馬鹿琴の独り言

独り言を綴ります。時にはお相手して下さい。

超意訳:南総里見八犬伝【第十一回 仙翁、夢で冨山に栞を残す/堀内貞行、霊書を奉る】

2024-06-15 01:08:54 | 南総里見八犬伝

【再識】

 この編第二巻(第十四回)に至ると、伏姫のことは書き尽くしたことになる。
 第十回の題名は【禁を犯して、金碗孝徳、女性を失う/腹を裂いて伏姫、八犬士を走らす】、これは本当は第十三回のものであった。しかしそれ以前に出したのは、発端はまだ書き終わっていないのに、早く刊行してその内容を知らせるためである。従って、後の物語の挿絵も先に公開する。
 だいたい第七巻十四回を一つのまとめとしたかったのだが、出版社の都合でやむを得ない。毎編五巻を毎年発刊するつもりだ。
 簡単な挿絵だが第三集の巻で初めて登場する者がいる。
 それは軍木五倍二(ぬるでごばいじ)、網乾左文二郎(あぼしさもじろう)、土田土太郎(どたのどたろう)、交野加太郎(かたのかたろう)、板野井太郎(いたのいたろう)である。
 八犬士の身の上もまだ定かではないが、出版社からの催促が厳しい。そのために、下書きにもまだ至っておらずあらすじすらまだ決まっていないが、無心になってまず絵を注文し、後でその画に合わせる様に作り直しているところもあるが、大体はこの絵の通りで違いはない。
 これは私一人の考えですることであるが、ただ内容の清書、版木彫刻に間違いが多いのを訂正する手間もない。

 

悪役の軍木五倍二、亀篠(かめざさ)と犬塚番作、手束(たつか)夫妻。
夫婦喧嘩してるのかしら?

 

 

あれ?額蔵だ。奴隷って書いてありますね。幼児も抱いています。その正体は……後のお楽しみです。

駕籠の中身は犬塚信乃さん。

 

 

土田土太郎、交野加太郎、板野井太郎の河童三人衆。この辺りは名づけも適当な馬琴翁(笑)

網乾左文二郎は後で網乾左母二郎に改名(?)します。悪役さん。

左はマドンナ、浜路姉さん。印刷の具合なのかダークな衣装を着ています。

 

【第十一回 仙翁、夢で冨山に栞を残す/堀内貞行、霊書を奉る】


 里見治部少輔義実は、山下、麻呂、安西らの大敵を滅ぼして、麻の様に乱れていた安房四郡を良く治め、威風を上総のすべてにまで及ぼした。靡こうとする武士も多いので、鎌倉の両管領である山内顕定、扇谷定正も里見家を侮りがたく思うようになっていた。
 両管領は再び京に上奏して里見義実の官職を進めて、治部大輔とした。
 このころ1455年康正元年、鎌倉公方だった足利成氏が鎌倉から古河へ退去したため、山内上杉家の山内顕定、扇谷上杉家の扇谷定正の二人が関東管領になっている。

 この様にめでたいことが毎年続いたが、里見義実は昨年安西景連に攻められて、籠城と困窮の困難の折り、士卒の飢餓を救おうとして思いもかけない一言の失言をしてしまった。その結果、最愛の娘を犬の八房に伴わせ、一人と一匹は富山へ入り、その安否は絶えて分からなくなってしまった。
 里見義実は、世間の噂や人々の非難を忘れることもなく後悔していたが、さりとてその思いを顔にも出さなかった。

 富山の谷川に失踪して、配下の者はもちろん家族も会えなくなっているが、木こりや狩人が出会うことがあれば、親の私や五十子、弟の義成に出会うより恥ずかしいことであろう。
 と里見義実はそう考えて、先に国中に知らせた富山への入山禁止と入山した者への死刑のふれを徹底させた。

 またずっと心配の種だったのが、金碗大輔孝徳のことである。

 金碗大輔は安西景連に兵糧を借りようとして出発した。今はその行方は分からない。
 安西の計略に謀られて捕まってしまい、残念なことに命を落としたのだろうか。或いは討ち死にしたのかもしれない。
 功がありながら賞されることを辞退し、腹を切って亡くなった親の孝吉の最期に誓ったのだ。
 何とかして孝吉の子供を一城の主にして、婿としようと思っていたのに、事情が変わってしまった。思う様にはならないものが人の身の上、去年と今年も満ちては欠ける月は変わらないのに、人間だけが変わり果てていく。
 子供がどうなってしまうのか、と人に尋ねることではない、子の行く末に迷う親の常闇は、自分自身から照らす手立てもなく、独り物思いに耽るしかない。

 百万騎の敵を見ても物の数とはしない智仁勇を兼ね備えた大将里見義実ですら、今更手立もなく、この様に思いが屈してしまっている。奥方の五十子に至っては、その月その日の伏姫と別れた時の面影のみを追い続け、泣き暮らし、また泣き明かしていた。
 姫はつつがなくいるだろうか、帰って来る日がどうか来ます様に、と神仏に何度も祈る手のひらも指も細くなり、朝夕の箸を取るのも物憂げになり、食事の膳も進まなかった。
 そばで仕える侍女たちも皆、五十子様の願いがかないます様にと言うだけで、慰める手段が他にない。
「皆がそれぞれ心を鬼にして富山の奥に登れば、姫君の行方が分かるのでは」
 と密かに語り合い、洲崎神社の行者の石窟への代理参詣を、と理由を作って、富山に赴く者もいた。道もおぼつかないが伏姫を探すためである。
 その中には、探すつもりは満々ではあったが、山道の凄まじさにとうとう登れず、麓から帰る者もいた。数年来武家の家に仕えて、肝の座った者は案内人を雇って先に進んで、辛うじて山に入ったが、尼崎十郎輝武が押し流された川の向こうには行けなかった。山の案内人も恐れて、川を渡れなかったのである。

 元より川の向こうは常に霧が立ち込めており、水音もおどろおどろしく、視界も悪い。こちら側の岸の茨には花が咲いているのに、向うを見ると、針のむしろに座る思いで身の毛が立つ心地になり、引き返してしまうのである。
 伏姫を見つけることができずに、報告だけを五十子にすると、母君はまた聞けば聞くほど、懐かしき姫が受けているはずの艱難辛苦を思っては嘆いた。
 娘の苦しみはどの様なものか、独りで城で考えてみても、富山の川の霧が障壁となり思いもつかない。
「娘に逢えないのであれば、焦がれて思い悩むより、飛んで火にいる夏の虫の様に私は死んでしまいたい」
 と何度も繰り返しては咳も激しく、また泣くのだった。五十子はこんなことを繰り返し、遂に長く病気になり臥せることになる。

 医師は五十子を死なせまいと様々な治療を施したが、杏林の故事の様な成果はなかった。
 古代中国の董奉という医師が無償で患者を治療し、治療代の代わりに杏の木の苗を植えさせてそれが林となったことから、良医を杏林と呼ぶのである。

 また祈祷を行った修験者は神仏習合の札で邪を祓おうとしたが、枯れ木に花が咲く様なこともなかった。

 何日か経過して危篤になった時には、里見義実は病床に寄って五十子を見舞った。かしづいていた侍女らは、
「殿がお越しです」
 と言い、五十子は人の手に助けられてようやく身を起こしたが、言葉が見つからずにただ里見義実の顔をつくづくと見上げた。
 その顔は瞼が窪み、頬には涙の露の玉の緒がたくさん流れた跡があり、命が持ちそうもない様子に、里見義実も妻の顔を良く見つめて心の中で嘆くものの、優しく語り掛けた。
「今日の気分はどうか。四五日経てばようやく起きれるようになるでしょうと今、医者たちが申していた。何ごとにも心強く、気長に保養するのだぞ」
 と慰められても、手を膝に置いて首を振り、
「医者が何を申しても、ここまで瘦せてしまえば、帰れぬ旅に逝く水が生き永らえることはできそうもありません。病み患いの原因は何でしょうか、お考えになって下さいませ」
 五十子は絶望していた。
「もし蓬莱の不死の術、不老の薬があったとしても何になるでしょう。とにもかくにも現世の生きている間の思い出に、もはや逢うこともかなわない伏姫に、今一度逢えるのであれば、それは私にとって仙丹奇包、これに増す霊薬はないのでございます。こうお話すれば、浅はかなる女の愚痴や僻みとお𠮟りになって下さい。しかし国のため、親のため、身を犠牲にして飼犬に伴われつつ、足を引きずりながら山に入った姫の類いまれなる心構えを。類いまれなる因果のせいで姫を捨ててしまったと思うのであれば」
 強い決意で五十子は続けるのである。
「民には仁義の君であっても、子には不慈な親と申し上げる他ございません。憚りあることでございますが、言わせていただきます。国に誠を示すとしながら、我が娘を捨てるなど、富山も殿が治める安房四郡の中ではございませんか」
 息を整えて、五十子は力を振り絞った。
「なのに毎年毎月に姫の安否を尋ねさせ、みずからもお行きになってご覧になり、姫にもお姿をお見せになれば、互いに憂いも苦しみも慰める手立てになりましょう。それなのに、木こりや炭焼き、牛飼いの牧童にまで山に入ることを禁じたのはどうしてでしょう。たとえ由々しき魔界であったとしても、誠のことを言えば親と子ではありませんか。安房の領主であるご威徳を以って、今もなお姫が無事で富山の奥にいるのかどうか、お調べになるお気持ちがあるのならば、そう難しいことではございませんでしょう。これが今際の願いにございます。つれないことをなさいますな」
 と恨み言を言いつつ、詫びつつ、せわしく息も吐かない五十子に言われて、里見義実はじっと黙っていたが、ようやく頭をもたげた。
「五十子の言うことはもっともなことだ。ことの始まりは我が一言の過ちから子を捨て、恥を残したこと、お前と同じ、いやそれ以上に口惜しく思っているのだ。人は木石ではない、親子の愛、家族の愛の絆を断つことは難しく、執着する絆は決して解きやすくはないものなのだ。心の中の馬が狂うがまま煩悩の犬を追えば、天下の公道は荒れ果てて、それを侮り侵す者があれば、この国は再び乱れてしまうと私は恐れて、情を絶ち、欲を抑えて見ようとしなかった。山里に住む者らまでに富山に登るのを許さなかったのは、姫のために恥を覆い隠し、愛に溺れて法を曲げ、規則を守ろうとする私の心を民に分かってもらうためだったが、お前の嘆きはあまりにも不憫である。考えを巡らして、姫の安否を調べることにする。心安らかに思いなさい」
 と、とうとう里見義実は妻の願いを承服した。
「殿の頑ななお心が解けなさったか。病み患いをしなければ、こんなにありがたい仰せを聞くことはなかったでしょう。待つ間は辛いものでございます、それはいつごろになりますでしょうか」
 五十子に問われて、しばらくの間深く考えて、
「簡単なことではないが、お前のために急がせよう。遠からずして吉報があるだろう。頼りにしてその間は身体を自愛し、待っていなさい」
 と優しく返答した。
 里見義実がやがて外に出て、侍女らはそれを見送るのだった。

 この時、里見義実の嫡男、安房二郎義成は去年から真野に在城して、安西景連残党を討伐し、辺り一帯を治めていた。
 しかし母上が危篤と聞いた日から、老臣杉倉木曽介氏元に城を守らせて、自分は滝田にやって来て母を熱心に看病するのだった。
 親孝行の孝心があまりに立派なので、里見義実は夜更けに密かに義成を招いて、富山における姫の探索について、すべてを相談した。
「私は五十子を安心させるために、かりそめに承諾したが、尼崎輝武のこともあり、皆が恐れる山へ誰を遣わせて、姫に会わせようか。もし勇なる者がいて富山へ使いをしようとしても、ことを成し遂げられないのなら、我が里見家の威を落とし、もしかしたらその者は死ぬかもしれん、とにもかくにも難儀なことだが、そなたはどう思うか」
 と聞けば、里見義成は膝を進めて、
「私もこのことを侍女たちが話すので、早くから聞いておりました。絶えて久しい姉上の安否の分かれば幸いでございます、大変喜ばしいことですが、様々に配慮なさっており賢きお考えです。所詮、誰彼と選んで家臣に言いつけられるまでもございません」
 里見義成は自信ありげに話した。
「私には二人とない姉君のことにございますので、この義成、承って富山の奥に登りましょう。見つけるまで止めません。例え、例の犬に霊力があって、雲を起こし風を呼び人の心を惑わそうとも、妖は徳には勝てないでしょう。母のいつくしむ心と善なる心を盾にして、父の武徳を鎧にして、我が家に伝わる弓矢を携えれば、さまたげはまったくございません。ご命令下さい」
 と父に請うのである。
 早口で話し拳をさすりながら、すぐにでも飛んで行きそうな息子を、里見義実は手を挙げて制して首を振った。
「お前ごときを血気の勇というのだ。頭の良い者はことに臨んでは怖がって、策を好むと言わんぞ。父母がいる時には遠くで遊んだりはしない。まして危ない時にはなおさらだ。我が子もそうあって欲しい」
 父は息子の軽挙妄動をを叱った。
「お前は家の柱石であり、むやみに焦って過ちがあれば、我が家にとって大きな不孝になるだろう。しかしだからと言って、私もまた祟りを恐れて行かない訳ではないぞ。生涯会うまい、姿を見るまい、見まいと誓って、姫と別れてまだ二年にもならない。こちらから訪れようということは、神仏との約束を違える所業であるから、非常に心苦しいものがある。しかし今宵までに決めなければならない、ということではない。重ねて考えてみれば、何か良い手立ても見つかるだろう。このことを侍女たちにも言い聞かせて、よそに洩らさない様にするのだ」
 と諭して、里見義成の申し出を許さなかったので、御曹司はもう父に言うべき言葉もなく、畏まって退出した。

 里見義実はそのまま寝所に入ったが、なかなか寝られなかった。
 様々に考えているうちに、早くも明け方になったころ、行方も知らない里見義実の身は、いつしか富山の奥の谷川の岸に佇んでいた。
 そして背後から年齢は八十余り、もしかすれば百歳に近いと思われる独りの翁が現れて、こう言った。
「この山の深くにお入りになるのであれば、ご案内いたしましょう。この川は渡るのが難しく、右手の方に木こりだけが通る一筋の細道があります。去年から入山が禁止されてしまったので、茨や棘が繁茂してしまい、道がどこが見えなくなっています。私はすでに枝を折り、草を曲げて、目印の栞を作りましたので、そこからはお供しなくても迷われることもありません。最後まで進めばお望みを遂げられるでしょう。あちらへお進みなされ」
 と指差しして教えた。
 不思議なことと思って、里見義実は翁に名を問おうとしたが、そこで眼が覚めてしまった。

