靺鞨(まっかつ)の医師 生死を移す 「黄華堂医話」
2024.6
奥州の秀衡(藤原三代のヒデヒラ)が、老後の病が重かった時に、南部の人である戸頭武国(へいかしらぶこく)と言う者が来て、こう言った。
最近、靺鞨国より名医が来たが、
その名を見底勢(ケンセテイ)と言った。医術は神妙であった。
この程、南部の五ノ戸の看頭(かんとう役職名であろう)が子供が出来ないのを歎き、神に祈ったところ、その妻が妊娠した。
しかし、胎児が体内で死んだので(死胎)、母子とも、死にそうになった。
見底勢(ケンセテイ)は、診察して、「これは、生かすことが出来るだろう」と言った。
鼻より薬を吹き入れ、暫くして鼻と口、又背中に二壮の灸をした。
又、臍を薫蒸しすると、妊婦は、少し眼をあけて生気を取り戻した。
五時斗(ごときばかり:十時間位)して、産気づいて、出産した。
そして、死胎の子を取りあげて、又、鼻より薬を吹き入れて口を開かせ、龍乳といんものを練って、口に含ませ、「けふ布(?)」という衣に包んだ。三時(さんとき:6時間以内)の間に産声を発して、生き返った。
又、カツホ(原注に、地名とある)に老人がいた。
その老人の頭は、白髪で雪のようであった。脛は鶴の足のようで、腰は弓のように曲がっており、陰嚢の大きいことこと、壺のようであった。痩せて常に腹が鳴っていたが、蝦幕の鳴くような音であった。
見底勢(ケンセテイ)は、こう言った。
「これは、キメシテの症である。この様に苦しくとも、あと三十年の寿命があるだろう。
しかし、この病気が、良くなることはないであろう。
そうであれば、あなたは、生きていても良いことはないだろう。
いかがですか?あなたの残りの寿命を、不運で死んだ人に譲ってみないか?」
老人が答えた。
「生きて苦しむよりは、若い人に命を譲りたい。」と。
見底勢(ケンセテイ)は、老人に、すぐに薬酒を飲ませると、ひどく酔って死んだようになった。そして、老人を暗い所に置いた。
さて、田名部(青森県むつ市)の金持ちの家に、二十歳ばかりで死んだ若者がいた。
その屍(しかばね)を前に置いて、老人の口と死人の鼻に管を渡して、老人の背中に薬を張り、死人の背中にお灸をした。
暫らくして老人は死んだ。すると、若い死人は、たちまちに生き返った。
このような不思議な治療効果が多く、数えられないくらいであった。
戸頭(へいかしら)は、秀衡に
「見底勢(ケンセテイ)の治療を受けてください。」と勧めた。
しかし、秀衡は、そのすすめを聞かず、
「我が国にも名医がいる。
当時、象潟(きさがた)の道龍黒川舎人助(ドウリュウ雅号、くろかわ姓、とねりのすけ名)は、天竺の人も治療した優秀な医者である。
これ等を差し置いて、何で異国の人を招こうか?」
と言って、ついに見底勢(ケンセテイ)を招かなかった。
「黄華堂医話」橘南谿(続日本随筆大成 10)より
訳者注:この文章の表題は、特にないので、「靺鞨の医師 生死を移す」としました。靺鞨(まっかつ)は、現在の沿海州や北満州に居住していた民族で、ツングース系とされています。しかし、藤原三代の頃には、靺鞨族は、消えて周囲の民族に吸収されたようです。
従って、この時代に靺鞨国から来たというのは、誤りでしょう。
おそらく、沿海州あたりから、日本に漂流、もしくは貿易のために来た、唐人・高麗人など以外の民族の出身者でしょう。名前からして、ツングース系か、モンゴル系でしょう。そして、彼は、医術の心得があったのでしょう。