片輪車 諸国里人談
2024.5
近江の国の甲賀郡に、寛文のころ片輪車と言うものが、深夜に車の響く音が、行くことがある。どこから来て、どこに行くのかはわからない。
たまたま、これに会った人は、すぐに気絶して、前後を覚えなかった。故に、夜更けては、往来の人はいなかった。市町の門戸を閉じて静まっている。
この事をあざ笑えば、外より その者を罵りかさねて、「それなら崇りがあるぞ。」等との声が聞こえて来る。
人々は、怖じ恐れて、一向に声も立てなかった。
或る家の女房が、それを見たいと思い、かの音が聞こえる時、そっとの戸のすき間よりのぞき見た。ひく人もない車の片輪であったが、美女が一人乗っていた。この家の門の前に車を止めて、言った。
「我を見るよりも、お前の子を見よ。」
それで、驚き、部屋に戻って見れば、二歳ばかりの子が、どこへ行ったか、姿が見えなかった。嘆き悲しんだが、どうしようもなかった。
次の夜、女房が、一首の歌を書いたのが、戸に張り付けてあった。
罪科(つみとが)は 我にこそあれ 小車の やるかたわかぬ 子をばかくしそ
その夜、片輪車は、暗闇の中で、高らかにこの歌を詠んで、
「やさしい者だな。それなら子を帰してあげよう。
我は、人に見られては、ここにいることが出来ない。」
と言った。
その後、片輪車は、来なくなった。
諸国里人談巻之二 妖異部 より