馬鹿琴の独り言

独り言を綴ります。時にはお相手して下さい。

なぜなに八犬伝Ⅱ

2024-05-31 01:01:03 | 南総里見八犬伝

第六回から第十回まで超意訳:南総里見八犬伝をお届けしました。
まだ八犬士は出ていませんが、もうすぐ登場の予定です。

再び小ネタ集です、気になったことを書いてみました。

①玉梓の言い分には一理あり
裁判の場で悪女玉梓は、検事兼裁判官の金碗孝吉にこう言っています。

「私は先君神余光弘様の本妻ではございません。(神余)光弘様が亡くなってからは、寄る辺なきこの身を山下様に思われて、深窓でお世話をいただいたのでございます。ずっと夢を見ているだけの囚われの身となったこと、過去の因果かもしれません。またお城勤めの初めから私事で政治を行い、忠臣を失わせた山下様に原因がある、というのは傍にいる方々の嫉妬であり、本当のことではございません」

「神余の殿の老臣、若党、禄高が高い方々もほとんどのお侍の方々が、神余にも山下にも二君にお仕えして、まったく恥とは思っておられません。金碗(孝吉)殿、あなた様におかれては、なまじご主君を凌ぐ器量をお持ちになったためか、ご主君の元を逐電、更に里見に従って、滝田のお城を落とされた。しかしうさぎの毛ほども、先君のおためにはなっておりません。皆様、おのおのご自身の利益のために山下様にお仕えし、従ったのです。男子ですらその有様ですのに、女子の身の上にはいろいろな見方がございます」

「どうして玉梓独りに無実の罪を着せて、憎い者となさろうとするのです。納得できない讒言です」

長々引用しましたが、どうです、一理あるとは思いませんか?

私は意外と玉梓の言い分が正しくないかと思ってしまったのです。
山下定包の出世に嫉妬した神余の家臣団が、山下排斥派と山下追従派に分かれて、内紛を起こした説も考えられますね。
権力を欲しいままにして贅沢の限りを尽くし、主君を罠にはめて殺害した山下定包は悪人ですが、愛妾の玉梓が糾弾されるべき点は検事の金碗孝吉の指摘通り恐らく以下の2つ。

・山下定包と密通した件
神余光弘存命中から、家臣と密通してしまったのはいただけません。
こちらは有罪。

・主君に讒言して賄賂をもらった相手の便宜を図り、有能な家臣を排した件
こちらは金碗孝吉が言っているだけで、他の例が無いのですよ。
いえ、第二回で文章の中では、以下の通り述べられていました。

 (神余)は数多くいる側室の中でも、玉梓という淫婦を寵愛した。領内の裁判ごとすら、玉梓に問う様になってしまった。
 玉梓に賄賂を使った者はたとえ罪があっても賞され、玉梓に媚びなければ功があっても用いられることはなくなった。これにより家中はひどく乱れて、良臣は退けられて去り、心の邪まな悪人が徐々に増えてくる様になった。

うーむ、地の文で、作者であり神でもある馬琴翁に言わしているので、事実なんでしょう、やっぱりGuilty!!

で判決なんですが、死刑(斬首)は重過ぎではありません?
こんな爆弾娘、故郷に帰らせてはまた事件になるのは必至ですので、尼僧にするとかはいかがでしょう。

は!!
私、玉梓の肩を持ってしまっていますね、これも彼女の術中かもしれません。

②金碗孝吉、濃萩ちゃんに酷過ぎな件について
金碗孝吉は神余家を出奔してから、上総の国天羽郡関村の一作爺さんのところに世話になります。
若き血潮が堪え切れず、こともあろうに一作爺さんの愛娘の濃萩ちゃんと結ばれてしまいます。
枕の数が重なるうちに、とありますから一晩の関係ではなく、恐らく何回も(;゚д゚)ゴクリ…

どっちからなんでしょうね、迫ったのは。
金碗孝吉と言いたいところですが、昔は貴人に娘を「提供」する話は良くありますから、意外と一作爺さんも噛んでいて、濃萩ちゃんをけしかけたのかもしれませんよ。
金碗孝吉が貴人がどうかは分かりませんが、神余の一族、一作爺さんは昔金碗家に仕えていたので、主筋ですからありえる話でしょう。
それとも農家で働く濃萩ちゃんの健康的なお色気に負けて、金碗孝吉が忍んで夜這いした、なんてのも考えられます。
まあどっちが手を出した、というのは二の次で、ここで論じたいのは、金碗孝吉の態度です。

「私は浅ましき所業をしてしまったと百回も千回も悔い、後悔が立ちませんので、人目を避けて濃萩には堕胎しろとは勧めました」
どこかのタレントの様な台詞ですぞ。馬琴翁のころからこんな輩がいたのですね。
酷過ぎませんかね、この対応は。

とうとう責任も取らずに手紙だけ残して諸国を流浪した金碗孝吉さんに対して、一作爺さんの台詞が泣かせるのです。

「(金碗孝吉は)妻も子もない旅の身の上、慰めようとした我が娘の濃萩は、淫乱奔放に似て、決してそうではありません。あなた様の氏素性は自分の故主、その子を宿し、娘は天晴れ果報者、良き婿を迎えたと、心の中では婆と一緒に喜んでおりました。しかし事情を知らない私はいろいろ考えている間に、あなた様は出て行ってしまい、帰らなかった。行方を探すこともできずに娘は、程なく臨月に産み落としたのは男の子でした。めでたいめでたいと祝う間もなく、濃萩は募るもの思いからか産後の肥立ちも悪く、とうとう十万億土のあの世に逝ってしまいました」

哀れなる濃萩ちゃん、実は濃萩も悪霊だったりして ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

③呪いを解かない役行者
役行者小角は、634年舒明天皇6年から701年大宝元年まで生きたと言われております。
前鬼後鬼を従えて、修験道に秀で、また奇跡を見せたそうです。
晩年65才の時に伊豆大島に流刑となったのは、本編第八回の通りです。
歩いて洲崎神社まで波涛を越えてやって来たかは知りませんが。

室町期まで生きていた(?)役行者らしき翁は、幼い伏姫の人相を観ます。
そして悪霊が呪詛をしているのを見抜き、アドバイスをしてから、八字の入った数珠を渡して去って行きます。

ちょぉ待てや!

「真に悪霊の祟りが憑りついておるわい。この子の不幸であるなあ。祓うのは決して難しいことではないが、禍福はあざなえる縄のごとし、災厄と幸福はより合わせた縄のように表裏一体であり、一時のそれに一喜一憂しても仕方がない」

仕方がない、じゃねえし。
祓うのは決して難しくないとか言ってきながら去って行くなよ!

ここで玉梓を祓っておけば、万々歳じゃないのでしょうかねえ(# ゚Д゚)
ははーん、本当は悪霊を祓えないんじゃないんですかねえ?

馬琴翁も「祓うのはなかなかに困難じゃ」とか言わせれば良かったのに、役行者の品格を落とせなかったのか、上記の台詞を言わせたのでしょうか。
でも呪いを解いたら物語は終わってしまうので、文字通り仕方がないのです。そう考えましょ。

④御曹司里見義成のアイデアはNG
第九回、不作の折、安西に攻められた里見勢は滝田城に籠城します。
約1週間、食べ物を口にしていない里見勢はぼろぼろ。1週間は長いなあ~

ここで里見の御曹司義成君16才は起死回生のアイデアを出すのです。
よ、御曹司!未来の殿様!!将来の安房国主様!!!


そのアイデアとは、

「大声の者を選んで、城の櫓に登って、寄手に対して安西景連の非道なる行い、盟約を破り、恩を仇として、不義の戦を起こした、というその罪を責めさせれば、安西の士卒もたちまち慚愧して、戦う心を失くすでしょう。その時こそ城から打って出て、ただ一揉みに」

え?それが計略?だ、大丈夫?
ねえ、義成君、それ本気?

結果的には、飢餓の極致を迎えた者は大声を出せませんでした。
しかも涙に暮れて、咳込むばかりとは可哀そうな結末でした。

同輩の武士にも、
「ほら、あいつ、声が出せなかったらしいよ」
「ああ、あいつな。あの後泣きまくってたわ」
とか囁かれたりして。

彼には安西景連討伐後に粥を食べてもらって、元気になってもらいたいものです。

にしても、里見義成の将としての器がちと心配になります。
バカ殿じゃなきゃ良いのですが。杉倉殿、堀内殿、補佐を頼みましたぞ。

⑤気になる八房の大きさ
第十回、八房は城を出た伏姫を背中に乗せます。
八房の大きさはどれくらいなんでしょうね。

そもそも伏姫は花も恥じらう17才。体重は……

明治33年で17才女子の平均体重は47.0キロ。

明治33年以降5か年ごと学校保健統計

5 明治33年以降5か年ごと学校保健統計:文部科学省

室町期ですので、もう少し削って45キロくらいと見繕いましょうか。

昔、名犬ジョリィなんてアニメがありました。

ピレネー犬はこんな感じ(笑)

 

グレートピレニーズ(ピレネー犬)なんて犬種は白く大きな犬で、主人公のセバスチャンを楽々と乗せています。
でもセバスチャンは7才の男の子……上の日本の統計でも明治33年で7才男子は20.0キロ、スペイン人の平均体重は見当たらず、まあ少し重くして22キロくらい?

一方グレートピレニーズは体高80センチ、体重は60キロが大きい方だそうですが、20キロの子供ならともかく17才女子の40数キロは厳しそう。

YAHOO知恵袋で同じ様に聞いている人がいましたのでご紹介。
人が乗れる犬なんているの?

