第十六回から第二十回まで超意訳:南総里見八犬伝をお届けしました。
犬塚信乃編、もしくは犬塚親子編といった感じでした。
今回も謎、というか気になったことを書いてみます、どうかおつきあいのほど、よろしくお願いいたします。
①手束ちゃんは武道の達人かもしれない件
第十六回、包丁を奪って悪僧の蚊牛法師を倒した犬塚番作は、悪の手先だと勘違いをして、健気な手束ちゃんを殺そうとします。
言い訳を聞かずに、これも酷い話ですね。
番作さんさあ、ちょっと短絡過ぎませんかねえ。
まあ、文を見て身の上話を聞いて、態度を改めて、今度は結婚を前提としたおつきあいになった訳ですが、手束ちゃんもまんざらではなさそうで、訳してて、何なのこの馬鹿ップル!とか思ってました(笑)
それはそうとそれが本題ではなく、この時刀ではなく菜切り包丁ですが、手束ちゃんは攻撃をかわすのです。
こんな風に。
打ち閃かす菜切り包丁の光を婦人は飛び退いた。
賊を許そうとしない怒りの切っ先は、どこまでも付き回した。刃先に対して楯のないなよ竹が雪に折れようとする様子で、右手を伸ばし、左手を衝き、片膝立てて身を反らして、後ろ様に逃げ回る。
大塚番作は逃すまいと打てば開き、払えば沈み、立とうとすると頭上に閃く氷の刃を振り回す。
美濃は垂井の暴れん坊の攻撃をひたすらかわす手束ちゃん、さすがお父上の井丹三直秀さんの仕込みのせいか、回避しまくるのです。
ひょっとして武芸の達人ではなかったでしょうか。
ここ以外、彼女にはアクションシーンはないんですが。
②竹刀はいつできた
第十七回、9歳になった信乃は剣を学びます。そしてこう書かれています。
母の視界から隠れては竹刀を手に取らない日はなく
……竹刀っていつできたんでしょう?
敬愛する故隆慶一郎さんは、柳生石舟斎だか柳生宗矩が道場稽古のために発明したと作品の中で書いておられて、私もそれを信じておりました。
で、調べました。
Wiki情報ですが、柳生新陰流ではなく新陰流の剣聖上泉信綱が考案されていると言われているそうです。
室町前半では、まだ竹刀は開発されていませんでした。
③二荒膳って何だ?
同じく第十七回、信乃の名づけを祝して飲み会を開きます。
それは良いのですが、手束ちゃんは【二荒膳】という料理をお客に振舞います。
里の子供たちを呼び集めて、盛り並べた飯は二荒膳だった。
二荒膳って何だろう?
原文読んでもまったく分かりません。
手束は隣き媼等を傭ひて、赤小豆飯に芝雑魚の羹よ膾といそがしく、目つらを掴み料理して、里の総角等を召聚會、盛ならべたる飯さへに、あからかしはの二荒膳、箸とりあぐる髫鬟等が、顔は隱るゝ親碗に、子の久後を壽きの饗応……
私の推理ですが、二荒は栃木県の二荒山神社ではないでしょうか。
http://www.futarasan.jp/
こちらでお祝いに出す様なお膳があって、それを振舞ったとか。
お魚出すので少しなまぐさですが、お祝いだし御愛嬌ということで(笑)
うーん、良く分かりません、本当に謎です。
ご存じの方がいらっしゃればご教示願います。
④猫に袋を被せた様に、ですと?
第十八回、こんな表現が出てきます。
猫の紀二郎が死んでしまう鬱な会です。
犯人の与四郎を差し出せという蟇六の召使いに対して、番作さんは屁理屈(笑)で追い返します。
言い返せなかった召使いたちは、
理屈を極めた犬塚番作の返答に、二人の召使いはかしこまる他はなかった。猫に袋を被せた様に、尻を高くして頭を下げ、後退りして出て行った。
猫に袋を被せるですと?
何てむごいことを馬琴翁は書いているのだ~と怒りに身が震えました(激怒)
猫に紙袋を被せるとどうなるのか?
