江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その11

2023-07-09 22:19:36 |  伝説
「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その11      この項終わり
                           2023.7

51.シラキ清水  
岩月村(喜多方市岩月町)字(あざ)上田の束北方二町半にある。
婦人の母乳の出ないときには、ここに祈願し、この水を飲めば母乳がでると、言い伝えられている。


52.小市雨坪  
岩月村(喜多方市岩月)字(あざ)上田の西南四町(436m)の田の中に大石が立っている。
長さ四尺、横一尺、高さ八寸、地上に出ている。
昔、小市と言う農夫が、ここに耕作しているまま死んで、ただちに石に化したそうであう。
そして、この辺の田地の字を小市作と言う。
この地の田植えの節、毎年、必ず雨が降るので、小市雨坪と称している。

昔、この田の地主が、あの大石が田の中にあって邪魔になるとおもった。
それで、その大石を取り除こうと、石の周囲を掘ってみたが、どんなに深く掘っても、石の根には、たどり着けなかった。
それで、掘り取るのを中止した。
その後は、その石に対しては、なにもしなかった、と言い伝えられている。


53.石像  
駒形村(今は、喜多方市塩川町の一部)字下窪の南三町(327m)の境見川の辺(あたり)に姥堂という地がある。
俗に大日とも姥神とも言う。
長さ三尺許(ばか)り。
夜中に誠を以って祈る時は疱瘡(ほうそう:天然痘の事)及び諸病が平癒する。
若(も)し、偽りを以って詣(もう)でる時は、手足を動かすことが出来ずに、その場に倒れる、と言い伝わっている。


54.姥清水(うばしみず)
豊川村(今は、喜多方市の一部)字長尾の南五町(545m)に在り。
周回は五間余りある。
口碑(くちづたえ)に、昔、修験者(大沢の外島の祖)がいた。
あちこちの国を巡った後に、長尾に居を定めた。
その一人っ子が、飯豊山(いいでさん:喜多方市の北部)に参詣の登山をした。
その母親である姥は、こう思った。
自分は、女であるが、我が子が参詣に行くのに、どうして自分も参詣しては、いけないはずがあろうかと。
この清水で、二三日間垢離修業をして、息子の行った跡を慕って行った。
飯豊山の頂にある今の姥権現の附近で、石に腰を下し、休んだ。
しかし、下半身が、石に粘着し次第に土が全身に及んできて、終に全身が石と化したと。

姥権現とはその姥を祀ったものであろうか。
古来、長尾の者が登山する時は、どんなに晴天の日であっても、多少の雨が降らないことがない。
それは、姥の涙雨であると言い伝わっている。



これで、「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  の項は、終わりです。

「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その10

2023-07-08 23:14:49 |  伝説
「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その10
2023.7
46.釜井の古碑  
同村字釜井の中央字屋敷の圃中に在り。
高さ五尺幅三尺、上部に梵文(ぼんぶん:サンスクリット文)、下に正和(しょうわ)二年癸丑(1313年:みずのとうし)十月十八日と彫刻されている。
由来は、はっきりしない。

或いは、こうとも言う。
当時、雷が震動して、石が落ちた。
村の意図は、これを奇として、お寺の僧に乞うて供養をして、「あうん」の字を刻んで、もって以て霊石とした。
病人が、これに祈れば、必す霊験があると、里人は相つたえている。
そして、今でも、敬仰していると言う。


47.磐椅の榊杉  
磐瀬村(いわせむら:猪苗代町)磐椅(いわはし)神社前の南五間余りに、二株が並んで立っている。
東方は周(めぐ)り二丈二尺(6.6m)余り、西方は一丈九尺(3.3m)余り長各十丈(30m)余り、枝葉は密生している。
古老の口碑(くちづたえ)では、
和銅元年(708年)に神社を此地に遷座する時、榊木を植えたが、枯れそうになった。
それで、この杉を添えて植えたものである、と言い伝えられている。


48.トリアダ清水
豊川村(今は、喜多方市の一部)字(あざ)綾金の東北にある。
周(めぐ)り五間(9m)余り、清泉にして出水の量が多い。
夏は、水温が寒冷で、その水を手ですくうと、皮膚には、粟のようなものを生じ、あたかも鳥の皮膚のようである。
いわゆる、「とりはだ」となる。
考察するに、「とりあだ」は「とりはだ」より転訛したものであろう。
俗間、夏の土用丑の日に手足をこの清水に浸せば、雪やけ霜やけ等に罹ることはないと、言い伝えられている。
今も土用の丑の日には、未明より男女の遠近より集るものが、はなはだ多い。
又、近年に至り、産婦にして乳汁の出ないものは、この清水に餅米を浸し粥となして食すれば、乳汁の分泌を促す、として布袋に米を入れて、浸して置くものが多い。


