今回は 普通のブログですが、カテゴリーは雑記の宿にいたしました。
昨年「君の名は。」などの映画のヒットに伴い 聖地巡礼というワードで描かれた場所を巡るというのが、よく聞かれましたので
こちらもルクスの紙芝居に登場してる キャラクターのモデル地を巡ってみました。
特にお世話にもなってないので 聖地巡礼ではなく モデ地見学というか巡りました。あーめんどくさ
宮城県 登米市 米川カトリック教会 隠れキリスタンの里でありまして、歴史は400年以上も前、幕府がキリシタン禁止によって 迫害や弾圧に苦しみながらも 残っていたところでもあります。
側には 保育園などもあり、僕がここを最初に訪れたのは 22年ほど前のことでしたが、神父さんも住み込みでいましたので、そのときは付近の住民は週末ミサを行ったと聞きましたが、最近は諸事情で以前のようには行ってないみたいです。
実際 建物の中に入ったことがあるのですが、懺悔室もあり 画面から見て三角の建物は釣鐘になっていまして、鐘の音が鳴ります。
この建物の特徴というのが、外に響かない構造 これは現地の方々はそう思ってないのでしょうが、鐘の音を中にだけ響かせるというのは、キリスタン信仰を周辺に響かせないようにした 当時の人々の配慮なのではなかったのでしょうか? 以前は 洞窟の中で信仰していたということでした。
その地区の 周囲には神社やお寺などが普通に立ち並んでいます。
そこから 山を越えてすぐに 東日本大震災の津波被害にあった 南三陸町があります。こちらの地区に避難していた方も多数いたのかと思います。当時は僕も祈る気持ちで避難所にいました。
ここから 隣の県の岩手県一関市藤沢というところに行けます。
ここは、ルクスの紙芝居のフジトモというキャラクターをこの辺りをモデルにいたしました。
牧場があって、ポニーにも会えます。
近づいたら寄ってきました。
ナデナデもできました。(前の文章で 馬が必要ないとかきましたが 馬が必要ないと言ったわけではないので その部分を編集しました)
こういうところもあります。
乗れるみたいです。
そこから しばらく行くと
大籠キリスタン殉教公園というところがあります。
こういうところもあります。
僕は 郷土史を勉強するのが好きで 20歳頃から郷土史の本は 漢字読めないけど読んでました。
僕が読んだ古い郷土史には、藩政時代のキリスタン迫害や弾圧のことは載ってましたが、現在はどうなのでしょうか? 行われていなかったとかに変わっているのでしょうか?
今は 何を信じていいのか?わからないです。
大籠公園内には 歴史資料館がございました。
作家の遠藤周作さんも 訪れたことがあるそうです。
展示場には、いろいろな仏像も展示してましたので、仏像がお好きなかたにも良いと思います。
歴史資料館の職員の方と、お話を伺うこともできましたが、政府の条例によって処刑された人々が300人を超えたと聞きました。
その坂を登る階段は それにちなんで300数段あるそうです。
階段を登ると こういう建物がありました。
ここから見る風景は こんな感じです。
伊達政宗公時代に 藤沢城の家臣の中に キリスタンである後藤寿庵という家来がいたそうで、政宗からキリスタンを辞めるように求められたのですが、それを拒み キリスタン信仰は辞めず 役人を離れ 追放または逃亡したという言い伝えがあるそうです。
これで 僕が思ったのは、キリスタン禁止は秀吉から始まり 徳川ではより強固になったのですが、当時はキリスタン大名というのもあって、そのキリスタン大名の称号を外せと命じていたのではないでしょうか?
ようするに 政教分離の始まりはここからで 信仰の力で大名の座にいなくてもよかったのではないでしょうか?
そこに当時の武将たちは気づいてなく 膨大な被害悲劇が起きてしまったのではないでしょうか?