後ろに下がるのです(笑)前には進めなくなります。
良い動画がありませんのでこちらのサイトを見て下さい。
https://nekojiten.com/wp/nekonikanbukuro/
【江戸時代からこの表現があった】ということが驚きです。
きっと勝手に袋の中に頭を入れてパニックになる猫の姿は、この頃も一般的だったのでしょうかね。
猫を飼っている方は試したらダメですよ!!
⑤3人の神童あれこれ
第十九回、中国の3人の神童として有名な人の名前が出てきます。
3人のうち、私は1人だけ知っていました。
勇気が弛まず世にも稀な孝子であり神童でもある。古人である秦の甘羅(かんら)、後漢の孔融、北宋の趙幼悟(ちょうようご)の才能にも負けず、今またこの子供、信乃も大したものである。
後漢の孔融です。
後年、曹操に歯向かって処刑されてしまう硬骨漢です。
映画レッドクリフではそこまで描写はありませんでしたが、彼が死刑を言い渡されるシーンはありました。
孔融は孔子の子孫で、若かりし頃から神童の名を欲しいままにしていました。
しかし後2人が分かりません。
どんな人でしょうか。
秦の甘羅
12歳で秦の相国である呂不韋に仕え、他国との外交で秦王政の覇業に寄与したとありました。
燕の国に行かせたい人がいるのですが、途中を通る趙の国で指名手配されているため行きたくないと言って使命を断るのです。
手立てがなくて困った呂不韋に、12歳の甘羅が、こう言うのです。
「僕が行って口説いてきます」
結果は無事行かせることとなりました。
ちょうど漫画のキングダムの時代の方ですかね。
ふむふむ。
では北宋の趙幼悟とは?
Wikiによると北宋の仁宗の八女だそうです。
珍しい、女性の方です。
んーと、慶暦3年12月10日(1044年1月18日)、幼悟は生まれた。慶暦4年12月12日(1045年1月8日)に出家し、保慈崇祐大師の道号を贈られた。
慶暦5年4月5日(1045年4月30日)、鄧国公主に封ぜられた。同月23日(5月18日)に還俗し、斉国長公主に進んだが、2日後(5月20日)に死去し、韓国公主の位を追贈された。
???
生まれて1年で出家した(させられた?)。
大師の称号を得た。
1歳で鄧国公主、公主は皇帝の娘ですからプリンセス、日本で言えば内親王。
その後、1歳とちょっとで還俗して、斉の国の長公主になった。長公主とは皇帝の娘の中で尊崇を受けた者が得る称号……しかし1歳で尊敬を受けちゃうものなのかしらん。
ま、凡人には分からない、そこが神童の神童の故たること。
しかし長公主称号をもらった2日後、死去ですって。わずか1歳です、南無~
本当に神童だったかはさておき、わずか1歳で死んでしまったことがお気の毒と言われているのかなと思ったりしました。
怨霊信仰でもあったのでしょうか。
⑥犬塚番作の凄絶すぎる生き様
改めて修羅の犬塚番作の人生を振り返ってみましょう。
1440年、15歳。武蔵国大塚村の住人、番作は父の匠作と共に結城合戦に結城方で参加。
1441年、16歳。結城城は落城。番作は父から宝剣村雨を託され、美濃垂井まで行く。
足利幼君兄弟が斬られ、父匠作は刑場で戦死。
別途乱入した番作は仇の牡蠣崎小二郎を倒し、2人の幼君と父の首の3つを持って暴れる。
闇の中、藪を抜けて脱出。
1日で東美濃の神坂峠に到着。
粘華庵で3人の首を埋め、悪僧蚊牛法師を倒し、運命の人、手束ちゃんと出会う。
信濃の筑摩に到着、湯治をするが、日ごろの不摂生と怪我、垂井からの強行軍のせいで歩行の自由がなくなる。
父匠作の一周忌が過ぎ、このころ実質的な夫婦になった。(かもしれない)
1444年、19歳。貯えがほとんどなくなる。
