馬鹿琴の独り言

独り言を綴ります。時にはお相手して下さい。

水間鉄道に乗って水間寺に行ってきました

2025-02-24 18:10:41 | 乗り鉄(眠り鉄)

2025年2月24日、水間鉄道に乗って水間寺に行ってきました。

こんなトコですよ。

11時42分南海電車天下茶屋駅を出発です。急行に乗って12時7分貝塚駅で下車。

ここで関西ローカル鉄道の水間鉄道に乗換えします。

大正時代に、水間観音への鉄道として運営されたものなのです。

12時15分発の水間鉄道が待っていてくれていました。

南海電車の貝塚駅に隣接しています。

何だか味がある駅舎ですね。

東急電鉄から車体を継承しているのですって。

これが水間鉄道すべての路線です。全部で10駅。

レトロチックな車内、おっともうすぐ出発です!!

 

たった15分で水間観音駅に到着。

反対側にはマクドナルド用にデコレーションされた車体。

水間町歩き案内図。山の向こうはほとんど和歌山県なのです。

金胡麻木うどんさんでお昼をいただきます。

 

金胡麻木うどん (水間観音/うどん)

★★★☆☆3.11 ■予算(昼):~¥999

食べログ

 

金胡麻木うどんとおにぎりで950円。

今日みたいな寒い日には温かいおうどんが染みます。

しかもこのうどん、愛知のきしめんより太いのです。一反木綿の様な太さ。

胡麻のおつゆも最高でした。美味しい~

水間駅なのか、水間観音駅なのか、どっちなんだい!?

実は、平成になってから水間観音駅に改称したそうです。

10分弱でお寺が見えてきましたよ。

天台宗別格本山水間寺です。

天平年間、聖武天皇の勅願で行基さんが開祖。

秀吉の紀州征伐で根来寺に組したため、兵乱で焼失、その後、江戸時代に岸和田藩の援助を受けて再建したんですって。

聖観世音菩薩像です。

天保年間に建立された三重塔。

大きな本堂です。寒いのですが何人もお参りに来ています。

お参りしてしまいました。厄除けをして下さると良いのですが。

大悲殿の御朱印をいただきましたぞ。

聖観世音が降臨されたそうですよ!!

行基が仙人こと龍神の導きを受けたそうです。

その滝がこちら。

見える、私にも見える、龍神が……すいません、綺麗な滝だけが見えました。

 

雪が酷くなってきましたので、引き上げます。

関西ローカル線の旅でした、でわ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

船上城に登ってきました

2025-02-23 21:45:03 | 城攻め

2025年2月23日、船上城に登ってきました。

ドコやねん、って感じでしょ、こんなトコやねん!

 

兵庫県の観光や旅行・グルメの魅力を紹介する公式観光ポータルサイト HYOGO!ナビ

兵庫県内の観光スポットをエリア、カテゴリー、ユニバーサル情報から検索可能。人気の名所から穴場スポットまで、あらゆる観光情報が揃っています。

兵庫県公式観光サイト HYOGO!ナビ

 

JR明石駅に12時半ごろ下車。

魚の棚で明石焼きと蛸飯をいただきます。写真はなし。

その後一駅だけ山陽電鉄に乗りますよ。

JR明石駅隣の山陽明石駅から。

出発する山陽電鉄。科特隊カラーかな(笑)

西新町で降りました。

船上町を取りあえず目指します。

歩いて20分くらい……

畑の真ん中に神社が。

もちろんこれ以上は入れませんのです。近づけません。

隣りの公園からも良く見えそうです、そちらに行ってます。

船上西公園からもっと接近しましょう。

おー詳しい地図です。

やっぱりこのお社が本丸跡みたいですが、私有地ですのでこれ以上は接近できません(´・ω・`)

 

うーん、帰りましょうか。

ちょっと待って、あの図面にある土塁と明石川沿いの出羽殿堤だけでも見学しましょう。

南側のお寺、密蔵院さんの向こうに土塁があるみたいです。

行ってみると野球場があって少年少女が練習中……その先が植樹した公園で更にその先が海なのです。

これは瀬戸内海の船を入港できる様にした水路と思われます。

明石川東側の岸はも整備されたようになっていました。

左側の岸はこんな感じ。

高くて降りられませんけれど(´・ω・`)

出羽殿堤は以上です。

続いて土塁に向ってみましょう、先ほどの野球場に戻ります。

この植樹された丘……?

