「天草島民俗誌」河童記事 その21から25
2021.12
河童を家来にした話 「天草島民俗誌」河童記事 その21
昔、ゼンスケと云う男がいた。
ある日、田に水をやりに行って、タンゴ(農具のようである)で水を汲んで入れていると、まだ一杯にならぬ中に日が暮れかかった。
しかし、そのまま帰るわけに行かないから、一所懸命に汲みあげていると、川の水が段々減ったのか、タンゴの底がゴトッとした。
魚が、はいったのかと思って探って見たが、何もいなかった。又、水を汲むと、やはりゴトッと言う。
不恩議に思いながら、その夜は帰って一晩あかした。
翌朝五時頃、目をさまして見ると、戸外でヒソヒソ話がする。
誰だろうと戸をそっとあけて見ると、河童が十匹ばかりいる。
そして、「昨日の夕方、おれ達をひどい目にあわせたゼンスケを懲らしめてやろう。」と言っていた。
ゼンスケは、わざと外に出て行くと、河童どもが、一匹づつむかって来た。
それをコロコロと倒してやった。
やがて河童どもが正気づいてから「お前達が弱いのは、頭の皿に水がないからだ」と言って聞かせて降参させた。
「お前達は、これから俺の家来になったかわりに、一銭づつ持って来い。
そうすれば、俺が饅頭を買って来てやる」と言った。
河童達をそこのさきの淵に返しておいた。
そして、饉頭を買って来て淵の中に投げ込んでやった。
それから或る日、ぜんすけは妻に向って、「鍬(すき)十挺と握飯を三十個を用意してくれ。」と言った。
やがて、それを持って田へ出掛けると、人々は、気違いになった、と笑った。
田に行くと、ちゃんと十匹の河童が来ていたので、鍬を一挺づつ与えて、田を耕させてしまった。
そして、御褒美に握飯を三つづつ与えて、その日は淵に帰した。
それから又数日経って、同じく握飯を三十用意してもらい、淵の傍に行って手をたたくと、河童が集って来た。
そこでゼンスケは、「今日は、お前達は一人一人水車を持って来て田に水を入れよ」と命令した。
すると、河童は、めいめい何処(どこ)からか水車を持って来て、田に水を入れ始め、瞬く間に一杯にした。
そこで又握飯を三つづ与えて淵にかえした。
(植里三男君の話として林田靖史君の報告)
河童に田植えを手伝わせる 「天草島民俗誌」河童記事 その22
むかし或る男がいた。
ある田に水をやりに行くと、日は暮れて来るのに、水は一杯にならない。
すると河童が出て来て、水を汲んで加勢をしてくれた。
それから数日後、今度は田植をしていると、又河童が出て来て加勢をし、忽ち植えてしまった。
それから秋になって稲刈を初めると、やはり河童が出て来て、瞬く間に刈りあげてくれた。
そこで河童をつれて行って御馳走をして帰すと、後で宝物をもって来てくれた。
それで、その男は村一番の金持となった。
(林川靖史君が。こんな話を聞いた様な気がすると言つて書いて来た。)
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河童は鉄類を嫌う 「天草島民俗誌」河童記事 その23
八十年程前、山口の或る百姓が、梅雨中に田の畦が崩れはしないか、と見まわりに行ったら、四五歳位と思われる、頭は皿をのせた子供が、川の中で蟹を拾っていた。
これは河童に違ひないと思った。
河童は、鉄類を嫌うという話だからと、腰の鎌を臀にくくりつけて逃げてかえった。
(宮川龍城君の報告)
河童は鉄類をきらう。尻をとる理由 「天草島民俗誌」河童記事 その24
河童は鉄類を嫌い、特に三日月型になったのを嫌うという。
河童はもと人間の舌を取っていたのであるが、ある時、手をひどく噛まれたので、それ以来、尻を取る様になったのだ、と云う。
(宮川龍城君の報告)
子供が泳いでいて、河童にとられる 「天草島民俗誌」河童記事 その25
八年ばかり前、佐伊津の西法寺の後にある堤で、子供が三人で游いでいたら、その中の一人が、河童に連れられてずっと沖に行き、最後に水面まで差しあげられて、それから沈んだまま上がって来なかった。
驚いて、他の二人は、村に馳けて行き、その事を告げた。
早速、大変だと村の者達が行って、網など入れたりしたが、上って来なかった。
(明瀬正孝君報)