 

 

人が乗れる犬なんているの? - そんな犬はいませんよ(;^_^A犬の背中に子供を乗せるのは、たとえ大型犬でも、細身で小柄なお母... - Yahoo!知恵袋

人が乗れる犬なんているの? そんな犬はいませんよ(;^_^A犬の背中に子供を乗せるのは、たとえ大型犬でも、細身で小柄なお母さんが、子供の相手でお馬さんをやってるような...

Yahoo!知恵袋

 

 

まして八房は日本の犬ですから、グレートピレネーズ並みの体格はないと思うのですよ。

玉梓の呪いと老狸に育てられた魔犬八房だからこそ、伏姫を乗せることができたのでしょう。そう思うことにしましょう。

⑥八房よどこへ行く?
第十回、伏姫を背中に乗せた八房は、るんるん気分で愛の逃避行に向かいます。


八房は滝田の城を出ると、急ぐ様に姫を背中に乗せて、安房の国府跡の方に向かって、飛ぶ鳥の様に速く走り出した。
どれくらい走ったのか、犬懸の里に至ると徒歩の者は遥か彼方にあり、尼崎輝武に従う者は、一人か二人になっていた。
いつのまにか明け方となり、富山の奥に入って来ていた。

コースはこうですね。
滝田城 → 安房国 → 犬懸の里 → 富山

地図を見て下さい。

安房国府の場所は今も分かっていないのですが、国分寺、国分尼寺の跡があり、その北側に今も府中という地名が残っていました。
ですからこのアバウトな地図が正しいとすると、滝田から南下して国分寺や国府跡に向かったことになるのです。

しかし行ったとは書いておらず、向かったけれど気を取り直して(笑)、また北上、今度は八房が生まれた誕生地の犬懸方面に着くのです。犬懸に至ったと書いてあります。
狼に殺されたお母さんにお嫁さんを紹介したのでしょうかね。


この辺り、実際には犬掛という地名があり、犬掛古戦場跡という里見家の内紛の跡地もあるんですよ。

その後はまた少し南下して、富山登山に向かうという訳です。

無駄なコースを取る八房さんですが、姫を乗せて錯乱気味だったのかもしれませんね。
滝田城を出て、犬懸に行ってから富山に向かうのが合理的ですが、距離と時間を稼ぐために、馬琴翁は八房を迷走させたのでしょうか。

⑦富山から七浦は見えるか?
第十回、富山は安房の国第一の高さの山であり、伊予ヶ岳と競い合っている。富山の頂きに登ると、那古、洲崎、七浦に波が寄るのさえ見えるという、と書いてあります。

那古、洲崎は内房側、七浦は外房側です。
またもや地図をご覧下さいな。

那古は見えそうですね。洲崎も遥か彼方の岬の先で見えそう。
七浦は……えーっ、こりゃ無理じゃありませんか?
反対側ですよ。
私はまだ富山に登ったことがありませんが、一番高いところで349メートル。
七浦なんて、無理無理。

と思いましたが、富山展望台のストリートビューを見てびっくり、吃驚、( ゚Д゚)
こちら富山展望台から見た七浦のある東南方面の光景。

©Googleさん

海見えてません?七浦は漁港ですので、ギリギリ見えるのかもしれませんよ。

馬琴翁、疑ってすいませんでした。

いつか富山に登ってみて確かめてきますね。

以上なぜなに八犬伝Ⅱでした、でわまた。

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超意訳:南総里見八犬伝【第十回 禁を犯して、金碗孝徳、女性を失う/腹を裂いて伏姫、八犬士を走らす】

2024-05-31 00:17:42 | 南総里見八犬伝

【第十回 禁を犯して、金碗孝徳、女性を失う/腹を裂いて伏姫、八犬士を走らす】

 里見義実の夫人五十子は、八房の異常事態を侍女から聞くと驚き、裾を掲げて急いで伏姫の部屋に駆けつけた。
 部屋に着いてみれば、侍女たちは戸口にいて、亭主の治部少輔殿が中にいる。どうやら娘の姫は無事の様だが、父娘が犬を交えて問答の最中だ。
 問答の言の葉を最後まで立ち聞き、さめざめと母は泣いた。
 それを知らずに侍女たちは部屋から出ていく犬を恐れて、思わず左右に開いた。隠れて泣いてもいられないので、中に走って入り、伏姫の隣に伏して声を洩らして泣いた。里見義実はみずからの罪を恥じて何も言えない。
 伏姫は母の背を何回も撫でて、
「お話をお聞きになりましたか。ご気分を悪くしないで下さい」
 と慰められて、母上は頭をもたげて涙を拭い、
「聞かれるまでもなく、悲しいに決まっている。伏姫よ、賢しいあなたは殿のお言葉に裏表があってはならず、賞罰の道は正しくあれと言う。なのにあなたは名を汚して、身を捨てようとする。それは父上には親孝行なのでしょう、情に反し、俗世に背けば誰がこれを褒めるのでしょうか。およそ生きとし生けるもの、両親のいないものはない。母が嘆かない訳がないでしょう」
 母の声が強くなった。
「しかし心は強いもの、幼い時は病気がちだったのに、母の苦労もようやくに、昔語りに思い出話にでもできようかと育ってくれた。更に月よ花よと美しくなってくれたのに、自分からその身を贄にするなど口惜しいとは思わぬのか。そうならそれは妖しい物の怪の執念であろう。眼を覚ましなさい、起きなさい。年来信奉してきた神のご加護も御仏のご利益もこの世にはないものか」
 と娘を泣きながら繰り返し諭す母の慈悲に、堪えきれず伏姫も涙を袖に押し包んだ。
「母上の言われる通り不孝の罪は重い、重いことこの上ないのでございます。親の嘆きも顧みず、この世を去りし後も犬の妻となったことで名を汚すことは悲しみますが、これも運命のいたすところ、逃れられぬ因果と思い定めております」
 伏姫は左手に掛けていた数珠を見せた。
「これをご覧下さいまし」
 数珠を右手に取って、
「私が幼かりし時、役行者の化身かと思われる不思議な翁が下さったもので、以来この身から放しておりません。この水晶の念珠には、玉に文字がありまして仁義礼智忠信孝悌と読むことができます。この文字は彫られたのではなく、また漆などで書かれたものでもありません。自然に出来ていて見ることができるのです。毎年毎日手に触れても、摩滅することはありません。安西景連が滅んだ時、良く見ると、仁義の八字がなくなって、異なる文字に変わっていました。このころから八房が私に懸想する様になりました。これもまた不思議の一つです。宿世に定まった因果応報か、と嘆くのは昨日今日だけではありません。死期を待たずに先に死んでしまいたい、と思ったのは何回となくございます。手に刃を取って、いいえ、この世で悪業を滅ぼせないのは、後の世に浮かぶよすがもございません。本当であれば、嵐の山に散る花の、身のなる果てを、神と親とに従うつもりでございましたのに、と浮世の秋を憂いながら思うのです」
 伏姫は母を見て寂しげに笑った。
「過去の因果応報をお知りになれば、お恨みも繰り言もたちまち晴れて消えてしまうかもしれません。今まで十七年あまり慈しみお育ていただいたことを仇にして無下にする私のことを、子を子とも思わず、前世の怨敵であるとお思い下さい。そしてどうか恩義を断ち、私はご勘当下さい。この身に受ける恥辱は、西方浄土の阿弥陀にお救いいただくのです。仏の御手の糸すすきの下にこの身を置いても、最後に悪業が消滅するのであれば、安心して果てることができるのです。ただ」
「ただ、とは」
 と母は問う。
「ただ願わしくは、どうかこれをご覧下さい」
 と差し出した数珠の上に涙をこぼして、いまだ百八の煩悩の迷いが解けない母君は、疑わし気に伏姫を見つめた。
「なぜ最初から私たちにすべてを話さなかったか。その数珠に現れた新しい文字はどのようなものであったのか」
 尋ねると今まで黙っていた里見義実が口を開いた。
「見せてごらん」
 と数珠を取って、何度も見てはため息を吐いた。
「五十子、覚悟を決めなさい。仁義礼智の文字は消えて、現れたのは」
 里見義実は、何かを悟っていた。

「現れたのは、如是畜生発菩提心の八字だ」
 里見義実は達観していた。
「仁義礼智忠信孝悌の八行五常は人にあるものだと思う。悟りを求めようという菩提心は、すべての人も獣も持っている。姫の因果も、今、八房という畜生に導かれて、菩提の道へ進むのであれば、来世では安堵できるであろう。真に貴賤と栄辱は人々それぞれの生き様の結果なのだ」
 妻と娘の肩に手を掛けた。
「姫が十五の春のころから、隣国の武士はもちろん、あちらこちらの大小名が己のために、或いは我が子のために、婚姻を求めてきた。数は覚えていないが、私は一切承知しなかった。今年は金碗大輔を東條の城主にして、伏姫に娶せてやろうと思っていたのだ。功がありながら賞を辞退して、自決した金碗孝吉に報いてやろうと考えていたのに、言葉を誤って八房に愛娘を許すのも因果応報なのだ。五十子よ、この義実を恨むが良い。ただこの数珠の文字を見て悟りなさい」
 と妻を慰めて、説いたが、袖で顔を覆い声を曇らせて泣くばかりである。伏姫の部屋は雨模様だった。

 名残惜しいことではあるが、伏姫は今宵城を出ようとその用意を始めた。
 しかし、
「生きてここに戻ろうとは思わない。ただこのままに」
 と言って、玉で飾ったかんざしを捨てて、白い小袖だけを重ね着て、如是畜生発菩提心の浮かんだ数珠を襟に掛け、法華経の経文と筆と紙の他には何も持とうとはしなかった。見送りの従者も固く固辞をするのだ。
 まだどこに行くかは分からないが、八房が行きたいと思うところへ、そして八房が留まったところこそ、自分の死に場所と思い定めた。
 そして、八房が滝田を今晩出発しないのであればともに命はない、として犬に言い聞かせた。

