障子岩と松兵衛堰 大鯰、大蛇 「南紀土俗資料」
2025.3
寒川村(和歌山県日高郡日高川町寒川)の障子岩の下に大きな鯰がいて、鵜飼いの鵜を入れても、そこへは入らないと言う。
それより下流五十間ばかりで松兵衛堰と言う堰に達する。昔、松兵衛と言う者が、その堰から水を引こうとして近づくと、恐ろしい大蛇が美女に化けて遊んでいるのが見えた。
驚き帰って病死したそうだ。
以上、「南紀土俗資料」土俗編、水界神話的伝説 より
障子岩と松兵衛堰 大鯰、大蛇 「南紀土俗資料」
2025.3
寒川村(和歌山県日高郡日高川町寒川)の障子岩の下に大きな鯰がいて、鵜飼いの鵜を入れても、そこへは入らないと言う。
それより下流五十間ばかりで松兵衛堰と言う堰に達する。昔、松兵衛と言う者が、その堰から水を引こうとして近づくと、恐ろしい大蛇が美女に化けて遊んでいるのが見えた。
驚き帰って病死したそうだ。
以上、「南紀土俗資料」土俗編、水界神話的伝説 より
寒川瀧の大蛇 「南紀土俗資料」
2025.3
寒川の名門寒川氏の祖先の宇三郎(二十八歳)と言う者が、ある日 川狩に出かけた。
その寒川滝のほとりに到るや、一尺余りの小蛇が現れて、突如、宇三郎の足指を呑もうとした。宇三郎は、元より豪放磊落(ごうほうらいらく)な質(たち)であったので、そんなことぐらいは気にもかけず、とった鮎の腹をさいて、内臓を抜くことに余念もなかった。そうこうする中に、蛇は早や宇三郎の足を呑んでしまった。ここに及んで宇三郎は、「ええ面倒臭い」と小刀を蛇の口中にさし入れつつ、一気に口を切ってやると、小蛇は大音響を発して滝にもぐって行き、宇三郎も引きずられて潜って行った。
瀧の水は真っ赤になった。かたわらで見ていた者共はあわてて腰を抜かした。しかし竹蔵とか言う者がすぐに飛び込み、水に潜って宇三郎を引揚げた。けれども、早やこときれていて、いかんともする事が出来なかった。
その時滝のどこからか「三国一の宝を奪った」と呼ぶように聞えたと言う。
以上、「南紀土俗資料」土俗編、水界神話的伝説 より
ワニの標本江戸時代の 「重訂本草綱目啓蒙」
2024.9
「重訂本草綱目啓蒙」小野蘭山は、大変優れた、博物学の書です。
様々な面白い記述がありますが、今回は、ワニについて。
表題には、「だ?龍 一名 ダ?魚」とあります。
だ の字は、文字化けするので、重訂本草綱目啓蒙 のを示した。3
下の左のは、「ダ=揚子江ワニ」の字。右のはそれを横に伸ばしたもの。
何となく、ワニっぽくありませんか。
この「? タ、ダ tuo北京音」は、本来は、揚子江ワニを指しています。中国の揚子江には、ワニがいます。固有種で、小さめのワニです。
しかし、蘭山先生は、この表題で、ワニのことを、述べています。
以下、本文。
?龍 一名 ?魚(本経逢原)
日本には産しない。薬には、甲を用いる。?(魚+它)魚甲(方書)と言う。
先年、オランダ船が、小さい物を薬水に漬けてあるのを持って来た。それが、見せ物に供せられた。
オランダでは、カアイマンと言う。中山(沖縄か?)にては、「カンギアダク」と呼んでいる。大きいのは、一丈余り(3m以上)に至ると言う。姿は、四つ足があって、トカゲのようである。口は大きく、歯も大きく数も多い。鱗は長く、蛇の鱗のようで、魚の鱗には、似ていない。尾は長く、身体の半分位ある。背には、三つの稜があって、水から速く出ることが出来る。
舟にいる人をうかがって飛び出す。それで、外国人は、シャム及びジャガタラの辺りを通る時、大変に恐れる、と言う。
釈名の?(ダ 魚+它)は、鯊魚(スナフキ:一般名、カマツカ)と同名である。鯊魚(スナフキ:カマツカ)は、淡水の小さい魚である。
土龍(ドリュウ)は、蚯蚓の別名である。日本で、土龍と称しているのは、?鼠(元ルビ ウゴロモチ:もぐら:えんそ)である。
この図は、「毛詩品物図考 巻五」(天明甲辰:1784年)にある。
これが、見せ物に供されたものであろう。
以上、「重訂本草綱目啓蒙」より。
尾さき狐
2024.9
尾さき狐は、いかなるものであるかと、問われたが、再び答えよう。
尾さき狐は、上野・下野に多く、戸田川を界として、江戸には、絶えて入ってはいない、と云う。
その形は、イタチに似て、狐よりは小さい。尾は極めて太いが、尾先(おさき)が裂けて分かれているので、尾さきの名があるのであろう。上毛下毛(群馬栃木)にのみに限らず、武蔵であっても、北の方には、この獣がまれにいる。ともすれば、人の家につくことがあると云う。
一たび憑いた家は、それまで貧しかったとしても、豊かになった。しかしながら、そのひと一代かぎりであって、或いは、その子の代に至って、衰えないことはない。
それが既に憑いた家が、年々豊かになるままに、狐の種類も次第に増えて、群れ集うこと、限りがなかった。
もし、その家の、娘なるものが、他の村に嫁入りする事があれば、尾さき狐も相わかれて、婿の家に憑くと云う。
「曲亭雑記」広文庫 より
大蛇退治 尾張名所図会前編五
2024.7
牛巻潭 うしまきのふち
同じ村(高田村:愛知県名古屋市瑞穂区高田町か?)に有。
昔、この淵に巨蛇(うわばみ、蟒蛇)が棲んでいて人民を悩まし、牛馬をも水中に巻き込んだ。
弘治二年 、大原真人武継(おおはらまひとたけつぐ)という者が、熱田参宮から帰る途中で、東の方を見るに、一筋の黒雲が、下ってきて、淵のほとりに怪しい光が見えた。
これは、かねて聞き及んでいた巨蛇(うわばみ)であろう、と思って、
家に帰り、弓矢をたずさえて、再びここに戻ってきた。
案の如く巨蛇(うわばみ、蟒蛇)が現れて見えたので、もとより強い弓(つよゆみ)の達者であって、
身をかためて、矢を放った。
すると、手応えがして、何度も矢つぎばやに射って、遂に退治したことが、言い伝えられている。
傍らに、その蟒蛇を埋めた跡がある。蛇塚(じゃつか)と呼んでいる。
訳者注:名所図会は、各地の名所旧跡などを絵画とともに紹介した書物です。そのうちには、面白い話もあります。
江戸時代には、多くの地区の名所図会が刊行されましたが、これは「尾張名所図会 前編」より。