 これは華胥国の夢といって、古代中国の伝説上の天子である黄帝はある日夢を見て、華胥国へ行ったところそこは理想郷であり、眼が覚めた黄帝はそこに習って自分の国を治めたという故事だが、それと同じであると思った。
 そう考えながらもあまりに夢に頼るのもいけないと思い、心には深く留めなかった。
 翌朝も民の訴訟ごとを聞いて決裁し、ようやく私室に入ると、漏刻は未の刻(午後1時から3時ごろ)に近かった。 

 そこへ一人の近臣がやって来て、うやうやしく額を着いて、
「堀内蔵人貞行殿、お召しに応じて東條城から参上されました」
 と言う。
 それを聞いた里見義実は眉を寄せて、首を捻った。
「堀内貞行を呼んだ覚えがないが、五十子の病気を伝え聞いてみずから来たのかもしれん。それはともかく、私も聞きたいことがある。良い機会だ、すぐに呼ぶが良い」
 と近臣を急がせた。そして人払いを行い、喜んで堀内貞行の訪問を待った。

【馬を飛ばして堀内貞行、滝田に赴く】

 

 

堀内貞行さん、まだお若い感じですね。いつもご苦労様です。

 

 堀内貞行は長い間東條に在城しており、民衆を撫育する心が篤く、長狭一郡を穏やかに治めていた。一日に何度も自分の言動を反省するという論語の教えを守って、自分を厳しく律していた。
 万事任務に忙しくしており、去年から滝田には久しくしていた。思いがけず顔を見れることに、里見義実は喜び、近くに寄る様に命じた。
「蔵人、変わりはないか。お主を東條の城代を守る様に命じてから、悪い話を聞かないでいる。その真心の忠義のいたすところ、これに増す喜びはない。今回の参上は五十子の病が重いと聞いて、見舞いに来てくれたのか」
 と問えば、堀内貞行はようやく頭を挙げ、
「お言葉ではございますが、先に君命をいただいた日から、東條城を守ることが私の職分でございます。仮に見参を乞い願いましても、お許しをいただかずに参る訳もございません。火急のお召しがございましたので、とりあえずただいま到着した訳でございます。それなのにお召しになっていないとは、お戯れでございますか」
 と不審そうに言う。
「おい蔵人、このところ心配ごとが多いのだ。何が楽しくてお前をはるばる呼ばねばならないのか。まず何者が私の命と伝えたのか。証人はいるのか、訳が分からんぞ」
 里見義実が怒った様に言えば、堀内貞行も理解できないでいたが、別段騒ぐことはなく、
「お言葉を返すようで恐縮ですが、一言申し上げたきことがございます。昨日、年寄りの下男が殿のお使いであると申し上げて、東條城へやって参りました。会ってみますと顔に見覚えがございません。不思議に思いながらも謹んで君命を承りますと、お使いの下男は私にこう言いました」
 淡々と話すのである。
「この度、奥方様の願いにより、殿がみずから富山に赴き、伏姫様の元に参ろうと、用意をしておられます。しかし公ではなく、お忍びの狩猟として参られる予定です。富山は厳しい高嶺であるから、非常の備えが必要です。しかし従者をたくさん連れて行くのは不都合です。よって今回のお供には殿は堀内貞行を、つまり私を、とお思いになって、滝田に行くことを命じられました、そう話すのです」
 里見義実はうなづくしかなかった。
「年寄りの下男はこう申しました。自分はこのところ洲崎の岩屋の近くに住む名もなき下男ですが、富山に詳しく、殿に道案内をせよと命をいただきました。更に、東條への使者も承って、年寄りながらも走ってきました。そして殿のご指示書をうやうやしく渡しましたので、拝見しました。拝見しますと」
「読むとどうであったのだ」
「拝見いたしますと、下男の翁が申し上げることと同じでございましたので、早速彼を滝田へ戻しました。私は馬に鞍を乗せて、従者が続くのを待たずに夜を徹して、道を急いで館に参りました。殿にお会いしてみれば」
 話が違っておりましたと言う。
「さてはあの下男こそ曲者と思いましたが、本物に見えるご指示書がここにございます。ご覧下さい」
 と懐から命令書を取り出し、里見義実に渡した。
 中身を開いて里見義実は、これは何ごとか、と堀内貞行に見せた。見せられた貞行も驚き、
「私が昨日見た文字はここに一つもなく、如是畜生発菩提心に変化しております。一体どうしたことでございましょう」
 主従は呆れて、半刻(約1時間)の間、途方に暮れるのだった。

 里見義実は如是畜生発菩提心の文字にふと気づいて、命令書を丸めて、
「蔵人、お前が申したことは、嘘偽りではない。不思議なことだ。この書を渡した下男の翁の年齢や面影がどうであったか、詳しく説明せよ」
 堀内貞行は面目もないといった表情で言った。
「例の翁は八十あまり、百歳にもなっているかもしれません。眉は長く、綿花を重ねている様にも見えます。歯は白く、瓢箪の種を並べている様に見えました。身体は痩せていましたが、健やかの様です。老いてはおりますが、意外と若いのです。眼光は人を射抜く様ですが、猛々しくはありません。世に言う道顔仙骨、世俗を超越した容貌はあの翁はしていました」
 里見義実も手を打ち、
「なるほど私の見た夢と同じ様な奇談だ。疑うべくもない。洲崎の岩屋に顕現された役行者の奇跡だ。始めから話そう」
 夫人五十子から頼まれた伏姫の安否の消息、また親思いの里見義成の孝心と勇気、思い悩んだ挙句見た夢に出て来た富山の奥で翁と会ったこと、すべてを話し、
「夢は身体の疲れに現れる。当てにはならないと思っていたが、ただいまお主が申した翁の面影が、私の夢に出て来た通りだった。それだけではなく、如是畜生発菩提心の八字をもって、過去と未来を示したことは、伏姫が幼った時多病でなかなか泣き止まなかったが、洲崎の岩屋の役行者のご利益で、健やかに成長したことだ。翁から会得した水晶の念珠には、仁義礼智忠信孝悌の八つの文字があった。難儀した籠城戦の後、我が一言の過ちで伏姫を八房に許してしまったあの日、例の八文字は消滅してしまい、いつしか如是畜生発菩提心に変わっていた。1442年嘉吉二年の夏の末、伏日、つまり最も暑い夏のころに生まれたので伏姫と名づけていたが、後に人にして犬に従うことになる、名詮自性、名がそのもの自体の本性を現したのだ」
 里見義実は過去を振り返った。
 逃げられない因果であるから、姫が身を捨てた原因は、親のため、国のため、仁義八行を世の人に失わせないためではあるが、苦節と義信の良い報いによって、如是畜生の文字に誘われ、遂に悟りの境地に達したのだと語った。
「あえて姫を止めず、望みに任せて、早や二年になったが、安否を問わず、聞こうともしなかった。木こりや狩り人らまで富山に入山を禁止をしたが、今、五十子の病が重く、妻の願いを黙って見過ごすことができず、姫の行方を調べようと思ったが難しいと思っていた」
 奥方のことになると、口調が重くなる。
「だが私の夢に見た翁の面影は、この書をお主に渡した者と少しも違わない、どうやら二人とも、神変不測の霊験で、この義実の疑惑を溶かし、富山の奥へ導こうとなさる役行者の顕現を疑ってはならない様だ。だから入山禁止の法度をやめて、伏姫に再会の時が来た。役行者の示現にお任せして、お主を連れて行こう」
 少しだけ心が晴れた様な顔になった。
「だがこのことは内密にしよう。人々は珍しく変わったものを好む。示現の霊応は誤ることがないので、私がもし姫に会えたなら、それを知った人々は、霊応などについて喋るだろうから鬼神の徳を乱すことになるだろう。あるいは富山を探し回って遂に伏姫に会えなければ、夢を信じて姫の面影を追い、幻の偽物を見て風を取ろうとする義実の愚かさを知らしめて、世の物笑いになるだろう。この度の従者はお主の他に十四五人にして、無口で真面目な者を選ぶとしよう。明日早く出よう、心構えと準備をせよ」
 と指示をすると、堀内貞行は深く感銘を受けて、何も反論しなかった。ただ、
「姫上が幼かったころ、役行者の霊験の話、あの水晶の数珠の話、私も大体存じておりました。今回の奇跡に符合する、とお思いなされたのは、ただただ我が殿の叡智でございます。しかしながら姫上の善と正しい道を守ろうという心がなければ、ここまでの奇跡は起きませんでしたでしょう。もし当てが外れてもご判断はきっと正しいことでしょう。ご出発のことお急ぎ下さい」
 と返答し、詰め所に下がった。

【霊書を感じて主従は疑いを解く】

 

 

義成さん、盗み聞きはあかんで。

手紙の中身は 如是畜生発菩提心。

 

 里見義実は決心を秘めて奥方の五十子にも言わず、ただ嫡男の義成にだけ打ち明けた。
 里見義成も感動して、父に代わって富山に行きたいと思ってはいたが、役行者の奇跡は自分には起きなかったので、諦めざるを得ない。特にこの日は母の五十子の具合が悪く、危篤になりそうだったので、滝田の城に留まることにした。
 せめて妻の命のあるうちに、と里見義実は気ぜわしく、夜明けを待ちわびてから、
「長狭郡富山の麓にある大山寺に詣でてくる」
 と家臣にお触れを出させて、未明から出発した。忍びでのことであるから、供の数は堀内蔵人貞行ら二十人にもならなかった。

 そして里見義実は、堀内貞行と二騎馬を並べて、ひたすら鞭を振るって、急いでその日のうちに富山に登った。どうにか尼崎が流された川まで来ると、岩の形状、木立の光景、すべてあの夜見た夢と違いがなかった。試しに茨と棘と分けて、道を求めて一町あまり(約100メートル)右の方へ入って行くと、果たして枝を曲げ、草を丸めた栞が夢の通りにあった。
 主従はその栞を見て、眼を合わせて、役行者の奇跡を信じる心が増し、勇んだ。ふと背後を見ると、堀内貞行だけがいた。他の徒歩の従者らが遥か後方に遠ざかっており、続く者はいなかったのである。しばらくすると、馬飼いがただ一人喘ぎながら登って追いついて来た。
 里見義実は馬飼いを見て、堀内貞行にこう言った。
「すでにこの霊験の栞さえあれば、他の者は従う必要はない。彼には馬を引いて麓まで帰らせて、我らを待つ様にさせよ」
 堀内貞行は馬飼いに命じて、あすなろの木に繋ぎ止めていた馬と麓まで降りる様にと、主人の命を伝えた。

 ここから先は主従また二人、栞を頼りに道を求めつつ、山蛭対策に笠を傾け、蔦や葛に足を取られない様に、互いに高く声を掛け合って、つづら折りの山道をどことも分からずに登り、降り、苦労しながら進むのだ。
 進んで行くと川上に至り、大きく繁った樹木の下の暗闇を抜ければ、とうとう川の向こうに出ることができた。

 

(続く……かも)

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なぜなに八犬伝Ⅱ

2024-05-31 01:01:03 | 南総里見八犬伝

第六回から第十回まで超意訳:南総里見八犬伝をお届けしました。
まだ八犬士は出ていませんが、もうすぐ登場の予定です。

再び小ネタ集です、気になったことを書いてみました。

①玉梓の言い分には一理あり
裁判の場で悪女玉梓は、検事兼裁判官の金碗孝吉にこう言っています。

「私は先君神余光弘様の本妻ではございません。(神余)光弘様が亡くなってからは、寄る辺なきこの身を山下様に思われて、深窓でお世話をいただいたのでございます。ずっと夢を見ているだけの囚われの身となったこと、過去の因果かもしれません。またお城勤めの初めから私事で政治を行い、忠臣を失わせた山下様に原因がある、というのは傍にいる方々の嫉妬であり、本当のことではございません」

「神余の殿の老臣、若党、禄高が高い方々もほとんどのお侍の方々が、神余にも山下にも二君にお仕えして、まったく恥とは思っておられません。金碗(孝吉)殿、あなた様におかれては、なまじご主君を凌ぐ器量をお持ちになったためか、ご主君の元を逐電、更に里見に従って、滝田のお城を落とされた。しかしうさぎの毛ほども、先君のおためにはなっておりません。皆様、おのおのご自身の利益のために山下様にお仕えし、従ったのです。男子ですらその有様ですのに、女子の身の上にはいろいろな見方がございます」

「どうして玉梓独りに無実の罪を着せて、憎い者となさろうとするのです。納得できない讒言です」

長々引用しましたが、どうです、一理あるとは思いませんか?

私は意外と玉梓の言い分が正しくないかと思ってしまったのです。
山下定包の出世に嫉妬した神余の家臣団が、山下排斥派と山下追従派に分かれて、内紛を起こした説も考えられますね。
権力を欲しいままにして贅沢の限りを尽くし、主君を罠にはめて殺害した山下定包は悪人ですが、愛妾の玉梓が糾弾されるべき点は検事の金碗孝吉の指摘通り恐らく以下の2つ。

・山下定包と密通した件
神余光弘存命中から、家臣と密通してしまったのはいただけません。
こちらは有罪。

・主君に讒言して賄賂をもらった相手の便宜を図り、有能な家臣を排した件
こちらは金碗孝吉が言っているだけで、他の例が無いのですよ。
いえ、第二回で文章の中では、以下の通り述べられていました。

 (神余)は数多くいる側室の中でも、玉梓という淫婦を寵愛した。領内の裁判ごとすら、玉梓に問う様になってしまった。
 玉梓に賄賂を使った者はたとえ罪があっても賞され、玉梓に媚びなければ功があっても用いられることはなくなった。これにより家中はひどく乱れて、良臣は退けられて去り、心の邪まな悪人が徐々に増えてくる様になった。

うーむ、地の文で、作者であり神でもある馬琴翁に言わしているので、事実なんでしょう、やっぱりGuilty!!