 時、もはや黄昏が近い。
 しかし母君の五十子は別れを惜しんで、出発しようとする姫を引き留め、ただ号泣していた。長年仕える侍女たちも伏して泣くばかりで、支度を手伝う者もいない。
 ようやく伏姫は気丈に振舞って、母君を慰めて別れを告げることができた。そして侍女たちに見送られて、外に出た。日はもう暮れていて、庭の樹木の間から洩れる月の光は明るかった。
 すでに八房は縁側の下にいた。姫君が出てくるのを先ほどからおとなしく待っていたのだ。
 その時、伏姫は犬の近くに寄って、
「八房か、お前に申したいことがある。聞くが良い。人間には貴賤のけじめがある。婚姻はその分に従い、皆、類を以って友をとする。穢多や非人、乞食といえども畜生を良人とし、妻としたためしはない。まして私は国主の娘、普通の人の妻とはなれない。それを今、犬畜生に身を捨て、命を任せること、これも前世の応報か。しかしながら」
 伏姫の声が強くなった。
「父君の御錠は重い。ことをわきまえず、私に情欲を遂げようとするなら、ここにある我が懐剣でお前を殺して、私も死のう。また一時の義を以ってお前を伴っていこうとも、人間と犬の異類の境界を守って、恋慕の想いを断つならば」
 犬も姫の顔を見返した。
「お前は私のために菩提への道を導くものとなれ。その時こそ、お前の望むまま、どこまでも行こう。八房、分かったか」
 と懐剣を逆手に持って問い詰めると、犬は分かったとばかりに、それでも憂えた様な顔であったが、たちまち頭を挙げて姫を見た。
 そしてわんと吠えて、蒼天を仰ぎ、誓った様な姿勢を取ったのである。
 安心したのか、伏姫は刃を収めて、
「では行こう」
 姫が言えば、八房は先に立って、屋敷の扉、中門、西の門を越えて行く。その後に着いて、伏姫は静かに歩いた。
 後には、母君と侍女が声を上げて泣く声が聞こえ、父の里見義実も遠く離れた場所からしばらくの間、見送っていた。
 前漢の王昭君が遠く匈奴に嫁入りした時の悲しい別離の情は、この様なものであったのかもしれない。

 伏姫は見送りや護衛の従者を固く辞退したが、里見義実も五十子は娘の旅立ちが心配であった。後をつけてみよ、と尼崎十郎輝武に数人付けさせて見張るように命じた。
 尼崎輝武は元東條の郷士だった。先には杉倉氏元の手に属し、麻呂信時の首を取ったのだ。その軍功を賞せられ、滝田に召出されて、里見義実の近くで仕えていた。数年経ったので主君は彼を選んで、供に立たせることもあった。
 その尼崎輝武は馬に乗って配下を率いて、一町(約110メートル)ばかり後から姫の後を追っていた。
 八房は滝田の城を出ると、急ぐ様に姫を背中に乗せて、安房の国府跡の方に向かって、飛ぶ鳥の様に速く走り出した。それを見た尼崎輝武は遅れまい、と何度も馬を鞭を当てた。配下たちは喘ぎながら、汗だらけになって追い掛けた。
 どれくらい走ったのか、犬懸の里に至ると徒歩の者は遥か彼方にあり、尼崎輝武に従う者は、一人か二人になっていた。丈夫な馬と尼崎輝武は乗馬の達人のため、伏姫と八房の行方を失わないようにと終夜走り続け、いつのまにか明け方となり、富山の奥に入って来ていた。

 そもそも富山は安房の国第一の高さの山であり、伊予ヶ岳と競い合っている。富山の頂きに登ると、那古、洲崎、七浦に波が寄るのさえ見えるという。
 山中には人里がなく、大樹が枝を伸ばして昼なお暗い。いばらやとげは木こりだけが歩く道を埋め、苔が伸び放題で霧が深い。
 配下を一人連れた尼崎十郎輝武は馬で山道を登って来た。息継ぎもそこそこに山をよじ登って行く。見渡せば山また山に雲がようやく消えて、遥か彼方を見上げると、伏姫と八房が見えた。伏姫は経を背負い、紙と硯を膝に乗せて、八房の背に尻を掛けていた。
 犬は谷川を渡り、山の奥へ深く深く入って行く。
 尼崎輝武は何とか川のほとりまで来たが、水が深く流れが速く、とても渡れそうもない。
「はるばるここまで来た甲斐もなく、川一筋に遮られてしまった。姫の行方を見極められず、ここから帰ることなどできまい。川の深さの瀬踏みをしてみよう」
 と急いで川へ降りて、杖に力を込めて歩こうとした瞬間、水の勢いに横に押し倒されてしまった。
 ただ一言、ああっと叫んだが、頭を石に打ち砕かれ、勢いよく流れていく水の中へ、亡骸も残すことはなかった。

 尼崎輝武は海辺の出身であり泳ぎの達者でもあったのに、こんなにも儚く水に流されてしまった。これすらも何かの祟りかと尼崎の配下は怖気づいて、山のふもとに降り、ようやく追いついて来たほかの同僚たちに事情を説明した。そして次の日の夜が来るまでに滝田の城へ戻り、主人へ子細を話したのである。
 里見義実は話を聞くと、もう二度と人を富山に送ろうとはしなかった。ただ国中に木こり、炭焼きであっても富山入山禁止の布令を出した。
 もし富山に入る者がいれば必ず死刑にすると厳重に取り締まることにしたのだ。
 また尼崎輝武の横死を深く悼んで、その子を召出した。

 そんなことがあったが、五十子はとにかく伏姫のことが忘れられず、洲崎の行者の石窟へ代参と方便を言い、毎月毎月侍女の頭を密かに富山に遣わした。姫の在りかを調べさせ、安否を探ろうとするが、尼崎輝武が流された川より向うへは、皆恐れて渡ることができなかった。元より川の向こうにはいつも雲と霧が立ち込めて、視界が悪く、行けなかった。侍女らは向かっては帰るを繰り返し、早くも月が替わってしまった。

 ここにまた金碗大輔孝徳は、先に安西景連の手中に落ちて、安西勢が滝田城を囲んでいるのが分からなかったが、何とか逃げ出した。
 途中の道で蕪戸訥平らに追いつかれて、多勢を相手に血戦し、従者は皆討たれてしまった。しかし我が身一つだけは虎口を逃れて、ようやく滝田に到着したが、周囲には敵の大軍が充満しており、しかも攻め込まれていたので、城に潜り込むことはとうとう出来なかった。
 せめて堀内貞行にことを告げて援軍を頼もうとして東條へ走ったが、こちらも蕪戸訥平らの大軍が取り囲んでおり、籠の中の鳥と変わりなく、どうしても入城する手立てが見つからない。
 金碗大輔は考えた。

 もはや手立てがなく滝田で一騎だけでも討ち取って、城を枕に討ち死にすれば良かったのに、今は悔やんでも仕方がない。
 大事な使者の命を仕損じて、あまつさえ主君の危機にも役立たずである。
 万一、両城の囲みが解けて、主君が無事であってもその際何の面目があって、顔を合わすことができるだろう。
 この際、蕪戸の陣に突っ込んで、斬り死にしよう。
 だが、しかし。

 金碗大輔の考えは一転した。

 逸る思いを押し鎮めて考え直してみると、身一つで数百騎の敵軍へ攻め込むのは、卵で石を押すよりも無駄なことだ。命を捨てても敵に損害はなく、味方にも役に立たないことであれば、まったく不忠なことになってしまう。
 滝田も東條も元から兵糧が乏しい。この際、鎌倉に推参して、公方の足利成氏様に急を告げ、援軍の兵をお願いして、敵を打ち払い厄災を解けば私の過ちを詫びてお許しをいただくことができるだろう、これに勝る手段はあるまい。
 急いで鎌倉へ行かねば、と思案して、白浜から渡し船に乗って、すぐさま関東管領の御所へ向かった。早速、里見義実の使者と称して事情を説明して滝田の城の急を告げ、救援要請をしたものの、肝心の書簡がないので信用されず却って疑われてしまった。
 また数日を無駄に過ごしてしまい、仕方なく安房に立ち戻ることにしたが、戻ると安西景連はとっくに滅んでおり、安房一国はすでに里見義実によって統一されていた。
 安堵はしたがいよいよ帰参の手立てがなく、今更腹も切れない。時節を待ってこの件の詫びを入れようと、故郷の上総天羽の関村に赴いた。隠れ家にするつもりで、祖父一作の親族である百姓の某の家に身を寄せたのだ。
 一年あまりいる間に、伏姫のことが聞こえてきた。犬の八房に伴われ富山の奥へ入り、その後の安否は不明だという。

【一言、信を守って伏姫、深山に畜生に伴われる】

柳川さんは犬の正面の顔がお得意ではなかったのかな、こりゃまた失礼。

右側には金碗大輔がいますが鉄砲を持ってますね……嫌な予感しかしないのです(´・ω・`)

 