49.淡の巻  
慶徳村(喜多方市慶徳町)字(あざ)真木の東の日橋川にある大きな淵である。
この淵に生きている燕を沈めたときは、必ず雨が降る、と言い伝えられている。


50.石室観音
上三宮村(喜多方市上三宮町)より熱塩村(喜多方市熱塩)字(あざ)金屋に至る一里余りの間に、南より北にならんで、三十三観音の石像が安置されている。

いつの年代であったか、赤崎の富豪の瓜生出雲と言う者がいた。
その子供が四国の琴平神社に参詣しようとするのを危ぶんだ。
そして、四国より石材を購入し、この観音を刻み、銭を下に敷き詰めた。
それを以って、琴平神社への参詣の代わりとした。
銭神壇は、すなわちその鏡を埋めた所であった。
世にこれを石室観音と言い伝えている。




「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その9

2023-07-07 22:10:58 |  伝説
「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その9
2023.7

41.板屋原  
月輪村(つきのわむら。今は、猪苗代町の一部)字(あざ)壷下の東方の十五町(約1.5km東)にある。
往古(おうこ:むかし)は千軒の家のある町であった。
弘法大師がここを通った時、ある家に立ち寄り、水を求めた。
しかし、女は機を織り続けて水をあたえなかった。
大師は、怒って水に呪文をかけた。
すると、水は山より流れ出たが、この町に至っては、池の中に入ってしまい、生活用水を欠くに至った。
それで、この町は、遂に滅んでしまった、と言い伝えられている。


42.マネ石通  
吾妻村(猪苗代町の北部)字(あざ)大原新田より小田に行く道であって、峠になっている部分をマネ石峠と言う。
ここは、昔、小田村の百姓猪賀之介と言う者が、山姥の「かもぢ」を取った場所である。
ここより山続きに姥ヶ沢、次に姥ヶ懐と言う場所がある。
又、東の山陰を姥ヶ谷と言う。
又、山の中腹に岩窟がある。
山姥の住んだ所と言う。
猪賀之介は、小田村を開いた後藤越中と言う者の子孫であるそうだ。


43.鎌倉山
月輪村(猪苗代町の南東部で湖岸)字(あざ)山潟の東北にある。山の東北及び西南の半腹に古い坑道がある。
昔のの金坑であると言う。
宝暦年中(1751~1764)、会津藩が、東南面の半腹の数ヶ所を掘削したが、鉱脈がみつからず、中止したそうだ


44.金山  
月輪村(猪苗代町の南東部で湖岸)字都沢の北方にある。
この山より発する渓水は、その気がつよくて味は甘い。
古(いにしえ)より金山と称している。
その由来は、はっきりしないが、必ず金鉱があるだろうと、文政の初め、山の北方を掘削した。
しかし、鉱脈を得られう、中止になったと言う。


45.長者屋敷址  
翁島村(猪苗代町)字(あざ)烏帽子(えぼし)小屋の浜田と言う所にある。

昔、寛治年中、常元長者と言う富豪の者がいた。
猪苗代郷中の米穀を売買し、当村字前浜を埠頭として、その西方の手蔵浜に土蔵を建て、あちこちに船で運んだ。
当時、大石を以って敷石とし、三町(327m)程建築した波止場の形は、今なお残っている。
屋敷跡より、しばしば古く珍しい陶器を掘り出すことがある、との口伝えがある。

「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その8

2023-07-06 23:00:00 |  伝説
「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その8
2023.7

36.行無沼(ゆきなきぬま) 
岩月村(喜多方市岩月)入田付の東北に在り。
周(めぐり)は九百間(約1,620m)程で、四方を崖で囲まれていて、水面は、鏡のようで、景色の佳い地である。
北岸に貴船の社を勤請した。

鮒を産す。
それを、取れば、鎮守様の祟りがあるとして、魚をとらない。
又、舟を浮べることを禁じている。
ここに至る道の左右に雌沼・雄沼と言う二つの沼跡がある。
村老の説に
昔は水を多くたたえていて、風が吹けば、雌雄の沼の双方より大きな波が起こって、行きかう人が、時々溺死するものがいた。
このような危うい所であるので、一度ここに来て、生きて帰るものが無いとの意をもって「行無(ゆくなき)」と名付けたそうである。
この沼は、慶安元年(けいあんがんねん:1648年)に堤を築き、近村の貯水池とした。
不動滝に注ぎ出るのは、この水である。