これが土塁か?うーん、悩みますが、他に見るべきものもなく船上城を撤収します。

 

せっかく明石近辺まで来たので、八房の梅のある月照寺に行きましょう。

明石駅の先にある人丸前駅で下車。何か由緒がある駅名っぽいです。

あ!!

灯台!!

ではありません、明石市立天文科学館がこんな至近距離にあるのです。

そうです、子午線があるのです、日本の標準時がここにあるのです。

月照寺も都合良くここにあるのですよ。

後で時間があれば寄りましょう、天文館。

マンホールも子午線をアピールしてます。

日本標準時間が制定されてから100年経過しています。

明石天文台の前に月照寺に行かなくてはいけません、今は天文台をスルー。

私のナビは月照寺に行くためには柿本神社の前を通りなさい、この厳しい階段を上がりなさいと言ってきます。

人丸前駅の人丸とは、柿本人麻呂のことでしょうか。

息が……切れて……膝が……砕けてしまい……そう、ガクッ

何とか登り切りますと、人丸山の額を掲げた柿本神社が現れました。月照寺の前にお参りしちゃいますか。

ここにも八房の梅です。

真心を 神もよみして 武士の 祈りは結ぶ 八房の梅

と書いてありました。

赤穂浪士の一人、間瀬久太夫さんが仇討ち成功を祈って植えたとか何とか。

神社本殿。

盲人が桜の杖を持って、人丸の塚を見たいと願って祈ったところ、眼が治ったそうです。

桜の杖をそこに刺したところ、桜の木が根付いたんだとか。

神社由緒。

明石城主が1620年元和6年、歌聖柿本人麻呂を祀ったことに始まるのだそうです。

明石は人麻呂の歌が結構詠まれているそうで(検証はしてません)

御朱印を入手です。

子午線表示柱越しの天文館。

表示柱の上には赤いトンボがいますね。

柿本神社お隣にはお目当ての月照寺さん。

八房の梅はどうなってますでしょうか。

子午線沿いの大梵鐘です。

あらあ、梅はまだまだでしたか。

ちょっとだけ紅梅。

現在は三代目、そりゃそうですね。

可憐な紅梅でしたが、これから花の盛りになるのでは?

月照寺さんは法事の真っ最中でしたのでこれで引き上げます。

まだ14時半ですから、明石天文台を見学しましょうか。

ココ入口です、入場料は700円です。

いきなり14階の展望台までワープです。

先ほどの子午線標示柱を遥か上から見つけました。

真上にはやっぱりトンボです。

明石城まで見ることができます。2つの櫓が美しいのです。

左は明石海峡大橋、真正面は去年攻略した洲本城のある淡路島。

後は4回まで降りて、宇宙や時計の展示物を見学しつつ、プラネタリウムに行きます。

15時50分から約50分の天体ショウを見れるのです。

日本最古のプラネタリウム投影機。

1960年から稼働、カールツァイス社製だそうです。

明石の夜の星空、そしてオーロラの風景を見学して、久々に夜の空を堪能しました。

 

終わって外に出ると16時45分。明石駅までブラブラしましょうか。

長い石段を降りると、

柿本神社の鳥居でした。脇には亀の水という清水が湧いています。

真上から天文台タワーが見守っています。

触ってみましたが冷たくないんです。

そろそろ17時、明石駅まで歩いてみます、でわ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都探訪(北野天満宮、大覚寺)に行ってきました