 そのために母君は物思いに耽り、病気になって長い間横になっていると教えてくれる者もいて、金碗大輔はひどく驚いた。

 主君の里見義実は失言をしたが、愛娘の伏姫はまさしく貴人の息女として生まれてきたのに、犬畜生に伴われ、富山に入ってしまった。里の人々の口調も残念がっている。

 例の犬には、何かの霊が憑依して、神通力か魔力を持ってしまったが、倒すことは難しくないはずだ。富山を登り、八房を殺して姫君を連れて滝田城に戻れば、自分の失敗は許されること間違いなしと、金碗大輔は結論した。
 宿の主には、神仏に心願があって詣でたい、とまことしやかに言って、密かに安房へ舞い戻った。そして用意した鉄砲を引き下げて、富山の奥へ分け入って行った。
 そして伏姫の所在を探しに探し続けて、山の中で暮らし、夜を明かして、五六日経ったころ、靄の深い谷川の向こうに人の気配を感じた。
 もしやと騒ぐ胸を鎮めて、水際で耳を良く澄ますと、女の経を読む声がかすかに聞こえるのだった。

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 作者曰く、この段は八犬士の起こるべき由縁を述べ記して、物語第五巻の終わりと定め、すでに前書きに十回の題目を載せたといっても、思っていたよりも物語は長くなった。巻の頁数は一杯になり、この回を終えるにも方法がない。巻の数も決まりがあり、頁数にも限りがある。
 毎回限りを越える時は、超過した原稿の分の稿料に便宜を図ることができないという出版社の主張も見過ごすことはできない。従って、余った原稿は回を新たにして、明くる年に必ず出すことにしよう。
 おおよそここに述べたのは、この小説の発端のみである。これからの続きは、八犬士が世に現れることに触れる。この後、年を経て、八犬士は八方に出生し、集まり散ずることがある。因果応報があって、遂に里見の家臣となる八人の列伝は、前後があり、長い時も短い時もあるだろう。
 まだそこまで考えが及ばず、年を重ねて、回を重ねて、すべての物語とすることは、先に私、滝沢馬琴が著した椿説弓張月の様になるだろう。
 読者よ、幸いに察して欲しい。

 時に1814年文化十一年甲戌の秋九月十七日、鳥の屋(鳥が鳴く筆者の書斎は東であり、東国人の方言は分かりにくいだろう)に筆を置く。

著作   曲亭馬琴
清書   千形仲道
作画   柳川重信
挿絵彫刻 朝倉伊八郎

曲亭(滝沢馬琴)新作 絵入り小説目録 山青堂出版

袈裟御前七條法語(けさごぜんしちじょうほうご)
この書は今年発行の予定とかねてからご案内していたが、南総里見八犬伝を書くために完成が遅れている。
近々発行の思いがあるため、また題名を出している。

美濃旧衣八丈綺談(みのふるきぬはちじょうきだん)
葛飾北嵩 作画 全五冊

馬琴 扇に賛辞
家伝 神女湯 精製きおう丸 婦人向けの生理痛妙薬など大阪心斎橋筋唐物町河内屋太助方にあり
扇は江戸神田鍋町柏屋半蔵方にもあり

朝夷巡島記(あさひなしまめぐりのき)
歌川豊広 作画 初編五巻
この作品は長く書名を掲げなかったが今年ようやく原稿を掛けて刊行出来た
初編二編は遅滞なく出版済み

南総里見八犬伝第二集五巻 来たる猪の年1815年文化十二年の冬、遅滞なく発刊する

1814年文化十一年歳次甲戌
           大坂心斎橋筋唐物町南へ入 森本太助
           江戸馬食町三丁目     若林清兵衛
刊行書店
           本所松坂町二丁目     平林庄五郎
           筋違橋御門外神田平永町  山崎平八

1814年文化十一年冬十一月吉日発販

(続く……かも)

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近江神宮に行ってきました

2024-05-27 02:09:26 | 日記

2024年5月26日、近江神宮に行ってきました。

宇佐山城の帰り、御城印をGETするためです。

よいこの森保育園を抜けるとそこはもう近江神宮の境内です。

いきなり石碑がありました。

高市黒人さんという飛鳥時代の方の歌。万葉集にあるそうです。

 

楽浪乃国都美神乃浦佐備而

荒有京見者悲毛

 

とあります。仮名がないとなんのこっちゃ、ですね。

 

ささなみの国の 御神の心さして

荒れたる京 見れば悲しも

 

楽浪は朝鮮半島北側のことかと思ったら、琵琶湖西側を楽浪、でさざなみと読むのですって。

知りませんでした~

あ、鳥居が外にあるので一旦外に出て入り直します。

なかなかに大きいですね。

石碑のところから見ました。

では進みましょう。

これは近江神宮ならではの景色。眼に痛いくらいの朱です。

七五三のお祝いのご家族がいますねえ。

境内から見た楼門です。本当に赤いのです。

一転して黒い外拝殿。楼門と対照的です。

下山の無事のお礼をこちらでもいたします。

南側の回廊も神秘的。

ここから先は神域なんです。

反対側北側には栖松遥拝殿(せいしょうようはいでん)。

旧高松宮の祭祀を執り行っておられるそうです。

高松宮は後陽成天皇の第七皇子を祖として1625年寛永2年に始まり、途中有栖川宮家に改称します。

近代に入って1913年大正2年に高松宮の号が復活しますが、平成で廃絶してしまいました。

宮家も大変ですねえ~

そういえば競馬競輪競艇には高松宮の名を冠した試合がありますね。

調べたらバスケットやハンドボール、野球、弓道にもありました。

 

更に進むと神楽殿がありましたが、今日は無人でした。

壁に

かるたの札が貼ってありました。女流歌人を2枚どうぞ。

そう言えば、ここはかるたの聖地にしてかるた甲子園の舞台です。近江勧学館に行ってみましょう。

こちらが決戦の舞台です。中に入れるみたいです。

ちはやふるのヒロインズがお出迎えです。

2階にも行けるようですよ。

周防名人、こんなところで何してはるんですか?

新君も越前から来ていました。

肉まん君も駒野君もいましたよ、撮らなくてごめんなさい。

靴を脱いで上がります。

うっひゃーこれこそかるたの会場ですよ。

私なんかは畳に入れませんでした、独特のオーラがあって。

後ろから来たご家族はずんずん入っていきましたが(笑)

これも聖地巡礼になるんでしょうねえ。

 

おっと御城印をいただきに行かねば、ということで再び神社に戻ります。

漏刻。

何と1964年昭和39年、時計のオメガ社総代理店さんの奉納なんですってΣ(・□・;)

その奥に時計館宝物館があって、その中で御城印を頂戴しました。

またあの近江神宮楼門を見ながら、後にします。

大津京の跡地を見ながら引き上げる途中、京阪電車の線路を横切りました。

ちはやふるのラッピング車はもうないのかな?

お昼でお腹が空きました。近くに新福菜館さんのお店があるので、参ります。

これです、黒い炒飯と黒いラーメン。

水も補給しながらパクパクと食べてしまいました。

それでは帰ります、でわ。

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宇佐山城に登ってきました

2024-05-26 23:57:05 | 城攻め

2024年5月26日、宇佐山城に登ってきました。

宇佐山城はこんなお城です。

第28回 宇佐山城 - 近江の城めぐり|出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖

信長包囲網に絡め取られた織田信長さんは、摂津の野田・福島方面で本願寺勢と三好勢、雑賀・根来勢と激闘中。

近江西側を守っていたのが、この宇佐山城で琵琶湖西側に位置していました。

西側となると、比叡山、浅井・朝倉と当たることになります。

当時城を守っていたのが、信長の弟、織田信治さんと歴戦の猛将森可成(蘭丸の父)。

信長の主力が摂津方面にいることを知った反信長軍団は急遽、邪魔な( ゚Д゚)宇佐山城に襲い掛かります。

守る織田勢は1,000人くらい、浅井・朝倉勢は比叡山延暦寺の僧兵も加わって、何と30,000!!

激闘の末、織田信治、森可成は戦死、しかし宇佐山城は落城しません。森可成の家老が必死に守るのです。

宇佐山城ピンチを知った信長は急いで近江へ転身、宇佐山攻略を諦めた浅井・朝倉勢は山科辺りまで出陣していましたが、比叡山まで後退したそうです。

信長は比叡山に中立になるよう使者を出しますが、比叡山は拒否。

これが後の比叡山焼き打ちに繋がる、と言われております。

機会があれば登りたかった城址なんです。

 

話が長くなりました、早速登城しましょう。

9時20分に大津京駅に到着です。

ここから歩きます、天気は快晴、水分補給を忘れずに参りましょう。ほとんど登山ですから。

早くも遺跡が登場。これは大津京の跡ですよ。

柿本人麻呂の歌碑もあります。

住宅街の一角なんですよ。

ここから後ろを見ると……

山頂に見える、あれが宇佐山城かもしれません。

周辺の地図もありますよ。

歩いて25分くらいで目印が現れました。

まずは目印となる宇佐八幡宮に向かいます。ちょっと上り坂。

こちらは下の宇佐八幡宮。上に登れない方のための遥拝所なんですって。

更に登ります。

この左側を行くのですよ。

ここまで駅から35分掛かりました。

おや、何でしょう?

御足形ですって。

前九年の役の後、大津京近くに住んでいた源頼義が八幡宮を勧請した折に鳩が現れて、場所を示したそうです。

その鳩が留まったところ、ですかね。

源頼義は八幡太郎義家の親父殿でしたっけ。

さあまだ序盤です、先に行きます。

こんな道をてくてく。

また何か出てきました。金殿井とあります。見ていきましょう。

金殿井、大津京にいた天智天皇が井戸の水を飲んで、病気を治したそうです。

奥には井戸があるのですが、水は飲めそうもないのです。先に行きましょう。

あ、石段です。上に社が見えますね!