37.鶏塚  
岩月村(喜多方市岩月)字(あざ)上岩崎に在る。
高さは、三尺ばかりである。
このような事が伝えられている。
昔、端村長窪の農民で利兵衛と言う者の先祖である池亀外記と言う者がいた。
どうした事であるか、この地に鶏千羽を埋めて塚とし、上に一株の松を栽えたと言う。
咳嗽を、わずらう者が祈願すれは霊験があるという。



38.阿弥陀堂跡  
松山村(喜多方市松山町)字(あざ)中村の東の十三町(約1500m)にある。
今は原野となってしまった。
昔、来迎寺と言う寺があった。
いつの頃にか廃し、ただ堂のみ残っていて、慈覚作の三尊弥陀の大佛を安置してあった。

村老の言い伝えには、こうある。
応仁の頃、山名左衛門と言う者がある時、日中川に出て川狩をした。
大変多くの鮭魚を穫った。
そして、来迎寺坊中の僧たちに命令した。
桔梗と蕨の葉につつませ、藤蔓で束ねさせて、それを背負わさせた。
(坊さんたちには、生き物を殺してはいけない、という殺生戒がある。)
僧たちは、困惑して、三尊弥陀の大佛に祈った。
すると、その威徳によって、かの三種の草は、枯れてしまい、今に至っても、この辺に生じない。
又、この時、日中川もにわかに押し切れて、西に流れ今のような水路となったと言う。
その後、天正年間(1573~1792年)に、兵乱で、焼けた時も、神女が天降って、炎火の中より、この三尊を取りあげ、その難を逃れたとのことである。
延宝年間(1673~1681年)に、会津藩より命令が下って、上三宮村(喜多方市上三宮町)の願成寺に移した。

注:ここに言う慈覚は、慈覚大師の円仁のことであろうか?



39.六郎原  
磐梯村(今の磐梯町)に在る。
昔、この原にて、亀井六郎と言う者が、白毛の鶉を初めて穫った。
それで、六郎原と名づけたと言う。

又、この原に帷子石(かたびらいし)と言う石がある。
源義経が帷子を召し替えた故に、名づけられたと言い伝わっている。

(訳者注:ここら辺に、源義経が、平泉目指して逃げた時に、通ったようである。磐梯町に接している会津若松の古い和菓子店には、弁慶の借用書というのが残っている。)



40.麓山(はやま)大権現社
月輪村(つきのわむら。今は、猪苗代町の一部にある。
この社は、大同二年まで湖水中に建っていた。
しかし、同年に湖面が上昇して一夜の内に、湖中に没した。
ある日、権現社が、岩舘山の項上に上った。
永保元年まで、この山に立っていた。
今の麓山と言う所は、昔、月山と羽黒と言う二つの社(やしろ)があったが、そこに権現社を、永保元年(1081年)に移し奉まつった。
三つの社(やしろ)があるようになったので、三ッの御山と名づけたと言う。

「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その7

2023-06-22 18:16:01 |  伝説

「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その7
                 2023.6

31.雲海の墓
上江の東北三四町(3・400m)にあり。
高さ五尺ばかりの塚であって、上に五輪がある。
雲海は、いずれの時の人と言う事は、伝わっていない。
並びなき大力の者であって、世を遁れて上江に住んだ。
村の端の堰(せき)に石橋があった。
雲海という大力の者がいた。
彼は、或る夜、戯れに
「あの橋が、なくなった時には、年貢を納めてやろう」と言った。
その時、突然、橋が消えてしまった。

年貢を納めるために、数十人の百姓が、橋のあったはずの場所に来た。
しかし、橋がないので、どうしようか、と困っていた。
それを見て、それでは、堰を渡してやろうと、堰堀に跨がった。
米を背負っている馬の足をとって、すべて対岸に渡し終えたそうである。

それで、力が強くなりたいと願って、橋のある所に詣でて祈ると、効験があると、言い伝えられている。

 

32.竹屋観昔  
姥堂村(うばどうむら:今は喜多方市の一部)字(あざ)竹屋の村の東の高い所にあり。
運慶作の如意輪観音の坐像を安置している。
妊娠した婦人がこの観音に祈れば、難産の憂いなしとして參詣の者が多い、と伝えられている。
世俗は、相呼んで子安観音と言う。


33.赤井戸  
磐梯村(磐梯町)字(あざ)赤枝の村の中にあり。
四尺四方の小池である。
村に災難があろうとする時は、水の色が紅に変じて、その予兆を告げたそうである。

 


34.栃沢山の清水  
磐梯村字下西連村の東北の沢山の中に清水がある。
湧き出る勢いは、強く、かつまた清冽であった。
旱魃の時ここに詣でて、雨を祈れば霊験があって、降るそうだ、との亊。

 

35.目洗清水  
磐梯村字上西連村の町屋に在り。
眼疾の者が、この水を以って目を洗えば、治ると言う。