新説百物語巻之一の10、狐亭主となり江戸よりのぼりし事 2020.8
京からす丸の上に江戸に支店を出し、毎年京より一度づつ江戸へ下る人がいた。
ある年、例年の頃よりは少しの用事があって、京へ帰る事が遅くなったが、九月の始め頃、思いもよらず、亭主が、江戸より帰って来た。
家内の者、母親、女房も大いに悦こんで、風呂など立てさせ、料理を用意などしてもてなしたが、亭主も一人の挟み箱(はさみばこ)を持ってきた家来も一言も言葉を発しなかった。
ただ食物ばかり喰って、亭主も家来も台所へも出ることが無かった。
ともかく、行動がおかしかった。
それで、近所に親類があったので、家内の者は、残らず当分入用の物などを持って行った、そこで生活した。
表には錠をかけ、あの二人だけを家に残して出で行った。
毎日毎日のぞきに行ったが、二人とも前の所にずっと座っていて、ご飯を焼(た)く様子も無かった。
ある日、江戸の亭主のかたより書状が到来した。
来月の上旬には、帰京するとの連絡が来た。
それで、「あの二人は、狐か狸であろう。打ち殺せ。」
と、近所の者が大勢で、棒をもって、表戸を開け、家の内へ入れば、二人の者は、姿が見えなかった。
挟み箱と見えたものは、破れた薦(コモ)を竹に結わえ付けものだけが残っていた。
これは、まったく狐の所為(しわざ)であった。
近所で言われたのは、こんな話である。
この家には、昔より裏に古井戸があった。
常に蓋をして、決して汲まない井戸があった。
この井戸の蓋を開ければ、祟りがある、と言い慣わされていた。
しかし、今年、その家の男の奉公人が、事情を知らずに、ちょっと蓋を開けた、との話であった。
「この祟りではないのか」と、人々は噂した。
江戸時代の三大盗賊 その3 日本左衛門
2020.8
日本左衛門人相書
兎園小説余録 日本左衛門人相書
「兎園小説余録」
編者注:時代劇には、しばしば、犯罪人の人相書が出てきますが、その実例として、お見せします。
滝沢馬琴先生は、南総里見八犬伝を始め、多くのベストセラー小説を書いています。
それと同時に、江戸の町での様々な噂、伝聞、奇談なども、集めて書いて、出版しています。
私にとっては、こちらの方が却って面白く感じます。
人相書きが、実際にどのようであるかは、実に興味ある事ではありませんか?
以下の文は、「兎園小説余録」の中にある文書の、現代語訳です。
ここより、本文。
江戸より、送られてきた書き付けの写し
一、せいの高さ 五尺八・九寸程
一、年は、29歳(見かけは31歳に見える)
一、鼻筋が通っている
一、小袖、鯨尺で、三尺九寸
一、月額濃く、引き疵1寸5分程
一、目、中細く、顔は面長な方である
一、襟、右の方へ常にかたよっている
一、びん、中少しそり、元ゆひ十程まき、
一、逃げ去った時に着用の品、 こはくびんろうじわた入小袖、但紋所丸に橘、下に単物もえぎ色紬、紋所同断、じゅばん白郡内、
一、脇差しの長さは二尺五寸。鍔(つば)は無地ふくりん、金福人模様、さめしんちゅう筋金あり。小柄ななこ、生物いろいろ、こうがいは赤銅無地、切羽はばき金、さや黒く、しりに少し銀有。
一、はな紙袋はもえぎらしや。(ただし、うら金入り。)
一、印籠、鳥のまき絵、
この者、悪党の仲間の内では、日本左衛門と呼ばれている。
本人がこの様に自称したことはない。
右の通りの者を見つけたら、その所に留め置くこと。
そして、御料地は御代官、私領地は領主地頭へ申出ること。
その後、江戸、京、大阪のいずれか近い所の奉行所へ報告すること。
もし、日本左衛門について知ったことがあれば、報告をする事。
隠匿して、そのことが後で判明すれば、きわめて悪質である。
以上。
延享三年(1746年)寅年十月 右の御書き付けは、十二月十二目御宿継奉書にて、仰せつかわされた。
この一条は、「佐渡年代記」の延亨三年丙寅年(カノエトラのとし)の記に記載されたのを抄録した。