2025-02-22 22:38:13 | 日記

2025年2月22日北野天満宮と大覚寺に行って来ました。

以前、北野天満宮に行ったお話はこちらどす。

 

京都探訪(北野天満宮、白峯神宮)に行ってきました - 馬鹿琴の独り言

2023年12月2日北野天満宮と白峰神宮に行ってきました。北野天満宮はここどすえ。遅く起きて遅く出発してしまいました。お昼ご飯は新福菜館のラーメン+焼き飯(小)セット1,...

goo blog

 

9時15分阪急梅田駅3番ホームに並びます。

9時30分快速特急雅洛に乗ります。

これこれ、雅洛が入線して来ました。

土日祝に1日4本、特別な特急なのです。

竹に障子の車内……?

車内に枯山水があるのです(笑)

ゴージャスな車体です、雅なんどすえ。

9時半間近になると車内はほぼ満員、結構な混み具合でした。

出発して40分ほど、烏丸駅で降りて京都市内バスに乗換えます。

そこから壬生、二条、千本丸太を越えて約20分、北野天満宮前で下車しました。

人がたくさんいますねえ。

久々の北野天満宮です。

まずはお参りしますね。今回の探索の成功を祈りました。

今回は何とか御朱印をいただけました。和魂洋才ではなく漢才。

晴れ渡る空……しかし雪が降っているのです。

可憐な白梅です。ほんの一部だけ咲いていました。

ちょっぴり蝋梅も。黄色で小さいのです。

前は入れなかった御土居。今日は梅園の見学で見れるんですって!!

中に入ってみます。

前回の復習です。洛内を取り囲む秀吉のお堀と土塁なのです。

ちょうど北野天満宮を守る様な感じ。

言ってみれば大きな空堀ですね。下には降りれないのです。

本殿側を望むことも可能なんです。

あ、ひよどりがいました!!

頭の形が特徴的で可愛らしいです。

紅梅も良い匂いでした。

お庭は咲き始めといったところなんですが、何といっても寒いです。

庭内のお茶屋さんで暖かいお茶とお菓子をいただき、おまけにお団子を食べました。花より団子なんどす。

前に刀剣展を見学した宝物殿をもう一度覗きに行きます。

脇差しの猫丸。

道真公愛用の短剣ですが、猫が通り掛かって真っ二つになってしまったそうです。

今日は猫の日でしたね、ニャンニャン。猫が可哀想でしたか。

こちらは巴形薙刀。

巴御前愛用の薙刀なんだそうですが、製作は1679年(笑)

名物のお餅が売られているので買いに行きます。

長五郎餅です。

アンコの入った羽二重餅です。

北野の大茶会で用いられて、秀吉が長五郎餅と命名したんですって。

そろそろお昼を食べに行きましょう。

北野天満宮前のおうどん屋さんのたわらやさんにしました。

 

たわらや (北野白梅町/うどん)

★★★☆☆3.46 ■創業200年以来の味 ■予算(昼):¥1,000~¥1,999

食べログ

 

雪が降る中並んで10分くらい、中に入って暖かいうどんを食しましょう。

ハーフうどん+ハーフ玉子丼で1,560円でした、温まりますよ~

 

次の目標、大覚寺に行きます。こんなトコどすえ。

北野天満宮からJR円町駅まで歩いて20分くらい。そこからJR嵯峨嵐山駅に向かいます。

左に行けばトロッコ嵯峨駅だったり嵐山に行くことができます。

右は大覚寺に行けますから、私はそっちどす。

相変わらず雪がチラつく中、JR嵯峨嵐山駅外観です。

歩いて15分ほどで見えてきました、大覚寺の入り口。

途中、六道の辻なんてものがあったりもするのどす。

嵯峨天皇が離宮を営んだところから、御所として名を馳せている訳ですね。

この門、テレビで良く見ませんか?