で判決なんですが、死刑(斬首)は重過ぎではありません?
こんな爆弾娘、故郷に帰らせてはまた事件になるのは必至ですので、尼僧にするとかはいかがでしょう。

は!!
私、玉梓の肩を持ってしまっていますね、これも彼女の術中かもしれません。

②金碗孝吉、濃萩ちゃんに酷過ぎな件について
金碗孝吉は神余家を出奔してから、上総の国天羽郡関村の一作爺さんのところに世話になります。
若き血潮が堪え切れず、こともあろうに一作爺さんの愛娘の濃萩ちゃんと結ばれてしまいます。
枕の数が重なるうちに、とありますから一晩の関係ではなく、恐らく何回も(;゚д゚)ゴクリ…

どっちからなんでしょうね、迫ったのは。
金碗孝吉と言いたいところですが、昔は貴人に娘を「提供」する話は良くありますから、意外と一作爺さんも噛んでいて、濃萩ちゃんをけしかけたのかもしれませんよ。
金碗孝吉が貴人がどうかは分かりませんが、神余の一族、一作爺さんは昔金碗家に仕えていたので、主筋ですからありえる話でしょう。
それとも農家で働く濃萩ちゃんの健康的なお色気に負けて、金碗孝吉が忍んで夜這いした、なんてのも考えられます。
まあどっちが手を出した、というのは二の次で、ここで論じたいのは、金碗孝吉の態度です。

「私は浅ましき所業をしてしまったと百回も千回も悔い、後悔が立ちませんので、人目を避けて濃萩には堕胎しろとは勧めました」
どこかのタレントの様な台詞ですぞ。馬琴翁のころからこんな輩がいたのですね。
酷過ぎませんかね、この対応は。

とうとう責任も取らずに手紙だけ残して諸国を流浪した金碗孝吉さんに対して、一作爺さんの台詞が泣かせるのです。

「(金碗孝吉は)妻も子もない旅の身の上、慰めようとした我が娘の濃萩は、淫乱奔放に似て、決してそうではありません。あなた様の氏素性は自分の故主、その子を宿し、娘は天晴れ果報者、良き婿を迎えたと、心の中では婆と一緒に喜んでおりました。しかし事情を知らない私はいろいろ考えている間に、あなた様は出て行ってしまい、帰らなかった。行方を探すこともできずに娘は、程なく臨月に産み落としたのは男の子でした。めでたいめでたいと祝う間もなく、濃萩は募るもの思いからか産後の肥立ちも悪く、とうとう十万億土のあの世に逝ってしまいました」

哀れなる濃萩ちゃん、実は濃萩も悪霊だったりして ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

③呪いを解かない役行者
役行者小角は、634年舒明天皇6年から701年大宝元年まで生きたと言われております。
前鬼後鬼を従えて、修験道に秀で、また奇跡を見せたそうです。
晩年65才の時に伊豆大島に流刑となったのは、本編第八回の通りです。
歩いて洲崎神社まで波涛を越えてやって来たかは知りませんが。

室町期まで生きていた(?)役行者らしき翁は、幼い伏姫の人相を観ます。
そして悪霊が呪詛をしているのを見抜き、アドバイスをしてから、八字の入った数珠を渡して去って行きます。

ちょぉ待てや!

「真に悪霊の祟りが憑りついておるわい。この子の不幸であるなあ。祓うのは決して難しいことではないが、禍福はあざなえる縄のごとし、災厄と幸福はより合わせた縄のように表裏一体であり、一時のそれに一喜一憂しても仕方がない」

仕方がない、じゃねえし。
祓うのは決して難しくないとか言ってきながら去って行くなよ!

ここで玉梓を祓っておけば、万々歳じゃないのでしょうかねえ(# ゚Д゚)
ははーん、本当は悪霊を祓えないんじゃないんですかねえ?

馬琴翁も「祓うのはなかなかに困難じゃ」とか言わせれば良かったのに、役行者の品格を落とせなかったのか、上記の台詞を言わせたのでしょうか。
でも呪いを解いたら物語は終わってしまうので、文字通り仕方がないのです。そう考えましょ。

④御曹司里見義成のアイデアはNG
第九回、不作の折、安西に攻められた里見勢は滝田城に籠城します。
約1週間、食べ物を口にしていない里見勢はぼろぼろ。1週間は長いなあ~

ここで里見の御曹司義成君16才は起死回生のアイデアを出すのです。
よ、御曹司!未来の殿様!!将来の安房国主様!!!


そのアイデアとは、

「大声の者を選んで、城の櫓に登って、寄手に対して安西景連の非道なる行い、盟約を破り、恩を仇として、不義の戦を起こした、というその罪を責めさせれば、安西の士卒もたちまち慚愧して、戦う心を失くすでしょう。その時こそ城から打って出て、ただ一揉みに」

え?それが計略?だ、大丈夫?
ねえ、義成君、それ本気?

結果的には、飢餓の極致を迎えた者は大声を出せませんでした。
しかも涙に暮れて、咳込むばかりとは可哀そうな結末でした。

同輩の武士にも、
「ほら、あいつ、声が出せなかったらしいよ」
「ああ、あいつな。あの後泣きまくってたわ」
とか囁かれたりして。

彼には安西景連討伐後に粥を食べてもらって、元気になってもらいたいものです。

にしても、里見義成の将としての器がちと心配になります。
バカ殿じゃなきゃ良いのですが。杉倉殿、堀内殿、補佐を頼みましたぞ。

⑤気になる八房の大きさ
第十回、八房は城を出た伏姫を背中に乗せます。
八房の大きさはどれくらいなんでしょうね。

そもそも伏姫は花も恥じらう17才。体重は……

明治33年で17才女子の平均体重は47.0キロ。

明治33年以降5か年ごと学校保健統計

5 明治33年以降5か年ごと学校保健統計:文部科学省

室町期ですので、もう少し削って45キロくらいと見繕いましょうか。

昔、名犬ジョリィなんてアニメがありました。

ピレネー犬はこんな感じ(笑)

 

グレートピレニーズ(ピレネー犬)なんて犬種は白く大きな犬で、主人公のセバスチャンを楽々と乗せています。
でもセバスチャンは7才の男の子……上の日本の統計でも明治33年で7才男子は20.0キロ、スペイン人の平均体重は見当たらず、まあ少し重くして22キロくらい?

一方グレートピレニーズは体高80センチ、体重は60キロが大きい方だそうですが、20キロの子供ならともかく17才女子の40数キロは厳しそう。

YAHOO知恵袋で同じ様に聞いている人がいましたのでご紹介。
人が乗れる犬なんているの?

 

 

人が乗れる犬なんているの? - そんな犬はいませんよ(;^_^A犬の背中に子供を乗せるのは、たとえ大型犬でも、細身で小柄なお母... - Yahoo!知恵袋

人が乗れる犬なんているの? そんな犬はいませんよ(;^_^A犬の背中に子供を乗せるのは、たとえ大型犬でも、細身で小柄なお母さんが、子供の相手でお馬さんをやってるような...

Yahoo!知恵袋

 

 

まして八房は日本の犬ですから、グレートピレネーズ並みの体格はないと思うのですよ。

玉梓の呪いと老狸に育てられた魔犬八房だからこそ、伏姫を乗せることができたのでしょう。そう思うことにしましょう。

⑥八房よどこへ行く?
第十回、伏姫を背中に乗せた八房は、るんるん気分で愛の逃避行に向かいます。


八房は滝田の城を出ると、急ぐ様に姫を背中に乗せて、安房の国府跡の方に向かって、飛ぶ鳥の様に速く走り出した。
どれくらい走ったのか、犬懸の里に至ると徒歩の者は遥か彼方にあり、尼崎輝武に従う者は、一人か二人になっていた。
いつのまにか明け方となり、富山の奥に入って来ていた。

コースはこうですね。
滝田城 → 安房国 → 犬懸の里 → 富山

地図を見て下さい。

安房国府の場所は今も分かっていないのですが、国分寺、国分尼寺の跡があり、その北側に今も府中という地名が残っていました。
ですからこのアバウトな地図が正しいとすると、滝田から南下して国分寺や国府跡に向かったことになるのです。

しかし行ったとは書いておらず、向かったけれど気を取り直して(笑)、また北上、今度は八房が生まれた誕生地の犬懸方面に着くのです。犬懸に至ったと書いてあります。
狼に殺されたお母さんにお嫁さんを紹介したのでしょうかね。


この辺り、実際には犬掛という地名があり、犬掛古戦場跡という里見家の内紛の跡地もあるんですよ。

その後はまた少し南下して、富山登山に向かうという訳です。

無駄なコースを取る八房さんですが、姫を乗せて錯乱気味だったのかもしれませんね。
滝田城を出て、犬懸に行ってから富山に向かうのが合理的ですが、距離と時間を稼ぐために、馬琴翁は八房を迷走させたのでしょうか。

⑦富山から七浦は見えるか?
第十回、富山は安房の国第一の高さの山であり、伊予ヶ岳と競い合っている。富山の頂きに登ると、那古、洲崎、七浦に波が寄るのさえ見えるという、と書いてあります。

那古、洲崎は内房側、七浦は外房側です。
またもや地図をご覧下さいな。

那古は見えそうですね。洲崎も遥か彼方の岬の先で見えそう。
七浦は……えーっ、こりゃ無理じゃありませんか?
反対側ですよ。
私はまだ富山に登ったことがありませんが、一番高いところで349メートル。
七浦なんて、無理無理。

と思いましたが、富山展望台のストリートビューを見てびっくり、吃驚、( ゚Д゚)
こちら富山展望台から見た七浦のある東南方面の光景。

©Googleさん

海見えてません?七浦は漁港ですので、ギリギリ見えるのかもしれませんよ。

馬琴翁、疑ってすいませんでした。

いつか富山に登ってみて確かめてきますね。

以上なぜなに八犬伝Ⅱでした、でわまた。

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超意訳:南総里見八犬伝【第十回 禁を犯して、金碗孝徳、女性を失う/腹を裂いて伏姫、八犬士を走らす】

2024-05-31 00:17:42 | 南総里見八犬伝

【第十回 禁を犯して、金碗孝徳、女性を失う/腹を裂いて伏姫、八犬士を走らす】

 里見義実の夫人五十子は、八房の異常事態を侍女から聞くと驚き、裾を掲げて急いで伏姫の部屋に駆けつけた。
 部屋に着いてみれば、侍女たちは戸口にいて、亭主の治部少輔殿が中にいる。どうやら娘の姫は無事の様だが、父娘が犬を交えて問答の最中だ。
 問答の言の葉を最後まで立ち聞き、さめざめと母は泣いた。
 それを知らずに侍女たちは部屋から出ていく犬を恐れて、思わず左右に開いた。隠れて泣いてもいられないので、中に走って入り、伏姫の隣に伏して声を洩らして泣いた。里見義実はみずからの罪を恥じて何も言えない。
 伏姫は母の背を何回も撫でて、
「お話をお聞きになりましたか。ご気分を悪くしないで下さい」
 と慰められて、母上は頭をもたげて涙を拭い、
「聞かれるまでもなく、悲しいに決まっている。伏姫よ、賢しいあなたは殿のお言葉に裏表があってはならず、賞罰の道は正しくあれと言う。なのにあなたは名を汚して、身を捨てようとする。それは父上には親孝行なのでしょう、情に反し、俗世に背けば誰がこれを褒めるのでしょうか。およそ生きとし生けるもの、両親のいないものはない。母が嘆かない訳がないでしょう」
 母の声が強くなった。
「しかし心は強いもの、幼い時は病気がちだったのに、母の苦労もようやくに、昔語りに思い出話にでもできようかと育ってくれた。更に月よ花よと美しくなってくれたのに、自分からその身を贄にするなど口惜しいとは思わぬのか。そうならそれは妖しい物の怪の執念であろう。眼を覚ましなさい、起きなさい。年来信奉してきた神のご加護も御仏のご利益もこの世にはないものか」
 と娘を泣きながら繰り返し諭す母の慈悲に、堪えきれず伏姫も涙を袖に押し包んだ。
「母上の言われる通り不孝の罪は重い、重いことこの上ないのでございます。親の嘆きも顧みず、この世を去りし後も犬の妻となったことで名を汚すことは悲しみますが、これも運命のいたすところ、逃れられぬ因果と思い定めております」
 伏姫は左手に掛けていた数珠を見せた。
「これをご覧下さいまし」
 数珠を右手に取って、
「私が幼かりし時、役行者の化身かと思われる不思議な翁が下さったもので、以来この身から放しておりません。この水晶の念珠には、玉に文字がありまして仁義礼智忠信孝悌と読むことができます。この文字は彫られたのではなく、また漆などで書かれたものでもありません。自然に出来ていて見ることができるのです。毎年毎日手に触れても、摩滅することはありません。安西景連が滅んだ時、良く見ると、仁義の八字がなくなって、異なる文字に変わっていました。このころから八房が私に懸想する様になりました。これもまた不思議の一つです。宿世に定まった因果応報か、と嘆くのは昨日今日だけではありません。死期を待たずに先に死んでしまいたい、と思ったのは何回となくございます。手に刃を取って、いいえ、この世で悪業を滅ぼせないのは、後の世に浮かぶよすがもございません。本当であれば、嵐の山に散る花の、身のなる果てを、神と親とに従うつもりでございましたのに、と浮世の秋を憂いながら思うのです」
 伏姫は母を見て寂しげに笑った。
「過去の因果応報をお知りになれば、お恨みも繰り言もたちまち晴れて消えてしまうかもしれません。今まで十七年あまり慈しみお育ていただいたことを仇にして無下にする私のことを、子を子とも思わず、前世の怨敵であるとお思い下さい。そしてどうか恩義を断ち、私はご勘当下さい。この身に受ける恥辱は、西方浄土の阿弥陀にお救いいただくのです。仏の御手の糸すすきの下にこの身を置いても、最後に悪業が消滅するのであれば、安心して果てることができるのです。ただ」
「ただ、とは」
 と母は問う。
「ただ願わしくは、どうかこれをご覧下さい」
 と差し出した数珠の上に涙をこぼして、いまだ百八の煩悩の迷いが解けない母君は、疑わし気に伏姫を見つめた。
「なぜ最初から私たちにすべてを話さなかったか。その数珠に現れた新しい文字はどのようなものであったのか」
 尋ねると今まで黙っていた里見義実が口を開いた。
「見せてごらん」
 と数珠を取って、何度も見てはため息を吐いた。
「五十子、覚悟を決めなさい。仁義礼智の文字は消えて、現れたのは」
 里見義実は、何かを悟っていた。

「現れたのは、如是畜生発菩提心の八字だ」
 里見義実は達観していた。
「仁義礼智忠信孝悌の八行五常は人にあるものだと思う。悟りを求めようという菩提心は、すべての人も獣も持っている。姫の因果も、今、八房という畜生に導かれて、菩提の道へ進むのであれば、来世では安堵できるであろう。真に貴賤と栄辱は人々それぞれの生き様の結果なのだ」
 妻と娘の肩に手を掛けた。
「姫が十五の春のころから、隣国の武士はもちろん、あちらこちらの大小名が己のために、或いは我が子のために、婚姻を求めてきた。数は覚えていないが、私は一切承知しなかった。今年は金碗大輔を東條の城主にして、伏姫に娶せてやろうと思っていたのだ。功がありながら賞を辞退して、自決した金碗孝吉に報いてやろうと考えていたのに、言葉を誤って八房に愛娘を許すのも因果応報なのだ。五十子よ、この義実を恨むが良い。ただこの数珠の文字を見て悟りなさい」
 と妻を慰めて、説いたが、袖で顔を覆い声を曇らせて泣くばかりである。伏姫の部屋は雨模様だった。