この隠れキリスタンの里で 生きた人々は身を隠しながらも信仰は守っていたと思うのです。
ただ、 キリスタンの影響で 国が大きく揺れて 大きな惨劇を与えてしまったことも 当時、そこにいた人々はわかっていたのだと思うのです。
鐘の音も外にまで響かせないようにと これまでの信者たちの反省も込めて ひっそりと暮らしていたのかと思います。
そこから しばらく行くと 親分が昔 住んでいたとされる お城がありました。
以前見た時とは違い お地蔵さんの笠が罪人が被る笠そして 泥棒を思わせる ほっかぶり姿に変わっていたことが残念です。
ご覧いただき ありがとうございました。
<モデ地巡り>
昨年「君の名は。」などの映画のヒットに伴い 聖地巡礼というワードで描かれた場所を巡るというのが、よく聞かれましたので
こちらもルクスの紙芝居に登場してる キャラクターのモデル地を巡ってみました。
特にお世話にもなってないので 聖地巡礼ではなく モデ地見学というか巡りました。あーめんどくさ
宮城県 登米市 米川カトリック教会 隠れキリスタンの里でありまして、歴史は400年以上も前、幕府がキリシタン禁止によって 迫害や弾圧に苦しみながらも 残っていたところでもあります。
側には 保育園などもあり、僕がここを最初に訪れたのは 22年ほど前のことでしたが、神父さんも住み込みでいましたので、そのときは付近の住民は週末ミサを行ったと聞きましたが、最近は諸事情で以前のようには行ってないみたいです。
実際 建物の中に入ったことがあるのですが、懺悔室もあり 画面から見て三角の建物は釣鐘になっていまして、鐘の音が鳴ります。
この建物の特徴というのが、外に響かない構造 これは現地の方々はそう思ってないのでしょうが、鐘の音を中にだけ響かせるというのは、キリスタン信仰を周辺に響かせないようにした 当時の人々の配慮なのではなかったのでしょうか? 以前は 洞窟の中で信仰していたということでした。
その地区の 周囲には神社やお寺などが普通に立ち並んでいます。
そこから 山を越えてすぐに 東日本大震災の津波被害にあった 南三陸町があります。こちらの地区に避難していた方も多数いたのかと思います。当時は僕も祈る気持ちで避難所にいました。
ここから 隣の県の岩手県一関市藤沢というところに行けます。
ここは、ルクスの紙芝居のフジトモというキャラクターをこの辺りをモデルにいたしました。
牧場があって、ポニーにも会えます。
近づいたら寄ってきました。
ナデナデもできました。(前の文章で 馬が必要ないとかきましたが 馬が必要ないと言ったわけではないので その部分を編集しました)
こういうところもあります。
乗れるみたいです。
そこから しばらく行くと
大籠キリスタン殉教公園というところがあります。
こういうところもあります。
僕は 郷土史を勉強するのが好きで 20歳頃から郷土史の本は 漢字読めないけど読んでました。
僕が読んだ古い郷土史には、藩政時代のキリスタン迫害や弾圧のことは載ってましたが、現在はどうなのでしょうか? 行われていなかったとかに変わっているのでしょうか?
今は 何を信じていいのか?わからないです。
大籠公園内には 歴史資料館がございました。
作家の遠藤周作さんも 訪れたことがあるそうです。
展示場には、いろいろな仏像も展示してましたので、仏像がお好きなかたにも良いと思います。
歴史資料館の職員の方と、お話を伺うこともできましたが、政府の条例によって処刑された人々が300人を超えたと聞きました。
その坂を登る階段は それにちなんで300数段あるそうです。
階段を登ると こういう建物がありました。
ここから見る風景は こんな感じです。
伊達政宗公時代に 藤沢城の家臣の中に キリスタンである後藤寿庵という家来がいたそうで、政宗からキリスタンを辞めるように求められたのですが、それを拒み キリスタン信仰は辞めず 役人を離れ 追放または逃亡したという言い伝えがあるそうです。
これで 僕が思ったのは、キリスタン禁止は秀吉から始まり 徳川ではより強固になったのですが、当時はキリスタン大名というのもあって、そのキリスタン大名の称号を外せと命じていたのではないでしょうか?
ようするに 政教分離の始まりはここからで 信仰の力で大名の座にいなくてもよかったのではないでしょうか?
そこに当時の武将たちは気づいてなく 膨大な被害悲劇が起きてしまったのではないでしょうか?
この隠れキリスタンの里で 生きた人々は身を隠しながらも信仰は守っていたと思うのです。
ただ、 キリスタンの影響で 国が大きく揺れて 大きな惨劇を与えてしまったことも 当時、そこにいた人々はわかっていたのだと思うのです。
鐘の音も外にまで響かせないようにと これまでの信者たちの反省も込めて ひっそりと暮らしていたのかと思います。
そこから しばらく行くと 親分が昔 住んでいたとされる お城がありました。
以前見た時とは違い お地蔵さんの笠が罪人が被る笠そして 泥棒を思わせる ほっかぶり姿に変わっていたことが残念です。
ご覧いただき ありがとうございました。
<モデ地巡り>