詳しい由来を記しているのです。

菊の御紋が見えますね。

玄関にあるのは狩野永徳の松に山鳥図、そして後宇多法皇ご使用の輿なんだとか( ゚Д゚)

右近の橘に、

左近のさく、えっ?梅?

何ででしょう、良く分かりませんでした(´・ω・`)

と思って家に帰って調べてみましたら、平安遷都直後は梅だったそうです。

大覚寺は古い形式を継承しているのです。

御所は村上天皇の御代に火災があって、桜に変わったと出ていました。ふーん、分からないものです。

寝殿の中をパシャリ。牡丹の間。

分かりにくいのですが、真ん中に蝉の形の飾りがあるのです。

柳松の間。

美しい襖絵です。鶴の間。非常に贅沢な造りでした。

村雨の廊下と呼ばれたところです。

直角に曲がるのを稲妻に例えているのだそうですよ。

貴人に危害が加えられない様に、屋根は低くて刀は抜きにくく、床はウグイス張りでキュッキュッと鳴ります。

大正年間に出来た建物で、法隆寺夢殿を模しているんだとかどす。

菊の紋章がドォーン!!

向うに見えるは勅使門ですどす。

大覚寺に隣接する大沢の池エリアに入りました。

昭和40年代に出来た心経宝塔。赤いのですどす。

鴨の大集会を池で行っていました。

名古曽(なこそ)の滝と呼ばれる超有名なスポットなんですが、私の腕が悪く滝が全然見えません。

大河ドラマ、光る君へで町田啓太さんが演じた藤原公任が、

滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

と百人一首にも取り上げられた歌を詠んだのですが……絶えちゃってる感じがするのどす。

行けの東側から大覚寺を望みます。

背後の山には嵯峨天皇陵があるはずなのどす。

約20分掛けて大沢池を一周しました。お寺に戻ります。

菊の紋がまばゆいのどす。

五大明王の御朱印をいただいて、バスで四条大宮駅に向かいます。

少し眠りながら。

 

阪急梅田駅まで戻ってきました。

19時前、たちまちカレーという駅構内のカレー屋さんに入ります。

 

たちまちカレー 阪急大阪梅田駅店 (大阪梅田(阪急)/カレー)

★★★☆☆3.36 ■予算(夜):~¥999

食べログ

 

 

私がいただいたのは牛タンカレー900円、もやしは無料の付け合せです。

牛タンがとろける様に美味しく、カレーもまたほど良い辛さでしたのどす。

しかも阪急電車が入って来るのを見つめながら、です。

 

梅はもうちょっとかな、という感じで寒い中でしたが、楽しく探訪できたので帰ります。

でわ。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌川国芳展 ―奇才絵師の魔力に行ってきました

2025-02-21 18:56:15 | 浮世絵

2024年2月21日歌川国芳展 ―奇才絵師の魔力に行ってきました。

前に古代メキシコ展を見た国立国際美術館のお隣の大阪中之島美術館です。

古代メキシコ展の探訪記はこちら。

 

古代メキシコ展を見てきました - 馬鹿琴の独り言

2024年4月21日、古代メキシコ展を見てきました。栗八さんの読み通りでした^^雨の降る中、JR新福島駅から中之島の国立国際美術館へ向かいます。強烈な赤。正義のシンボルコン...

goo blog

 

前にはあべのハルカス、和泉市久保惣記念美術館で安藤広重展を見てきましたが、今回は歌川国芳展です。

場所はこんなトコ。

前と同じJR新福島駅から参ります。

徒歩10分くらいで到着。

SHIP’S CAT (Muse)がお迎えしてくれます。

大航海時代の船の食糧を荒らすねずみ退治用のハンターの猫をモチーフにしたとか何とか。

楽しみですねえ、ワクワクです。1,700円の入場料でした。

一部撮影可でした、それでは参ります。

中に入ると結構な人がいるのです、金曜日の午後ですが凄いです。

風の谷のナウシカの巨神兵ならぬ巨大骸骨で有名な相馬の古内裏。

平将門の娘瀧夜叉姫が妖術で巨大な骸骨を召喚したところです。

坂田金時(公時)が金太郎という子供のころに大きな鯉を捕まえた図です。

怪童丸とは金太郎さんの別名なんですね。

それにしても鯉が大きすぎる件について(笑)