宇佐八幡宮に到着です。

中では神事を執り行っているようですので、お邪魔しません。

提灯にも鳩。

ぐつぐつ煮ております、これも神事関連かしら。

先に進むと、

手書きの案内板です。ここからが本番です。

近くの小学校の生徒が作ってくれたようですよ。

歴史がたくさんいいね、滋賀。

こんな道を登るのですよ。急な傾斜面にはロープが張ってあり、捕まっても大丈夫でした。

それにしても暑いし、キツいのです。

ここが一番の難所かも。

道が分かりにくいのです、狭くて、まさがここが、と思ってしまいました(´・ω・`)

ピンクのテープが貼ってくれてあったおかげで、ようやく気づきました。

がんばれとか、山頂にいるのは誰、とか励ましてくれております。

ちょっと疲れてきてイラッとしてきました(笑)

駅から1時間、鳥居から30分で本丸石垣が見えてきました。

もうちょっとですかね、頑張りましょう。

三の丸跡に到着です!

右側に行くと宇佐山テラスがあるようですよ。

木が邪魔ですが、琵琶湖が見えています。

人が集まってきているので、ここは早々に退散。

石垣、もっと見に行きたいです。

接近したい!!

石垣です。これは良いですね。

うーん、後ろの建物が気になります、気になりますでしょ?

ちゃーんと登れるんですよ。

放送局のアンテナが立っていました。ここが本丸なのです。

金網に御城印の案内があるのが良心的かな(笑)

縄張図ですが……何もここに放送局設備を作らなくても( ;∀;)

設備近影でもお楽しみ下さい(´・ω・`)

裏の急斜面を見に行ったら、こんなものがありました。

物資搬入用のモノレールですね、これがないと保守もできませんよね。

それでは下山しましょう、ただいま10時50分過ぎ。

ここ登って石垣に触れたかったのですが、斜面が急過ぎてやめました。

残念です。

下りは順調、20分くらいで宇佐八幡宮の参道に出てきました。

ここをまっすぐ進むと、登りに見た金殿井と御足形を見ることができます。

宇佐八幡宮鳥居を潜って、遥拝所の手前を左折します。

よいこの森保育園に出てきました。

御城印は近江八幡宮にあるとのことですので寄り道をします。

こちらが御城印。かるたの聖地近江神宮でいただきました。

せっかくですので、近江神宮にもお参りして行きましょう、それは次のエントリーで。

でわ。

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超意訳:南総里見八犬伝【第九回 誓いを破って安西景連、両城を囲む/戯言を信じて八房、首を献上する】

2024-05-19 02:58:03 | 南総里見八犬伝

 かくて安西景連は、里見義実の使者である金碗大輔を欺き、その足を留めることに成功した。その間に、密かに軍兵を手分けして派遣し、俄かに里見の両城へひしひしと押寄せた。
 その一隊は二千余騎で安西景連がみずから率いており、滝田城の四方を囲み、昼夜を問わず攻め込んだ。
 もう一隊は千余騎。蕪戸訥平を大将にして、堀内貞行が籠る東條城を囲ませて、両城を一気に攻め落とそうと、いやがうえにも攻め立てる。安西の軍勢は破竹の勢いであった。

 この時、里見の両城は兵糧が非常に乏しく、凶作による飢えと労働に疲れ果ててはいたが、主家に対する恩義のためにどうにか戦い、寄せ手をものともしない勇士や兵士がいた。
 しかし防ぎ戦う間に兵糧が尽きてしまい、もう七日間も満足な食べ物を口にしていない。士卒は我慢できずに夜な夜な塀を乗り越えて、死んだ敵の死骸の腰兵糧を取って、わずかに飢えをしのぐ者もいた。或いは馬を殺して食べたり、遂には死人の肉を喰らう者も出てきた。

 里見義実はこれを憂えて、杉倉木曽介氏元らもろもろの士卒を集めて言った。
「安西景連は裏切り者である。誓いを破り、義に違う、悪知恵は今更言うには及ばないが、恐れるべき敵ではない。奴が両郡の兵を率いて我が両城を攻撃するのであれば、我も二郡の兵を持って奴の二郡の兵に備える。十二分に勝てなくても互角の戦ができるだろうに、私の徳が足らないせいで、五穀は実のらず倉庫は空になり、外には敵の大軍がいる。戦況はまだ分からないが、残りの力はもうない。例え我らに百人の樊噲、前漢の劉邦の勇士がいても、飢えてしまっては敵を討つことはできない。ただこの義実の心は一つ、この身のためにこの城中の士卒たちが殺されてしまうのは忍び難い。今宵、皆は闇夜に乗じて、西の城戸から脱出せよ。何とか逃げ切ることができるだろう。その時、城に火を放って、妻子を刺してから、この義実も死ぬと決めた。二郎太郎も落ちよ。その手立てはこの様にせよ」
 と細かく説明するが、皆は一斉に反対した。
「ご命令ではございますが、禄を受けて妻子を養い、今、この困難に遭って、己だけ逃げることなどできません。ただ命のあるうちに、寄手の陣へ夜討ちして、名のある敵と刺し違え、里見の殿への君恩を泉下にご報告いたします。これ以外のことは露ばかりも望んでおりません」
 と言葉を等しく返答するので、里見義実は何度も説得を試みるが、誰も承諾する様子はなかった。

 この時、里見義実の息子である二郎太郎義成は十六歳になっていた。
 父の仁愛、士卒の忠信、共に貴重なことと聞いてはいたが、このままでは決着が着きそうもないので、父の様子を見て、
「弱冠の私が違った意見を申し上げる訳ではないが、天の時は地の利に及ばず、地の利は人の和に及びません。城中、既に兵糧は尽きて、士卒は飢餓に襲われてていても、脱出しようとする者はおらず、しかしながら死を目の当たりにして、徳に寄り恩を思う、これこそ人の和のいたすところではありませんか。人の性は善であるから、もし寄手の軍兵にもことの善悪邪正を知っている者がいるでしょう。また兵糧が尽きても、毎日炊事の煙を立てれば、敵は我らの窮状がここまでとは気づかず、また急いで攻め込んでこないのは、父の武勇を恐れているからでしょう。この二つから計略を考えたのですが、大声の者を選んで、城の櫓に登って、寄手に対して安西景連の非道なる行い、盟約を破り、恩を仇として、不義の戦を起こした、というその罪を責めさせれば、安西の士卒もたちまち慚愧して、戦う心を失くすでしょう。その時こそ城から打って出て、ただ一揉みに突き崩せば、勝つ見込みもあるでしょう。この案はいかがでしょうか」
 とさわやかに言うので、皆は感服して試してみようと言う。
 里見義実は試みに声の高い者を選んで、安西景連の不義を数えてその罪を責めさせた。
 しかし日頃は声が良く出る者であっても、飢えては息も続かない。また櫓は高く、堀は広いので、腹筋が切れそうになるまで口を張り、顔を赤く染めて心から罵ってはみたものの、敵の陣へは声は届かなかった。
 果てにその者は涙に泣き濡れて、咳込むだけになってしまい、苦労はしたものの効果はまったくなかった。

 その間、里見義実は、逃げ出そうとしない士卒を救う方法が他にないかと考えを巡らすものの、そうは簡単に敵を退ける手立ては思いつかなかった。
 歩きながら考えようと杖を曳いて庭に出てそぞろに歩いていると、年来可愛がっていた犬の八房が、主人を見つけて尾を振って近づいて来た。久しく飢えている犬は、ひょろひょろとして足取りが定まらない。やせ衰えて、骨高く、眼は落ち込んで、鼻が乾いていた。
 里見義実は犬を見て、その頭を右手で撫でてやり、
「ああ、お前も腹が空いたか」
 と呟くのだった。
「士卒の飢餓を救おうと熱心に考えていたので、お前のことを忘れていた。賢さに差があると言っても、人は万物の霊長で、知恵があるものだ。教えに従い、法を守り、礼儀や恩義を知る者であるから、欲望を禁じ、情を堪え、飢えて死ぬのも天命であり時運であると思って、私は諦めた。犬畜生にはその知恵はない。教えも受けず、法も知らず、礼儀も恩義も弁えず、欲望を禁じることも知らない。主人が養うことによって一生を送るので、飢えて飢える理由を知らず、餌を求めてますます媚びようとするのもまた不憫だ。犬畜生は恥辱を知らない愚かな生き物かもしれないが、人より優れたところもあるのだ」
 里見義実は身体を寄せる八房をもう一度撫でた。
「例えば犬は主人を忘れない、鼻でものを良く嗅ぎ分ける、これらは人の及ばないところで優れたところだ。だから古歌にも詠われている」
 目を閉じて歌を思い出す。

 思いぐまの、人はなかなかなきものを、あはれに犬の、主を知りぬる

【思いやりも人がなかなか持てないのに、犬は素晴らしいことに主人が誰かを知っている】

「慈鎮(慈円)和尚が詠んだと思う。今、試みにお前に問おう。犬は十年の恩を良く知ると言う。もしその恩を知るのであれば、寄手の陣へ忍んで、敵将安西景連を喰い殺せば、我が城中の士卒の命を救うことになる。そうすればその功績は第一だ。お前にできるか」
 と微笑んで問えば、八房は主人の顔をつくづくと見上げて、その趣きを良く悟った様である。
 里見義実はいよいよ犬を不憫に思って、頭をまた撫でてやり、背中を撫でてやり、
「八房よ、しっかり功名を立ててみせよ。成し遂げることができれば、魚でも肉でもたらふく食べさせてやろう」
 と言ったが、背中を向け、断るような素振りに見えたので、里見義実は戯れにまた続けるのだった。
「それでは職を授けようか、或いは領地を知行しようか。官職も領地も望まないのなら」