湯治場の噂で鎌倉府再興の話を聞き、故郷へ帰ることを決める。
足の具合が良くないため、3か月掛けて武蔵国に到着。
姉の不義理、婿を取って大塚の荘園を奪われたこと、大塚の名跡を失ったこと、村長の地位に就いていることなどを知り、姉夫婦との義絶を決意。
村人の好意で、よりによって姉夫婦近くの家を入手、わずかながらも生活できるだけの田畑も得る。
犬塚に姓を変更する。
番作は手習いの師範を始め、手束は綿を積み、衣服の縫物を子女に教え始める。
姉の亀篠、人望を得た番作に言い訳を行い、村を出る様に脅迫するも一蹴される。
以降、姉夫婦との冷戦始まる。
1454年、29歳。鎌倉公方足利成氏が鎌倉を出奔、古河に落ち延びる。
この10年間で男子を3人設けるも、赤子の時に亡くなってしまう。
1457年、32歳。手束、子宝を授かるために滝野川弁財天に参詣開始。
1459年、34歳。手束、参詣の時間を間違えるという痛恨のミス。
弁財天の帰り、子犬を拾う。後の与四郎。
同じく帰りに老犬に乗った神女に遭遇、投げられた珠を無くすというこれまた痛恨のミスを起こす。
1460年、35歳。信乃誕生。
名づけのお祝いの会。謎の二荒膳が振舞われる。
1463年、38歳、信乃は女物の服を着せられる。
1469年、44歳、信乃は女装のまま、犬に乗ったりして餓鬼大将になる。玉なしと陰口を叩かれることも。
手束、体調を崩し始める。
信乃、滝野川不動の滝に打たれ、失神。糠助に助けられる。
手束逝去。※1468年応仁二年十月下旬、享年四十三歳とあります。西暦は私が調べました。
信乃は1460年生まれで9歳になっているが、身体が大きく、女装をしている描写があります。
ここはカレンダーが合いません。
1470年、45歳、気力が衰え、歯が抜け、頭髪は真っ白になる。
農業や養蚕のことを書物に記し、村人に授ける。
犬の与四郎が亀篠夫婦の猫の紀二郎を噛み殺し、信乃と糠助の稚拙な策で与四郎は重傷を負う。
亀篠に騙された糠助が番作のもとを訪問し、村雨を手放す様に勧める、番作拒否するも糠助は譲らない。
番作、この日、宝刀村雨を信乃に譲り、自害を決意、実行。
凄まじ過ぎる人生です。
結城の戦いで死ねなかったということをどうも後悔している様子でした。
ところで犬塚番作は里見家と関りが無いんですよね。
一緒に先代、当代の里見家当主と結城合戦に参加したということくらいしかないんですよね。
手束ちゃんの享年が合わないのは、今初めて分かりました。
何か計算が間違ってるのかもしれません。
⑦黄檗宗と関帝廟の謎
堀越御所の荘園管理人、犬川衛二則任さんは子供荘之助の痣が心配で、里の黄檗宗の関帝廟に行っておみくじを引きます。
これも問題ありですね。
黄檗宗は中国唐代の禅僧黄檗和尚の名を取っていますが、黄檗宗自体は明の僧、隠元和尚が黄檗山で修業した後、日本にやって来て持ち込んでいます。
それは1655年明暦元年で江戸幕府が開府済み(´・ω・`)
時期が合いませぬ(笑)
で、関帝廟。
三国志蜀漢の武将、関羽を神様として祀っているのは皆様ご存じの通り。
横浜の関帝廟は1871年明治4年完成(!)
京都の萬福寺は黄檗宗大本山ですが上記の隠元和尚が1661年寛文元年開設、関帝廟はありません。
ただし華光菩薩像があって、関帝の姿に似ているそうです。
大阪の関帝廟のある清寿院は黄檗宗の寺院で、1764年明和元年開設。別名南京寺。
神戸の関帝廟は1939年昭和14年で、寺院は神戸空襲で焼失です。
長崎の関帝廟は崇福寺で黄檗宗、1629年寛永6年開設。
なので、その頃堀越御所近辺には黄檗宗も関帝廟もないのよ、犬川衛二さん(´・ω・`)
以上、またまたなぜなに八犬伝でした、でわ。