さもやつれて髪ののびた僧が、破れ衣を着て向うへ行ったのが見えた。
僧はふりかえって見て、善兵衛の背にだきつき、我を負うてくれよ,と言った。
その重い事、例えようもなかった。
善兵衛は、これはかなわんと、南無大師遍照金剛(まぬだいしへんじょうこんごう)と唱えた。
すると、かの僧は、
「こやつは、四国のものだな。南無三宝(なむさんぽう)」
と言って、向うへ飛下りて、善兵衛の右の頬を三度たたいて去って行った。

善兵衛は、その後大いに痛み、急に悪寒がして、やっとのことで、大川町の宿へ帰った。
五七日もわづらって、やっと体調が回復した。

 

 


『浪華奇談』怪異之部 15.小児水に化す

2024-04-15 23:16:49 | 浪華奇談

『浪華奇談』怪異之部 15.小児水に化す

             2024.4

今橋(大阪市中央区)の西の方に山中氏なる人がいた。
彼の男の子は、寛政年間に三歳にして早世した。
壷におさめ埋葬した。

その後七年ばかりも経て改葬する時に、蓋をひらいて見れば、ただ壷の中に清水と毛髪があるのみで、他には何もなかった。
昔より七歳未満の子の遺骸は、骨肉ともに水に化する、と語り伝えらているが、嘘ではなかった。

ついでに言う。
往年、河州生駒山(大阪市東大阪市)の麓において、百性が山の墓を掘ったが、ちいさい瓶があらわれた。
これも瓶中に同じく清水があった。
さて、ちょうどその時、その村に難産の婦人がいた。
かの百性が、その産婦にこの水を一杯飲ませるとたちまちに出産した。
それより安産の薬水であると言いふらされた。
所々より求められたのに応じて与えると、すべてに効果があったそうである。

私の所見であるが、これも亡児の水に化したものに違いない、と考えられる。

 


『浪華奇談』怪異之部 14.遊魂あだを報(むく)う

2024-04-14 23:12:30 | 浪華奇談

『浪華奇談』怪異之部 14.遊魂あだを報(むく)う

             2024.4

少し昔のことである。土佐堀に有名な淀屋源右衛門という者がいた。
お上より、御用商人に取立ようとの御沙汰があったが、辞退した。
源右衛門の願いにて、諸侯方の米穀を引受け、浜先にて米穀の取引を行って、商売許可の御朱印も頂戴した。

二代目の故庵、三代目の辰五郎と相続した。
淀屋がもっとも繁盛していた時代には、私(筆者)の居宅ある浜に橋をかけた。
今に淀屋橋と言ってその名が残っている。
我が家のうしろの街路を淀屋小路と称して、今にもその名が残っている。

さて、この家は代々法花宗(法華宗)であるので、ー族や従業員の者どもも伊勢参宮への参拝を禁じるのを家風としていた。
二代目故庵の代にあたって、大和の当麻(とうま:奈良県葛城市)より十歳ばかりの幼童を年季勤めに召し抱えた事が有った。

しかし、この子供は、或る時行方知れずとなった。
どこへ身を隠したのか、と不思議に思う所に、十日程過て立ち帰ってきた。
「何方に行っていたのか?」と尋ねた。
「実は、近頃、近隣の友達たちが伊勢参宮をすると言うので、私も大変に羨しく思いましたが、奉公の身なので、この事を願っても、聞いてはくれないだろうと、だまってひそかに抜参宮(ぬけまいり)をして来て、今帰ってきました。
罪をおゆるし下さい。」と詫びた。

しかし、主人は、大変に怒り、
「憎きふるまいかな。我ヶ家は、代々 お伊勢参りを禁じている。我が家の禁止事項となっていることは、聞いた事もあるだろう。」

罪人に今後の見せしめにと、引き立てながら打擲した。
しかし急所にあたったのであろうか、一声叫んで息絶えてしまった。
驚き騒ぎ治療をほどこしたが、その甲斐もなく死んでしまった。
家内は、こぞって後難を恐れ、どうしようかと協議をしたが、良い対策は、出てこなかった。

