江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

新説百物語巻之一の9.見せふ見せふといふ化物の事  

2020-04-21 19:52:32 | 新説百物語

新説百物語巻之一の9.見せふ見せふといふ化物の事                          2020.4  

近い頃、醒ヶ井通(さめがいどおり:京都府の通り)に、書物屋の利助と言う者がいた。

常に、大坂より奈良に通って仕事をしていた。

ある年の事であったが、長いこと患っていて、田舎の方には行かなかった。 しかし、病が癒えて、また例年のように大阪に行き、商売をし、京や大坂で出版された書物を荷造りして宛先に送り、本人は一人で奈良へ下った。

 

用事があって、ことの外に遅く宿屋を出ていったので、道の途中で日が暮れた。

奈良街道に、人家から離れた三味(さんまい:墓所)があった。

一人旅であったので、何となく心細く思いながら、その傍らを通ったが、その夜は空も曇っていて、星も見えなかった。

11月の初めの頃であったので、野辺を吹く風も身にしみて、とぼとぼと歩いて行った。

 

一町(約110m)ばかりの向こうを見れば、狐火とも見えず、又は提灯とも見えぬ火の光が、ふらふらとやって来た。

次第次第に近づいて来て、何やら女の泣く声の様に聞こえた。

それで、道脇にあった大石塔の陰に身を潜め様子をうかがっていた。

しばらくして、彼の火は次第に近づいて来た。

それを見れば、髪を乱した女の首であった。

歯にはお歯黒を付けて、胴はなくて、首だけが地面より一尺ばかり上に浮かんでいた。

風が吹くように飛んで行ったが、もの悲しい声で、「見せふ見せふ」とばかり、言いながら過ぎて行った。

それが物を言う度に、口よりクワックワッと火の光が出てきた。

四五間(7~9m)ばかり動くのを、見おくっていたが、その後は、かの利介は目をまわして、気絶してしまった。

夜明け前に、やっと正気になり、道を急いで奈良にたどり来た。

宿の亭主に、化け物を見たとの物語りをした。

その時はいまだに、その震えは、止まらなかったそうであった。


役の行者 「傍廂(かたびさし)」での記載

2020-04-12 10:42:19 | 安倍晴明、役行者

役の行者 「傍廂(かたびさし)」での記載 

◎役の行者(えんのぎょうじゃ)

役小角(えんのおづぬ)は、大和の葛城山に岩橋をかけようとした。
それで、多くの鬼神を使役したが、そのうちに一言主の神(ひとことぬしのかみ)がいた。
この神様は、姿形が醜かったのを恥じて、昼はかくれて、夜に仕事をしたので、役小角(えんのおづぬ)は怒って、一言主を縛り上げた、との説は、全くの嘘である。

これは、役の行者を卑しめおとしめた、妖言である。
そうであるのに、「岩はしの夜の契も絶えぬべし」などとか、歌にもよみ、「葛城の神こそ賢(さか)しうおきたれ」と、物語りにも書かれたのは、俗説に基づいたものである。

畏れ多くも、一言主神は、雄略天皇が葛城山に狩をした時に、一言主神が姿を現して、天皇と対面したのは、歴史書にはっきりと記されている。
怒り狂う猪を踏み殺した強勇大力の天皇も、一言主の神を、畏れ敬まって、捧げものをしたこともあった。

小角のような者が、一言主の神には、力が及ばない。

役小角(えんのおづぬ)は、葛城上郡茆原村(かつらぎかみこおりうなはらむら:奈良県御所市茅原 ごせしちはら)の土着民の子であった。

狐を使い、妖術を以て、人をたぶらかしたので、
韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が、訴えた。

それで、天武天皇の三年五月、伊豆国大島へ、流罪させられた。


◎役の行者(えんのぎょうじゃ)が畜生道に落ちる

役の行者(えんのぎょうじゃ)が、伊豆大島に流刑された後に、そこで死んだ。、
それから40年後に、道昭(どうしょう)と言う僧が、唐に留学した。
すると、500匹の虎が出てきて、僧道昭を礼拝した。
その内の一頭が、「私は、日本国の役小角(えんのおづぬ)である。・・・」と、「日本霊異記(にほんりょういき)」にある。
後世の書では、「元享釈書」にも、記載されている。
小角は、もと葛城上郡茆原村(かつらぎかみこおりうなはらむら:奈良県御所市茅原 ごせしちはら)の土民の子であって、狐使いである。
畏れ多くも、一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)を縛り上げたなどと言うのは、尊卑・強弱をよく解っていない愚かな者達の、ばかげた話である。

以上の二項は、
「傍廂(かたびさし)」(江戸末期。斎藤 彦麿 1768-1854)より。
  
編者注:役小角(えんのおづぬ:634-701)又は、役の行者は、
日本における、最も古い時代の仙人である。
古書には、あまり、評判が良くない(「傍廂」も含めて)。
しかし、これは、彼の評判を妬んだ韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の讒言によってである。
讒言によって、他人をおとしめるのは、国史には、少ないが、現今の東アジア情勢と照らしあわせると、妙に符合するのは、哀しい事である。

