こうして犬塚番作夫婦は年来の悲願を成し遂げて、男児を出生した。産後は、母も子供も健やかで、産屋をしまうころになった。
「さて赤子の名前を何としようか」
と女房手束に語り掛けると、しばらく考え込んで、
「世間では子育ての経験のなきものは、男子であれば女児とし、女の子には男の子の名前を名づけて養い育てれば問題ないとする人も稀にいます。私たち夫婦は不幸せなことに、男児を三人産みましたが、皆赤子で亡くなってしまいました。この度もまた男児ですので、ひとしお心が弱くなって想像してしまうのです。この子が十五になるまで、女の子として育めば問題なく育つと思うのです。そんな風にお考えになって名づけて下さい」
と言うと、犬塚番作は微笑んで、
「人の生死は天命だから、人の力ではどうすることもできない、と言うが、名前が咎とならないだろうか。世の中の道理に合わない迷信みたいなことは信じられないことだが、お前の気晴らしになるのであれば、それに従うのも悪くはない」
しばらく考え込んでから、犬塚番作は続けた。
「古語に長いものをしの、と言う。和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)という辞書では、長竿をしのめと呼ばせている。今も穂の長いすすきをしのすすきと呼ぶ。長く繁ったのをすすきと呼んだのではないだろう。我が子の命を長くあれ、と祈り、言祝ぎの心で、名前を信乃(しの)と呼ぼうか」
更に犬塚番作は過去を思い出す。
「私は美濃路において不思議な縁でお前と名乗り合い、信濃路で夫婦となった。信乃と信濃は音も似ている。越鳥南枝に巣くい、胡馬(こば)北風にいななく、という言葉があるがその名の通り、皆、故郷は忘れがたいものだ。誰もがその始まりを忘れられない。もしこの子が出世することがあれば、信濃の守護にでもなれ、とまた言祝ぐことになるだろう。信乃という名前はどうだ」
そう真剣に問うと、手束はすぐさま、
「それはめでたい名前でございます。裕福な方々は、五十日も百日も産屋養いのお祝いの喜びにお酒を飲み騒ぐでしょう。せめてこの子の名づけに際して、竈の神様にお神酒を献上し、手習いの子と縫物の教え子に物を食べさせたく思います」
そう言うと犬塚番作もうなずき、
「それは良い考えだ、そうしよう、そうしよう」
手束は近所の老女らを雇って、赤飯や芝の魚市場で取れた雑魚の汁物やなますを忙しく料理した。
里の子供たちを呼び集めて、盛り並べた飯は二荒膳だった。箸を取る子供たちは顔を隠すほどの大きな碗に食らいついた。子供の行く末を願うもてなしに皆満足して、膝にこぼした飯を拾いもせず、立ち上がって喜んで帰って行く者もいる。人より先に草履を履こうと競い合って、腹いっぱいになって慌てて帰る者も多くいた。
それ以来、手束は信乃の衣装を女服にして、三四才のころになると、髪にかんざしを挿せた。
「信乃よ、信乃よ」
と呼べば、知らない者は、この稚児を女の子であると思うのである。
蟇六と亀篠はこの様を見たり、聞いたりする度に、手を叩いて嘲笑い、
「およそ人の親たる者、男児を儲けることを面目とする。それなのに武士の浪人が、女の子を願うとはどうなっている。結城合戦に逃げ遅れて、背中に傷を受けたことにひどく懲りて、戦というものを夢にも見せまいと思って、こうまでたわけたことをするつもりか。思っていたよりも痴れ者である」
と利口ぶって犬塚番作夫婦の悪口を言うが、相槌を打って同意する者はいなかった。
むしろ里の者たちは信乃を可愛がって、物を与えたり、代わる代わる抱いてやったりして、手束を手助けをしたりするので、蟇六夫婦は妬むしかなかった。また羨ましく思った。