これは初めて見たのですが、忠臣蔵十一段目夜討之図。

この間私が行った吉良邸、じゃない高師直邸を襲うならず者塩冶浪士の集団の図。

西洋の絵画っぽい構図が斬新ですが、やはり国芳さんは西洋の書物を持っていた様で遠近法を会得したみたいです。

そっくりの構図のものがありました。

 

ファイル:Nieuhof - 1682 - Gedenkwaerdige zee en lantreize - UB Radboud Uni Nijmegen - 209698519 496 crd.jpg - Wikipedia

 

流行り猫の変化。

歌川国芳は無類の猫マニア、猫フェチです。

私などは、美人画よりも猫の擬人化の絵の方に見惚れてしまいましたよ(笑)

 

ざっと200枚の絵が飾ってありました。大阪ではもう2月24日に終わってしまうのですよ、残念。

お後がよろしいニャウで。家紋も肉球なんです。

私のお気に入りは、猫が袋を被る姿。

たとゑ尽(つくし)の内の一画です。

 

なぜなに八犬伝Ⅳ - 馬鹿琴の独り言

第十六回から第二十回まで超意訳:南総里見八犬伝をお届けしました。犬塚信乃編、もしくは犬塚親子編といった感じでした。今回も謎、というか気になったことを書いてみます...

goo blog

 

ここでも触れた通り、馬琴翁が猫を袋に被せる話を書いているのですが、歌川国芳は絵に描いておりました。

前に進めず、後ろに下がるんでしょうねえ。可愛過ぎます(*´▽`*)

 

倉敷にも国芳のギャラリーがあるそうですので、機会があれば見に行ってきます、でわ。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

超意訳:南総里見八犬伝【第二十二回 浜路、密かに親族を悼む/糠助、病んで信乃に会う】

2025-02-20 01:01:20 | 南総里見八犬伝

 もう一度述べるが、大塚蟇六は信乃を迎えて、亀篠とともに愛想良く歓待しているが、それはただ外聞を飾るのみであった。蟇六夫婦は実は心に刃を研いでいるのだ。
 例えば蟇六はすでに里人たちを欺いて、番作の田畑を横領している。少しも信乃のために使われることもない。
 しかしいまだ村雨の太刀を奪うことはできないでいた。

 村雨を手に入れてから、後にあの少年を片づけてしまおう。
 そして宝刀によって、我が家はますます繁栄するだろう、また浜路には良い婿でも娶せてしまえば、老いてもなお楽しいことばかりになるはずだ。
 しかし思うにつけても、信乃の面魂は世の中の普通の童と違い、早まってことを仕損じては、その様に人の過ちを暴こうとしているうちに自分の弱点をさらけ出してしまうことになり、元も子もない。
 ただ真剣にもてなして油断させる他はない、と腹の底で思案し、妻の亀篠だけに秘密を打ち明けて、計略を話すのだった。

 この様に信乃が危ないことは、石の下に産み落とされた卵の様に割れやすく、薪に巣篭る雛鳥が潰されやすいのと同じなのだ。しかし信乃には父番作の先見の遺訓がある。
 加えてその才気勇敢は牛若丸をも凌ぎ、楠木正行にも劣らないほどの稀有の少年なので、村長夫婦の心情を見抜いていた。片時も本心から心を許さず、元の家にいた時から伯母の家に移った時も、宝刀を腰から離さず、座る時には必ずそばに置き、寝る時には枕の近くに寄せて守ることについて油断をしなかったので、盗人の出番はまったくと言って良いほどなかった。
 信乃の様子は主にその様であったため、一年あまりが経過しても、奸智の得意な蟇六ではあったが、何もできないでいた。なまじ刀に手を掛けて見とがめられてしまうと、今まで費やしてきた手間も苦労も泡と消えてしまい、自分のためにならないと思うと危ぶんだのである。
 盗み出そうという心もやや収まったが、今年はこの様に考えた。