 とうとう里見義実は言ってしまった。

「お前を我が婿にして、伏姫を娶せようか」
 と。

 この時、八房は尻尾を振り、頭をもたげて瞬きもせずに主人の顔を熟視してから、わんと吠えた。里見義実は苦笑いして、
「伏姫は私と等しくお前を可愛がっているので、妻にしたいか。敵を倒したのであれば、婿にしてやろう」
 と厳かに言うと、八房は前足を折って、主命を拝したかの様である。鳴く声は悲しく聞こえたので、里見義実は興から醒めて、
「馬鹿馬鹿しい。我ながら戯言を言ってしまった」
 と独り言を言い、やがて奥の部屋に入ってしまった。

 かくてその夜は、大将も士卒もこの世の名残りぞ、と思い定めて、里見義実は、宵の間はしばらく奥の間にいて、夫人の五十子、息女伏姫、嫡男義成を最初に、老臣の杉倉木曽介氏元を近くまで招き、皆で集まり、別れの盃を交わすのだった。
 しかし柄の長い金製の銚子には酒が一滴もないので、水を代わりにして、酒の肴には枝付きの木の実が少々出された。
 木の実は大方虫に食われていて、普通なら下賤の者でも食べない様な代物だったが、この時ばかりは大切なものであり、美味い食べ物であった。
 今宵の席上はひっそりと静かであり、ただよもやま話や昔話について語り合い、最期を迎えることについては一言も触れることはなかったが、死ぬことを決めた主従はなかなかに勇ましかった。
 こんな時であっても、武士の主君である里見の妻子たちは、長き別れを惜しむものの、音に出して泣くことはなかったが、心を推し量った侍女たちは、皆涙の泉をこらえ切れずに同じ悲しみに沈んでいた。
 いかにも道理、と杉倉氏元らは思わず嘆いて、互いに眼を合わせた。七日間この方一度も食べていない人々もまた眼が窪み、頬骨が出て、まだ死ねないがいずれ土となるであろう顔色は、憔悴し、衰えて生気がなかった。
 今宵十日の月が沈むころ討って出る、と予てからの軍令を聞いていた雑兵らも、思い思いに此処かしこに集まって、酒と例えて水を酌み交わした。
 水盃に映る星の影、鎧の袖の霜もやがて消えようとする丑三つ時のころになった。
「時刻は良し」
 と里見義実父子は手早く鎧を身に着け、五十子、伏姫はかしずく侍女たちが渡す太刀や薙刀を受け取った。遠くから風が運んでくる寺の鐘の音は、諸行無常の響きであった。

 しかし突然、外から犬の鳴く声が聞こえてきたので、里見義実は耳をそばだてた。
「あれは八房だ。いつもとは違う鳴き声だ、皆聞くが良い。誰か見て来てくれぬか」
 と言えば、承ったと返答して、二三人が素早く立って縁側から紙燭を灯した。
「八房、八房」
 と呼び掛ければ、八房は踏み石に足を掛けて、生々しい人の生首を縁側に載せて守っている。
「これはどうしたことだ」
 と目撃した者は戸惑い、里見義実のところに戻って来て、
「八房が人の生首を持って参りました」
 と報告した。
 聞いた主従は皆驚き、怪しんだ。その中で杉倉氏元は皆に振り返って、
「飢えると、人の亡骸を喰らうのも犬の習性だ。これ見よがしに持って来た首は、見れたものではないだろう。奥方や姫がおいでなのだ、早く追い払ってくれ」
 その指示に従おうとした者たちを、里見義実は待てと呼び止めて、
「犬がいても問題はない。八房も飢えていたので、もし味方の死骸を傷つけているなら、そのままにはしておけまい。私も自分で見てみよう」
 と言って立ち上がった。
 杉倉氏元はもちろん、その場にいた士卒も侍女たちもどよめいて、ある者は蠟燭を取って先導しようとし、ある者は主人の後について、縁側も所狭しと集まった。
 例の首を見ると、里見義実は眉根を寄せて、
「杉倉木曽介はどう見るか。鮮血に塗れて分かりにくいが、これは安西景連に似ていないか。洗ってみよ」
 と言うので、杉倉氏元もまた訝りながら、首を手水鉢の近くに寄せて、柄杓で水を何回も掛けて血を洗い流した。
 主従で首を良く見てみると、
「果たしてこれは敵将安西景連の首に疑いもない、間違いないだろう」
 と里見義実が言うので、皆それを信じる様になった。首がある訳などは分からないが、人々は皆が及ばない軍功に、ひたすら犬の八房を羨んだ。

 

【戲言を信じて八房、敵将の首級を献上する】

首を咥えて、主に褒めて欲しがる忠犬八房さん。

 

 その時、里見義実は感心して、
「この様に奇怪なことを見たが、前兆も後兆もない訳ではない。今こそ思い出される。皆、我がために、蜻蛉の様にはかない命を捨てると決意し、士卒をどうやって救おうかとも思ったが思いつかず、気晴らしかねて我が身一つで庭園へ行った折にこの八房がいた。飢えているその姿を見るに堪えず、八房を思い、哀れと思って、お前が寄手の陣へ忍び入り、安西景連を喰らい殺して城中の数百の士卒を救うことができれば、毎日魚肉に飽かさないと言っても、喜ぶ気配もない。所領を宛がおうか、重い官職を授けるかと言っても喜ぶ気配がない。でなければ日頃常にお前を愛する伏姫を妻に取らせようか、と言った時に、八房は喜んだ様な表情をして、尻尾を振りながら吠えた声音はいつもと違っていて、忌々しかった。戯言と思って出てしまった言葉は馬鹿馬鹿しいと独り言を言って、そのまま皆を集めて、最後の軍議を開くことに忙殺されていて、そのことは忘れていた。犬は言われたことをなかなか忘れないから、高麗剣ならぬ狛剣、当家の犬の剣は我が虚言を真実として、寄手の陣に忍び入り、二三千騎の大将である安西景連をいともたやすく殺して、その首をもたらすということは不思議というにもあまりある。奇跡だ」
 と八房を近づけて、ひたすら褒めた。それを聞いた杉倉氏元らは愕然として舌を巻き、
「犬畜生でありながら、人よりも高い功を挙げたことは、すべて殿の仁心と徳義によるものだろうか。神明と御仏のお力によるものかもしれない」
 と称賛した。

 その時、物見に出していた兵士が庭から入って来てこう言った。
「敵に異変が起きている模様です、急に乱れ騒いでいる様子でございます。速やかに撃って出れば、勝利疑いございません」
 と言うのを里見義実は聞くが早いか、
「そうであろう。時間を掛けるな、撃って出よ」
 士卒を急き立てて、全軍に下知を伝えてから、大将みずから寄手の陣を襲おうとすると、若き里見義成が進み出た。
「安西景連が既に死んだのであれば、例え寄手は大軍であっても、追い払うことは大変容易いことでしょう。ですから我が軍の総大将が軽々しく出撃されるのはもったいございません。ここはこの義成に杉倉氏元を添えていただければことは足ります。どうかお許し下さい」
 と乞い、庭から走り出し、部下が引いて来たやせ馬に身を躍らせて乗るのだった。杉倉氏元も士卒を励まして、
「八房が早くも安西景連を討取ったぞ。遅れる者は犬にも劣る、出でよ、進め」
 そう叫んで三百余騎を二隊に分けて、里見義成は大手門から、杉倉氏元は搦手門から、城戸をさっと押し開かせて、乱れ騒いでいた寄手の陣へまっしぐらに突いて入っていった。
 その勢いは日頃の何倍もあって突撃したので、敵軍はますます辟易し、逃げ出す者が半分もいた。早くも降参する者も出てきて、思い悩む者たちが迷っているうちにその夜は明けていった。

 こうして里見義成と杉倉氏元は、山の様に積み蓄えられていた寄手の兵糧をすべて、城中へ運び入れた。そして戦の次第を里見義実に報告し、降参した敵兵たちをすべて許して、杉倉氏元に預けることにした。
 そして、今朝から米を炊いて、籠城していた士卒らに粥を与えたが、一杯の他は許さなかった。長く飢えている状態だったので、急に満腹にさせると、すぐに命を落とすことになるからである。それだけでなく得た兵糧の半分を城外の人々に与えて、ようやくその飢餓を救った。人々は拝伏してこれを受け、皆でこれを分かち合い、充分に食べて命びろいをした。轍にはまった魚が水を得たようなものである。

 この間に東條の城を攻めていた安西景連の老臣蕪戸訥平らは城を何重にも囲み、昼夜を置かず攻め立たてたが、東條城は滝田城よりも半月の貯えがあった。
 堀内貞行は敵を追い払い滝田城の後詰をしようと始めから考えていたが、雨の夜、風吹く夕べには敵陣へ夜討ちを再三仕掛けるものの、味方の軍勢に対して寄手が大軍過ぎた。必勝を期したが、敵は新手を入れ替えるため、弱る気配はまったくなかった。
 しかし安西景連がはかなく討たれ、滝田の包囲が急に解かれて、御曹司里見義成が杉倉氏元と共に大軍で東條を救援に来る噂が誰彼と言うことはなく流れた。城兵はそれを聞いて勇気百倍となり、寄手の兵たちはそれを聞いて大慌てとなった。
 始めのころ蕪戸訥平は風聞を聞いても知らぬふりをして、部下の士卒を罵り、あるいは励ますものの、昨日に比べて今日は部下たちが落ち着かない。
 単なる噂ではないといよいよ疑心暗鬼になり、怖気ついた蕪戸訥平は腹心の二三名を従えて、他の配下に黙って闇夜に紛れて逃げ出してしまう始末だった。
 夜が明けて、寄手の軍兵は自分たちの大将が逐電したことをようやく知って、呆れ、戸惑い、身勝手な大将を憎み、腹を立てるのだった。仕方なく安西の残兵は協議して、東條城へ使者を出して、今更ながらおめおめと降参する他がなかった。