淫婦に石女が多いという諺があるが、亀篠は四十になるまで子供が一人もいなかったので、夫婦で相談して、養女をひたすらに求めることにした。養女の仲立ちをする者がいて、こう言った。
武蔵国の練馬氏は豊島左衛門の一族である。練馬平左衛門という者がそれである。
その練馬の家臣の何某の娘が今年二歳になる。その娘は、父親が忌むべき四十二歳の時の二歳児だった。
男子の四十二歳は大厄とされ、父親がその年齢のときに二歳になる男児は、親を殺すといい、外に捨てて他人に拾ってもらう風習がある。
今回は女児であるけれども、生涯交流なしとの約束をして、永楽銭にして七貫文と一緒に筋目の良いところであれば、養女にしても良いというのだ。
二歳の女児は生まれつき目鼻立ちが可愛らしく、天然痘もこの春に軽く掛かっただけで疵のない玉の様な子だった。
昨年の春、正月の始めに生まれたので二歳の女児だが、乳母がいないと言っても、育てるのに難しくはない、養ってみてはどうか。
この様に勧められて、蟇六と亀篠は笑みを浮かべて、ともに小膝を思わず進め乗り気になった。最後まで聞くと、眼を見合わして、
「この厳しい世の中、養子代として永楽銭七貫文は安くはない。ただいまあなたが語ったお話、嘘偽りがないのであれば、元から望むもの。早くお話を進めて下さい」
蟇六と亀篠が揃って返答したので、仲立ちの男は了承して、忙しそうに出て行った。
こうして五六日が経ってから、養子の件をとりまとめた媒酌の男は、練馬の家臣の実親と蟇六の間に証文を取り交わし、例の七貫文と一緒に女児を大塚へ連れて来た。
亀篠は女児を抱きとめて、まずその顔を眺め、また指から足の裏まで女児が泣いても構わず伸ばして調べて、やがてからからと笑い出した。
「仏様の三十二相がどこかは分からないけれど、本当にこの娘は掘り出し物。この子を見てご覧なさい」
と蟇六を招くと、当の蟇六自身も自信が出てきて、
「良い子じゃの、泣くな。これをあげよう」
右手を袂に入れて取り出したのは、菓子の花紅葉である。二人を実の親ではないとまだ知らない幼児ではあるが、さすがに口に入れられては泣き止むしかなかった。
本当に頑迷な者はその偏屈さで自分の物と名づけをすれば、貪欲に愛に溺れて、他人の誹りを受けるものだ。まして蟇六と亀篠は、日頃から妬んでいる犬塚番作夫婦の鼻を折ろうと考えている。
養女を浜路(はまじ)と名づけて、過分なまでの綺羅を着飾らせ、あちこちへ遊山、寺社へ詣でさせ、下女に抱かせて下男に先払いをさせて出掛けていく。
四十を越した亀篠さえ、鎌倉様式の派手な衣服を着て、ひと月に何回も出て行くのだ。金銭を費やし、人から非難されるとも思わずに。
それだけではない、娘の髪を伸ばす儀式の時、帯をつける儀式の時、身分の十倍はあろうかというような美しく派手な服を着させて、若衆の肩に乗せて、あちこちの神社詣でにかこつけて、多くの人に見せびらかす様な真似をした。阿諛追従をして言葉巧みに浜路を誉める者には、家中の飴などを惜し気もなく、すべてあげてしまう。文字通り、甘い親というしかなかった。
こうして浜路が育ち思慮分別がつく様になってから、詩歌管弦の師匠をつけてやり朝から夕まで囃したてた。蟇六と亀篠は舞い上って、周りを憚ろうともしなかった。すべてその様にして育てられたので、生まれ持った顔の愛らしさも人並み以上であったので、鳶が鷹を産んだではなく、鳶のところに鷹の子がいると、それを聞く二親は微笑んですらいた。
それは女児を誉めてはいるが、実は蟇六亀篠への陰口なのである。二人はそれには気づかず、
「位が高く、富豪で、世の中に勢いのある婿ならばいいが、それ以外は無理だなあ」
などと誇るのであった。