 名残惜しいことではあるが、伏姫は今宵城を出ようとその用意を始めた。
 しかし、
「生きてここに戻ろうとは思わない。ただこのままに」
 と言って、玉で飾ったかんざしを捨てて、白い小袖だけを重ね着て、如是畜生発菩提心の浮かんだ数珠を襟に掛け、法華経の経文と筆と紙の他には何も持とうとはしなかった。見送りの従者も固く固辞をするのだ。
 まだどこに行くかは分からないが、八房が行きたいと思うところへ、そして八房が留まったところこそ、自分の死に場所と思い定めた。
 そして、八房が滝田を今晩出発しないのであればともに命はない、として犬に言い聞かせた。

 時、もはや黄昏が近い。
 しかし母君の五十子は別れを惜しんで、出発しようとする姫を引き留め、ただ号泣していた。長年仕える侍女たちも伏して泣くばかりで、支度を手伝う者もいない。
 ようやく伏姫は気丈に振舞って、母君を慰めて別れを告げることができた。そして侍女たちに見送られて、外に出た。日はもう暮れていて、庭の樹木の間から洩れる月の光は明るかった。
 すでに八房は縁側の下にいた。姫君が出てくるのを先ほどからおとなしく待っていたのだ。
 その時、伏姫は犬の近くに寄って、
「八房か、お前に申したいことがある。聞くが良い。人間には貴賤のけじめがある。婚姻はその分に従い、皆、類を以って友をとする。穢多や非人、乞食といえども畜生を良人とし、妻としたためしはない。まして私は国主の娘、普通の人の妻とはなれない。それを今、犬畜生に身を捨て、命を任せること、これも前世の応報か。しかしながら」
 伏姫の声が強くなった。
「父君の御錠は重い。ことをわきまえず、私に情欲を遂げようとするなら、ここにある我が懐剣でお前を殺して、私も死のう。また一時の義を以ってお前を伴っていこうとも、人間と犬の異類の境界を守って、恋慕の想いを断つならば」
 犬も姫の顔を見返した。
「お前は私のために菩提への道を導くものとなれ。その時こそ、お前の望むまま、どこまでも行こう。八房、分かったか」
 と懐剣を逆手に持って問い詰めると、犬は分かったとばかりに、それでも憂えた様な顔であったが、たちまち頭を挙げて姫を見た。
 そしてわんと吠えて、蒼天を仰ぎ、誓った様な姿勢を取ったのである。
 安心したのか、伏姫は刃を収めて、
「では行こう」
 姫が言えば、八房は先に立って、屋敷の扉、中門、西の門を越えて行く。その後に着いて、伏姫は静かに歩いた。
 後には、母君と侍女が声を上げて泣く声が聞こえ、父の里見義実も遠く離れた場所からしばらくの間、見送っていた。
 前漢の王昭君が遠く匈奴に嫁入りした時の悲しい別離の情は、この様なものであったのかもしれない。

 伏姫は見送りや護衛の従者を固く辞退したが、里見義実も五十子は娘の旅立ちが心配であった。後をつけてみよ、と尼崎十郎輝武に数人付けさせて見張るように命じた。
 尼崎輝武は元東條の郷士だった。先には杉倉氏元の手に属し、麻呂信時の首を取ったのだ。その軍功を賞せられ、滝田に召出されて、里見義実の近くで仕えていた。数年経ったので主君は彼を選んで、供に立たせることもあった。
 その尼崎輝武は馬に乗って配下を率いて、一町(約110メートル)ばかり後から姫の後を追っていた。
 八房は滝田の城を出ると、急ぐ様に姫を背中に乗せて、安房の国府跡の方に向かって、飛ぶ鳥の様に速く走り出した。それを見た尼崎輝武は遅れまい、と何度も馬を鞭を当てた。配下たちは喘ぎながら、汗だらけになって追い掛けた。
 どれくらい走ったのか、犬懸の里に至ると徒歩の者は遥か彼方にあり、尼崎輝武に従う者は、一人か二人になっていた。丈夫な馬と尼崎輝武は乗馬の達人のため、伏姫と八房の行方を失わないようにと終夜走り続け、いつのまにか明け方となり、富山の奥に入って来ていた。

 そもそも富山は安房の国第一の高さの山であり、伊予ヶ岳と競い合っている。富山の頂きに登ると、那古、洲崎、七浦に波が寄るのさえ見えるという。
 山中には人里がなく、大樹が枝を伸ばして昼なお暗い。いばらやとげは木こりだけが歩く道を埋め、苔が伸び放題で霧が深い。
 配下を一人連れた尼崎十郎輝武は馬で山道を登って来た。息継ぎもそこそこに山をよじ登って行く。見渡せば山また山に雲がようやく消えて、遥か彼方を見上げると、伏姫と八房が見えた。伏姫は経を背負い、紙と硯を膝に乗せて、八房の背に尻を掛けていた。
 犬は谷川を渡り、山の奥へ深く深く入って行く。
 尼崎輝武は何とか川のほとりまで来たが、水が深く流れが速く、とても渡れそうもない。
「はるばるここまで来た甲斐もなく、川一筋に遮られてしまった。姫の行方を見極められず、ここから帰ることなどできまい。川の深さの瀬踏みをしてみよう」
 と急いで川へ降りて、杖に力を込めて歩こうとした瞬間、水の勢いに横に押し倒されてしまった。
 ただ一言、ああっと叫んだが、頭を石に打ち砕かれ、勢いよく流れていく水の中へ、亡骸も残すことはなかった。

 尼崎輝武は海辺の出身であり泳ぎの達者でもあったのに、こんなにも儚く水に流されてしまった。これすらも何かの祟りかと尼崎の配下は怖気づいて、山のふもとに降り、ようやく追いついて来たほかの同僚たちに事情を説明した。そして次の日の夜が来るまでに滝田の城へ戻り、主人へ子細を話したのである。
 里見義実は話を聞くと、もう二度と人を富山に送ろうとはしなかった。ただ国中に木こり、炭焼きであっても富山入山禁止の布令を出した。
 もし富山に入る者がいれば必ず死刑にすると厳重に取り締まることにしたのだ。
 また尼崎輝武の横死を深く悼んで、その子を召出した。

 そんなことがあったが、五十子はとにかく伏姫のことが忘れられず、洲崎の行者の石窟へ代参と方便を言い、毎月毎月侍女の頭を密かに富山に遣わした。姫の在りかを調べさせ、安否を探ろうとするが、尼崎輝武が流された川より向うへは、皆恐れて渡ることができなかった。元より川の向こうにはいつも雲と霧が立ち込めて、視界が悪く、行けなかった。侍女らは向かっては帰るを繰り返し、早くも月が替わってしまった。

 ここにまた金碗大輔孝徳は、先に安西景連の手中に落ちて、安西勢が滝田城を囲んでいるのが分からなかったが、何とか逃げ出した。
 途中の道で蕪戸訥平らに追いつかれて、多勢を相手に血戦し、従者は皆討たれてしまった。しかし我が身一つだけは虎口を逃れて、ようやく滝田に到着したが、周囲には敵の大軍が充満しており、しかも攻め込まれていたので、城に潜り込むことはとうとう出来なかった。
 せめて堀内貞行にことを告げて援軍を頼もうとして東條へ走ったが、こちらも蕪戸訥平らの大軍が取り囲んでおり、籠の中の鳥と変わりなく、どうしても入城する手立てが見つからない。
 金碗大輔は考えた。

 もはや手立てがなく滝田で一騎だけでも討ち取って、城を枕に討ち死にすれば良かったのに、今は悔やんでも仕方がない。
 大事な使者の命を仕損じて、あまつさえ主君の危機にも役立たずである。
 万一、両城の囲みが解けて、主君が無事であってもその際何の面目があって、顔を合わすことができるだろう。
 この際、蕪戸の陣に突っ込んで、斬り死にしよう。
 だが、しかし。

 金碗大輔の考えは一転した。

 逸る思いを押し鎮めて考え直してみると、身一つで数百騎の敵軍へ攻め込むのは、卵で石を押すよりも無駄なことだ。命を捨てても敵に損害はなく、味方にも役に立たないことであれば、まったく不忠なことになってしまう。
 滝田も東條も元から兵糧が乏しい。この際、鎌倉に推参して、公方の足利成氏様に急を告げ、援軍の兵をお願いして、敵を打ち払い厄災を解けば私の過ちを詫びてお許しをいただくことができるだろう、これに勝る手段はあるまい。
 急いで鎌倉へ行かねば、と思案して、白浜から渡し船に乗って、すぐさま関東管領の御所へ向かった。早速、里見義実の使者と称して事情を説明して滝田の城の急を告げ、救援要請をしたものの、肝心の書簡がないので信用されず却って疑われてしまった。
 また数日を無駄に過ごしてしまい、仕方なく安房に立ち戻ることにしたが、戻ると安西景連はとっくに滅んでおり、安房一国はすでに里見義実によって統一されていた。
 安堵はしたがいよいよ帰参の手立てがなく、今更腹も切れない。時節を待ってこの件の詫びを入れようと、故郷の上総天羽の関村に赴いた。隠れ家にするつもりで、祖父一作の親族である百姓の某の家に身を寄せたのだ。
 一年あまりいる間に、伏姫のことが聞こえてきた。犬の八房に伴われ富山の奥へ入り、その後の安否は不明だという。

【一言、信を守って伏姫、深山に畜生に伴われる】

柳川さんは犬の正面の顔がお得意ではなかったのかな、こりゃまた失礼。

右側には金碗大輔がいますが鉄砲を持ってますね……嫌な予感しかしないのです(´・ω・`)

 

 そのために母君は物思いに耽り、病気になって長い間横になっていると教えてくれる者もいて、金碗大輔はひどく驚いた。

 主君の里見義実は失言をしたが、愛娘の伏姫はまさしく貴人の息女として生まれてきたのに、犬畜生に伴われ、富山に入ってしまった。里の人々の口調も残念がっている。

 例の犬には、何かの霊が憑依して、神通力か魔力を持ってしまったが、倒すことは難しくないはずだ。富山を登り、八房を殺して姫君を連れて滝田城に戻れば、自分の失敗は許されること間違いなしと、金碗大輔は結論した。
 宿の主には、神仏に心願があって詣でたい、とまことしやかに言って、密かに安房へ舞い戻った。そして用意した鉄砲を引き下げて、富山の奥へ分け入って行った。
 そして伏姫の所在を探しに探し続けて、山の中で暮らし、夜を明かして、五六日経ったころ、靄の深い谷川の向こうに人の気配を感じた。
 もしやと騒ぐ胸を鎮めて、水際で耳を良く澄ますと、女の経を読む声がかすかに聞こえるのだった。

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 作者曰く、この段は八犬士の起こるべき由縁を述べ記して、物語第五巻の終わりと定め、すでに前書きに十回の題目を載せたといっても、思っていたよりも物語は長くなった。巻の頁数は一杯になり、この回を終えるにも方法がない。巻の数も決まりがあり、頁数にも限りがある。
 毎回限りを越える時は、超過した原稿の分の稿料に便宜を図ることができないという出版社の主張も見過ごすことはできない。従って、余った原稿は回を新たにして、明くる年に必ず出すことにしよう。
 おおよそここに述べたのは、この小説の発端のみである。これからの続きは、八犬士が世に現れることに触れる。この後、年を経て、八犬士は八方に出生し、集まり散ずることがある。因果応報があって、遂に里見の家臣となる八人の列伝は、前後があり、長い時も短い時もあるだろう。
 まだそこまで考えが及ばず、年を重ねて、回を重ねて、すべての物語とすることは、先に私、滝沢馬琴が著した椿説弓張月の様になるだろう。
 読者よ、幸いに察して欲しい。

 時に1814年文化十一年甲戌の秋九月十七日、鳥の屋(鳥が鳴く筆者の書斎は東であり、東国人の方言は分かりにくいだろう)に筆を置く。

著作   曲亭馬琴
清書   千形仲道
作画   柳川重信
挿絵彫刻 朝倉伊八郎

曲亭(滝沢馬琴)新作 絵入り小説目録 山青堂出版

袈裟御前七條法語(けさごぜんしちじょうほうご)
この書は今年発行の予定とかねてからご案内していたが、南総里見八犬伝を書くために完成が遅れている。
近々発行の思いがあるため、また題名を出している。

美濃旧衣八丈綺談(みのふるきぬはちじょうきだん)
葛飾北嵩 作画 全五冊

馬琴 扇に賛辞
家伝 神女湯 精製きおう丸 婦人向けの生理痛妙薬など大阪心斎橋筋唐物町河内屋太助方にあり
扇は江戸神田鍋町柏屋半蔵方にもあり

朝夷巡島記(あさひなしまめぐりのき)
歌川豊広 作画 初編五巻
この作品は長く書名を掲げなかったが今年ようやく原稿を掛けて刊行出来た
初編二編は遅滞なく出版済み

南総里見八犬伝第二集五巻 来たる猪の年1815年文化十二年の冬、遅滞なく発刊する

1814年文化十一年歳次甲戌
           大坂心斎橋筋唐物町南へ入 森本太助
           江戸馬食町三丁目     若林清兵衛
刊行書店
           本所松坂町二丁目     平林庄五郎
           筋違橋御門外神田平永町  山崎平八

1814年文化十一年冬十一月吉日発販

(続く……かも)

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超意訳:南総里見八犬伝【第九回 誓いを破って安西景連、両城を囲む/戯言を信じて八房、首を献上する】

2024-05-19 02:58:03 | 南総里見八犬伝

 かくて安西景連は、里見義実の使者である金碗大輔を欺き、その足を留めることに成功した。その間に、密かに軍兵を手分けして派遣し、俄かに里見の両城へひしひしと押寄せた。
 その一隊は二千余騎で安西景連がみずから率いており、滝田城の四方を囲み、昼夜を問わず攻め込んだ。
 もう一隊は千余騎。蕪戸訥平を大将にして、堀内貞行が籠る東條城を囲ませて、両城を一気に攻め落とそうと、いやがうえにも攻め立てる。安西の軍勢は破竹の勢いであった。

 この時、里見の両城は兵糧が非常に乏しく、凶作による飢えと労働に疲れ果ててはいたが、主家に対する恩義のためにどうにか戦い、寄せ手をものともしない勇士や兵士がいた。
 しかし防ぎ戦う間に兵糧が尽きてしまい、もう七日間も満足な食べ物を口にしていない。士卒は我慢できずに夜な夜な塀を乗り越えて、死んだ敵の死骸の腰兵糧を取って、わずかに飢えをしのぐ者もいた。或いは馬を殺して食べたり、遂には死人の肉を喰らう者も出てきた。

 里見義実はこれを憂えて、杉倉木曽介氏元らもろもろの士卒を集めて言った。
「安西景連は裏切り者である。誓いを破り、義に違う、悪知恵は今更言うには及ばないが、恐れるべき敵ではない。奴が両郡の兵を率いて我が両城を攻撃するのであれば、我も二郡の兵を持って奴の二郡の兵に備える。十二分に勝てなくても互角の戦ができるだろうに、私の徳が足らないせいで、五穀は実のらず倉庫は空になり、外には敵の大軍がいる。戦況はまだ分からないが、残りの力はもうない。例え我らに百人の樊噲、前漢の劉邦の勇士がいても、飢えてしまっては敵を討つことはできない。ただこの義実の心は一つ、この身のためにこの城中の士卒たちが殺されてしまうのは忍び難い。今宵、皆は闇夜に乗じて、西の城戸から脱出せよ。何とか逃げ切ることができるだろう。その時、城に火を放って、妻子を刺してから、この義実も死ぬと決めた。二郎太郎も落ちよ。その手立てはこの様にせよ」
 と細かく説明するが、皆は一斉に反対した。
「ご命令ではございますが、禄を受けて妻子を養い、今、この困難に遭って、己だけ逃げることなどできません。ただ命のあるうちに、寄手の陣へ夜討ちして、名のある敵と刺し違え、里見の殿への君恩を泉下にご報告いたします。これ以外のことは露ばかりも望んでおりません」
 と言葉を等しく返答するので、里見義実は何度も説得を試みるが、誰も承諾する様子はなかった。

 この時、里見義実の息子である二郎太郎義成は十六歳になっていた。
 父の仁愛、士卒の忠信、共に貴重なことと聞いてはいたが、このままでは決着が着きそうもないので、父の様子を見て、
「弱冠の私が違った意見を申し上げる訳ではないが、天の時は地の利に及ばず、地の利は人の和に及びません。城中、既に兵糧は尽きて、士卒は飢餓に襲われてていても、脱出しようとする者はおらず、しかしながら死を目の当たりにして、徳に寄り恩を思う、これこそ人の和のいたすところではありませんか。人の性は善であるから、もし寄手の軍兵にもことの善悪邪正を知っている者がいるでしょう。また兵糧が尽きても、毎日炊事の煙を立てれば、敵は我らの窮状がここまでとは気づかず、また急いで攻め込んでこないのは、父の武勇を恐れているからでしょう。この二つから計略を考えたのですが、大声の者を選んで、城の櫓に登って、寄手に対して安西景連の非道なる行い、盟約を破り、恩を仇として、不義の戦を起こした、というその罪を責めさせれば、安西の士卒もたちまち慚愧して、戦う心を失くすでしょう。その時こそ城から打って出て、ただ一揉みに突き崩せば、勝つ見込みもあるでしょう。この案はいかがでしょうか」
 とさわやかに言うので、皆は感服して試してみようと言う。
 里見義実は試みに声の高い者を選んで、安西景連の不義を数えてその罪を責めさせた。
 しかし日頃は声が良く出る者であっても、飢えては息も続かない。また櫓は高く、堀は広いので、腹筋が切れそうになるまで口を張り、顔を赤く染めて心から罵ってはみたものの、敵の陣へは声は届かなかった。
 果てにその者は涙に泣き濡れて、咳込むだけになってしまい、苦労はしたものの効果はまったくなかった。

 その間、里見義実は、逃げ出そうとしない士卒を救う方法が他にないかと考えを巡らすものの、そうは簡単に敵を退ける手立ては思いつかなかった。
 歩きながら考えようと杖を曳いて庭に出てそぞろに歩いていると、年来可愛がっていた犬の八房が、主人を見つけて尾を振って近づいて来た。久しく飢えている犬は、ひょろひょろとして足取りが定まらない。やせ衰えて、骨高く、眼は落ち込んで、鼻が乾いていた。
 里見義実は犬を見て、その頭を右手で撫でてやり、
「ああ、お前も腹が空いたか」
 と呟くのだった。
「士卒の飢餓を救おうと熱心に考えていたので、お前のことを忘れていた。賢さに差があると言っても、人は万物の霊長で、知恵があるものだ。教えに従い、法を守り、礼儀や恩義を知る者であるから、欲望を禁じ、情を堪え、飢えて死ぬのも天命であり時運であると思って、私は諦めた。犬畜生にはその知恵はない。教えも受けず、法も知らず、礼儀も恩義も弁えず、欲望を禁じることも知らない。主人が養うことによって一生を送るので、飢えて飢える理由を知らず、餌を求めてますます媚びようとするのもまた不憫だ。犬畜生は恥辱を知らない愚かな生き物かもしれないが、人より優れたところもあるのだ」
 里見義実は身体を寄せる八房をもう一度撫でた。
「例えば犬は主人を忘れない、鼻でものを良く嗅ぎ分ける、これらは人の及ばないところで優れたところだ。だから古歌にも詠われている」
 目を閉じて歌を思い出す。

 思いぐまの、人はなかなかなきものを、あはれに犬の、主を知りぬる

【思いやりも人がなかなか持てないのに、犬は素晴らしいことに主人が誰かを知っている】

「慈鎮(慈円)和尚が詠んだと思う。今、試みにお前に問おう。犬は十年の恩を良く知ると言う。もしその恩を知るのであれば、寄手の陣へ忍んで、敵将安西景連を喰い殺せば、我が城中の士卒の命を救うことになる。そうすればその功績は第一だ。お前にできるか」
 と微笑んで問えば、八房は主人の顔をつくづくと見上げて、その趣きを良く悟った様である。
 里見義実はいよいよ犬を不憫に思って、頭をまた撫でてやり、背中を撫でてやり、
「八房よ、しっかり功名を立ててみせよ。成し遂げることができれば、魚でも肉でもたらふく食べさせてやろう」
 と言ったが、背中を向け、断るような素振りに見えたので、里見義実は戯れにまた続けるのだった。
「それでは職を授けようか、或いは領地を知行しようか。官職も領地も望まないのなら」

 とうとう里見義実は言ってしまった。

「お前を我が婿にして、伏姫を娶せようか」
 と。

 この時、八房は尻尾を振り、頭をもたげて瞬きもせずに主人の顔を熟視してから、わんと吠えた。里見義実は苦笑いして、
「伏姫は私と等しくお前を可愛がっているので、妻にしたいか。敵を倒したのであれば、婿にしてやろう」
 と厳かに言うと、八房は前足を折って、主命を拝したかの様である。鳴く声は悲しく聞こえたので、里見義実は興から醒めて、
「馬鹿馬鹿しい。我ながら戯言を言ってしまった」
 と独り言を言い、やがて奥の部屋に入ってしまった。

 かくてその夜は、大将も士卒もこの世の名残りぞ、と思い定めて、里見義実は、宵の間はしばらく奥の間にいて、夫人の五十子、息女伏姫、嫡男義成を最初に、老臣の杉倉木曽介氏元を近くまで招き、皆で集まり、別れの盃を交わすのだった。
 しかし柄の長い金製の銚子には酒が一滴もないので、水を代わりにして、酒の肴には枝付きの木の実が少々出された。
 木の実は大方虫に食われていて、普通なら下賤の者でも食べない様な代物だったが、この時ばかりは大切なものであり、美味い食べ物であった。
 今宵の席上はひっそりと静かであり、ただよもやま話や昔話について語り合い、最期を迎えることについては一言も触れることはなかったが、死ぬことを決めた主従はなかなかに勇ましかった。
 こんな時であっても、武士の主君である里見の妻子たちは、長き別れを惜しむものの、音に出して泣くことはなかったが、心を推し量った侍女たちは、皆涙の泉をこらえ切れずに同じ悲しみに沈んでいた。
 いかにも道理、と杉倉氏元らは思わず嘆いて、互いに眼を合わせた。七日間この方一度も食べていない人々もまた眼が窪み、頬骨が出て、まだ死ねないがいずれ土となるであろう顔色は、憔悴し、衰えて生気がなかった。
 今宵十日の月が沈むころ討って出る、と予てからの軍令を聞いていた雑兵らも、思い思いに此処かしこに集まって、酒と例えて水を酌み交わした。
 水盃に映る星の影、鎧の袖の霜もやがて消えようとする丑三つ時のころになった。
「時刻は良し」
 と里見義実父子は手早く鎧を身に着け、五十子、伏姫はかしずく侍女たちが渡す太刀や薙刀を受け取った。遠くから風が運んでくる寺の鐘の音は、諸行無常の響きであった。

 しかし突然、外から犬の鳴く声が聞こえてきたので、里見義実は耳をそばだてた。
「あれは八房だ。いつもとは違う鳴き声だ、皆聞くが良い。誰か見て来てくれぬか」
 と言えば、承ったと返答して、二三人が素早く立って縁側から紙燭を灯した。
「八房、八房」
 と呼び掛ければ、八房は踏み石に足を掛けて、生々しい人の生首を縁側に載せて守っている。
「これはどうしたことだ」
 と目撃した者は戸惑い、里見義実のところに戻って来て、
「八房が人の生首を持って参りました」
 と報告した。
 聞いた主従は皆驚き、怪しんだ。その中で杉倉氏元は皆に振り返って、
「飢えると、人の亡骸を喰らうのも犬の習性だ。これ見よがしに持って来た首は、見れたものではないだろう。奥方や姫がおいでなのだ、早く追い払ってくれ」
 その指示に従おうとした者たちを、里見義実は待てと呼び止めて、
「犬がいても問題はない。八房も飢えていたので、もし味方の死骸を傷つけているなら、そのままにはしておけまい。私も自分で見てみよう」
 と言って立ち上がった。
 杉倉氏元はもちろん、その場にいた士卒も侍女たちもどよめいて、ある者は蠟燭を取って先導しようとし、ある者は主人の後について、縁側も所狭しと集まった。
 例の首を見ると、里見義実は眉根を寄せて、
「杉倉木曽介はどう見るか。鮮血に塗れて分かりにくいが、これは安西景連に似ていないか。洗ってみよ」
 と言うので、杉倉氏元もまた訝りながら、首を手水鉢の近くに寄せて、柄杓で水を何回も掛けて血を洗い流した。
 主従で首を良く見てみると、
「果たしてこれは敵将安西景連の首に疑いもない、間違いないだろう」
 と里見義実が言うので、皆それを信じる様になった。首がある訳などは分からないが、人々は皆が及ばない軍功に、ひたすら犬の八房を羨んだ。

 

【戲言を信じて八房、敵将の首級を献上する】

首を咥えて、主に褒めて欲しがる忠犬八房さん。

 

 その時、里見義実は感心して、
「この様に奇怪なことを見たが、前兆も後兆もない訳ではない。今こそ思い出される。皆、我がために、蜻蛉の様にはかない命を捨てると決意し、士卒をどうやって救おうかとも思ったが思いつかず、気晴らしかねて我が身一つで庭園へ行った折にこの八房がいた。飢えているその姿を見るに堪えず、八房を思い、哀れと思って、お前が寄手の陣へ忍び入り、安西景連を喰らい殺して城中の数百の士卒を救うことができれば、毎日魚肉に飽かさないと言っても、喜ぶ気配もない。所領を宛がおうか、重い官職を授けるかと言っても喜ぶ気配がない。でなければ日頃常にお前を愛する伏姫を妻に取らせようか、と言った時に、八房は喜んだ様な表情をして、尻尾を振りながら吠えた声音はいつもと違っていて、忌々しかった。戯言と思って出てしまった言葉は馬鹿馬鹿しいと独り言を言って、そのまま皆を集めて、最後の軍議を開くことに忙殺されていて、そのことは忘れていた。犬は言われたことをなかなか忘れないから、高麗剣ならぬ狛剣、当家の犬の剣は我が虚言を真実として、寄手の陣に忍び入り、二三千騎の大将である安西景連をいともたやすく殺して、その首をもたらすということは不思議というにもあまりある。奇跡だ」
 と八房を近づけて、ひたすら褒めた。それを聞いた杉倉氏元らは愕然として舌を巻き、
「犬畜生でありながら、人よりも高い功を挙げたことは、すべて殿の仁心と徳義によるものだろうか。神明と御仏のお力によるものかもしれない」
 と称賛した。

 その時、物見に出していた兵士が庭から入って来てこう言った。
「敵に異変が起きている模様です、急に乱れ騒いでいる様子でございます。速やかに撃って出れば、勝利疑いございません」
 と言うのを里見義実は聞くが早いか、
「そうであろう。時間を掛けるな、撃って出よ」
 士卒を急き立てて、全軍に下知を伝えてから、大将みずから寄手の陣を襲おうとすると、若き里見義成が進み出た。
「安西景連が既に死んだのであれば、例え寄手は大軍であっても、追い払うことは大変容易いことでしょう。ですから我が軍の総大将が軽々しく出撃されるのはもったいございません。ここはこの義成に杉倉氏元を添えていただければことは足ります。どうかお許し下さい」
 と乞い、庭から走り出し、部下が引いて来たやせ馬に身を躍らせて乗るのだった。杉倉氏元も士卒を励まして、
「八房が早くも安西景連を討取ったぞ。遅れる者は犬にも劣る、出でよ、進め」
 そう叫んで三百余騎を二隊に分けて、里見義成は大手門から、杉倉氏元は搦手門から、城戸をさっと押し開かせて、乱れ騒いでいた寄手の陣へまっしぐらに突いて入っていった。
 その勢いは日頃の何倍もあって突撃したので、敵軍はますます辟易し、逃げ出す者が半分もいた。早くも降参する者も出てきて、思い悩む者たちが迷っているうちにその夜は明けていった。

 こうして里見義成と杉倉氏元は、山の様に積み蓄えられていた寄手の兵糧をすべて、城中へ運び入れた。そして戦の次第を里見義実に報告し、降参した敵兵たちをすべて許して、杉倉氏元に預けることにした。
 そして、今朝から米を炊いて、籠城していた士卒らに粥を与えたが、一杯の他は許さなかった。長く飢えている状態だったので、急に満腹にさせると、すぐに命を落とすことになるからである。それだけでなく得た兵糧の半分を城外の人々に与えて、ようやくその飢餓を救った。人々は拝伏してこれを受け、皆でこれを分かち合い、充分に食べて命びろいをした。轍にはまった魚が水を得たようなものである。

