キツネに導かれた、館林城 その2
享禄(きょうろく)元年(1528年)戊子年のことである。
初春の祝として上野の国の舞木(こうずけのくにのまいき)群馬県邑楽郡千代田町)の城主の甥、俵五郎秀賢照光は、少ないお伴と供に外出した。
道の途中で、五六八九歳の子供達が集まって、狐の子をとらえて殴っていた。
照光は、それを遠くから見つけて、お供の鉢形惣次郎に、子供たちに銭を与えさせて、キツネの子を、逃げさせた。
晩に、帰城した所、狐の親が、人に化けて出てきた。
照光の馬の前にかしこまり、
「私は、今朝助けていただいた狐の親でございます。
あなた様の御厚恩に対して何をもってか、ご恩返しを致しましょうか。
今 あなた様の御居城の青柳は勝地ではありますが、敵に攻められやすく、味方千騎は、敵の百騎にしか匹敵しません。
(その訳は、)(あなた様の)御先祖照重公が、去る文治四戊申年(つちのえさるのとし1188年)、赤岩の館(やかた)より移って、青柳に築城されました。
享禄まで城主七代、年数は三百四十一年、武勇が盛んで子孫繁栄をしていますが、国は衰え、民は苦しんで、城は日々衰えてきています。
(その証拠は、)広沼は敵を防ぐためでありますが、(当時、田畦となれば、)守護の霊神も助けてくださいました。
しかしながら、諸国は乱世となって、去る永正(えいしょう)九年(1512年)に武州鉢形の城主を始め、永正十七年(1520年)に上州高田の城が、大永(だいえい)元年(1521年)十月二十三日武州杉山の城が、大永四年(1524年)正月十三日武州江戸の城が、落城してしまいました。
彼らが戦いに弱いのではありませんが、城を守護する霊神が威力を失ったことから、戦に負けたのです。
このような乱世には、名城にお移りください。
館林に築城すれば、当国(上野こうずけ:群馬県)の名城となりましょう。」
と語って、消すがごとくに消え失せた。
以上、「館林盛衰記」広文庫より
群馬県の舘林城は、戦国時代から江戸時代にかけてのしろである。
五代将軍の徳川綱吉の居城であった。
その城が、狐の導きによって、築城された伝説があるのは、興味深いことである。
享禄(きょうろく)元年(1528年)戊子年のことである。
初春の祝として上野の国の舞木(こうずけのくにのまいき)群馬県邑楽郡千代田町)の城主の甥、俵五郎秀賢照光は、少ないお伴と供に外出した。
道の途中で、五六八九歳の子供達が集まって、狐の子をとらえて殴っていた。
照光は、それを遠くから見つけて、お供の鉢形惣次郎に、子供たちに銭を与えさせて、キツネの子を、逃げさせた。
晩に、帰城した所、狐の親が、人に化けて出てきた。
照光の馬の前にかしこまり、
「私は、今朝助けていただいた狐の親でございます。
あなた様の御厚恩に対して何をもってか、ご恩返しを致しましょうか。
今 あなた様の御居城の青柳は勝地ではありますが、敵に攻められやすく、味方千騎は、敵の百騎にしか匹敵しません。
(その訳は、)(あなた様の)御先祖照重公が、去る文治四戊申年(つちのえさるのとし1188年)、赤岩の館(やかた)より移って、青柳に築城されました。
享禄まで城主七代、年数は三百四十一年、武勇が盛んで子孫繁栄をしていますが、国は衰え、民は苦しんで、城は日々衰えてきています。
(その証拠は、)広沼は敵を防ぐためでありますが、(当時、田畦となれば、)守護の霊神も助けてくださいました。
しかしながら、諸国は乱世となって、去る永正(えいしょう)九年(1512年)に武州鉢形の城主を始め、永正十七年(1520年)に上州高田の城が、大永(だいえい)元年(1521年)十月二十三日武州杉山の城が、大永四年(1524年)正月十三日武州江戸の城が、落城してしまいました。
彼らが戦いに弱いのではありませんが、城を守護する霊神が威力を失ったことから、戦に負けたのです。
このような乱世には、名城にお移りください。
館林に築城すれば、当国(上野こうずけ:群馬県)の名城となりましょう。」
と語って、消すがごとくに消え失せた。
以上、「館林盛衰記」広文庫より
群馬県の舘林城は、戦国時代から江戸時代にかけてのしろである。
五代将軍の徳川綱吉の居城であった。
その城が、狐の導きによって、築城された伝説があるのは、興味深いことである。