それはさておき、犬塚番作の一子である信乃は、早くも九歳になったが、身体も大きくなり力強くもあった。よその普通の十一二歳になる子供よりも身の丈が高いのに、今でも女の服を着させられてはいるが、子供用の小さな弓や凧揚げ、石を投げる印字打ち、竹馬など荒っぽく武芸めいたすべての遊びを好むのだった。
従って犬塚番作もますます可愛がり、朝は里の子供たちとともに手習いをさせ、夕方には儒学の本や軍記の読みを行い、ある時には試しに剣術や柔術を教えた。元から信乃は好む様で、教える父親すら時々舌を巻くほどに上達していき、将来が頼もしく思われた。
父親から武道と読書きを仕込まれ、母手束からは我が子の賢さと自然と尽くす親孝行の振舞いについて学び、親はともかく他人まで褒める様になっていた。
正に文の道、武のたしなみ、年齢には早熟しており、その器量に計ると、もしかしてこの子もまた短命なのではないかと手束は信乃を思うと、心配になった。
夫を諫め、子供に言い聞かせ、
「習って学ぶことは悪くはないけれど、ほどほどにしなさい」
と言う。
しかし信乃の性格は世の中の子供とは違って、母の視界から隠れては竹刀を手に取らない日はなく、馬にさえ乗りたいと願うものの、田舎には小荷駄用を運ぶ馬はあるが、騎馬用の借馬などというものはなかった。
信乃が生まれる前の話だが、手束が滝野川の岩屋詣での帰りに連れて帰ってきた犬の子は、信乃の成長とともに大きくなって、今年すでに十歳である。
この犬は背中が墨より黒く、腹と四足は雪より白い。馬で言う四つ白なので、その名を四白(よしろ)とも与四郎(よしろう)とも呼んだ。信乃に良く懐いて、叩かれても怒ることなく、信乃の命令にもよく従うのである。
信乃は与四郎に縄と手綱を掛けて乗ることもあった。犬は主人の心に従って、足を速めてその辺りを走り回った。誰も教えていないのに乗り方が手綱さばきの基本に適っているので、見る者は思わず立ち止まって、犬への騎乗と信乃の姿の差に腹を抱えて笑う者もいた。反対にこの童子、この娘姿の者の技に、ただものではないと称賛する者もかなりいた。身分の高い者ではないので、本物かどうか見分けることはなかなかできないだろう。
女の子の服装を着ているのに、犬に乗ったりまた武芸をしたりするので、里の子供たちは、信乃を指さし、嘲って、「玉なし」と囃したてたりした。
それでも信乃は悪口をものともせず、
「奴らは土民の子。遊び相手になる者でもなく、議論は無用」
とみずから避けて、一度も争わなかった。それでも時には考えた。自分はなぜ独り、
「世の中の子供と違って、女児の服だけを着させられるのはどうしてだろう」
不思議には思うものの、わざわざ親には聞かなかった。赤子のころから着慣れた女の服であったので、恥ずかしいと思うことはなかった。
【思いやりのある人はなかなかいないが、犬の主人を知る】
犬に跨る信乃。近所の人は可愛がっているのかしら。
扉越しに亀篠と浜路ちゃんがいます。
今年の秋のころから手束の具合が悪くなった。病の床に伏せたが、鍼灸や薬の効き目もなく、冬の始めになってからは、日に日に弱るばかりである。犬塚番作はますます心配になり、夜も安眠できなくなっていた。
信乃はまた毎朝医者の元へ行き、薬湯を勧め、腰をさすり、いろいろな話をして、母の日常を慰め続けた。母は思わず涙を眼に溜めて、逆に信乃の憂いのやるかたなしを見て、胸がふさがる思いがするのだった。泣き顔を隠すこともなく、みぞおちを撫でてつかえを紛らわした。
親子が双方に思い合うこと、口にはしない孝行と慈愛の心を思いやられるのである。
ある日の早朝、信乃が薬を取りに行くため忙しく出て行った後、犬塚番作は、妻の枕もとで小鍋で粥の塩加減を見ていた。半分開いた扇で風を送り、鍋の火を起こしていると、手束はわずかに頭を起こして、