 この間に東條の城を攻めていた安西景連の老臣蕪戸訥平らは城を何重にも囲み、昼夜を置かず攻め立たてたが、東條城は滝田城よりも半月の貯えがあった。
 堀内貞行は敵を追い払い滝田城の後詰をしようと始めから考えていたが、雨の夜、風吹く夕べには敵陣へ夜討ちを再三仕掛けるものの、味方の軍勢に対して寄手が大軍過ぎた。必勝を期したが、敵は新手を入れ替えるため、弱る気配はまったくなかった。
 しかし安西景連がはかなく討たれ、滝田の包囲が急に解かれて、御曹司里見義成が杉倉氏元と共に大軍で東條を救援に来る噂が誰彼と言うことはなく流れた。城兵はそれを聞いて勇気百倍となり、寄手の兵たちはそれを聞いて大慌てとなった。
 始めのころ蕪戸訥平は風聞を聞いても知らぬふりをして、部下の士卒を罵り、あるいは励ますものの、昨日に比べて今日は部下たちが落ち着かない。
 単なる噂ではないといよいよ疑心暗鬼になり、怖気ついた蕪戸訥平は腹心の二三名を従えて、他の配下に黙って闇夜に紛れて逃げ出してしまう始末だった。
 夜が明けて、寄手の軍兵は自分たちの大将が逐電したことをようやく知って、呆れ、戸惑い、身勝手な大将を憎み、腹を立てるのだった。仕方なく安西の残兵は協議して、東條城へ使者を出して、今更ながらおめおめと降参する他がなかった。

 堀内貞行は、滝田の殿に子細を申せ、と騎馬の使者を送り出したが、その使者は途中で滝田城からの勝ち戦を告げる兵士に出会った。
 滝田からの使者は東條に来着し、安西景連の落命とことの次第を告げ、噂通りに御曹司が大将、杉倉氏元を副将として出陣すること、東條城周辺の敵を追い払うこと、更に館山と平館の両城を攻めることを伝えた。
 堀内貞行は謹んで君命を受け、使者を再度滝田に送って、安西討伐の勝ち戦の祝賀を伝えた。
 御曹司の出陣と今か今かと待つ間に、以前から里見義実の徳を慕う安房郡と朝夷郡の民衆が、安西景連が滅んだと聞いて、館山と平館の両城を攻め立てて落城させた。
 そして主な者が数十人が蕪戸訥平らの首を持って東條にやって来たその日に、里見義成と杉倉氏元が着陣したのである。
 里見義成と杉倉氏元、堀内貞行らは詳細をしたためて、滝田の城に報告するとともに蕪戸訥平らの首も送った。

 受け取った里見義実は、安房郡と朝夷郡の者たちを呼んで褒美を与えた。更に御曹司里見義成と杉倉氏元に御教書を下して、館山と平館の両城を守らせる様にした。

 こうして四郡一か国を里見義実が治めることになった。
 その勢いは朝日が昇るがごとく、徳とその恵みは雨が大地を潤すがごとく、邪悪なる者たちを走らさせ、善人たちが時を得たのだ。
 これより安房の国では、夜は戸に鍵を掛けず、落ちているものを拾って盗む者はいなくなった。

 向後の行方はいざ知らず、安房に騒がしい波風が立たなくなったので、隣国の武士と言えばもちろん、足利持氏の末子である足利成氏も、この時滝田に書を送って安房一国平定の功を称賛した。足利成氏はこのころ鎌倉公方として鎌倉府に戻って数年になってはいたが、里見氏のために更に室町将軍へ安房国主とする様に推薦し、治部少輔の官職を授ける様になったと言う。
 里見義実は歓喜雀躍し、京と鎌倉に使者を送り、土産と進物をいろいろ献上した。

(第四代鎌倉公方足利持氏の末子を成氏と言う。去る1444年嘉吉三年に長尾昌賢が取りなして、鎌倉へ迎え入れ、鎌倉公方に就任させて早や十余年が経った。しかし足利成氏は故あって鎌倉に居続けることができなくなり、康永のころ、下総の許我へ移り住んでいた。ここに年代を記そうとすればこの年のころだろうか。足利成氏のことは九代記という書物に載っている。)

 この様に喜ぶべきこと祝うべきことが続いたが、里見義実の心に引っ掛かるのは、初め安西景連に食料の援助のために使者として遣わされた金碗大輔のことであった。
 里見義実は、
「彼は年が若いが、おめおめと何もせず、敵の虜囚となる者ではない。欺かれて討たれてしまったのだろうか。また兵の数の多少を計らずに、寄手に攻め込んであたら命を落としてしまったのか、そうでなければ、昨日今日までに帰ってこないことはあるまい。私が所縁のないこの土地を切り開き、ここに富貴を受けることができたのは、彼の親、金碗八郎孝吉の助けによるものである。臨終にその子を長狭郡の郡司とし、東條城の城主にする、と言ったのにいまだ果たせていない。それだけではない、納得できないのだ、金碗大輔の亡骸だけでも見れないのは本当に心残りである。樹を切って草を刈り払ってでも、行方を調べよ」
 と四方八方へ人を送り出し、先々まで触れを出して隈なく捜索させたが、金碗大輔の行方は絶えて分からなかった。

 その間に里見義実は士卒たちの勲功を一人一人に厳正に行い、所領を与え、職を進めた。褒美を与えることの始めに、犬の八房を第一の功と定め、朝夕の食事、寝泊まりするところを豪華にして、犬養の職や下僕を定めた。
 外に出る時は先導の役を付け、中に入る時は見守り役を付けたので、飼犬への寵愛は人々の耳目を驚かせたが、当の八房は頭を垂れて、尾を伏せて、餌を食べず、夜も眠らず、去る宵の晩敵将安西景連の首を持ち帰った縁側に来て、立ち去ろうとしなかった。主君が出て来たのを見ると、縁側に前足を掛け、尻尾を振り、鼻を鳴らして、何かを乞い求める様である。
 しかし里見義実はそうとは気づかず、みずから魚肉や餅などを折敷に載せて与えようとするが、八房は眼もくれず、尚も他のことを求めようとすることがしきりであった。
 この様なことが度重なったため、さすがに里見義実も犬の心に気づいて、まさかと思い当たることがあった。たちまち八房への愛が醒めて、そばに来なくなった。犬養らが八房を遠くに連れ出そうとしても、ややもすれば猛り狂って従おうとしない。とうとう鎖を引きちぎって、止めようとする人に対して吠え、例の縁側から飛び乗って、奥へ向かってあちこちへ奔走し始めた。
 しかし八房を追う犬養らは、遠慮して入れない扉があるので、手を挙げて、犬があちらの方へ、と叫ぶことしかできない。 男の力でもかなわない犬が猛り狂うので、侍女たちは皆恐れ、惑って立ち騒ぎ、ここかしこに走り、逃げ、八房はまたそれを追った。犬もろ共に人も狂って、障子と襖を押し倒し、叫び喚き、思わず伏姫のいる奥座敷へ追い込んでしまった。

 この時伏姫は話し相手もなく、文机に肘を置いて枕草紙を読んでいた。
 翁丸という犬が一条帝の飼い猫を驚かせてしまったことで、帝の勅勘を被って、宮中から捨てられてしまったこと、また許されて宮中へ戻ってきたことを素晴らしく書き記した清少納言の文才を羨み、
「昔はこんなことがあった」
 と独り言を言い、その段を繰り返し読んでいた折、侍女たちが叫ぶ声がして、背後に走って来るものがあった。
 その早さは飛んでいるようであり、寝床に立て掛けていた筑紫琴を横に倒しそうになって、伏姫の裳裾の上に臥したものを何だとばかりに見返せば、正体は八房であった。その顔は平常ではなかった。
「病気なのだろうか、嫌だなあ」
 と文机を押しやって立とうとするが、犬の臥せた前足が長い袂に入って踏んでおり、動くことができない。十年飼い続けて、大きな子牛の様に力強い大犬が踏んでいるので、後ろを動かすことができないのだ。
 伏姫は人を何回も呼び、世話係の侍女はすぐに飛んで来たが、犬に驚くだけで近づくことができない。
 一人の侍女が箒を引っ提げてやって来て、畳を叩いてしっしと恐る恐る追い払うとするが、八房は眼を怒らせて、牙を見せて唸るばかりである。
 唸り声が凄まじいので、侍女は恐がって、箒を捨てて後ずさりしてしまうのだった。

 そこへ誰かが知らせたのか、里見義実が手槍を持ってやって来た。
 戸口に立ちつくして恐れて混乱している女児たちを叱って、急いで前に出て来た。
「やおれ畜生のくせに、出て行け、さあ、出て行け」

 

【里見義実怒って八房を追い出そうとする】

里見義実さん、超激怒。怒りまくって激おこぷんぷん丸。

槍が長過ぎませんかねえ、そんな長いと、姫に間違って当たってしまいますよ!

 

 昔、五帝の一人、嚳(こく)が高辛氏とも呼ばれていた時、犬戎(西戎)が襲来してきた。
 帝はその侵略を憂いて征伐しようとしたが、勝てなかった。
 帝は、天下に、犬戎の将、呉将軍を討取る者があれば黄金と家、また娘を娶らすとして、人材を求めた。
 その中に飼犬がいた。その毛は五彩で名づけて盤瓠(はんこ)という。
 命を下したのち、盤瓠は急に首を咥えて宮中に戻って来た。群臣が怪しんでこれを見ると、呉将軍の首であった。
 帝は大いに喜びなさったが、娘を盤瓠に娶らそうとはしなかった。また功績を賞しようともしなかった。
 宮中では議論をして報いようとしたが、結論が出なかった。
 娘はその話を聞いて考えた。皇帝が命令を下したのに、信頼を違えてはならない、と。
 帝はやむを得ず娘を盤瓠に嫁がせた。盤瓠は娘を得ると背中に背負って南山というところの石室の中に入っていった。そこは険しい山の中であり、他に人の住んでいる気配はなかった。
 三年を経て六男六女が生まれた。そこで盤瓠は妻と別れた。
 子供たちは五色の服を好み作った。皆、尻尾があった。
 例の娘、母は後に皇帝に手紙を送り、子供たちを宮中にお迎え下さいと依頼したが、衣装が蘭の花の様であり、言葉が全く異なっていた。また急峻な山を好み、平らな土地を好まなかった。
 皇帝は彼らの意を汲んで、名山廣澤を賜った。子孫たちは増えていった様である。
 その一族は自分たちを号して、蛮夷という。今の長沙武陵の野蛮人がこれだ。
 また北狗国の人は身体は人間だが頭部が犬で、長毛して衣服を着ないという。その妻たちは皆人である。男の子を生めば犬、女の子を生めば人となるという。五代史にそう書いてあった。


 と、持っている手槍の取っ手の部分の石衝を差し出して追い出そうとするが、八房はちっとも動かず、きっと見上げて牙を出してますます雄叫び声が凄まじくなり、誰彼構わなく嚙みつきそうである。
 里見義実は顔色を変えて怒り出し、声を荒げて、
「理も非も知らない畜生に物を言うのは無益の様だが、愛する主人を知らないのか。知らなければ思い知らせてくれよう」
 と怒り、槍を取り直して突き殺そうするが、伏姫が自分の身を盾にして、
「お、お待ち下さい、父上。ご領主のご身分で、牛に悪戯する童の様に畜生の非を咎めて、自ら手を下すことなどいけないことでございます。少し思うことがございますので、曲げて私の我がままをお許し下さい」
 そう言い掛けて眼を拭うので、里見義実は突こうとしていた短槍を引いて、脇に挟んだ。
「珍しい姫の諫言だ。言いたいことがあれば言ってみなさい」
 父が娘を急がせると、伏姫は落ちる涙を拭い、顔を改めて清めた。
「はばかりがあることでございますが、今も昔も、我が国も唐の国も、賢い主君の政治は、手柄があれば必ず賞を与え、罪があれば必ず罰すると聞いております。もし手柄があるのに賞されず、罪があるのに咎められなければ、その国は滅ぶことでございましょう」
 伏姫は八房を見つめた。
「例えば、この犬の様に功績があっても行賞されず、罪がないのに罰を被るとは不憫ではございませんか」
 それを聞くや否や里見義実は、
「お前の意見は間違っている。安西という強敵が滅んだ時から、犬のために犬養の職を置き、食事には美味いものばかりを与え、寝るところにも良いものをやった。これでも賞がないと言うのか」
 と詰ったが、伏姫をきっと頭を上げて、
「綸言汗の如しとは、一旦言葉を出したら取消しできない例えでございましょう。また君子の一言は四頭立ての馬車も及ばないと聖人の記した書物にある、と物の本にも記してございます。悲しいかな、父上は安西景連を討ち滅ぼして、士卒の飢えを救うため、この八房を婿とすることをお許しになったのではございませんか。例えそれが仮初めのお戯れでありましても、一度お約束なさったのであれば、綸言は戻りませんし、お言葉は四頭立ての馬車も及ばないのでございます。それでは犬が求める恩賞を許して上げて欲しいのです。八房が大功を挙げるに及んで、今更に約束を守らずに、代わりに山海のご馳走を与え、また豪華な住まいを与えて、ことが足りたとされたら」
 里見義実を見た。
「もし人であれば、口惜しく、恨めしく思うことでしょう。人よりも大功がある犬畜生に与えるべき恩賞そのものに私がなっても、皆、前世の因果応報と思うでしょう。国のため、後世のため、娘を生きながら畜生道へ捨てて犬の伴侶としても、ご政道に偽りがないことを民衆に知らしめ、平穏無事に豊かに国をお治め下さい。そうしなければ、盟約を破り、約束に背く、あの安西景連と何が変わると人々が申すことでしょう」
 父の戯言の通りに犬に嫁ぐと娘は言うのだ。
「浅はかな娘の、目先のことしか考えられない浅知恵も、世間も汚れも知らないことからこそ、深く嘆くのでございます。私の心を汲んでいただき、今日からは、恩と愛、二つの義を断ち切って、どうか我が身にお暇を下さい。子として親に自分を捨てよと願い、異類に従う娘は、三千世界を探しても、私の他におりませんでしょう」
 と父に別れを掻き口説くその袖に落ちた涙の露は、ここ滝田の城のみに訪れた秋の気配であった。