 村雨の刀を入手できたとしても、信乃が安穏とこの村にいれば、関東管領家に進呈することができない。
 今、自分の物にならないとしても、持ち主も刀自体もここにあるのだ。我が家にあるのであれば、最後には我が物となる。急ぐ急ぐと心が早まればこそ、計略は達成できず、すべて都合が上手く行かず危ない。
 娘の浜路はまだ幼いが、今から十年待つとしても遅くはない。長く考えれば利があり、短慮は上手くいかないはずだ、とようやく思い、亀篠にもそのことを納得させた。
 しばらくの間は盗む算段を諦めて、折りを見ては額蔵に信乃の意中を探らせようとしたが、これはまた何も得ることができなかった。額蔵は村長夫婦に尋ねられる度に、表向きには信乃の悪口を言うが、重要なことは何一つ言わなかった。額蔵は聞かれたこととその返事を密かに言わないので、信乃はますます油断をしなくなった。
 信乃は表向きにも伯母を慕う振りをして、召使いの様な扱われ方をされていた。

 こうして光陰は漠然として流れていき、春は明け、秋は暮れ、月日はよどむことなく過ぎていき、文明の年号も早や九年(1477年)になった。

 この年に信乃は十八歳、浜路は二つ年下の二八の十六歳の春を迎えた。
 二人は花が燃える様な盛りの美しさを迎えており、月を前にしても輝き、柳が緑を増して春霞の間にそよぐ様である。信乃は優れた才能のある若者であり、浜路は美しい少女になった。その器量も美貌もこの村では稀なほどである。
 この男にはこの女が相応しいと、里人は皆言い囃し、村長夫婦を見掛ける度に二人の婚姻を催促する始末である。蟇六も亀篠も以前からの思惑があったため、実はこの問いに迷惑していた。信乃への悪心が再発し、密かに信乃を何とかしようと何か手立てを考えるものの、十一二歳の時でも手強かったのに、今は美丈夫になってしまった。身長は五尺八九寸(180センチ弱)、力もきっと強くなってしまっているだろう。

 幼い二葉のころに摘んでしまえばよかったのに、とうとう斧を使わなければ切ることができない、などと言うのだ。早く殺してしまえばよかった、そうすればこんなことにはならなかったと悔しがるのだ。
 とほぞを噛んでも、その甲斐はなく、ああした方が良いか、こうした方が良いかと苦心して考えているところに、近隣で騒動が起こり、不慮の合戦が始まってしまった。

 合戦の原因は武蔵国豊島郡の領主に豊島勘解由左衛門尉(としまかげゆさえもんのじょう)、平信盛という武士である。
 大した大名ではないが、志村、十条、尾久、神宮(かにわ、神谷のことかも)など幾つかの郷の領主であり、その弟、練馬平左衛門倍盛は練馬の館にいた。他にも平塚、円塚(まるつか)の一族が大きく広がって、栄えた旧家でもある。
 信盛と倍盛の兄弟は当初は鎌倉の両管領に従っていたが、何かのことで恨むことがあって、遂には疎遠になってしまった。
 しかしこの頃、管領山内上杉家の老臣だった長尾判官平景春が越後と上野の両国を支配して、自立しようという野望を持っていた。豊島勢を仲間に引き入れると、信盛はすぐに同意し、管領に対して反旗を翻した。
 対して山内上杉家、扇谷上杉家の両管領は密かに軍議を重ねて、敵の勢いが小さいうちに先に豊島を討とうと考えた。1477年文明九年四月十三日、巨田備中介持資(おおたびっちゅうのすけもちすけ、太田道灌)、植杉刑部少輔(うえすぎぎょうぶしゅうゆう、上杉朝昌)、千葉介自胤(ちばのすけよりたね、千葉自胤)たちを大将にして、軍勢およそ一千余騎を集めて不意に池袋まで押し寄せてきた。
 豊島方は油断しており敵の出現に驚いたが、一族はすべて近くにいるためか、鎧を急いで着込んで、馬に乗って走り回ってあちこちから集まって来た。総大将を信盛の一陣は、練馬、平塚、円塚の軍勢は合わせて三百余騎で、江古田、池袋に向かい、鬨の声をどっと挙げて矢を放った。