「いつもと違って、我が夫に煮炊き、水汲みしていただき、竈働きしていただくこと、心苦しいことでございます。それだけではなく、十にもならない信乃がこのごろおとなしく親に仕えて、夜もあまり眠りません。ここまで頼もしい夫と我が子の介抱を受けても、私は死出の旅へ参る様です。そもそも私のこの病気は理由があるのでございます」
手束は少し身を起こした。
「元から信乃は神仏に祈って授かった子ですので、様々な奇瑞がございました。こうして生まれた一人っ子ですが、年齢よりも賢く、返って親の私の方が恥ずかしく思うことがあります。幼児で亡くした兄たちの様にもし短命だったら、と心配したのは昨日や今日のことではありません。信乃が因果応報を逃れられずに大人になれないのであれば、この母が命を換えさせて下さいと滝野川の岩屋殿の神に仏に日頃から願っていました。願いはかない、信乃は赤子のころから泣くこともほとんどなく、風邪も引きませんでした。天然痘除けのおまじないの疱瘡の神送りや追儺の式の童の役をしても、男児には怪我が付き物と言われる七歳の峠を何とか越えさせました。今年は私があの世に行けば、我が子の行く末は念願成就いたします。換われる命は惜しくはございません。ただ悲しいのは死に別れることでございます」
頬を涙が伝った。
「可愛い子には母がなくても、父親さえ世にいれば光がございます。決して暗く育つことはないでしょう。もう長くもないこの世と思えば、お金を費やしてまで薬を口にするのはもう無駄なことです、私のことなどどうか打ち捨てて下さい」
そう言いながら更に涙があふれた。呼吸も細くなる覚悟の言の葉が脆いのは、袖に着いた涙のためでもあり、弱り切った秋の蝶の片方の羽がもがれた様なものである。
犬塚番作は何度もため息を吐き、
「変なことを言うものではない。我が子の命に換わろうとして換れるものであれば、世の中に子を失う親はいない。その様な迷いから病むのだ。いろいろ変なことを考えるより、薬を服用し、粥を啜って、気長く保養しなさい」
と理を尽くして妻を諭すのだった。
冬の日は短くて、早くも巳のころ(午前10時ごろ)になったが、いつもと違って信乃はなかなか帰ってこなかった。
「信乃は道草を食うことはしないはずだが、今日はどうしたのだろう」
子を思う親の心はなかなか落ち着かない。
犬塚番作は外に出てみようとして障子を開くと、縁側には思い掛けなくも薬の箱が置いてあった。不思議そうに紐を外して、蓋を開けば中には薬があった。
安心して頬に笑みを浮かべて、箱を持って中に入ると、
「手束よ、薬はここにあった。どうしたのか、信乃は帰って来て、気晴らしに外に出たのだろう。まだ子供っぽいところがあるなあ。お前の病気の始めから、仮にも自分のためには外に出掛けることはなかった。きっと何か面白いものを見掛けて、帰って来たことも言わずにまた出て行ったに違いない」
と言うと手束は少し落ち着いて、
「たまのことですから、必ずお叱りにならないで下さい。きっともうすぐ戻るでしょうから」
そう言いつつもその顔を見れば、信乃のことが気掛かりなのは明らかだ。
しかし未の刻(午後3時ごろ)を過ぎて、太陽の差す影が斜めになるころになっても、待てども待てども信乃は帰ってこなかった。
「遊びに夢中になってはいても、腹が減れば飽きてしまうだろうに、何も食べずにどこにいる。しょうがない奴だ」
父がそう言えば、母も重い頭を何度か挙げて、外を心配そうに眺めようした。すると外から底に細い板を横に並べて打ちつけた草履の音がしたので、信乃の足音かと思えたが、家に入っては来ない。
まぎらわしい、信乃ではないのかしらと妻が繰り言を言うと、犬塚番作は立ち上がって外を窺い、座っては外を窺い、落ち着かない様子で待ちわびた。そしてため息を吐いて、
「この足が昔のままであれば、その辺りをひとっ走りに走って、必ず探して連れ帰るのに。日の短い小六月(陰暦の十月)、夕日を見ながら杖に頼ってどこまで行けるだろうか。しかし日が暮れてしまえばますます不便、せめて巣鴨辺りまで行ってみようか」
刀を腰に差して、竹杖をついて外出しようとした。
そこへ家の裏手の真向かいに住む百姓の糠助(ぬかすけ)という者が右手に一竿の釣り竿と一個の魚籠、左手には信乃を抱えてやって来た。今外へ出ようとする犬塚番作と顔を合わせて、かかと笑い、
「犬塚殿か。そこにおいでだったか。秋の稼ぎ働きも終わったので、骨休みに一日の暇をいただきましたので、今日は未明から浮かれ出て、神谷川に雑魚釣り三昧、滝野川まで帰ってくれば、こちらの息子殿が滝野川不動の滝に水垢離をされておりました」
糠助は意外なことを口にした。
「身体は冷え切っていて、息も絶え絶えの有様を見つけた時には、肝を潰してしまい、慌てふためいて外に出しました。そのまま寺に連れて行き、藁を燃やして火で暖め、薬を飲ませて、法師たちと看病すること半刻(1時間)ばかり、初めて気を取り戻しました。湯漬けをもらって食べさせてやり、話を聞けば、母上の病気回復を祈願して水垢離をしていたと言うのです。十にもならない童には類い稀なる見事な孝行っぷり、法師たちもすっかり感心して、童が求めてもいないのに病気平癒の護符や洗米を下さったのですよ」
糠助もどこか自慢気であった。
「滝野川の滝は寺からも遠くて、私以外の人は知らないと思います。本当に危ないところだったのです。ここまで賢い子を神も仏も見放さないでしょう。きっと母上のご快復、疑いございませんでしょうね。さあ、大切なお子様をお受け取り下さいませ。日も暮れましたので私も帰ります。病気の奥方には良くお休みいただいて下さい。もしご用があれば、裏口から竹法螺を鳴らしてお呼び下さい。坊ちゃん、明日は遊びにおいで。釣った魚を炙ってご馳走いたしますので」
と言いたいことだけを言って、糠助は犬塚番作の挨拶も聞かず、家の中にも入らずに帰ってしまった。
出典:国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」 (https://www.ndl.go.jp/landmarks/)
名所江戸百景 47 王子不動之瀧 歌川広重
いやこんな大きな滝?
10歳で水垢離で、凍えてしまいませんかーーー!!
仕方ないとばかりに犬塚番作は我が子の肩を杖にして、上がりかまちが山道の様に思えたが、どうにか越えて奥にいる手束に声を掛けた。
手束も大体のあらましを洩れなく聞いており、病苦を忘れて、我が子をそばに座らせた。
「信乃、良く考えなさい。親孝行を尽くすにもほどがあります。身を危険にさらしてまで怪我をしてしまったら、親の嘆き悲しみはどうなると思いますか。そうなっては孝が不孝になるのですよ。親を愛しく思う子のためには、祈らなくても神は守って下さいます。もう危ないことはしないで下さい」
と諭せば、信乃は涙ぐんだ。
「おっしゃること心に留めます。今朝医師の元に赴いてお薬をいただいて帰ってきたところ、父上と母上のお話を聞いてしまいました。信乃の命の長くあれ、ともったいなくも我が母は命を犠牲に神明へお祈りなさった結果、長い間病床に伏しなさっているというお話を立ち聞きしまして、思い切り悲しくなりました。泣き声を立てまいと涙で濡れた片袖を噛み締めて縁側におりましたが、母上の願望がかなうのであれば、私の願いもかなうに違いありません。それならば、この身を生贄にして母上のお命に換わろうと決心したのです」