修験道では、役の行者は、開祖のように尊敬されている。


新説百物語巻之一の8、夢に見たるの龍の事  

2020-04-09 19:07:31 | 新説百物語

新説百物語巻之一の8、夢に見たるの龍の事  
                       2020.4

伏見の町(京都府伏見区)に伊藤氏という医者がいた。

その母なる人は、我が家の縁(えん)の下より、龍が天にのぼると言う事を夢に見たが、心にも留めずにいた。
又次の夜も夜も打ちつづいて同じ夢を見た。

その朝、何心なく庭に出たが、ふと夢の事を思い出した。
そして、縁(えん)の下をながめると、何やらきらきらと光るものがあった。
不思議に思って、土をはらって見れば、金の龍の目貫(めぬき)であった。

近所の者にも見せ、又は知人にも皆皆見せたが、その細工は普通ではなかった。
生きている様であって、誠に夢に見た龍に、すこしも変わらなかった。

その龍の目貫を、いつも自分の針箱に入れて置いた。

七八年もすぎて、その人は亡くなったが、その次の日より、その目貫が見えなくなった。
色々と探してみたが、二度と見つからなかった。
その夜、ことの外、大夕立があり葭島(よしじま:京都府伏見区)という所より龍が天に上って行くのが見えた、と遠方から伝えられた。
「もしかして、あの龍ではないのか?」と、皆皆噂した。

その人の子は、まさしく我がかたに常に来るものである。

彼が、直接に語った話である。
     


新説百物語巻之一の7、修験者 妙定 あやしき庵に出づる事

2020-04-06 10:54:46 | 新説百物語
新説百物語巻之一の7、修験者 妙定 あやしき庵に出づる事  
                                                          2020.4

越後(えちご:新潟県)の方に下った妙定(みょうじょう)と言う山伏がいた。

諸方の霊場霊社を残りなく拝みめぐったが、越後の国に到って、ある日、宿をかりそこなった。
そこで、ある寺に到って一夜の宿を頼んだ。
しかし、その夜、その寺に法事あったので、僧の泊まり人が多かった。
それで、寺の者は、山伏に
「上の山の小さい庵に、お泊まり下さい。」
と言って、夜食など与えて、寺よりは一町ほども上の小さい庵(いおり)に泊まらせた。

山伏も旅のつかれで、宵のほどは、よく寝入っていた。

八つ時(午前二時位)と思う頃に、雨がさっと降って来て、風はすさまじく身も毛もよだつばかりであった。
ふと上の方を見ると、庵の棟木(むなぎ)の上より、そろそろ這(は)い下りるものがあった。
枕元の火ですかして見れば、およそ二十四五歳の出家であった。
痩おとろえて、さかやきが長く、白い小袖を着て、首に縄の五尺ばかりなのをまとっていた。
そして、口よりたらたらと血をながしながら、山伏の寝ているあたりをはいまわった。
その顔の怖ろしさは、表現のしようがなかった。

どうすることも出来なくて、唯、心の内で不動明王の真言を唱えて、夜着を打ちかぶっていた。

そのうちに、雨風もやんで、布団から、そつと顔をさし出して見れば、最早何の姿も見えなかった。

夜も明け方になったので、寺に到って、いとまごいの挨拶もそこそこにして、足早にその場所を立ち退いた。

しかし、その時の顔の様子は、今思い出しても身の毛もよだつばかりである、
と語ったそうである。



新説百物語巻之一の6、但州の僧あやしき人にあふ事 

2020-04-05 21:06:23 | 新説百物語
新説百物語巻之一の6、但州の僧あやしき人にあふ事  
                        2020.4
但馬(たじま:兵庫県)の山の方に何寺とか言う寺があり、道幸(どうこう)と言う四十歳ぐらいの僧がいた。
その寺の後ろの山は、昔より魔所と言って、人々が怖れる場所であった。
たとえば、大きな山伏に出会ったとか、又は高入道を見たとか、言われていた。
確かに見きわめた事はなかったが、その奥山へ行く人はなかった。

道幸は、こう言った。
「化物(ばけもの)も魔障(ましょう)も人によりけりである。私が行って見よう。」
と、ある日、その山の奥に至って、とある岩根に腰をおろした。
たばこなどのんでいたが、何の不思議な事もなかった。

それで、「やはり、化物も人によってであろう。」
つぶやいて、木の皮をけづって、ここに来たしるしとして帰ろうとした。
すると、にわかに嵐がさっと吹いて来た。
すさまじく空がかき曇って、恐ろしいこと、表現に出来ないほどであった。

しかし、道幸は少しも騒がず、ゆうゆうと山を下っていった。
山も半ばと思う頃、しわがれた声で、「この度は、許すが、ついには命を取るぞ。」と言った。
さしもの道幸も、ぞっとして足ばやに寺へ帰った。

その後、四五日も過ぎて、道幸がこんな夢をに見た。
身長が壱寸ばかりの衣冠正しい人が、輿車(くるま)に乗り、その外、供の者達を連れて枕もとに来た。
「我は、この山のうしろに住むものである。
先日は、思いもよらず山に上って来たが、実に無礼である。
その返報に、今日より、その方の命を毎日毎日縮めよう。そのために我等が来たのだ。
明夜よりは、下官どもが、代わる代わる来るだろう。」
そして、配下の者に、「まず、今夜より命を縮めよ」と命令した。
そして、下役と見える一寸ばかりの二人の男が、ちいさい鍬と鋤とを持って、耳の穴より入った。
しばらくして何やら白い油のような物を指さきほど持ち出してきた。

それより、毎夜毎日このような事をされたが、この僧は、段々と痩せおとろえてきた。ついに二月ばかりして死んだ。

これは、元文の頃の出来事であって、まさしく、自分自身が見た、とある人が言った。