【豊島の一族、管領家の三将と池袋で戦う】
練馬平左衛門倍盛
植杉刑部少輔
千葉介自胤

矢が降る雨の様に放たれております。

続いて練馬氏関連地図。

大塚とは本当に眼と鼻の先なんです。

 

 両軍は入り乱れて、槍を交わし、撃ちつ撃たれて、火花を散らして半日あまり戦った。豊島は小勢だったが、千葉勢、植杉勢を切り崩して、しきりに調子に乗ってしまった。不用意なことに腰兵糧を用意しなかったため、次第に飢えていった。
 撤退しようとすると、今度は寄せ手の大将である巨田備中介持資が軍配を振って味方を励まして、急激に攻め立てた。これには豊島方も辟易して、討ち取られる兵の数を知らない。千葉と植杉たちもこれに気を良くして、魚鱗の陣形で十文字に駆けて敵兵を散らし、息をつかせず揉み進んだ。
 豊島の士卒は算を乱してしまい、ことごとく切り伏せられ、あまつさえ信盛と倍盛兄弟も乱軍の中で討たれてしまった。
 哀れなことに豊島と練馬の二人の大将は、一時の恨みによって大勢も分からないままに、一族郎党すべて壊滅し旧家はたちまちのうちに滅んでしまった。

 これによって世間はしばらくの間騒がしく、巣鴨、大塚の里でも人々の心は穏やかではなかった。
 また蟇六と亀篠夫婦はこれ幸いとばかりに、この様子では子供たちの婚姻は今年は準備できない、明くる年に波風が治まったら必ず浜路を娶せて、信乃に村長職を譲ると里人に話して、まずはその場を切り抜けたのである。

 さて蟇六の養女浜路は、八九歳のころから両親の口から、
「信乃は夫になるのだ、お前は妻になるのだ」
 と言い囃したてられた言葉を本当のことと信じて、ものごころついたころから、信乃のことを恥ずかしくも喜ばしく思う様になった。それとはなしに信乃が話すことが何でも楽しくなり、心を込めて接する様になった。
 しかし蟇六と亀篠は、浜路に対して、実は養女であるということを告げることも知らせることもなく、実の子の様にしていたが、密かに言う者がいた。
 実の親は練馬の家臣の何某という者で、兄弟一族がいることを浜路がわずかに伝え聞いたのは、年齢十二三のころである。
「このことから考えると、今の両親は人様の前では私を愛してるかの様に見受けられるけれども、口と心には表裏がある。近くに人のいない時には小さいことでも罵って辱め、私が小さい時にはさすると見せかけてつねられることが良くあった。育てていただいた恩は決して浅くはないけれど、本当の親子ではないことほど、悲しいことはない」
 浜路はつらつらと考える。
「本当の親は練馬殿の家臣の何某という人。兄弟もいると言う。私に取っては兄か弟か、姉に当たる人か、それとも妹なのか、いるのかいないのか」
 それ以上のことを聞く手立てはなくて、義理の親には涙の袖を見せず、実の親を思う。故郷はたった三里(約12キロ)足らずの距離にあると聞く。しかし自分にとっては、清少納言が随筆に書いた通り、鞍馬寺のつづら折りの様に近くて遠いのだ。
 春になると収穫されて馬の背に乗ってやって来る土大根も、練馬のものが有名だ。練馬と聞けば何でも恋しくなり、思い掛けなくも憂いが増して、
「今年、練馬家は滅亡し、一族は豊島、平塚はもちろん、兵士までみんな討ち取られてしまった」
 と聞いた。
 浜路は哀しさやるせなく、
「きっと、私の本当の親兄弟も逃げることはできなかっただろう。母上はどうなさったのであろうか。戦場でも婦女子は助けられるとも聞く。身を寄せるところもないだろうに」
 浜路はまた嘆いた。
「納得できないのは、私の義父母たちだ。私に実の父母がいることをはっきりと言わなかった。赤子のころから養われた温情も愛情も無下にはできない。知らなかった時節はどうしようもない。実の親兄弟があることをわずかに聞き、名前も知ることができず、またその討死の跡も弔うことができないのは、この身一つに掛かる宿世の悪報なのでしょうか。私はいったいどうしたら良いの」