信乃の眼に涙があふれた。
「持って帰ってきた薬はそこにそっと置いて、以前から母上が信心なさっている滝野川に走って行き、岩屋の神に願いを繰り返しました。同じく繰り返す滝の糸は、とても強くて私の身を打ちました。一旦は死んだのかもしれません。その後のことは知りません。しかし思い掛けず、糠助に妨げられて生きて帰ってきてしまいました。私の願いを神仏は受けて下さらなかったでしょう。悔しくて、悲しいのです」
信乃が眼を拭うと、手束も泣き出して、
「この世に子がいない親はいないけれども、今日死んだとしても私ほど幸せな者はいない。八九歳の幼い心で、賢くも親の身代わりになろうという祈った誠の心を、神仏が聞き届けなさったのでしょう。だからこそ滝つぼの藻屑とならずに、生きて帰ったのですよ」
手束は相変わらず涙を眼に湛えてはいたが、ほんの少しだけ元気になった様である。
「ここまで強い運命の我が子の将来が頼もしく、そして喜ばしくて、涙だけがあふれ落ちて、止めることができません。母があなたに換わろうと祈るのは、心が乱れてしまったからです。お祈りの効き目などあってはならないことですから、くれぐれも意味のない願いなどしてはなりません」
流す涙の合間に信乃を諭した。
ここまで犬塚番作は黙って何も言わずに母と子の話を聞いていたが、姿勢を正して口を開いた。
「信乃よ。見事な心掛けだ。この上ない母上への孝行がなければ、慈母の乱れて惑う心を導くことができただろうか。古代中国の周公旦は書経、尚書の金縢(きんとう)という書物の中では、周の国の成立後、病気の兄である武王こと姫発の身代わりになろうと神に祈ったそうだ。これは当時の人々の噂話かもしれないがな。やはり誠実な人であったのであろう」
とくとくと言い聞かせるのである。
「人の寿命というものは、我々人間がどうこうするものではない。もし忠臣や孝行な子供が毎度毎度身代わりになっていたら、君父の天命が尽きる時、誰が最後の弔いをするのか。誰もいなくなってしまうだろう。しかし身代わりになろうという気持ちは、至誠なのだ。遂に神仏のご加護があろうとも、人の命数はそうそう変わらないだろう」
信乃は顔を上げた。
「お前はまだ幼弱だが、その才智は大人にも勝るところがある。すでに道理を知る者だろう。これから父の言うことを良く聞きなさい」
と言い聞かせた後、祖父である大塚匠作の忠死の有様や結城落城の後、春王、安王の両若君の最期、また母の手束が子供を授かることを祈って、滝野川の社から帰る途中に神女を目の当たりにしたこと、神女から授けられた珠を受け取れなかったこと、犬の与四郎を連れて帰ってから幾ほどもなく身籠って信乃が生まれたことなどすべてをその夜は話すのだった。
犬塚番作は言葉に細かく注意を払って言った。
「吉事には良い前兆があり、凶事には妖しい災いがある。手束が子供を宿した時が来たので、必ず良い前兆を見たのだ。それは弁財天か、また山姫と呼ばれる妖怪などというものか。あるいは狐、貉の類いか。それが分からないから、お前を神が授けなさったと私は考えてはいたが、他人に言えば、愚人の夢物語と馬鹿にされて世の中の物笑いになるだけだ。ただ智と勇がある子になる、と心にだけ秘して、母にも今日まで口止めして、お前にも言わなかったのだ。今からはこのことすべてをわきまえていきなさい」
とすべてを丁寧に説明して語った。
信乃は耳をそばだてて、いろいろな話を聞くごとに感激し、手束もしばらくの間病苦を忘れて、興味深く夫の話を聞き、思い出にも浸るのだった。
信乃は考えた。