 堀内貞行は、滝田の殿に子細を申せ、と騎馬の使者を送り出したが、その使者は途中で滝田城からの勝ち戦を告げる兵士に出会った。
 滝田からの使者は東條に来着し、安西景連の落命とことの次第を告げ、噂通りに御曹司が大将、杉倉氏元を副将として出陣すること、東條城周辺の敵を追い払うこと、更に館山と平館の両城を攻めることを伝えた。
 堀内貞行は謹んで君命を受け、使者を再度滝田に送って、安西討伐の勝ち戦の祝賀を伝えた。
 御曹司の出陣と今か今かと待つ間に、以前から里見義実の徳を慕う安房郡と朝夷郡の民衆が、安西景連が滅んだと聞いて、館山と平館の両城を攻め立てて落城させた。
 そして主な者が数十人が蕪戸訥平らの首を持って東條にやって来たその日に、里見義成と杉倉氏元が着陣したのである。
 里見義成と杉倉氏元、堀内貞行らは詳細をしたためて、滝田の城に報告するとともに蕪戸訥平らの首も送った。

 受け取った里見義実は、安房郡と朝夷郡の者たちを呼んで褒美を与えた。更に御曹司里見義成と杉倉氏元に御教書を下して、館山と平館の両城を守らせる様にした。

 こうして四郡一か国を里見義実が治めることになった。
 その勢いは朝日が昇るがごとく、徳とその恵みは雨が大地を潤すがごとく、邪悪なる者たちを走らさせ、善人たちが時を得たのだ。
 これより安房の国では、夜は戸に鍵を掛けず、落ちているものを拾って盗む者はいなくなった。

 向後の行方はいざ知らず、安房に騒がしい波風が立たなくなったので、隣国の武士と言えばもちろん、足利持氏の末子である足利成氏も、この時滝田に書を送って安房一国平定の功を称賛した。足利成氏はこのころ鎌倉公方として鎌倉府に戻って数年になってはいたが、里見氏のために更に室町将軍へ安房国主とする様に推薦し、治部少輔の官職を授ける様になったと言う。
 里見義実は歓喜雀躍し、京と鎌倉に使者を送り、土産と進物をいろいろ献上した。

(第四代鎌倉公方足利持氏の末子を成氏と言う。去る1444年嘉吉三年に長尾昌賢が取りなして、鎌倉へ迎え入れ、鎌倉公方に就任させて早や十余年が経った。しかし足利成氏は故あって鎌倉に居続けることができなくなり、康永のころ、下総の許我へ移り住んでいた。ここに年代を記そうとすればこの年のころだろうか。足利成氏のことは九代記という書物に載っている。)

 この様に喜ぶべきこと祝うべきことが続いたが、里見義実の心に引っ掛かるのは、初め安西景連に食料の援助のために使者として遣わされた金碗大輔のことであった。
 里見義実は、
「彼は年が若いが、おめおめと何もせず、敵の虜囚となる者ではない。欺かれて討たれてしまったのだろうか。また兵の数の多少を計らずに、寄手に攻め込んであたら命を落としてしまったのか、そうでなければ、昨日今日までに帰ってこないことはあるまい。私が所縁のないこの土地を切り開き、ここに富貴を受けることができたのは、彼の親、金碗八郎孝吉の助けによるものである。臨終にその子を長狭郡の郡司とし、東條城の城主にする、と言ったのにいまだ果たせていない。それだけではない、納得できないのだ、金碗大輔の亡骸だけでも見れないのは本当に心残りである。樹を切って草を刈り払ってでも、行方を調べよ」
 と四方八方へ人を送り出し、先々まで触れを出して隈なく捜索させたが、金碗大輔の行方は絶えて分からなかった。

 その間に里見義実は士卒たちの勲功を一人一人に厳正に行い、所領を与え、職を進めた。褒美を与えることの始めに、犬の八房を第一の功と定め、朝夕の食事、寝泊まりするところを豪華にして、犬養の職や下僕を定めた。
 外に出る時は先導の役を付け、中に入る時は見守り役を付けたので、飼犬への寵愛は人々の耳目を驚かせたが、当の八房は頭を垂れて、尾を伏せて、餌を食べず、夜も眠らず、去る宵の晩敵将安西景連の首を持ち帰った縁側に来て、立ち去ろうとしなかった。主君が出て来たのを見ると、縁側に前足を掛け、尻尾を振り、鼻を鳴らして、何かを乞い求める様である。
 しかし里見義実はそうとは気づかず、みずから魚肉や餅などを折敷に載せて与えようとするが、八房は眼もくれず、尚も他のことを求めようとすることがしきりであった。
 この様なことが度重なったため、さすがに里見義実も犬の心に気づいて、まさかと思い当たることがあった。たちまち八房への愛が醒めて、そばに来なくなった。犬養らが八房を遠くに連れ出そうとしても、ややもすれば猛り狂って従おうとしない。とうとう鎖を引きちぎって、止めようとする人に対して吠え、例の縁側から飛び乗って、奥へ向かってあちこちへ奔走し始めた。
 しかし八房を追う犬養らは、遠慮して入れない扉があるので、手を挙げて、犬があちらの方へ、と叫ぶことしかできない。 男の力でもかなわない犬が猛り狂うので、侍女たちは皆恐れ、惑って立ち騒ぎ、ここかしこに走り、逃げ、八房はまたそれを追った。犬もろ共に人も狂って、障子と襖を押し倒し、叫び喚き、思わず伏姫のいる奥座敷へ追い込んでしまった。

 この時伏姫は話し相手もなく、文机に肘を置いて枕草紙を読んでいた。
 翁丸という犬が一条帝の飼い猫を驚かせてしまったことで、帝の勅勘を被って、宮中から捨てられてしまったこと、また許されて宮中へ戻ってきたことを素晴らしく書き記した清少納言の文才を羨み、
「昔はこんなことがあった」
 と独り言を言い、その段を繰り返し読んでいた折、侍女たちが叫ぶ声がして、背後に走って来るものがあった。
 その早さは飛んでいるようであり、寝床に立て掛けていた筑紫琴を横に倒しそうになって、伏姫の裳裾の上に臥したものを何だとばかりに見返せば、正体は八房であった。その顔は平常ではなかった。
「病気なのだろうか、嫌だなあ」
 と文机を押しやって立とうとするが、犬の臥せた前足が長い袂に入って踏んでおり、動くことができない。十年飼い続けて、大きな子牛の様に力強い大犬が踏んでいるので、後ろを動かすことができないのだ。
 伏姫は人を何回も呼び、世話係の侍女はすぐに飛んで来たが、犬に驚くだけで近づくことができない。
 一人の侍女が箒を引っ提げてやって来て、畳を叩いてしっしと恐る恐る追い払うとするが、八房は眼を怒らせて、牙を見せて唸るばかりである。
 唸り声が凄まじいので、侍女は恐がって、箒を捨てて後ずさりしてしまうのだった。

 そこへ誰かが知らせたのか、里見義実が手槍を持ってやって来た。
 戸口に立ちつくして恐れて混乱している女児たちを叱って、急いで前に出て来た。
「やおれ畜生のくせに、出て行け、さあ、出て行け」

 

【里見義実怒って八房を追い出そうとする】

里見義実さん、超激怒。怒りまくって激おこぷんぷん丸。

槍が長過ぎませんかねえ、そんな長いと、姫に間違って当たってしまいますよ!

 

 昔、五帝の一人、嚳(こく)が高辛氏とも呼ばれていた時、犬戎(西戎)が襲来してきた。
 帝はその侵略を憂いて征伐しようとしたが、勝てなかった。
 帝は、天下に、犬戎の将、呉将軍を討取る者があれば黄金と家、また娘を娶らすとして、人材を求めた。
 その中に飼犬がいた。その毛は五彩で名づけて盤瓠(はんこ)という。
 命を下したのち、盤瓠は急に首を咥えて宮中に戻って来た。群臣が怪しんでこれを見ると、呉将軍の首であった。
 帝は大いに喜びなさったが、娘を盤瓠に娶らそうとはしなかった。また功績を賞しようともしなかった。
 宮中では議論をして報いようとしたが、結論が出なかった。
 娘はその話を聞いて考えた。皇帝が命令を下したのに、信頼を違えてはならない、と。
 帝はやむを得ず娘を盤瓠に嫁がせた。盤瓠は娘を得ると背中に背負って南山というところの石室の中に入っていった。そこは険しい山の中であり、他に人の住んでいる気配はなかった。
 三年を経て六男六女が生まれた。そこで盤瓠は妻と別れた。
 子供たちは五色の服を好み作った。皆、尻尾があった。
 例の娘、母は後に皇帝に手紙を送り、子供たちを宮中にお迎え下さいと依頼したが、衣装が蘭の花の様であり、言葉が全く異なっていた。また急峻な山を好み、平らな土地を好まなかった。
 皇帝は彼らの意を汲んで、名山廣澤を賜った。子孫たちは増えていった様である。
 その一族は自分たちを号して、蛮夷という。今の長沙武陵の野蛮人がこれだ。
 また北狗国の人は身体は人間だが頭部が犬で、長毛して衣服を着ないという。その妻たちは皆人である。男の子を生めば犬、女の子を生めば人となるという。五代史にそう書いてあった。


 と、持っている手槍の取っ手の部分の石衝を差し出して追い出そうとするが、八房はちっとも動かず、きっと見上げて牙を出してますます雄叫び声が凄まじくなり、誰彼構わなく嚙みつきそうである。
 里見義実は顔色を変えて怒り出し、声を荒げて、
「理も非も知らない畜生に物を言うのは無益の様だが、愛する主人を知らないのか。知らなければ思い知らせてくれよう」
 と怒り、槍を取り直して突き殺そうするが、伏姫が自分の身を盾にして、
「お、お待ち下さい、父上。ご領主のご身分で、牛に悪戯する童の様に畜生の非を咎めて、自ら手を下すことなどいけないことでございます。少し思うことがございますので、曲げて私の我がままをお許し下さい」
 そう言い掛けて眼を拭うので、里見義実は突こうとしていた短槍を引いて、脇に挟んだ。
「珍しい姫の諫言だ。言いたいことがあれば言ってみなさい」
 父が娘を急がせると、伏姫は落ちる涙を拭い、顔を改めて清めた。
「はばかりがあることでございますが、今も昔も、我が国も唐の国も、賢い主君の政治は、手柄があれば必ず賞を与え、罪があれば必ず罰すると聞いております。もし手柄があるのに賞されず、罪があるのに咎められなければ、その国は滅ぶことでございましょう」
 伏姫は八房を見つめた。
「例えば、この犬の様に功績があっても行賞されず、罪がないのに罰を被るとは不憫ではございませんか」
 それを聞くや否や里見義実は、
「お前の意見は間違っている。安西という強敵が滅んだ時から、犬のために犬養の職を置き、食事には美味いものばかりを与え、寝るところにも良いものをやった。これでも賞がないと言うのか」
 と詰ったが、伏姫をきっと頭を上げて、
「綸言汗の如しとは、一旦言葉を出したら取消しできない例えでございましょう。また君子の一言は四頭立ての馬車も及ばないと聖人の記した書物にある、と物の本にも記してございます。悲しいかな、父上は安西景連を討ち滅ぼして、士卒の飢えを救うため、この八房を婿とすることをお許しになったのではございませんか。例えそれが仮初めのお戯れでありましても、一度お約束なさったのであれば、綸言は戻りませんし、お言葉は四頭立ての馬車も及ばないのでございます。それでは犬が求める恩賞を許して上げて欲しいのです。八房が大功を挙げるに及んで、今更に約束を守らずに、代わりに山海のご馳走を与え、また豪華な住まいを与えて、ことが足りたとされたら」
 里見義実を見た。
「もし人であれば、口惜しく、恨めしく思うことでしょう。人よりも大功がある犬畜生に与えるべき恩賞そのものに私がなっても、皆、前世の因果応報と思うでしょう。国のため、後世のため、娘を生きながら畜生道へ捨てて犬の伴侶としても、ご政道に偽りがないことを民衆に知らしめ、平穏無事に豊かに国をお治め下さい。そうしなければ、盟約を破り、約束に背く、あの安西景連と何が変わると人々が申すことでしょう」
 父の戯言の通りに犬に嫁ぐと娘は言うのだ。
「浅はかな娘の、目先のことしか考えられない浅知恵も、世間も汚れも知らないことからこそ、深く嘆くのでございます。私の心を汲んでいただき、今日からは、恩と愛、二つの義を断ち切って、どうか我が身にお暇を下さい。子として親に自分を捨てよと願い、異類に従う娘は、三千世界を探しても、私の他におりませんでしょう」
 と父に別れを掻き口説くその袖に落ちた涙の露は、ここ滝田の城のみに訪れた秋の気配であった。

 里見義実はただ黙って娘の言うことを聞いていたが、最後には嘆き悲しみ、持っていた槍をからりと投げ捨てた。
「ああ、私は間違えた。間違えたのだ。法度は上の者が制するものだ。上がまず犯し、下の者が犯していく。これが大乱の基本である。私は八房に姫を与えるつもりはない。ないと言っても、言ってしまったことは、私の口から出て、犬の耳に入ったのだ。昔、中国の藺相如が完璧の故事の通りに、勇をもって夜光の珠を取り返したが、取り返しにくいのは口の咎である。この様に、災いは門に臥している犬であった、犬は我が身の仇だ」
 こう嘆くのである。
「そう言えば昔を思い出すと、前兆があった。この子が幼かったころ、願を掛けるため忍んで洲崎の石窟へ詣でた時、途中に老人がいた。伏姫を見て差し招き、この子の多病と毎夜むづかる原因は、皆悪霊の祟りによるもので、詳細に説明すれば天の秘密を漏らしてしまう恐れがある。伏姫という名前によってみずから悟ることができれば、何かを得るだろう。帰ってその旨を主君に言え、と老人は言ったのだ」
 恨みがましい口調になった。
「姫は1442年嘉吉二年の夏月伏日に生まれた。酷暑の三伏の義から名を取って、伏姫と名づけたのだ。その名前から考えよとはいかなることかといろいろ考えたが、まったく思い当たらなかった。有地無知三十里のことわざで、あの三国志の曹操を嘲り笑った秀才の楊修がここにいれば問うてみたかったが、長年経ってから、今日突然に理解することができた。伏姫の伏の字は人にして犬に従うということだ。この厄災は、おしめをしていたころから定まっていたことか。名詮自性、名前がそのもの自体の本性を示しているということなのだ。ここまで執念深く祟りをなす悪霊は誰かとはっきりとは知らないが、良く考えてみれば山下定包の妻であった玉梓だろう。あの淫婦は、主人を損ない、また忠良なる家臣を失わせるという隠れた悪事の噂がある。しかし一度は命を助けると言っておいて赦さなかった私に仇をなすことができず、私の子に憂いごとの限りを見せて、理屈に合わない恨みを返すつもりなのだ。そう言えばこの犬は母を失って、狸が育てたと聞く。狸の異名を野猫と言い、また玉面とも呼ぶ。その玉面を和訓で読めば、すなわち、たまつらだ。玉つさと玉つらと読み方も近いのも禍々しいのに気づかずに、いかにも賢しげに狸という字は里に従い、犬に従うことがあれば里見の犬になる性である、と思いながら飼い慣らして、可愛がってきたことが口惜しい。太陽は満ちた後は欠けていく、洲崎の翁が教え諭したことは、なるほど当たっていよう。今思えば百回悔い、千遍悔いても意味がない。畜生のために子を捨てて恥辱を残せば、たくさんの国を討ち従えて、今後長く百代の栄誉を受けたとしても、何が楽しいだろうか。面目ないことこの上ない」
 と今までについて説き、心の底から説明した。そして反省して後悔する主君を見て、側で侍る侍女たちは慰めることもできず、大騒ぎの恐怖が今になって襲ってきて、泣くのだった。
 皆の涙は滝の糸となり、それを見ていた伏姫は、苦しかった心のつかえをようやく撫で下ろし、
「私の侍女ですら堪えられない嘆きに悲しんでくれている。まして親の御心を推察してみれば、なさぬ不孝は罪が重うございます。しかし、一度鬼畜の犬に伴われて、父上の約束に嘘偽りがないことを証明すれば、命はもうなきものと思い定めております。しかし、この世に人として生まれて今まで育ってきた親の形見のこの身を、まざまざと畜生に汚される訳にはいきません。どうかご安心下さい」
 と言って顔を赤らめた。
 我が子が袖で顔を覆って顔を伏せると、里見義実は何度も頷き、
「よし、良く言った。遥か遠い異邦のことを考えると、高辛氏の槃瓠(はんこ)の話は私の心配ごとと同じだ。また東晋の干宝が著作の捜神記にこんな物語がある」
 里見義実が語った話は以下の様な話だ。

 大昔にある男性がいた。戦に遠征し、長い間家に帰らなかった。
 妻は早く世を去ったが、一人娘がいた。年のころは二八だった。
 またその家に牡馬がいた。娘は明けても暮れても父親を慕うあまりに、馬に向かって、
「お前、もし父上を乗せて帰って来てくれるなら、この身を任せましょう」
 と言ってしまった。

 これを信じて馬は手綱を断っていなくなってしまったが、数日経ってから、果たして馬は父を乗せて帰って来た。
 以来、馬は嘶いて、何かを乞い求める様になった。
 父はそれを怪しんで娘に事情を聞くと、娘は父を連れ帰ってくれば身を任すという約束をしたと答えた。
 打ち捨てることはできない、と父は密かに馬を殺してしまい、皮を剥がして軒先に掛けてしまった。その時、娘は馬の皮を見て、
「畜生にして人に欲情した結果、報いはこんなに早かったのか。皮になっても、尚、私を娶ろうというのか」
 と罵った瞬間、馬の皮は軒先からはたと落ちて、娘の身体をしかと押し包んだ。さっと吹き上げる風とともに、皮は空に飛び、空を登っていった。
 次の日、庭の桑の樹に娘の亡骸が掛かっていた。その屍から虫が生まれて、これを蚕と呼んだ。

「これは信じがたい話だが、唐土では三国志の魏や晋の時代から言い伝えられてきた物語だ。この話の男性は、いやしくもことを命じておいて約束を守らないだけではなく、馬を殺してしまうなど、人にして心根が獣より劣っている」
 里見義実の声は震えた。
「私がもし一時の怒りに任せて、犬の八房を殺してしまえば、捜神記の男性と同じになってしまう。そうは思っても、折り悪く、息子の義成と杉倉氏元には館山と平館の城を守れと遣わしているし、また堀内貞行は長狭郡の東條の城にいる。彼らの他には内々のことを語る者はなく、良くも悪くも心は一つ、今は思い定めた」
 伏姫も父の顔を見上げた。
「おい八房、戯れではあったが、命じたことを成し遂げたお前の勲功はとても高い。伏姫を」
 一瞬言葉が切れた。
「お前に与える。だからしばらく外に出て、待て。さあ、外に出よ」
 と催促すると、八房は主人の顔色をつくづくと見てから、ようやく身を起こした。そして全身を震わせてから、静かに外へ出ていくのだった。

(続く……かも)

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