 浜路は泣き、袖の涙を乾かすことにかこつけて、泣き顔を他人を見られまいとした。直した化粧も、朝霜が解けて落ちる様にまた涙が流れていった。

 思案の果てに浜路はつくづくと考えた。
 心の憂いはしかたがないが、右を見ても左を見ても相談をする人がいなかった。
 私のためには犬塚様だけ、まだ婚姻こそしてはいないが、幼いころから両親の許しをいただいた夫になるべき男だ。
 その心ざまは甲斐甲斐しく、浮いたところはまったくなく、本当に頼もしい人と思っている。だからこそこの身の悩みをすべて告げて、その知恵をお借りしたい。本当の親の姓名も生死も分かれば実家が滅びてしまった後の菩提をも私が弔うことができるから、と考えた。

 どうやってそれを信乃に言おうか、と密かに余人がいない折りを窺っていると、ある日、信乃が部屋に籠って、独り机に肘を寄せて、訓閲集(きんえつしゅう)という軍学書を読んでいる。

【木枯らしは また吹かねとも 君見れば はつかしの森に 言の葉もなし 信天翁】
浜路
犬塚信乃

あ、信乃さんだ、話し掛けちゃおうっと的な浜路さん

 

 浜路は密かに喜んで、足音を消して近づき、話し掛けようとしたその瞬間、急いでこちらへ向かってくる者がいた。
 浜路は思わず、ああっと叫んで、走って行く。信乃はようやくそこで足音に気づき、顔を上げて、見たのは後からやって来た亀篠である。

 信乃は机を押しやって亀篠を迎え入れようとしたが、当の亀篠は障子を開けたまま中には入らず、走って逃げていく浜路の背中をいぶかしげに見送った。そして、
「信乃よ、お前も前から知っている通り、糠助おじさんが長い病気に患っていて、昨日今日は危篤で、薬湯も咽喉を通らない状態であると、近くの人から今聞きました。昔はお前の家の隣にいて、親しくしていました。息のあるうちにもうお前と一度会いたいと言っているそうです。お葬式のことか医者への薬代のことか分かりませんが」
 亀篠の言葉には思いやりがなかった。
「いずれにしても、貧乏人に優しくしても得にはならないでしょう。無益なことだと思いますが、放ってもおけずに伝えました。見舞いに行こうと思うなら早く行きなさい」
 と言われたので信乃は驚いて、
「それは不愉快なことです。前に安否を尋ねた時、そういう風に見えませんでした。年齢が六十路余りの人の流行り病であれば心配です。急いで行って戻って参ります」
 と返事をして、刀を持って立ち上がった。それを見た亀篠は納戸の方へ赴いていく。

 畢竟、つまるところ糠助は犬塚信乃に会って何を言い残そうと言うのか。
 それは次の巻で明らかになる。

(続く……かも)

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする