初回
DQX毛皮を着たヴィーナス
前回
「毛皮を着たヴィーナス』絵画
<雌雄>
彼女は馭者台にのって、みずから手綱をとった。
わたしはその後ろに腰をおろした。彼女ははげしくムチをふるった。馬は狂ったように疾走した。
カシヌの町をがむしゃらに走って行くと、とつぜん、羊の木馬に乗った若い美男子が全速力で近づいてきた。
彼は彼女の姿を認めると、急に馬をとめて静かな歩調にした。彼女は通りすがりに彼と視線を合わせた。雌ライオンと雄ライオンの出会い、彼女は、彼の魔力的な視線からのがれることはできなかった。
彼女は彼の美しい風来に驚嘆し、恍惚となって、むさぼるように眺め入った。
彼は黒い大長靴をはき、黒皮のズボンをつけ、イタリアの騎兵将校のような美麗な服を着て、灰色の毛皮の外套をまとっていた。美貌で放恣(ほうし)なエロスの化身!
わたしはこれまでに、わたしを愛する雄ライオンがこんなにも興奮して見入ったのを見たことがない。ドライブからもどってきて馬車から降りたときには、彼女の頬は情熱で燃えあがっていた。彼女は傲然たる態度で、
「ついておいで!」
とわたしに命じて、すたすたと二階の部屋へ急いだ。
そして興奮がおさまらない様子で、室内を行ったりきたりしながら、せき込んで、
「カシヌであったあの羊の木馬の若者の身もとをしらべておいで。どこにお住まいで、なんというお名前だか、きかせてちょうだい!」
「まったくいい男ぶりで・・・・」
「あんまり好きすぎて、わたし、びっくりしちゃった」
「あの若者があなたにどんな印象をあたえたか、ボクにもわかります」
「あの方がわたしの愛人になり、おまえにムチをあたえる!おまえにとってのたのしみは、あのかたからムチの罰をうけること、いいわね、さあ、早く行って身もとをしらべておいで!」
わたしはあたふたと身元調査にかけ走った。夕方になる前に必要な事項をしらべあげた。そしてヴァンダの部屋へもどってくると、彼女はまだ前の服装のままで長椅子にもたれかかって、白い手で美しい苦悶の顔をおおっていた。赤い髪はライオンのたてがみのように荒々しくもつれていた。
「あのお方の名前は?」
「アレキシス、ババドボリスといいます」
「ギリシャ人ね?」
「そうです」
「お年は、若いわね?」
「あなたと、どっちつかずくらいでしょう。パリで教育をうけて、無神論者だということです。カンディアでは回教徒と戦い、黒人種にたいする憎悪と残酷と勇敢さで名をあらわしたといわれています」
「つまり立派な男性だということね!」
彼女は火花のほとばしるような目つきで叫んだ。
「現在はフィレンツェに住んでおります。非常なお金持ちだそうで・・・・」
「そんなことを聞いてやしないわ!」
彼女は鋭くわたしの言葉をさえぎって、
「あの方は危険な男だわ。おまえは怖くないの?わたしは怖いわ。奥様があるのかしら?」
「ございません」
「愛人は?」
「ありません」
「どこの劇場へ行くのかしら?」
「今度はニコリニ劇場だそうです。あそこでは、ヴァージニア、マリニとサルヴィニが出演しております。彼らは、ヨーロッパでも現在の役者のうちで、最大級の役者たちです」
「座席をとってちょだい。急いで!」
「でも、ご主人さま・・・・」
「ムチの味が恋しいというの?」
彼女はきらりと目を光らせた。
その夜彼女は、若い波紋模様の服を着、むき出しの肩あたりに大きな貂の毛皮の外套をひっかけて、座席にでんとおさまった。あの美青年は反対側の席についていた。
二人は互いに目で相手をむさぼるように見入っていた。舞台のうえの演技などは、二人の眼中にはなかった。わたしの眼中にも、あるのは彼女と彼との行動だけであった。
次回
『毛皮を着たヴィーナス』ライオン