老分の手代に知恵があって、
「これこれこのようにすれば、事は済みましょう。外ヘは、病死と知らせましょう。」
と家内の者達に口止めした。

そして、当麻の彼の親を呼び寄せて、
「昨日の暮頃より腹痛しきりにしたので、医療をつくしたが、甲斐なく、今朝、亡くなった。
みなみな残念に思っている。
あなた様も、子が急死したのは、さぞ悲しい事であろう。
日頃 私心なく仕事をしてくれたので、主人も殊の外に残念がった。
亡き跡の追善として金五拾両を与えよう。」と。

父は大いに歎き悔んだが、
「これが、運命でしたら、どうにもならないことでしょう。
医薬のかぎりの治療をしたいただいたことは、我が家では、出来ないことです。その上、過分の金子をお恵み下さる事は、お礼の申しようもありません。」
と感謝して、子供の亡骸を故郷に引取った。

これで、この謀りごとは、事なく済せられたのを悦こんだ。
しかし、悪事千里を走るの諺のとおり、誰言うともなく、世間の人々にこの事を知られた。
世人は、ひそひそと語り合って、淀屋を憎んだ。


(敬典?著者?が付け加えると、似たような事は、しばしばある。
寛政年間、この場所の一町(100m位)南の加嶋屋九蔵が、召し使いの小童を害して、罰をうけ、摂蝶?摂津か??へ移った。
寛政中、かいや町にて父を殺した者があった。
又もや文化年中に同じ町にて父を殺した者があった。
これは、仏法に言う因縁というものである。
そうであるから、軽率に悪いことをするものではない。)


かくて、年月を送る所に故庵は病死して、嫡子の辰五郎が家名を継いで、家業は、ますます繁盛した。
そのころ、畿内(きだい)に強盗が起こり所々に押し入り、金銀をうばい取る事が多かった。
或る夜、淀屋の宝蔵に盗賊が多く入ったと見え、数万両の金子が盗まれ、金蔵が空っぽとなった。
不思議なことに、蔵の鍵は、秘密の所に厳重に隠してあったのに、その鍵をもって戸口をひらき、多くの金銀を運び出したのだと思われた。この事をお上に訴え、調査を願った。しかし、きびしく調べたが、その盗賊達のことは、わからなかった。
淀屋の財産の三分一がこの時に失われた。

このような、損害に遭ったのなら、その身を慎むべきであるのに、若輩の辰五郎は、放蕩者で日夜遊興にふけった。
その上、高貴な方のまねをして町人にあるまじき振る舞い無駄づかいをした。
分に過ぎた彼の奢りの有さまは、お上の禁忌にふれて、財産を没収された。
本人は追放になり、数代にわたって蓄えた和漢の名物珍器は、この時に散逸して、その家名は断絶した。
それは、ひとえに辰五郎の不行跡のゆえである。

辰五郎は、追放された後は、頼るあてもなくて、八幡(やわた:大阪市中央区)にゆかりが有ったので、彼はそこにひっそりとすんだ。
そして、神官の養子となって、その家をつぎ、その子孫は八幡にいるそうである。


淀屋の家が亡びて後、淀屋の金銀を奪い取った賊がとらわれた。
拷問の上で白状に及んだ。
「どんな手引で、淀屋の財を盗み出したのか?」と尋問された。
かの賊が言うには、
「一味の仲間数十人で淀屋の宝庫に近付いたが、堅固であったので忍び入る事が出来なかった。
盗賊の一味は、手に手に道具の用意をしていたが、そこに不思議なことに、どこからか十歳ばかりの子供が来た。
そして、我らに向って、手引きをしましょう。
こちらへ来て、と宝蔵の戸前に案内し、これを用いてここを開けよ、と鍵を渡された。
それで、何の労する事もなく内へ人って、思うままに金銀を盗み出した。
その後、子供は行方が知れなくなった。
今にも、不思議なことである。奪い取った大金は、皆で山分けして、使い尽くした。」
と答えた。

この賊の言葉から考えるに、無惨に殺された幼童の恨みが残っていて、幽魂が仇を報じて、終にはその家を亡ぼした事は、間違いない。

 