 里見義実はただ黙って娘の言うことを聞いていたが、最後には嘆き悲しみ、持っていた槍をからりと投げ捨てた。
「ああ、私は間違えた。間違えたのだ。法度は上の者が制するものだ。上がまず犯し、下の者が犯していく。これが大乱の基本である。私は八房に姫を与えるつもりはない。ないと言っても、言ってしまったことは、私の口から出て、犬の耳に入ったのだ。昔、中国の藺相如が完璧の故事の通りに、勇をもって夜光の珠を取り返したが、取り返しにくいのは口の咎である。この様に、災いは門に臥している犬であった、犬は我が身の仇だ」
 こう嘆くのである。
「そう言えば昔を思い出すと、前兆があった。この子が幼かったころ、願を掛けるため忍んで洲崎の石窟へ詣でた時、途中に老人がいた。伏姫を見て差し招き、この子の多病と毎夜むづかる原因は、皆悪霊の祟りによるもので、詳細に説明すれば天の秘密を漏らしてしまう恐れがある。伏姫という名前によってみずから悟ることができれば、何かを得るだろう。帰ってその旨を主君に言え、と老人は言ったのだ」
 恨みがましい口調になった。
「姫は1442年嘉吉二年の夏月伏日に生まれた。酷暑の三伏の義から名を取って、伏姫と名づけたのだ。その名前から考えよとはいかなることかといろいろ考えたが、まったく思い当たらなかった。有地無知三十里のことわざで、あの三国志の曹操を嘲り笑った秀才の楊修がここにいれば問うてみたかったが、長年経ってから、今日突然に理解することができた。伏姫の伏の字は人にして犬に従うということだ。この厄災は、おしめをしていたころから定まっていたことか。名詮自性、名前がそのもの自体の本性を示しているということなのだ。ここまで執念深く祟りをなす悪霊は誰かとはっきりとは知らないが、良く考えてみれば山下定包の妻であった玉梓だろう。あの淫婦は、主人を損ない、また忠良なる家臣を失わせるという隠れた悪事の噂がある。しかし一度は命を助けると言っておいて赦さなかった私に仇をなすことができず、私の子に憂いごとの限りを見せて、理屈に合わない恨みを返すつもりなのだ。そう言えばこの犬は母を失って、狸が育てたと聞く。狸の異名を野猫と言い、また玉面とも呼ぶ。その玉面を和訓で読めば、すなわち、たまつらだ。玉つさと玉つらと読み方も近いのも禍々しいのに気づかずに、いかにも賢しげに狸という字は里に従い、犬に従うことがあれば里見の犬になる性である、と思いながら飼い慣らして、可愛がってきたことが口惜しい。太陽は満ちた後は欠けていく、洲崎の翁が教え諭したことは、なるほど当たっていよう。今思えば百回悔い、千遍悔いても意味がない。畜生のために子を捨てて恥辱を残せば、たくさんの国を討ち従えて、今後長く百代の栄誉を受けたとしても、何が楽しいだろうか。面目ないことこの上ない」
 と今までについて説き、心の底から説明した。そして反省して後悔する主君を見て、側で侍る侍女たちは慰めることもできず、大騒ぎの恐怖が今になって襲ってきて、泣くのだった。
 皆の涙は滝の糸となり、それを見ていた伏姫は、苦しかった心のつかえをようやく撫で下ろし、
「私の侍女ですら堪えられない嘆きに悲しんでくれている。まして親の御心を推察してみれば、なさぬ不孝は罪が重うございます。しかし、一度鬼畜の犬に伴われて、父上の約束に嘘偽りがないことを証明すれば、命はもうなきものと思い定めております。しかし、この世に人として生まれて今まで育ってきた親の形見のこの身を、まざまざと畜生に汚される訳にはいきません。どうかご安心下さい」
 と言って顔を赤らめた。
 我が子が袖で顔を覆って顔を伏せると、里見義実は何度も頷き、
「よし、良く言った。遥か遠い異邦のことを考えると、高辛氏の槃瓠(はんこ)の話は私の心配ごとと同じだ。また東晋の干宝が著作の捜神記にこんな物語がある」
 里見義実が語った話は以下の様な話だ。

 大昔にある男性がいた。戦に遠征し、長い間家に帰らなかった。
 妻は早く世を去ったが、一人娘がいた。年のころは二八だった。
 またその家に牡馬がいた。娘は明けても暮れても父親を慕うあまりに、馬に向かって、
「お前、もし父上を乗せて帰って来てくれるなら、この身を任せましょう」
 と言ってしまった。

 これを信じて馬は手綱を断っていなくなってしまったが、数日経ってから、果たして馬は父を乗せて帰って来た。
 以来、馬は嘶いて、何かを乞い求める様になった。
 父はそれを怪しんで娘に事情を聞くと、娘は父を連れ帰ってくれば身を任すという約束をしたと答えた。
 打ち捨てることはできない、と父は密かに馬を殺してしまい、皮を剥がして軒先に掛けてしまった。その時、娘は馬の皮を見て、
「畜生にして人に欲情した結果、報いはこんなに早かったのか。皮になっても、尚、私を娶ろうというのか」
 と罵った瞬間、馬の皮は軒先からはたと落ちて、娘の身体をしかと押し包んだ。さっと吹き上げる風とともに、皮は空に飛び、空を登っていった。
 次の日、庭の桑の樹に娘の亡骸が掛かっていた。その屍から虫が生まれて、これを蚕と呼んだ。

「これは信じがたい話だが、唐土では三国志の魏や晋の時代から言い伝えられてきた物語だ。この話の男性は、いやしくもことを命じておいて約束を守らないだけではなく、馬を殺してしまうなど、人にして心根が獣より劣っている」
 里見義実の声は震えた。
「私がもし一時の怒りに任せて、犬の八房を殺してしまえば、捜神記の男性と同じになってしまう。そうは思っても、折り悪く、息子の義成と杉倉氏元には館山と平館の城を守れと遣わしているし、また堀内貞行は長狭郡の東條の城にいる。彼らの他には内々のことを語る者はなく、良くも悪くも心は一つ、今は思い定めた」
 伏姫も父の顔を見上げた。
「おい八房、戯れではあったが、命じたことを成し遂げたお前の勲功はとても高い。伏姫を」
 一瞬言葉が切れた。
「お前に与える。だからしばらく外に出て、待て。さあ、外に出よ」
 と催促すると、八房は主人の顔色をつくづくと見てから、ようやく身を起こした。そして全身を震わせてから、静かに外へ出ていくのだった。

(続く……かも)

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超意訳:南総里見八犬伝【第八回 行者の岩窟で翁が伏姫の人相を観る/瀧田の近くで狸が子犬を育む】

2024-04-23 01:02:28 | 南総里見八犬伝

 金碗八郎孝吉が急に自決してしまったが、その深い思いを知らない者は、
「死ななくても良かったのに。手柄があったのに賞を辞退し、惜しむべき命を失ってしまったのは、裁きの場で玉梓に罵られたことを恥じたのだろう」
 と酷いことを言うのだった。

 それはまったくの的外れで、昔の賢人は、男子の無欲は百害を退け、女子は嫉妬がないのであれば百の短所を覆い隠すと言った。
 道徳や仁義もその通りで、里見義実の徳も孤立することはなく、隣国の武士たちの敬慕することとなった。友好を求め、婚姻の打診をする話も出てくるようになった。

 その中に上総国椎津の城主、真里谷入道静蓮(まりやのにゅうどうじょうれん)の息女、五十子(いさらご)が賢くもあり、美人であると伝え聞き、縁があって娶ったのである。
 一女一男が生まれ、娘は1442年嘉吉二年、夏の終わりに生まれた。三伏の時節、すなわち七月中旬から八月上旬の酷暑のことに生まれたので伏姫と名づけられた。
 男の子は二郎、その次の年、1443年嘉吉三年の終わりに生まれた。二郎太郎と称せられたが、後に父祖の業を継いで安房守義成となる。稲村城に置かれて、里見家の武威はますます盛んになっていった。

 一方伏姫はおむつを巻いていたころから可愛らしく、あの竹の中から生まれた乙女かと思わせるほどに美しかったので、父母の慈愛は深く、世話付きの女房を普通よりも多く付けるのだった。

 しかし伏姫は昼も夜もむずがり、三歳になっても言葉を話せず、笑うこともできず、ただ泣くばかりであった。父母は苦しみ、悩み、この三年この方、治療を試み、高僧や修験者の加持祈祷をいろいろ試したものの、一向に効果は現れなかった。

 ここにまた安房郡に洲崎明神という古く神々しい神社があった。
 この神社の山の裾野に大きな石窟がある。石窟の中には役行者の石像があった。ここから湧き出る清水を独鈷水と言い、日照りの時でも枯れることがない。

 昔、文武帝のころ、役行者小角は伊豆大島に流罪とされた。洲崎神社の地は伊豆大島からわずかに十八里(約72キロ)であり、小角は何度も波涛を越えて、洲崎にやってきたと言う。
 霊験を顕したことにより、後になってから人々が像を造り、石窟に置いた。今も霊験はあるらしく、一度祈願をすれば願いが成就しない者はいないと言われていることを伝え聞き、伏姫の母、五十子は、
「伏姫のために願いごとをして、毎月洲崎神社の石窟に代理の者に参拝してもらってすでに三年。まだご利益はないけれど、伏姫の命は問題なく、とにもかくにもここまで育ったこと自体が霊験なのかもしれません。今度は代理の者ではなく、姫自ら参拝すればご奇特が起きるかもしれません」
 と里見義実へ訴えた。
 この件については考えることがある様で、直ちに断った訳ではないが、
「洲崎は里見の領地ではない。今の安西景連が野心があるかどうか分からないが、幼き伏姫をはるばる洲崎神社に遣わせば、世間の評判が良くない、思いとどまってくれないか」
 容易く許さなかったが、何回も五十子が訴えるので、その熱意に負けて、黙認せざるをえなくなった。供には老齢の男女を選んで、お忍びで伏姫を洲崎へ遣わすことにした。

 伏姫は乳母の膝に乗せられて輿に乗った。外から従者が珍しい景色に騒ぐが、姫には楽しそうな様子がなく、とうとう泣き出してしまった。
 がっかりした従者たちは、参拝の旅路の道を急ぐしかなくなった。
 とにかく洲崎に赴き、明神の別当(神仏習合による神社内に建立された寺を司る職名)である養老寺に宿を取り、役行者の石窟へ七日間詣でた。
 こうして結願の日が来ると、従者たちが帰還を急いだので、早速輿は宿を出た。一里ばかり進んだところで、伏姫は酷く泣き出した。付き人の女房や乳母が一生懸命あやし、機嫌を取るために輿から出してなだめすかしても、全然泣き止まない。
 伏姫を抱きながら進む足取りは、遅くなった。

 少し進むと、齢八十余りの老人が一人、白眉が八字で、腰には梓の弓を持ち、握りに鳩の飾りの杖を持った翁が道の真ん中に座っていた。元々忍びの参拝だったので、従者たちは老人を追い払うこともできない。
 翁はじっと伏姫を見つめて、
「これはこれは、里見の姫君ではございませんか。石窟からのお帰りであれば、この翁が加持祈祷して進ぜましょう」
 呼び掛けられた従者たちは驚き、翁を見返すと、様子が尋常の者でなさそうだった。そのせいか、供の老人たちが早速伏姫の事情を全部翁に話してしまった。
 座っていた翁は何度も頷き、
「真に悪霊の祟りが憑りついておるわい。この子の不幸であるなあ。祓うのは決して難しいことではないが、禍福はあざなえる縄のごとし、災厄と幸福はより合わせた縄のように表裏一体であり、一時のそれに一喜一憂しても仕方がない。例えば何か一つを失くしても後でたくさんの助けを得れば、その禍は決して単なる禍にならない。喜んでも悲しんでもいけない。戻ったらこの旨を里見義実夫婦に告げるが良い」
 翁は懐から水晶の数珠を取り出した。
「これを差し上げよう。護身用にせよ。そのうちきっと思い当たることがあるじゃろう」
 翁は誇らしげに説明した。
 水晶の数珠には、仁義礼智忠信孝悌の八字が彫られていた。
 翁が数珠を伏姫の襟に掛けると、供の老人たちは慌てて、額を地面に付け、
「悪霊とは何の祟りでしょうか。詳細をお話いただき、どうか後々まで祓い鎮め下さい」
 と頼み込むと、翁は微笑み、
「妖しきものは徳に勝てない。悪霊が憑りついていても、里見の家はますます栄えるだろうよ。太陽や月が満ちた時、その次は必ず欠けていくものだ。何を祓うのかということを説明することは、天の秘密を漏らす恐れがある。伏姫という名前によって、自ら気づけば分かるかもしれん。しかしこの子はもう泣かなくなるぞ。さあ、もう行きなさい。私も行くことにする」
 と言って洲崎の方へ向かっていくと思う間もなく、姿はかき消したのだった。

 従者たちはしばらく翁の姿が消えていったところを呆然と見ていたが、翁は実は役行者が姿を見せた奇跡に違いない、と言い出し、伏して拝むのだった。
 滝田を目指して帰る途中、果たして伏姫は、泣くこともなく、機嫌良く遊んでいた。ようやくこの日が普通の三歳の幼児に初めて見えて、従者たちの或る者は喜び、或る者は怪しむのだった。
 滝田城に到着し、従者たちは翁の件を里見義実と五十子に報告して、例の八字の刻まれた数珠を見せた。ただならない天の助けと思った二人は、すかさず堀内蔵人貞行を洲崎神社に遣わして、供物を奉納させた。
 伏姫のために、後々までの平穏無事を祈りつつ、数珠を常に姫の首に掛けさせることにしたのだ。

 四年あまりの年が経って、伏姫は七つになった。
 花の様に美しく、天の成せる若々しい美貌は、世に類ない。それだけでなく賢くもあった。昼間は手習いの草紙に向かって、終日飽きることもなかった。夜は管弦の調べに耽って、夜更けまで夢中になって没頭した。
 年齢が十一二になると、和漢の書籍を良く読んで、物事の道理をしっかりと学び、悪いことにはまったく心も移さず、孝貞忠恕、即ち親への孝、操を守る貞、真心の忠、相手を思いやる恕を身につけて普段から振舞うので、母君からの愛情は深かった。
 里見義実はそれを見て、我が娘を誇りに思うのだった。

 さて最近になって長狭郡、富山辺りの村落に奇妙なことがあった。
 技平(わざへい)と呼ばれる百姓の家で仔犬が一匹生まれたのだ。
 雄の仔犬は、世間では一匹で生まれた犬は身体が大きく、力が強く、成長すれば敵はいないと言われているので、飼い主の技平はその気になった。 
 裏門に藁の屋根を持った大きくて立派な犬小屋を作って、朝夕の餌を充分に与えたのである。
 しかしこうして七日が経ったころ、夜に竹垣を壊して、どうやら狼が入ってきて、母犬を食い殺してしまった。夜が明けて、技平は血が流れているのを見てこのことを知ったが、腹が立つばかりでどうしようもなかった。
 せめてもの救いは仔犬だけが助かっていたことだが、母犬を喪って不憫な子犬はいまだ眼が充分に開いていなかった。
 母犬の乳もないので養う手立ても他になく、粥の様なものを与えて、どうにか育てていくが、技平には妻子もなく、元から一人暮らしである。昼は田畑を耕し、家に帰る時間も少ないため、食べ物を与えることも満足にできないでいた。
 手をこまねいてとうとう仔犬の死を覚悟する他なかったが、野良仕事に精を出しているうちに、一日二日経っても仔犬は飢えた様子もなく、生まれて十日目には眼をとうとう開いた。しかも身体も肥えていくのである。
 これはただごとではないと思って、技平は誰にも言わずに、朝と晩に機会を伺っていたが、ある朝早くに起きてみると、年老いた一匹の狸が犬小屋から出て、富山の方に向かって行くのを見た。
 さては仔犬は狸に育てられているに違いない、しかし不思議なことだ、と驚いた技平は、再び見てやろうと決意した。その日の黄昏時、裏門に隠れて狸がやってくるのを待つ間、仔犬は母を慕って何度も鳴いた。
 その時、鬼火か人魂か、妖しい光が滝田の方角からゆらゆらと突然現れた。不思議な光は突然地上に落ち、犬小屋の辺りで急に消えてしまった。
 技平が慌てて見に行くと、今朝見たばかりの狸が富山の方から急いで走ってきて、犬小屋の中に入っていく。子犬は泣き止んで、乳を吸う音だけが聞こえてきた。
 こうして四五十日が経ち、犬は早くも大きくなり、良く歩き、独りでいろいろ食べる様になると、とうとう狸は来なくなった。
 今もこの場所を犬懸と呼ぶ。

