江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

靺鞨(まっかつ)の医師 生死を移す  「黄華堂医話」

2024-06-26 22:42:54 | 奇談

靺鞨(まっかつ)の医師 生死を移す  「黄華堂医話」

                                  2024.6

奥州の秀衡(藤原三代のヒデヒラ)が、老後の病が重かった時に、南部の人である戸頭武国(へいかしらぶこく)と言う者が来て、こう言った。


最近、靺鞨国より名医が来たが、
その名を見底勢(ケンセテイ)と言った。医術は神妙であった。
この程、南部の五ノ戸の看頭(かんとう役職名であろう)が子供が出来ないのを歎き、神に祈ったところ、その妻が妊娠した。
しかし、胎児が体内で死んだので(死胎)、母子とも、死にそうになった。

見底勢(ケンセテイ)は、診察して、「これは、生かすことが出来るだろう」と言った。
鼻より薬を吹き入れ、暫くして鼻と口、又背中に二壮の灸をした。
又、臍を薫蒸しすると、妊婦は、少し眼をあけて生気を取り戻した。
五時斗(ごときばかり:十時間位)して、産気づいて、出産した。
そして、死胎の子を取りあげて、又、鼻より薬を吹き入れて口を開かせ、龍乳といんものを練って、口に含ませ、「けふ布(?)」という衣に包んだ。三時(さんとき:6時間以内)の間に産声を発して、生き返った。

又、カツホ(原注に、地名とある)に老人がいた。
その老人の頭は、白髪で雪のようであった。脛は鶴の足のようで、腰は弓のように曲がっており、陰嚢の大きいことこと、壺のようであった。痩せて常に腹が鳴っていたが、蝦幕の鳴くような音であった。

見底勢(ケンセテイ)は、こう言った。
「これは、キメシテの症である。この様に苦しくとも、あと三十年の寿命があるだろう。
しかし、この病気が、良くなることはないであろう。
そうであれば、あなたは、生きていても良いことはないだろう。
いかがですか?あなたの残りの寿命を、不運で死んだ人に譲ってみないか?」

老人が答えた。
「生きて苦しむよりは、若い人に命を譲りたい。」と。

見底勢(ケンセテイ)は、老人に、すぐに薬酒を飲ませると、ひどく酔って死んだようになった。そして、老人を暗い所に置いた。
さて、田名部(青森県むつ市)の金持ちの家に、二十歳ばかりで死んだ若者がいた。
その屍(しかばね)を前に置いて、老人の口と死人の鼻に管を渡して、老人の背中に薬を張り、死人の背中にお灸をした。
暫らくして老人は死んだ。すると、若い死人は、たちまちに生き返った。

このような不思議な治療効果が多く、数えられないくらいであった。

 

戸頭(へいかしら)は、秀衡に
「見底勢(ケンセテイ)の治療を受けてください。」と勧めた。

しかし、秀衡は、そのすすめを聞かず、
「我が国にも名医がいる。
当時、象潟(きさがた)の道龍黒川舎人助(ドウリュウ雅号、くろかわ姓、とねりのすけ名)は、天竺の人も治療した優秀な医者である。
これ等を差し置いて、何で異国の人を招こうか?」
と言って、ついに見底勢(ケンセテイ)を招かなかった。
         

「黄華堂医話」橘南谿(続日本随筆大成 10)より

                                 
訳者注:この文章の表題は、特にないので、「靺鞨の医師 生死を移す」としました。靺鞨(まっかつ)は、現在の沿海州や北満州に居住していた民族で、ツングース系とされています。しかし、藤原三代の頃には、靺鞨族は、消えて周囲の民族に吸収されたようです。
従って、この時代に靺鞨国から来たというのは、誤りでしょう。
おそらく、沿海州あたりから、日本に漂流、もしくは貿易のために来た、唐人・高麗人など以外の民族の出身者でしょう。名前からして、ツングース系か、モンゴル系でしょう。そして、彼は、医術の心得があったのでしょう。
   

 


