江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

新説百物語巻之四 6、長命の女の事

2023-02-27 23:29:26 | 新説百物語

新説百物語巻之四 6、長命の女の事

                     2023.2

京都四条に檜皮屋(ひわだや:ヒノキの皮の屋根葺き職人)がいた。
近江の者であって、京へ奉公に出て、年季奉公を無事に終えて、帰郷した。

その父親は、近江に住んでいたが、六十歳の時に五十歳になる女房をむかえた。
女房が五十四歳で初産をした。
その産まれたのが、この檜皮屋(ひわだや:屋根職人)である。
それより段々と十人の子を設けた。

宝暦十二の年、この長男である檜皮屋は、八十四歳であった。
父はすでに亡くなり、母は百三拾七歳で、存命であった。
しかし、六十歳ばかりに見えた、とのことである。

 


新説百物語巻之四 5.牛渡馬渡といふ名字の事

2023-02-27 23:23:03 | 新説百物語

新説百物語巻之四    5.牛渡馬渡といふ名字の事

                                                2023.2

天正の頃の事だそうだ。
東国に小右衛門、新左衛門という百姓が二人いた。
つねづね、親戚でもなかったが、隣家のことであり、仲がよかった。
田畠へ行くにも、さそいあって出で行った。
その頃は、いまだ世間もさわがしく(戦乱の世)あったが、片田舎の気安さで、畑作業もしていた。
ある年、羽柴(秀吉)氏の武将が、急に敵の城を攻撃した。
それは五月の事であって、河の水が多く出て、難儀をしていた。
その大将は、川端に座って采配し、家来たちを残らず河を越させた。
そして、ただ一人 後に残っていたが、段々水が増えてきて、もう、どんなに水練に勝れていても、川をわたれそうにもなくなった。
その所の百姓を呼んで尋ねたが、小右衛門と新左衛門の二人がまかり出てきた。
「私どもが、御渡し致しましょう。」といった。
小右衛門は馬をひいて来て、新左衛門は牛をひいて来た。
そして、侍大将の馬の両脇に牛馬をひきつけ、ニ人は馬のロを取って、先導し、難なくその大将を、河を越させた。

その大将の軍は、ほどなく勝利した。
凱旋の折に、二人の百姓は、すぐに召し出された。
二人には、牛渡新左衛門、馬渡小右衛門と名が与えられた。

今も両家ともに、さる殿様の家来であるとの事である。


新説百物語巻之四 4、鼠金子を喰ひし事

2023-02-27 23:18:29 | 新説百物語

新説百物語巻之四 4、鼠金子を喰ひし事        

                                                    2023.2

近頃にあった事である。
濃州(濃尾:岐阜県南部)の一村に、やっと三百軒ばかりの所があった。
その村に中尾氏という人がいた。
その村内で、一人で手広く商売をしていた。
米や酒を売り、村の田畑その外衣類等さまざまなものを質に取る(質屋)仕事であった。
何代とも知れず、続いていた家であった。

ある時、その隣の百姓の七歳ばかりの女の子が、うらの藪で、金一分を拾った。それを親に見せると喜こんで、
「盆かたびらを買って着せよう。」と、隣のその金持ちの家へ持って行き、
「銭と両替えして下さい。」と言った。
亭主はうけ取って、よくよくみれば、そのお金は慶長金であって、鼠の喰った歯形があった。
それで、歯形がついていると、その者に言い聞かせ、鳥目八百文で買い取った。
百姓は、大いに喜んで帰ったが、その後 又々その娘は小判一両を拾って帰った。

その事が近所で噂になり、そのあたりを探すと、或は一両または一歩(いちぶ:四分の一両)などを拾ったが、お金は、合計でおよそ七八拾両になった。
そのままにしてもおかれず、代官所へ奏上した。
代官所で吟味したところ、どのお金も鼠の歯形のないものは無かった。
段々と、調べたところ、中尾氏の土蔵の四五間(しごけん)脇に鼠の穴があって、そこから引出されたお金であった。

私もその一歩(いちぶ)を見たが、成程ねづみの歯形があった

 


カッパ、スッポン、水蛇での死者の違い  「善庵随筆」

2023-02-25 22:51:56 | カッパ

カッパ、スッポン、水蛇での死者の違い

                         2023.2

古事類苑の動物部七には、カッパ、スッポン、水蛇での死者の違い(善庵随筆)が、記載されている。

以下、本文
水中にて人をとり殺すものに、三つある。
一つは、カッパで、河太郎とも言う。
・・・
いまこの三つ、河童、鼈(すっぽん)、水蛇を比べるてみよう。
河童にとられたものは、口をあけて、笑うようである。

水蛇にとられたものは、歯をくいしばり、向こう歯が(上の前歯)が二枚かけ落ちている。
スッポンのは、わき腹あたりに爪を入れられて痕があって、死ぬ。
これでもって、分別できる。
しかし、いずれも肛門は、開いている。
世人は、肛門より入って、臓腑を食べると言っているが、間違いである。
すべての溺死は、肛門が開くものである。

何故かと言うと、水死するときは、口から入った水が、肛門から出る。それで、肛門が開くのだ。


「古事類苑」の動物部七、「善庵随筆」より


猫が嶽の妖描  「土佐風俗と伝説」

2023-02-25 22:40:52 | カッパ

猫が嶽の妖描

             2023.2

今は昔 香美郡奥西川(おくにがわ)村に猫が嶽と言って、断崖がそそり立って、高さは百間に達し、古
木老松が生い茂げり、かって人跡の至ったことがない難所があった。

古(いにしえ)よりの話に、ここに猫王と言う大猫が棲息し、その大さは、三歳駒のようであった。
数多くの小猫がいて、その手下になっていた、と言われていた。

今より一百五十年(この書が出版されたのは、大正14年、1925年)前の昔の明和九年(1772年)に、隣村の富家(ふけ)村の男で与三右衛門と言う二十五六歳の元気な若者が、この嶽下(たけした)を通った。
ふと仰ぎ見れば嶽の岩角に梟(フクロウ)が一羽止まっていた。
もともと、与三右衛門は狩猟好きで、ちょうどその時猟銃を一挺、肩にかけていた。
それで、これ幸いと、猟銃を取下ろし、ねらいすまして打ったが、美事に命中した。
フクロウは落下したので、取りに行ったが、梟ではなくて蝦菜(えびな)を束ねたものであった。
奥三右衛門は合点が行かず、と上の方を見あげれば、梟は傍の木の枝にいた。

更に一弾、打ったが、又命中して、落ちた。
それを拾いあげれば、鞠(まり)のような木片であった。

与三右衛門も少し不思議に思い、こんな場所に長居は無用と、元来た道を顧りみると、梟は依然として元の岩角にとどまっており、何事もなかったかの様子であった。

世人は、このことを聞いて、これは猫王配下の若猫等が退屈まぎれのいたずらに、ちょっと、人を化かしたものだろう、と言いはやしたとのことである。

より