 

【関連地図】

【房総志料から考えると、安房郡府中の地から、長狭郡大山寺へ行く道がある。富山へ登ろうとする者は、犬懸から左へ曲がる。また西の方角は平群に向かう。滝田、山下、犬懸の辺りと見えるのはここであろう。】

 このころ杉倉木曽介氏元と堀内蔵人貞行は、里見義実の命を受け、一年ずつ交代で東條の城を守っていた。
 堀内貞行は休暇となり、杉倉氏元と交代して滝田へ帰る途中、例の犬懸の里を通った際に、狸の仔犬育ての話を耳にした。

 

【翁、伏姫を観て後難を知る\瀧田の近くで狸が子犬を育む】

上で翁が伏姫の相を見ております。

下では仔犬を見て驚く堀内さん。玉梓はどこかな、分かりません(-_-;)

 

 始め堀内貞行はこの話を信じなかったが、その噂の真偽を調べようと思い立ち、技平の家へ寄って犬を良く見た。飼い主である技平からいきさつを聞けば、噂通りである。
 姿かたちはまた、唐土の獹韓(ろかん)、我が朝の足往(あゆき)という犬に似ている。
 獹韓は、春秋戦国時代韓の国にいた俊足の賢い犬の名であり、足往は垂仁帝の時代、丹波にいた犬の名で貉(むじな)という獣を食い殺した逸話がある。
 狸に育まれた犬の話は今まで聞いたことのない珍事のため、堀内貞行は滝田に帰ると早速主人にこの話をした。里見義実はこの話に興味を示し、
「伏姫はおしめの取れないうちから犬を怖がって泣いていた。犬を飼っても奥の庭に繋いであるだけで、大した犬はいなかったな。貞行、お主の言うことが本当であれば、その犬は立派なものなのだろう」
 里見義実は日本書紀の話を引いた。
「昔、丹波の桑田村に住んでいた甕襲(みかそ)という人の飼っていた犬は、足往という名前だった。ある日足往は貉を殺したが、その腹から八尺瓊勾玉が出てきた話が日本書紀や垂仁紀に記されている。狸が仔犬を育むという話は、足往の話とは真逆で、あまりにも不思議な話だ。現に狐や狸は犬を嫌うものだが、仔犬が母を亡くしたを知って、犬を嫌うのを忘れて乳を与えて養う、というのは博愛である。また狸という文字は、里に従い、犬に従っている。これは即ち里見の犬、ということだ。私はその犬を見たい。連れて来てくれぬか」
 と言うので、堀内貞行は命に応じて、すぐに犬を連れて来た。
 里見義実が見ると、犬は骨格が大きく太く、高さも他の犬の倍はある。眼は鋭いが、垂れた耳、巻いた尻尾は可愛らしく、手懐けたくなった。体毛は白いが、黒い毛も時折混じっていて、首から尾まで八か所の斑があった。このことから犬に八房と名づけて、奥の庭で繋いで飼うことにした。
 元の飼い主である技平には褒美をやり、それ以来八房は里見家の家中の者に愛されることになった。充分に餌と眠るための敷物まで与えられた。
 枕草子に描かれた一条帝の宮中で飼われた翁丸も八房の厚遇にはかなわないだろうと、皆只不思議に思ったが、主君の愛犬であると丁寧に接した。
 後になっては伏姫もまた可愛がる様になり、近づいた時に八房、八房と呼ぶと、尻尾を振って走って来る様になり、少しもそばを離れないのだった。
 伏姫自身も、春の花、秋の紅葉と数年、梢の色を染め変えて、十六歳になると、ますます美しく気品を備える様になった。その美貌は、美しく咲いた花に、たゆたう月を掛けたようだった。

 その年の秋、八月のころ、安西景連の領地である安房と朝夷の二郡において、作物が実らないと使者の蕪戸訥平が滝田城に遣わされた。
 里見義実に訴えるには、
「天がは我らの所領に災いを起こして、たちまち困窮いたしました。しかし貴領はこの秋も豊作と伝え聞きます。どうか米穀五千俵をお貸しいただけませんでしょうか。来年の収穫を待って、倍にしてお返しいたします」
 援助の乞いに続けて、蕪戸訥平は尚も言った。
「我が主君、安西景連は年齢を重ねて、早や七十を越しましたが、後継ぎの男児も女子もおりません。里見殿のご息女を養子とさせていただき、一族の中から婿を選び、所領をお譲りしようとしきりに考えております。このこと、どうかお許しをいただきたく。最期の願いで幸いでございます」
 と平身低頭して言った。
 しかし里見義実は、
「当家にたくさんの男児がいれば安西家に養子とさせてもらっても良いが、いかんせん一女一男しかおらん。また伏姫を遣わすにも安西景連殿には妻も子もいないので、誰にも利益がない。このことは受けることはできないが、豊作凶作は時運に関わることで、安西殿だけのことではない。隣国の窮状を聞きながら助けないのは、天のお咎めを受けるだろう。養子の件は辞退させていただくが、米穀はご依頼の通り今からお送りしよう」
 と丁寧に返答し、蕪戸訥平を帰らせた。

 このころ堀内貞行は東條の城にいて、杉倉氏元は病気に掛かって自宅に引き籠っていたので、相談する者はいなかった。
 その中で、金碗大輔孝徳はこの年すでに二十歳になっていた。里見義実の近習になっていた。祖父の一作は五年前に亡くなっていたが、病床の介抱には大輔が自ら世話をして、良く面倒を見たのである。それだけではなく、育つうちに父の孝吉の志を受け継いで、忠義第一の若者になっていた。
 今回の安西からの申し出については、主君を諫めて、
「安西景連は普段は疎遠にしているにも拘らず、いざ困難になると姫を養女として求め、米穀を借りようとしています。彼は良く恩義を知る者ではありません。この際ですから討取ってしまえば、一挙に安房一国を手中にでさること疑いございません。もしその願いに答えてしまえば、盗賊に食料を与えて、仇敵に刃を貸すようなものです。ただ出陣の準備が望ましくございます」
 とはばかることなく言うと、里見義実はこれを聞くなり、
「お主の様な弱輩者の分際で何を知っていると言うのか。仇敵と言っても凶作に乗じて攻め込むなど、まともな者のすることではない。まして今、安西景連は敵ではなく、故なくして軍勢を動かすなど無名の戦と申すのだ。無名の戦では人々は従わない。下らないことをいう奴だ」
 と激しく叱って、米穀五千俵を安西景連に送るのだった。

 その次の年のことである。
 里見義実の領地である平群と長狭は凶作となり、安西景連の領地は稲穂が高く実った。先に借りた米を返さないため、滝田の城は皆困窮し難儀した。
 その時金碗大輔は密かに主君に言うのだった。
「隣国隣郡、急を救って互いに助け合い、足らないものを互いに補わなければ、友好してもまったく意味がないでしょう。安西殿は去年の秋、莫大な米穀を借りましたが、こちらの危急を知りながらも、今になっても返しません。安西に頼むまでもないのですが、返却を求めなさらないのですか」
 と何度も言った。
 里見義実は金碗大輔を我が子の様に可愛がったが、他の者の嫉みもあるかもしれないとして、皆の前ではきつく叱咤しながらもその志を励ましてきた。
 金輪大輔は年齢は二十歳を越え、顔かたちは親の八郎孝吉に似て、その才能は父にも決して劣らなかった。
 里見義実は、今年金碗大輔を東條の城主にしようと考えていたが、若さを心配していた。今のまま城主にすると年配の者から嫉妬されると思い、何か一つの功を立てさせて、その褒美として城主任命をしようとしたのだ。
「お主の意見は私の考えと同じだ。お前を使者として安西に遣わそう。しかし貸した五千俵の件はこちらから督促してはならん。この様に言うのだぞ」
 と、丁寧に口上を教え込んでから、次の日に出発させた。

 こうして金碗大輔孝徳は従者を十人あまり率いて、槍を携え、馬に跨って、未明に滝田を旅立った。
 大急ぎで道を進み、安西景連の真野の館に赴いて、老臣の蕪戸訥平に面会するとすぐに、里見の領地の凶作のことと難渋していることを説明し、五千俵の米の救援を丁寧に求めた。
 だが蕪戸訥平はすぐにその場では返答せず、主人に言ってみるとしてそのまま奥に行ったきり、半日あまりも出て来ない。
 金碗大輔は首を伸ばして、今か今かと返答を待ったが、とうとう日が暮れていく。
 ようやく蕪戸訥平が戻って来て、使者の金碗大輔に言うには、
「ご使者のご訪問の趣きにつきましては、詳細に至るまで主人に報告いたしました。しかし主人の安西景連は以前から風邪を引いておりまして、まだ起き上がることができないのです。昨年の秋から里見家に危急をお救いいただきましので、頼まれずとも自ずから倉のすべてを差し出して先恩にお応えすることは問題はございませんが、先年の凶作の後でございますから、現在もまだ米穀が不足しているのでございます。老臣どもを集めて評議をいたし、可否を論じて返答をいたします、というのが主人の口上でございます。今しばらく当地にご逗留いただき、お身体も馬も休め下さい」
 と言って、率先して里見の使節を旅館に連れて行った。そしてもてなすのだった。
 あっという間に五六日がすぐに経過してしまったので、さすがの金碗大輔もいら立って返答を蕪戸訥平に催促するが、何度も責められた訥平はもまた病にかこつけて、とうとう出て来なくなった。
 ここに至って金碗大輔は疑心を起こして、こっそり城中の様子を伺ってみた。どうやら兵士たちは武具の準備や馬具の整備にいそしみ、がやがやと騒いでおり、まるで出陣するかの様である。
 これは怪しい、と驚き騒ぐ胸を鎮めて、安西景連の動向を考えてみた。使者である金碗大輔を出し抜いて、凶作に喘ぐ里見家の危機に乗じて、不意を撃って滝田城を攻めようとしているのに違いない。
 もっと遅くに気づいたら、敵の捕虜となるだろう。今すぐ立たないと危ないと、金碗大輔は従者たちに考えを告げた。姿かたちを変えさせて、一人二人と紛れて城を出て、滝田を目指して帰ることにした。
 

【真野の松原に蕪戸訥平、金碗大輔を追う】

奮戦する金碗大輔さん、あちらこちらに首や腕が( ゚Д゚)

 

 金碗大輔自身も脱出し、一里(約4キロ)あまり離れたところで、遅れて来る従者を待とうと一息吐いた。清水をすくって咽喉を潤し、松に座って流れる汗を拭いた。
 そこへ蕪戸訥平が軍勢を率いて追い掛けて来た。真っ先に馬に乗って先頭に立ち、鐙に踏ん張って声を掛けた。
「金碗大輔孝徳、今更逃げるとは汚いぞ、。お主の主である里見義実は、乞食をしていた浮浪人。白浜へ漂泊し、愚民を惑わし、土地を奪い、平群と長狭の両郡を手中にできたのは、麻呂信時を滅ぼしなさった我が君の助けによるものだ。本来であれば、腰を屈めて、安西殿へ臣従を誓い出仕すべき身なのだ。それを尊大にして傲慢にも、わずかな米を寄越したからと言って、催促するのは、卑しくもけちな行いである」
 蕪戸訥平は続けた。
「またその娘である伏姫が美人であるのをお聞きになって、仮に養女になぞらえて、実は側室にしようと我が君はお考えだったのに、里見義実は愚かにも従わなかった。無礼な奴だ。側室にするにはもう少し時間が足らないと、数年経つのをお許しになったのに、いつまでも我が世の春と思ってもいたのが、お前たち主従の愚かさよ」
 笑う蕪戸訥平である。
「お前は知らないであろう、我が君は三千の軍馬を率いて早くも東條の城を乗っ取り、今頃は滝田を攻めているのだ。お主には帰る場所などない、命が惜しければ降参しろ」
 とほざきにほざく大口を聞いた瞬間、金碗大輔は、
「馬鹿馬鹿しい、鼠め、私は幼いころから聞いていた」
 激怒した。
「お前の主人安西景連は、義に背いて麻呂信時を討ってその領地を我がものとしても、足りることを知らない。しかし我が君は討伐をせず、乞われるままに隣郡として親交を結びなさった。それをこの上ない幸いとは思わず、また奸智を巡らせて、先には数多の米を乞うたにも拘らず、約束に背いていまだ返そうとはしない。こちらの油断を窺い、危機に乗じて、大軍で攻め込むなど、帝も皇国も不義には組しない。みずから滅びようとすること、鏡に映して見ている様だ。主命を受けながら成し遂げられずに空しく帰るこの孝徳の手土産に、お主の首を引き抜いて、主人へ見参させよう、そこを退くなよ」
 槍を引っ提げて、従者たちを左右に従えた金碗大輔は、群がった多くの敵勢の中へ、面も振らずに突っ込んで行った。縦横無尽に戦うが、数はたった七八人しかいないので、必死に戦う間に射ても撃っても敵はものともしない様だった。
 半時あまりの死に物狂いの血戦に敵は三十余騎が倒れて、死骸は路上に横たわった。
 味方はと言えば、七人が命を落として金碗大輔一人になったが、尚も一歩も退かなかった。蕪戸訥平と組もうとして、あちこち走り回ったが、安西勢は眼に余る大軍だった。遂には敵勢に遮られて、訥平に届きそうもない。

 そもそも君子は欺くことはできても、陥れることはできないのだ、と論語に書かれた賢者の考えは、真実なのである。

 里見義実は功績や名声の高い良き将で、仁の心を持って民衆を助け、信義の心を持って、隣国と親交を結んでいる。
 一方、安西景連の悪巧みは極まりない。彼を欺くためには、更に悪巧みを考えなくてはならないのだ。
 里見義実にいくら古代中国の賢人の様な才能があったとしても、安西景連の様な悪知恵に騙されるということは、そもそも仕方がないことなのである。

(続く……かも)

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