『浪華奇談』怪異之部 12.釈蓮諦

2024-04-12 23:05:54 | 奇談

『浪華奇談』怪異之部 12.釈蓮諦

              2024.4

先に記した、蓮諦比丘は、将軍家宣公の御帰依した僧の覚彦比丘の弟子であって、宿命智通(しゅくめいちつう)を得た。
私の母方の祖母は、私の母を娠して十月になっても出産しなくて、十一月に満ちても出産しなかった。
十二ヶ月目の末に及んで、蓮諦師に出産の時期を問うた。蓮諦は言った。
「来る五月六日の薄暮(はくぼ)に女子を産むだろう。そして、母子ともに健全であろう。この秘符(秘密のお札)を水で服用するように妊婦に与えると良い。」と。

「女の子であれば必ず右の手に握って安産するだろう。」と教示された。
果して言われた時期に、母は、先の符(おふだ)を手に持って生れた。
実に延享二丑年五月六日の夕暮に生まれた。不思議の事である。
宿命通(しゅくめいつう:前世における自他の生存の状態を自在に知る神通力)を具したる僧は多くはない。天竺にては釈尊、西土(もろこし:中国の事)にて安世高(あんせいこう)などがそうである。

これは、おまけだが、私は、時々仏理を説いている。儒を学ぶ人には、非常に嫌われる。
私は、
「和朝(にほん)の天子はどのようであろうか?
天皇家は、祖先神を祭っているので神道を尊び、また儒を尊び、勿論仏道をも尊んでいる。
かつまた将軍家もそうである。
その恩恵を蒙むっている我らは、どうするのか?
このことに、どう反論するのか?」
と、応じている。
仏教を非難している者は、黙って、退ぞいて行く。

和漢ともに、儒を学ぶ人は仏法を仇敵のごとくに見ている。しかし、また、今ここに五人や十人が仏道を誹膀しても、仏法は、滅亡に至らないであろう。
不必要な怒りに精力を費(ついや)す事は、君子のすることではない。仏道も勧善懲悪の指針となる。
社会の教化に益がある。

私は、常に人にこう言っている。
私は、天子様や将軍家に従がって神儒仏を尊敬している、と。
又、儒をにくむ人が有れば、私は、天子や将軍は、どうしているのだろうか、と質問する。
天子は、儒道を尊び、年の始めの読書はじめにも孝経を読んでいるのではないか?
将軍家は、林家に命じて、十三経を講ぜしめて群臣に示し、専ら聖人の道を尊んでいる。
その下にいる者は、天子様や将軍様と、神仏儒の優劣を言い争そうとするものだろうか?
私は、ただ公儀に従って儒を学んでいるのだ、と言う。
こうした時には、かの儒を忌み嫌うものは、なにも反論しないで、退(しりぞ)いていく。

訳者注:釈蓮諦の釈は、姓である。江戸時代の僧は、しばしば、お釈迦様の釈を姓とした。蓮諦は、仏教での名。
また、江戸時代には儒教(孔子の教え)が盛んであったが、儒家は、仏教は、人を惑わしている、などと批判していた。


『浪華奇談』怪異之部 9.石仏 言を発す

2024-04-07 22:55:10 | 奇談

『浪華奇談』怪異之部 9.石仏 言を発す

                                             2024.4

阿波座堀(大阪市西区)の奈良屋町浜より少し南へ入込んだ町家の軒下に、一尺あまりの石仏の地蔵尊の座像が安置されていた。

文化五辰年(たつどし、1808年)五月十八日の夜、ある軽薄なものが、風雨のまぎれに来て、その像を自分の家に持ち帰った。
敬い奉って供養したが、その夜よりこの菩薩が、
「阿波座へ帰る帰る」と夜中声をあげ続けた。
これによってこの者は、怖恐(おぢおそれ)てもとの小堂へ返した。
この石像は、今にこの地にある。
 