我が母は、神女の授けた珠を受け取れずに、犬のみ連れて帰ったためか、自分は無事であると言うのに母自身は病気が多く、とうとう重体になってしまった。
例の珠さえ再び見つければ、母も回復するかもしれない。とにもかくにも珠をどうにかして見つけようとして思って、神仏に祈って望みを掛けるが、見たこともない珠が再び出て来る訳もなく、母の病は日に日に悪化していく。
そして十日あまり経ってから、今日を限りと思ったのか、手束は細かく遺言してから、1468年応仁二年十月下旬、享年四十三歳、朝霜が降りるとともに、眠る様に息を引き取った。
犬塚番作の嘆きはもちろん、信乃は地に伏して泣き、まるでうわの空である。紅涙は袖にあふれて、涙でむせ返り、ひどく取り乱した。
声を出さずにただ泣き続けているので、近在の里人が集まって、信乃を諫めて、あるいは励まして、更に犬塚番作に力を貸して後のことを相談した。
次の日の黄昏時、棺を持ち上げて、犬塚番作の母の墓の隣に手束を葬った。
この日も信乃は衣装を替えず、綿で面を隠し、他はすべて女児の格好で母の棺を見送った。
それを見る者は笑うことを我慢できない者もいて、葬送の列が行ってから帰ってくるまで、指を差して囁いて悪口を言ったりしていた。
逆に信乃はこの有様を見て、日頃の接し方はどうであろうと、悪口を言う人々に対し、自分を笑う愚か者である、と思ったが、顔色にも出さなかった。
母の中陰(四十九日)が終わってから、始めて父に葬送の日のことを言い、
「そもそも私は男子であるのに、どうして女児の格好をさせられていたのでしょう。私は嫌ではないのですが、親が悪口を言われるのが悔しくて仕方ありません。女児の格好の訳があるのであれば、どうか教えて下さい」
常とは違って怒気を含んだ声で問うと、犬塚番作は笑った。
「憤ることではない。では理由を教えてやろう。お前には兄が三人いたが、おしめをしている間に皆死んでしまった。だからお前を授かった時には、母はこの子も育たずにまた失ってしまうのではないかと心配したのだ。世の中の習わしに従って、女児にして育てれば無事に育つと言う。母の愚痴も惑いも解消できる証を得れれば良いのだが、ともかく私もそれに従って、また長く生きる様にと信乃と名づけた。これはちゃんと母上の許しを得ているぞ。道理には合わないかもしれんがな」
父は苦笑を交えた。
「昔も今も男児は十五歳まで女児に倣って額の上の髪を切り落とさず、袂の長い衣服を着て、紅裏さえ許されたと言うぞ。これも女児を倣うことの証なのだ。また櫛やかんざしも婦女だけではなく、冠を留めるためとか烏帽子の尻を高く見せるために昔は男子も差していた」
一転、真面目な顔になり、
「これを醜いとか言って笑う者は知らず知らずのうちに、そうだな、お前は古代中国の儵(しゅく)と忽(こつ)と渾沌の逸話を知っているか」
南海の帝が儵であり、北海の帝が忽であり、中央の帝が渾沌である。
儵と忽は一緒に渾沌の地で会った。
渾沌は二人を非常に良く接待した。
儵と忽は渾沌の誠意に対して報いようと相談した。
人は皆七つの穴(眼が二つ、鼻が二つ、耳が二つ、口が一つ)があって、視聴し、物を食べ、息をする。
しかし渾沌には穴が一つもない。
試みに穴を開けてみようとなった。
一日一つづつ穴を開けてみたら、七日目に渾沌は死んでしまった。
「この話と一緒だ。人はいつまで幼いのだろうか。お前も二八の十六歳になれば、正に一人の男子になるべきだ。お前を笑う者は何も知らない者なのだ。それを怒るのは知恵が足らない。放っておきなさい」
そう諭されて、信乃はたちまち理解した。そして何かにつけて亡き母親の慈愛がここまで深かったのかと改めて考えれば哀しくも懐かしく、泣き顔を隠しながら父のそばを離れるのだった。
(続く……かも)