『浪華奇談』怪異之部 1.医者が、野狐をしかる

2024-02-09 22:33:27 | 浪華奇談

『浪華奇談』怪異之部 1.医者が、野狐をしかる
                   2024.2
曽根崎村(大阪市北区)に、私の知っている医者が住んでいた。文化年間に、私がかの人の許へ行ったが、夜陰におよんで、外より柴の扉をたたく者がいた。
内より、「どちらから、来られましたか?」と問うと、「大仁村の庄屋方より来ました。奥様が、急に病になったので、診察して下さい。」と言った。
医者は、さっそく戸をひらくと見えたが、突然とがめて使いの者を叱った。
「にくい野狐のしわざかな。今宵はゆるすが、
また来たら、ただではおかないぞ。」
と立蹴にけたおし、戸を閉めて座についた。
私は、なんとも理解できなかった。
それで、「今のありさまは、何事ですか?」とたずねた。
主は、こう言った。
「只今来たのは、人ではなくて狐です。私をだまそうとしたのです。
おおよそ、村邑(むら)の医者は、こういった事を覚悟しなければ、だまされてしまいます。それで、夜に人って人が来る時は、はやくその者の手腕を握って見て、掌中にたとえば、竹の筒を握るように丸く感じたら、これはまさしく狐狸の変化です。その時は、大いに勇気を振るって、先程のように振る舞うのです。
そうすれば、もう二度と来ません。」
と。


『浪華奇談』怪異之部(全十七話)怪談概論 

2024-02-08 22:22:27 | 浪華奇談

『浪華奇談』怪異之部(全十七話)怪談概論 
          2024.2
世人は論語に「子不語怪力乱神(シはカイリキ・ランシンをかたらず)」とあるのを根拠として、怪談するのを大いに排斥している。これでは、ある事にこだわって、ひろく事物を見ないことになる。
論語の言葉は、孔子が、門人に対しては、詩経や書経を講じ、礼記を解説し、さては六芸の話に及び給うのが常であるので、門人達が見聞き(みきき)していないのに推量を用いて「子不語怪力乱神」と言った迄の事である。
実際には、聖人がみずから「我不語怪力乱神」とは、のたまってはいない。
或いは、怪異なりとして排斥すれば、「易経」なども第一に排斥すべきではなかろうか?
そうであっては、聖人(孔子のこと)の心に背くにも至ることになるであろう。
詩書礼楽のみ訓導したまわったのは、さしあたって、今日の世務に資益が多いを以っての意味である。
こういったことを、よく考えるべきである。
こういう観点から見ると、孔子に怪を聞いた箇所は、少なくない。
土の怪は、*羊防風氏(ふんようぼうふうし?)の骨一疋鳥(こついっぴきちょう)の鼓舞(ちょうのこぶ)、江中の萍実(こうちゅうノへいじつ)、木石(もくせき)の怪は鬼魍魎(キもうりょう)、水の怪は、龍罔象(りゅうもうしょう)、粛慎の石?(しゅくしんノせきど)など、いづれも怪にあらず、と言う事はない。

そうではあるが、先生(孔子)は、常には、怪異とは、のたまわってはいない。
聖人(孔子)は、弟子からの質問にすぐに答えてくださる。
聖人(孔子)は、博く物を知っているので、これらの外にも、御心中に記せられた奇怪の事ごとなども有るであろう。
まして書経、詩経、易経、左氏伝などには、怪なることが、記されている。
よって、私は、怪を語るのも真理探究の一つと思うのである。

そうであれば、野狐が人に化けたのは、手腕を握って知る事が出来、古狸が人に化けたの衣装の模様を見て、知ることが出来る。
龍が人に近づいて迫って来る時は、頭髪を焼いて、悪臭を出すと逃げ去らしめる事ができる。或いは、食物が空中を飛んで行くのは、蝦墓のしわざであると知ることが出来る。
このように、理を究めて、不思議なことに対処すれば、惑い怖れることはない。
従って、奇怪の談を読んでおく事も、実は、怪奇な事に対処する心得とも成るものである。
これが、私の怪談に対する考えである。

以上の狐狸龍蟇(こり りゅう がま)については、後の文に詳しく記した。