河内の国守口の隣村である世木村(せきむら)の百性の家の軒下に石像の地蔵菩薩があった。
しかるに、この家は一向宗の信徒であったので、この菩薩を嫌って氏神の境内へ移した。
しかし、これも夜陰に及ぶと、旧地へ帰る帰ると言ったので、再度もとの場所に持ち帰った。
この石仏は、甚だ粗末に彫っていて、眼耳鼻口(げんにびくち)などの形もなかった。
阿波座の像は、丁寧に彫ってあった。


『浪華奇談』怪異之部 8.瑞夢      予知夢

2024-04-06 22:52:34 | 奇談

『浪華奇談』怪異之部 8.瑞夢  
     予知夢

                                          2024.4

文化年中のことである。
私は、ある夜の夢に、お勝手にて酒を飲んでいたが、ふと表の方から、前触れもなくて京屋吉右衛門と言う書林(本屋)が来た。
私は、すぐに酒を酌み、又魚肉をすすめたが、その時に吉右衛門がこう言った。
「わたくしは、今日は、精進日でございます。なんであれ、野菜の類を下さい。」と言った。

すぐに、座にあった器を見るに、ことごとく魚肉であって、野菜は全くなかった。
向こうの板の間を見ると、少しの野菜があった。
それで、す早くきざんで、醤油をかけ、「これでは、」と言って、出すと思えば、夢から覚めた。

そうであるが、翌日いづみや孫兵衛という書肆から、
「今晩は、新宅に移っての書画交易会を催おしますので、御い出下さい。」
との申しいれがあった。

それで、その晩、その家に至ったが、思いの外、奇麗な家であった。
二階の座敷へ招待された。
そして程なく宴が始まった。その料理は、甚だ美をつくし珍しい料理が並んだ。そうこうするうちに、人々が多く来た。
私は、ひそかに思ったのだが、昨夜の夢に似ている形であるな、と。
見ている所に、ある人が吉右衛門にさかなを進めたが、
その人が言うには、
「私等は、今日は精進日でございますので、青物の類を下さい。」と言った。
私は、いよいよ前夜の夢と同じだなと、脇目もふらず見守っていた。
肴をすすめる人は、出されていた料理をあちことと探したが、野菜のたぐいは、一切なかった
仕方なくて、二階より一階に下りて、台所にて、ようやく煮菜を盛った鉢を取って来て、「これでは」と言って、与えた。

誠にふしぎの次第であった。
正夢もある事と覚えた。

 


死に臨んでも、爆睡。肝臓に毛が生えていた。 新著聞集

2023-08-19 22:00:00 | 奇談

死に臨んでも、爆睡。肝臓に毛が生えていた。
       日本随筆大成第二期第5巻「新著聞集」より
                                2023.8
心臓に毛、いいえ 肝臓に毛が生えている

「心臓に毛が生えている」と言う言葉がありますが、「肝臓に毛が生えている」と言う言葉が、江戸時代の、「新著聞集」にありました。
面白いので、紹介します。
本来の表題は、「望死熟睡肝臓に毛を生ず(死に臨んでも、熟睡していた。肝臓に毛が生えていた。)」です。


以下、本文


 蒲生下野守(がもうしもつげのかみ:蒲生 定秀か?戦国時代、近江の日野の城主)殿の家来の侍が、わけあって、切腹することになった。
身を清めるために、行水をして、首切り役人の監督に向かって、
「われは常に湯あがりには、寝る癖がある也。この世の思い出に、寝させてくれよ。」と訴えた。
そして、高鼾(かたいびき)をかいて、しばらく寝てから、目をさまし、起あがった。

 また首切り役人の監督に向かって、
「われらが様なる強勢(ものに動じない)の者には、肝(きも)に毛の生えると、昔から申すなり。
事実ならば、恐らくは某(それがし)が肝にも、毛が生えてあらん。かならず見たまえ。たのむ也。」
と言って切腹した。

 それで、約束の通りに、肝臓をみると、言った通りで、毛が生えていたそうである。

 この話は、傍輩(ほうばい:同僚)であった町野倫菴という医師が語ったものである。